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第三章 常州騒乱
野総騒乱(2)
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「松平大和守様と申せば、去る五月二日に横浜鎖港用向重立になられたばかりではございませぬか」
脇から、荒ぶった父を宥めるかのように内蔵助が言い添えた。川越藩の松平大和守直克は、昨年文久三年秋に福井の松平春嶽公の後任として政事総裁職の座に就いていたが、元より尊攘派寄りと見做されていた。
「左様。何でも、宇都宮の懸殿とも親しく、筑波勢に対する姿勢はあくまでも鎮撫にとどめ、これの討伐に力を入れるよりも横浜鎖港を先に実現し、筑波勢の気勢を宥めるべし……という論だそうな」
皮肉が存分に込められた源太左衛門の言葉に、鳴海も再び怒りが込み上げる。
「その大和守様の論が後押しとなり、追討命令を受けたはずの高崎藩は、『まず水戸藩の出兵を待って、それに続きたい』との姿勢を見せたと、宇都宮にいる井上と味岡殿らから知らせが参りました」
「まことか……」
鳴海の言葉に、与兵衛が呻いた。
「あの辺りはいずれの藩も筑波勢の暴挙には手を焼いているであろうに」
鳴海は、その与兵衛の言葉に肯き返した。
「与兵衛様の仰るように、高崎藩も座視しているわけではございませぬ。実際五月二五日には上豊岡の茶屋本陣で筑波勢を待ち受けていた高崎藩兵があの近辺で徴発を行っていた筑波勢を捕らえ、高崎藩で詮議を行っている最中とのことでござる」
今や北関東の諸藩は藩の大小の規模を問わず、筑波勢に振り回されている。さらに鳴海や源太左衛門の元に届いた知らせは、それだけではなかった。太平山から下山した田中らはその足で一旦結城に向かい、「支援」の約束を取り付けた後、さらなる軍資金や兵器を求めて、結城同様に生糸集散地であり、そして例幣使街道の宿場町である栃木町に目をつけた。そこで田中らは栃木に駐屯していた戸田家の陣屋に赴き攘夷資金の調達を要求した。だがその直前に宇都宮藩では筑波勢との交渉に当たっていた懸勇記が、幕府から追討命令を受けていた古河藩に対し「天狗党」を追討しないよう申し入れたものの、交渉に失敗し、遂に「辞職」を申し出ていた。それを知っていたものか、戸田陣屋では筑波勢の要求を拒み、遂に決別した両軍の間で戦端が開かれたのである。
さらに筑波勢は足利藩にも協力を求めていたが足利藩も協力を拒んだ。一連の関東諸藩の対応に逆上した田中は栃木の町に放火したと、宇都宮からの飛脚便には書かれていた。
「それで全てでございますか?」
遠慮がちな本山の問いに、鳴海は首を振った。
「田中の余りの粗暴な振る舞いには筑波勢の首領である田丸殿も頭を痛め、田中は遂に筑波勢より除名処分を受けたという噂が、宇都宮城下で流れているそうでございます」
三月に番頭に昇格したばかりの本山は、二転三転する状況を自分なりに分析しようとしているのか、それきり口を閉ざした。が、宇都宮からもたらされた情報は流言飛語の類ではないだろうと鳴海は思った。この二年あまり、尊攘派の動きと向き合ってきた鳴海なりの勘である。
それだけではない。不確かな情報ながら、田中は一味の一人である岩谷敬一郎に対し「甲州路から駿河を目指して駿府城を奪い、天朝に奏聞して幕閣の奸人らを誅するべし」と、実質的な倒幕計画を持ちかけたという噂もあった。田中の計画はそもそも「攘夷に煮えきらない幕府の魁となる」という目的に反するものである。倒幕計画を持ちかけたことも、田中らが筑波勢幹部から除名処分を受けた一因だっただろう。
かつて、黄山は鳴海に向かって「倒幕すら考えかねない男だ」と田中を評していた。尊攘派に一定の理解を示していた黄山の不安が、ここに来て的中した形である。
「筑波勢は、これで民意を失いましたな」
種橋が、ふっと息を漏らした。その言葉に、源太左衛門が肯く。
「義挙と申しても、民意を得られねば事は成功せぬ。後は、果たして水戸藩がどう動くのか……」
水戸藩の情勢も、未だ油断がならなかった。現在水戸藩の中枢部を握ったのは市川三左衛門に代表される門閥派とは言え、この一派は先代の斉昭公から敵視されていた派閥である。そして、「天狗党」との異名を持つ改革派は、その内部においてさらに激派と鎮派で目指すところが異なっている。
また、横浜鎖港が「幕命」として決まったとはいえ、その責任者である徳川慶篤とその頭越しに天狗党との交渉を進めている川越藩主である松平大和守の間でも、感情の温度差がある。
「奇っ怪極まりますな、水戸の動きは」
ぽつりと誰かが漏らした言葉に、鳴海は思わず肯いた。
ここ数日、いや、水戸の筑波勢が挙兵したという知らせが届いたときから、気の休まる暇はない。連日、胃がキリキリと絞られるようである。
自宅に帰ったら、りんに葛湯でも作ってもらおうか。りんお手製の葛湯を脳裏に思い浮かべながら、鳴海はそっと目を閉じた。
脇から、荒ぶった父を宥めるかのように内蔵助が言い添えた。川越藩の松平大和守直克は、昨年文久三年秋に福井の松平春嶽公の後任として政事総裁職の座に就いていたが、元より尊攘派寄りと見做されていた。
「左様。何でも、宇都宮の懸殿とも親しく、筑波勢に対する姿勢はあくまでも鎮撫にとどめ、これの討伐に力を入れるよりも横浜鎖港を先に実現し、筑波勢の気勢を宥めるべし……という論だそうな」
皮肉が存分に込められた源太左衛門の言葉に、鳴海も再び怒りが込み上げる。
「その大和守様の論が後押しとなり、追討命令を受けたはずの高崎藩は、『まず水戸藩の出兵を待って、それに続きたい』との姿勢を見せたと、宇都宮にいる井上と味岡殿らから知らせが参りました」
「まことか……」
鳴海の言葉に、与兵衛が呻いた。
「あの辺りはいずれの藩も筑波勢の暴挙には手を焼いているであろうに」
鳴海は、その与兵衛の言葉に肯き返した。
「与兵衛様の仰るように、高崎藩も座視しているわけではございませぬ。実際五月二五日には上豊岡の茶屋本陣で筑波勢を待ち受けていた高崎藩兵があの近辺で徴発を行っていた筑波勢を捕らえ、高崎藩で詮議を行っている最中とのことでござる」
今や北関東の諸藩は藩の大小の規模を問わず、筑波勢に振り回されている。さらに鳴海や源太左衛門の元に届いた知らせは、それだけではなかった。太平山から下山した田中らはその足で一旦結城に向かい、「支援」の約束を取り付けた後、さらなる軍資金や兵器を求めて、結城同様に生糸集散地であり、そして例幣使街道の宿場町である栃木町に目をつけた。そこで田中らは栃木に駐屯していた戸田家の陣屋に赴き攘夷資金の調達を要求した。だがその直前に宇都宮藩では筑波勢との交渉に当たっていた懸勇記が、幕府から追討命令を受けていた古河藩に対し「天狗党」を追討しないよう申し入れたものの、交渉に失敗し、遂に「辞職」を申し出ていた。それを知っていたものか、戸田陣屋では筑波勢の要求を拒み、遂に決別した両軍の間で戦端が開かれたのである。
さらに筑波勢は足利藩にも協力を求めていたが足利藩も協力を拒んだ。一連の関東諸藩の対応に逆上した田中は栃木の町に放火したと、宇都宮からの飛脚便には書かれていた。
「それで全てでございますか?」
遠慮がちな本山の問いに、鳴海は首を振った。
「田中の余りの粗暴な振る舞いには筑波勢の首領である田丸殿も頭を痛め、田中は遂に筑波勢より除名処分を受けたという噂が、宇都宮城下で流れているそうでございます」
三月に番頭に昇格したばかりの本山は、二転三転する状況を自分なりに分析しようとしているのか、それきり口を閉ざした。が、宇都宮からもたらされた情報は流言飛語の類ではないだろうと鳴海は思った。この二年あまり、尊攘派の動きと向き合ってきた鳴海なりの勘である。
それだけではない。不確かな情報ながら、田中は一味の一人である岩谷敬一郎に対し「甲州路から駿河を目指して駿府城を奪い、天朝に奏聞して幕閣の奸人らを誅するべし」と、実質的な倒幕計画を持ちかけたという噂もあった。田中の計画はそもそも「攘夷に煮えきらない幕府の魁となる」という目的に反するものである。倒幕計画を持ちかけたことも、田中らが筑波勢幹部から除名処分を受けた一因だっただろう。
かつて、黄山は鳴海に向かって「倒幕すら考えかねない男だ」と田中を評していた。尊攘派に一定の理解を示していた黄山の不安が、ここに来て的中した形である。
「筑波勢は、これで民意を失いましたな」
種橋が、ふっと息を漏らした。その言葉に、源太左衛門が肯く。
「義挙と申しても、民意を得られねば事は成功せぬ。後は、果たして水戸藩がどう動くのか……」
水戸藩の情勢も、未だ油断がならなかった。現在水戸藩の中枢部を握ったのは市川三左衛門に代表される門閥派とは言え、この一派は先代の斉昭公から敵視されていた派閥である。そして、「天狗党」との異名を持つ改革派は、その内部においてさらに激派と鎮派で目指すところが異なっている。
また、横浜鎖港が「幕命」として決まったとはいえ、その責任者である徳川慶篤とその頭越しに天狗党との交渉を進めている川越藩主である松平大和守の間でも、感情の温度差がある。
「奇っ怪極まりますな、水戸の動きは」
ぽつりと誰かが漏らした言葉に、鳴海は思わず肯いた。
ここ数日、いや、水戸の筑波勢が挙兵したという知らせが届いたときから、気の休まる暇はない。連日、胃がキリキリと絞られるようである。
自宅に帰ったら、りんに葛湯でも作ってもらおうか。りんお手製の葛湯を脳裏に思い浮かべながら、鳴海はそっと目を閉じた。
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