恋の呪文

犬飼ハルノ

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本編

キス魔

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 トゥルルルルルー。
 部屋の片隅に設置された電話が鳴る。
「うぉーい。そろそろ時間だとよー」
「延長するかぁ?」
「いいや。俺たちSE組は明日も出にゃ、客に殺される」
「もう、日付は変わってんぜー。立石ぃ」
 ザルのように酒を飲んでいながら酒に呑まれなかった、いわば生き残りが無駄口を叩きあいながら解散と決めたらうってかわっててきぱきと片付けを始める。
 片付け、と言っても、単につぶれた奴をたたき起こし、背広とネクタイと靴下と鞄を各自持たせ、靴を履かせるだけなのだが。
 ただ、それだけ。
 しかし、酔っぱらいが相手だと、『ただ、それだけ』でも、ものすごーく、苦労するのだ。
 要するに、こういう時は理性を少しでも残している奴が、損をすると決まっている。
 今回は十二人中三人が完全につぶれて、なんとか動けるのが六人、残る三人が貧乏くじを引いていた。
 とりあえず、半数以上は自分の足で帰れそうなので、ましなほうだと言える。
「・・・これは、さっさと金を払って、ずらかったほうがいいかもしれんな」
 貧乏くじ組の一人、立石と呼ばれた背の高い男がぽつりと呟く。
「へ・・・?」
 傍らの小柄な男が、彼の視線の先をゆっくりたどる。
 テーブルの下は、ビール瓶が数本転がり、床をぐちょぐちょに濡らしていた。
 さらに、入り口近くでは靴も靴下も脱ぎ散らかし、その上にウィスキーらしきものをぶちまけていた。
「あちゃー・・・」
 店員に文句を言われるだけならまだ良いが、器物破損で弁償金まで請求されると面倒である。
「おい。今日は、幹事が金、集めてんだろ?俺、先に払ってくるわ」
「それがいいかもな。おい、江口。池山を起こせ」
 酒に呑まれかけているのか、ぼんやりと鞄を抱えて座り込んでいる大柄な男に、立石は声をかけた。
「はぁ・・・」
 焦点の合わない瞳もそのままに彼はとりあえず指示に従って、ゆさゆさと隣で転がっている男を揺さぶった。
「池山さーん。起きてくださーい。帰りますよー」
「う~ん」
 着衣も髪も乱れるにまかせたままマグロのように転がる男は、わずかに唸るだけでぴくりともしない。
 さらに乱暴に揺さぶってみる。
「池山さんっ」
「はいっ!」
 元気の良い返事とともに、いきなり、がばっと池山は起き上がった。
 江口と向き合う形で座り直すと、顔をゆっくりと寄せて彼を凝視する。
 思わず、負けずに江口も見つめ返す。
 にっこり。
 首を少し傾けて、池山は笑った。
 へにゃ。
 つられて江口が笑い返した、その時。
 何か、重いものがいきなりのしかかり、ぐるりと天地がひっくり返ったような感覚に襲われた。
「江口っ、よけろっ」
 先輩SEである岡本の慌てた声らしきものが遠くで聞こえ、次の瞬間。
「・・・・・・・・・っ!」
 口が、生暖かいものに塞がれていた。
 酒と、煙草の味が、唇の辺りがらしっとり染み込んでくるようなイメージ。
 池山の唇だった。
 池山が、江口の上に馬乗りになって、彼の唇にかぶりついてくる。
「ちょ・・・っ」
 江口は慌てて、ばたばたと手足を振り回してもがくが、あまりのショックのせいなのか力が全く入らない。池山は身長のわりにはやや痩せ気味で、さらに約十センチ高い上に筋肉質な体型の自分と並んで立つと頼りなげに見えるはずなのに、この馬鹿力はいったいどうしたことかと戸惑った。
 おそるべし。池山和基。
 能ある鷹は、爪を隠してたということか? 江口の思考回路は、どんどこ現実逃避し始めていた。
 そして、江口が、ふっと抵抗の手をわずかに緩めた途端、さらに池山は江口の頭を両手で挟んで固定する。
「むぐぅ・・・・・・!」
 今度は手加減なしの、大人の口付けとはこういうものだと江口の体に教えこむがごとく、技という技を駆使したキスが襲いかかってきた。

 いいかげんっ、目を覚ましてくれぇ~! 
 江口の悲鳴は、再び池山の唇と舌によって吸い取られていった。


「あっりゃー。江口も気の毒に。あいつ、知らなかったのか?」
 『酒に強いはずの池山が悪酔いしたときには、彼に近よってはならない』
 これは、仕事仲間なら、だれもが知っている『鉄則』である。
「そうだろう。こっちのユニットに移って、まだ二ヵ月なるかならないかだしな」
 早く使いものになるように仕事を教えこむのが精一杯で、その件について誰も思い出さなかった結果が、これである。
「まあ、身をもって知ったから、いいか・・・」
 池山がたばこを取り出し火をつけると、彼の胸ポケットから一本拝借した岡本がもらい火をした後、ふーっと空気の濁りきった天井に向けて煙を吐き出した。
「でもさー、池山って、マジでテクニシャンだよなぁ。あんなにでかい江口が、身動きひとつ出来ないでいるんだからよ」
「・・・そーいうもんか?」
「あの・・・」
 江口のもがいている様を煙草でもふかしながら二人でのんびり眺めているのを見かねた素面組の最年少である中村が、おそるおそる口をはさむ。
「あの・・・。江口さんを助けなくていいんですか?」
 そういいながらも、池山の勢いに恐れをなして自分自身が二人に割って入る勇気はない。
 華奢な中村が入ろうものならどちらかに押し倒されるのが関の山だろう。
「それもそうだな・・・」
 立石がゆっくりと腰を上げる。
「え?もう止めるの?つまんねーなぁ」
「・・・岡本さん・・・。そりゃないですよ・・・」


「く・・・っ」
 先程とは、比べものにはならない、ふかい、深い口づけ。
 池山は江口の口の中を、己れの欲するままに貪った。
 少し熱い池山の舌がいともたやすく江口の唇を割って入った後、丁寧に歯列をたどり、さらに奥を探る。
 必死で抵抗していたはずなのに、いつの間にか、彼の動きに自分の舌も同調していた。 深くからんで、強く吸う。
 呼吸するのも忘れて。
 もっと深く、もっと・・・・。
 いつしか、江口自身も池山の唇を噛み付くように貪っていた。

「おい、池山。いい加減開放してやれ」
 ため息混じりの呼びかけと共に、江口の体の上の重石がふっと軽くなる。
 気が付くと、立石が背後から腕を回して池山を抱え上げていた。
「悪かったな。こいつ、深酔いすると、たまぁに、こーいうことするんだよ」
「・・・・はぁ・・・」
 ため息を返事代わりに江口は返す。
 どれだけの時間を池山とキスしていたのか、今の江口には見当がつかない。
「目が回る・・・」
 今度こそ、本当に体中の力が抜けていた。
「災難だったなぁ。江口ぃ。犬に噛まれたと思って、忘れんだぞー」
 くっくっくっと肩を震わせながら、岡本が横からちゃちゃを入れる。
「・・・岡本。遊んでる場合じゃないだろーが」
 よいしょ、と立石は池山を抱え直す。
 そして胸のポケットから紙封筒を取り出し、大きな瞳をしばたいている後輩に向かって放り投げた。
「中村。これで精算しといてくれ。余った金の配分は明日な」
 ちゃり、という音をたてて金の入った封筒は中村の手の中に納まった。
「・・・わかりました。そちらはよろしくお願いします。」
 彼は、完全に意識を失って立石にもたれかかる池山と、頭をぐしゃぐしゃにされたままぼんやり座っている江口にちらりと視線をやり、ため息を一つついて部屋を出ていった。
「江口、これ、ウーロンみたいだから、飲んでみな」
 岡本が差しだしたコップを受け取り、一気に飲む。
 氷が解けてほとんど水のように薄いその液体は、江口の喉を通って、体の芯まですうっと冷やした。
「ちっとは、落ち着いたか?」
「はぁ・・・」
「よし。なら、後から行くから先に出てろ。中村たちも外で待ってるだろ」
「わかりました。・・・じゃあ」
「あ、絶対待ってろよ。寮まで一緒にタクシーで帰るからな」
 ひらひらと手を振る岡本の背後で、池山はこの上なく幸せそうな寝顔でソファに横たわっていた。



「江口も、中村も、初体験ってやつかぁ。かわいーねぇ」
 落ちている靴下を指先でつまみ、紙袋に放りこんで岡本が笑う。
「初々しいったら、ありゃしない」
 あちこちに散らばっている池山の荷物を拾い上げながら、立石は顔をしかめた。
「・・・年寄り臭いぞ」
「まあ、ひどい。徹くんったら。つれないのね」
 腰をくねらせてしなを作ってみせる岡本の頭に、石のように丸まった誰かのハンカチが飛ぶ。
「・・・とにかく、ここを出よう」
 全身にへたり込みたいほどの疲れを感じた立石は片手に荷物をまとめて歩きだした。
「俺、池山より、とぉってもか弱いから、よろしくね、徹くぅん」
 にたり、と岡本が歯を見せて笑う。
 「俺は第二の江口になりたかないぜ」という意味が、言外に含まれていた。
 勘が良くて面倒見がいいと、こういう時に損をする。
「・・・わかった」
「ありがとう。愛してるわ。キャプテン」
「・・・やめれ」
 立石は投げキッスをよこす岡本に、心底嫌そうな顔をする。
 彼は、学生時代運動部の部長を歴任した男であった。
 面倒見の良さは筋金入りだ。
「おい、池山。歩け」
「ふしゅー」
 口をもぐもぐするだけの池山の腕を自分の肩に掛けさせ、胴体を片手で支え、やや乱暴にずるずると引きずるようにして立石は出口に向かった。
「・・・・そういえば、岡本」
 池山を抱え直しながら、立石は振り返る。
「なに?」
「こいつの代わりに、そこの、もっとか弱いミッキー君を頼んだぞ」
 にっと意味ありげに笑みを残して、立石は部屋を出ていった。
「ミッキーくん・・・?」
 嫌な予感が岡本の頭を駆けめぐる。
 慌ててソファの裏を覗くと、そこには、ミッキーマウス柄のパンツ一枚で転がっている男がいた。
 ついさっきまで池山と仲良く裸で踊っていた奴である。
「ちくしょ~っ、立石ッ!松田のほーが、めんどーじゃないかーっ!」
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