鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

出陣(5)

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 一之町の屋敷へ戻ると、門前で衛守と鉢合わせた。どうやら、衛守も出かけていたらしい。いつもより上等な着物を着ているところを見ると、誰か上役にでも会ってきたのかもしれない。
「兄上、丁度良かった。少しお話がございます」
「左様か。俺も話がある。茶室へ参ろう」
 鳴海は軽く肯いた。善蔵への約束の手前、衛守にだけは事情を打ち明けざるを得ない。
 茶室に二人で籠もると、衛守はきっちりと襖を閉めた。これで、家の者にあれこれ探られる心配はない。
「まず、お主から話せ」
 鳴海は、衛守に話を促した。衛守はしばらく沈黙していたが、やがて、両手を畳につけて頭を下げた。
「兄上が無事に常州よりお戻りになられたあかつきには、分家をお許し願いたく存じます」
 その言葉に、鳴海は胸が詰まった。やはりりんが見立てていたように、衛守はこの家を出ていくつもりなのか。幼い頃より共に育ってきた義弟だが、己の力で立身しようとしているのを目の当たりにすると、一人前の男として認めてやらないわけにはいかなかった。
「上役の方は?何と仰せになられている」
「新町の丹波様のお屋敷に参って、お許しを得て参りました。兄上がお戻りになられるまでは二本松に留まりますが、その後は須賀川に住まい、藩のための情報収集の役割を担うがよかろうとのお言葉でございます」
「そうか」
 鳴海は、口元に微笑を浮かべた。衛守も、丹波に対する感情は微妙なところであろう。だが、丹波は藩内随一の権力者である。決して好いてはいない相手の元へ出向き、在外への在住許可を取ってくるというのは、衛守が本気である証でもあった。先に善蔵の須賀川への同行の誘いに応じたときから、考えていたに違いない。
「一人で参るわけではあるまい。上崎家のアサ殿も伴うつもりなのだろう?」
「はい」
 臆面もなく、衛守は爽やかに肯いた。この辺りが、鳴海とは違う。が、一人の女を守り抜こうとする姿勢は、今の鳴海にとっては好ましく映った。
「上崎家にも、話を通しておくのだぞ」
「それは、もうとうに済んでおります」
 ちゃっかりしている。鳴海はさらに口元を緩めたが、鳴海より余程女性のあしらいが上手い衛守ならば、それくらいのことは朝飯前なのだろう。
 婚礼の事については特に形式張ったことはせず、アサは身一つで衛守の元へ嫁いでくることが、上崎家との間で決まっているという。近年立て続けに妹らを嫁に出し、それだけでも多額の出費を強いられた彦十郎家の財政を気にした衛守なりの配慮なのかもしれない。だが、しっかり者の義弟を前にすると、ますます宗形善蔵の件は切り出しにくくなった。
 晴れやかな笑みを浮かべて、衛守はようやく上半身を起こした。大事について当主の同意を得られたことに、ほっとしたのだろう。
「して、兄上のお話とは?」
 義弟とは対照的に、鳴海は視線を伏せた。そしてぼそぼそと、善蔵に勧められた講に加入したこと、その質草となっているのが鳴海の愛刀であること、それだけでなく新たに六〇両の借財をしてきて、万が一鳴海が生きて戻れないときに備えて、家の者に事情を話しておくと約束したことを、打ち明けた。
 嫌な沈黙が、茶の間を満たした。
 そろそろと鳴海が視線を上げると、衛守は目を三角にしている。やがて、低声で一声漏らした。
「――何をなさっているんです」
 返す言葉もない。本気で怒った衛守の姿は、鳴海もあまり見たことがなかった。その迫力に、思わず鳴海は身を縮こませた。
「よりにもよって、宗形殿の講に加入させられたとは!あれを最後まで全うして満額受け取られた御仁なんて、ほんの一握りなんですよ?だから皆『鍵屋は恐ろしい』と申すのです。いかにもうまい話に聞こえますが、生業が苦しい我々は、大抵おまけであるはずの一時的な借財に手を伸ばし、そのままずるずると金を借り続ける羽目になる。しかも、多額の利子付きで」
 やはり、そうだったのか。衛守はちゃんとそれを知っていた。だからあれほどまでに善蔵を警戒していたのだ。
「兄上はご自身が藩内でも指折りの御大身というのを、お忘れになっておりませぬか?宗形殿がお近づきになってきたのは、それ以外に考えられますまい。大体、武士の命とも言える腰の物を軽々しく質として預ける御仁が、どこにおります。それくらいならばいっそ、その刀でこの場にてお腹を召されませ」
 衛守はそこまで一気に捲し立てると、両腕を固く結んで正面から鳴海を見据えた。
「お前……」
 あまりの言い草に、鳴海も顔に血を上らせかけた。衛守も衛守だ。善蔵は那津の婚礼の仲人だったというのを、都合良く忘れている。が、悪いのはあくまでも簡単に口車に乗った鳴海である。衛守に対して怒れる立場ではない。
「……頼む。他の者には……」
「言いませんよ。第一、恥ずかしくて誰にも言えません」
 鳴海の言葉を、苛立たしげに衛守は遮った。だが、その声には依然として怒りが込められている。
「言いませんから、一つお約束下さいませ。絶対に、兄上には無事に常州からお戻りになって頂かないと困ります。私もこの家を出るのですし、彦十郎家をここで絶えさせるわけにはいかぬでしょう。無事にお帰りになられて、善蔵殿の件は兄上ご自身で始末をつけなされませ」
 義弟の言葉に、鳴海は項垂れた。
 やがて、衛守は深々とため息をついた。
「それに、義姉上のことも……」
「りんのこと?」
 唐突に衛守の話題が変わり、鳴海は戸惑った。衛守が鳴海夫婦のことに口を挟んできた試しはない。むしろ今までは、遠回しに夫婦仲のことについて探りを入れる義父母から、鳴海夫婦を庇ってきたくらいである。
「まさか……。何も、お気づきになっておられぬのですか?」
 呆れたように、衛守は再び鳴海を睨んだ。
「この頃りんの具合が良くないことは、俺だって把握しておる」
 いくら何でも、そこは夫婦である。妻の体調の変化は、鳴海も気に掛かっていた。だが、それに気を取られている暇すらないのが、出陣を命じられた番頭の立場である。
「いえ、そういうことではなくてですね」
 衛守は、またしても首を振った。もうやってられない、という感情がありありと顔に出ている。
「……私の口から言うべきことではないでしょう。無事に常州からお戻りになられて、義姉上から直接お確かめになって下さいませ」
 夫の鳴海が気付いていない妻の秘密に、衛守は気付いているらしい。出陣前の忙しさも、衛守に莫大な借りを作ったことも忘れ、鳴海は微かに苛立ちを覚えた。
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