恋人だった役目は、もう終わっている

Wataru

文字の大きさ
1 / 1

恋人だった役目は、もう終わっている

しおりを挟む
 本当なら、もうここにはいないはずだった。
 朝の空気は冷たく、駅へ向かう人の足音が乾いている。信号の音も、コンビニの自動ドアの開閉も、いつも通りに街を動かしていく。
 ――私だけが、止まっている。

 死んだ、と言うと大げさに聞こえる。けれど事実はそれだけだった。私はもう息をしていない。誰の視界にも入らないまま、それでも同じ道を歩けてしまう自分に、時々ぞっとする。
 役目は終わった。恋人でいる資格も、隣に立つ権利も、とっくに失っている。そう分かっているのに、今日だけは足が動いた。

 あの人が引っ越す。
 それを知ったのは偶然だった。ポストの前で、引っ越し業者のチラシがひらひら落ちていた。宛名のない段ボールの注文票。見慣れた字の癖。たったそれだけで、胸の奥が痛んだ。
 もう会わない。会えない。
 それでも「今日」は、私の中に残ってしまった。

 玄関の前に、白いゴミ袋が置いてあった。袋の口がきちんと結ばれていなくて、そこから空気が小さく漏れている。昔から、あの人はこういうところが雑だった。
 私が「結び直して」と言うと、照れたみたいに笑って、結局すぐ忘れて。だから私は黙って、手を伸ばして結んだ。
 何度も。何度も。

 今の私は、その手を持っていないはずなのに。
 袋の口に触れると、指先がある気がした。結び目を作る動きが、身体に染みついていて、勝手にほどけて、勝手に結び直される。
 恋人だった役目は終わっているのに、体だけが覚えている。

 袋を持ち上げる前に、私は一度だけ中を見た。
 透明な小袋が、他のゴミに混じっていた。
 落書きだらけのプリクラが一枚、少し折れたまま入っている。

 私と、あの人。
 画面いっぱいに寄せた顔。変なスタンプ。今見ると少し恥ずかしい笑い方。
 そうだよね、と思った。
 もう、残しておく理由はない。

 袋を持ち上げる。軽い。生活の軽さが、逆に苦しい。人が生きている証拠って、こんなにもささやかなものだったのか。
 私はそれを抱えて、集積所まで歩く。途中、誰かが私の横を通り過ぎた気配がした。すれ違う風だけが残って、誰も振り向かない。
 当然だ。私は、もう「ここ」に属していない。

 集積所のネットをめくる。袋を置く。ネットを戻す。
 それだけだ。
 プリクラも、結び直した袋の口も、同じ重さでそこに収まった。

 これでいい。これで終わる。
 そう自分に言い聞かせるみたいに、私は来た道を戻った。

 マンションの前に、あの人が立っていた。段ボールを抱えて、鍵束を指に引っかけている。顔色は少し悪い。睡眠不足なのか、泣いたのか、分からない。
 私は近づけなかった。近づく理由がない。
 恋人だった役目は終わっている。

 あの人は、ふと足元を見た。玄関の脇に置きっぱなしだったはずのゴミ袋がないことに気づいたのかもしれない。けれど、その視線はすぐに逸れた。
 「……まあ、いいか」
 声にならない口の動きが見えた。昔から、そうやって小さな違和感を飲み込む人だった。

 鍵が回る。扉が閉まる。
 エレベーターの表示が一階に降りていく。
 私はその間、何もできない。何もする必要がない。
 それなのに、心臓があった頃と同じように、胸が痛む。

 エントランスを出て、あの人はトラックの方へ歩いていく。助手席のドアが開き、誰かが名前を呼んだ。あの人は軽く手を上げて応えた。
 振り返らない。
 当たり前だ。私がいる場所は、もう後ろではない。

 車が動き出す。
 尾灯が角を曲がって消えるまで、私は見送った。

 恋人だった役目は終わっている。
 それでも、最後にひとつだけ、できたことがある。
 あの人の暮らしから、今日のゴミをひと袋、減らした。それだけ。小さすぎて、誰にも伝わらない。

 見送る側の役目だけが、最後まで残ってしまった。
 私は静かに息を吐く真似をして、もう一度、空っぽの玄関を見た。
 そして今度こそ、ここに留まる理由がないことを、ちゃんと知った。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

離れて後悔するのは、あなたの方

翠月るるな
恋愛
順風満帆だったはずの凛子の人生。それがいつしか狂い始める──緩やかに、転がるように。 岡本財閥が経営する会社グループのひとつに、 医療に長けた会社があった。その中の遺伝子調査部門でコウノトリプロジェクトが始まる。 財閥の跡取り息子である岡本省吾は、いち早くそのプロジェクトを利用し、もっとも遺伝的に相性の良いとされた日和凛子を妻とした。 だが、その結婚は彼女にとって良い選択ではなかった。 結婚してから粗雑な扱いを受ける凛子。夫の省吾に見え隠れする女の気配……相手が分かっていながら、我慢する日々。 しかしそれは、一つの計画の為だった。 そう。彼女が残した最後の贈り物(プレゼント)、それを知った省吾の後悔とは──とあるプロジェクトに翻弄された人々のストーリー。

完結 彼女の正体を知った時

音爽(ネソウ)
恋愛
久しぶりに会った友人同士、だが互いの恰好を見て彼女は……

完結 愛される自信を失ったのは私の罪

音爽(ネソウ)
恋愛
顔も知らないまま婚約した二人。貴族では当たり前の出会いだった。 それでも互いを尊重して歩み寄るのである。幸いにも両人とも一目で気に入ってしまう。 ところが「従妹」称する少女が現れて「私が婚約するはずだった返せ」と宣戦布告してきた。

守る対象が、私だっただけ

Wataru
恋愛
護衛は、感情を見せない。 姫は、それを理解した上で言葉を選ぶ。 踏み込まないことを選び続けた二人の、 変わらない距離と、変わらない夜。

【完結】シュゼットのはなし

ここ
恋愛
子猫(獣人)のシュゼットは王子を守るため、かわりに竜の呪いを受けた。 顔に大きな傷ができてしまう。 当然責任をとって妃のひとりになるはずだったのだが‥。

おしどり夫婦の茶番

Rj
恋愛
夫がまた口紅をつけて帰ってきた。お互い初恋の相手でおしどり夫婦として知られるナタリアとブライアン。 おしどり夫婦にも人にはいえない事情がある。 一話完結。『一番でなくとも』に登場したナタリアの話です。未読でも問題なく読んでいただけます。

貴方の側にずっと

麻実
恋愛
夫の不倫をきっかけに、妻は自分の気持ちと向き合うことになる。 本当に好きな人に逢えた時・・・

処理中です...