恋の呪文

犬飼ハルノ

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本編

貞操問題より会議の方が大事

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 ざぁ・・・・・。
 シャワールームの水音が、控えめに聞こえる。
 そして、わずかな湿気と一緒にボディソープの匂いが漂ってくる。
 かたん。かたかた。がたんっ。
 シャワーを止め金にかける音と、おそらく浴室のドアを開ける音。
 池山はゆるりと目を開く。

「・・・はぁ・・・」

 なぜなのかさっぱり解らないが、常に寝起きの良い自分にしてはけだるい目覚めである。
 瞳にぼんやりと移るのは、真っ白な天井と、シンプルな柄のカーテン。
 その薄いカーテンを通して、窓からはうっすらと明かりがさしていた。
 ごろり。
 ベッドは池山が数回寝返りをうっても転げ落ちそうにないほど広い、キングサイズ仕様であった。
「ここ、どこだっけなぁ・・・」
 見覚えはあるのだが。
 とりあえず、渾身の力を振り絞って上半身を起こした。
 かちゃ。
 ドアが開く。
 トランクスに軽くシャツをはおり、肩にタオルを掛けて短い髪を片手で無造作に拭きながら、若い男が出てきた。
 背は友人の立石と同じ位に高く、肩から腰に掛けてびしっと筋肉がついており、いかにも体育会系の体つきである。
 この肉の付き方は野球選手のようだなとぼんやりと思い、
「江口・・・?」
 考えるよりも先に、名前を呼んでいた。
「あ、おはようございます」
 当の江口は振り返り、折り目正しく挨拶する。
「今、何時だ?」
「六時を少し過ぎたところですね」
「そうかぁ・・・」
 腕を組んでうーんと唸ってしばらく考えこんだ後、池山はため息をついた。
「悪い。頭、回らんわ。けど、俺、またつぶれたんだな?」
「はい」
 江口は服を身につけながら答える。
「それでもって、ここは、どこだ?」
「マロニエホテルって言って解りますか?」
 ネクタイをしめる手を止めて、振り返った。
「あー。マロニエね。なるほど、見たことある内装だと思ったんだよな」
「ご存じでしたか」
「うん。この間、総務の野島ちゃんと来たからな。ここ、低価格の割りには良いホテルだもんなぁ」
「野島さんと・・・ですか?」
 江口は少し目を細めて、池山の顔を覗き込む。
「あ、これはオフな。彼女、十一月末には結婚すること決まってるから」
 池山はにっと笑いかける。
「たまたまやりたくなったって言うか、酒の勢いだからさ。お互いどうこうするつもりはさらさらないよ」
「そう・・・ですか・・・」
 何やら考え込んでいる江口をよそに、池山はごそごそと動きだした。
「さて、いったん家に戻ってから会社に行くか・・・・っつっ!」
 ベッドから降りて立ち上がろうとした瞬間、鋭い痛みが体を走り、池山はその場にしゃがみこんだ。
「池山さん!」
 慌てて江口が駆け寄る。
「~~~~~」
 池山は声にならない悲鳴をあげた。
 寝呆けていたせいでか、さっきまで何も感じなかった痛覚が、いきなり大津波のように押し寄せてきた。
 大手術の後にいきなりふっと麻酔が切れたような、ちょうどそんな感じ。
「大丈夫ですか?」
 江口は慌てて池山を抱え上げる。
 その瞬間、骨のきしむような感覚に池山は息をのんだ。
 ゆっくりベッドに横たえられて、ゆるゆると息を吐き出す。
「・・・いってー」
「あ、すみません。乱暴でしたか?」
 江口が気づかいの言葉を口にする。
「いや・・・。悪いな。どういうわけか、体中っ・・・が、痛いんだよ」
「体中、ですか・・・」
 江口は、ちょっと困ったような顔をした。
「いったいどうしたんだろうな。筋肉痛ってわけでもなさそうだし・・・」
 横たわったまま、池山は後輩を見上げる。
「江口。俺、階段からおっこちるか、何か、すっげー暴れるかしたのか?」
「・・・・は?」
「だってさ、腰骨というか、腰の中心の辺りがすっげー痛いんだ。ええと、あ、ほら、女の生理痛に似てるかもな」
 江口は池山の傍らにゆっくり腰掛けた。
「腰が、痛いんですか?」
「ああ。ついでに言うと股関節もなんか変だ」
 江口は大きな瞳で池山をじっと見つめたまま問いかける。
「で、昨夜のこと、全く覚えてないんですか?」
「うーん。一次会の途中あたりから、記憶がすぽーんと・・・」
 こう、すぽーんとな・・・と手をぱっと振りかざして池山が示そうとしたその瞬間、彼の唇はふさがれていた。
 始めはきつく、吸い上げるように。
 一呼吸おいて、二、三度軽くついばんで。 最後に優しく唇を包み込むようなキス。
 ゆっくりと少し温度の高い舌が口のなかをさまよう。
 気持ち良くて、意識を手放したくなるような。
 
 気持ちいい・・・?
 池山はゆるく閉じてたまぶたを開く。
 自分の上に江口が覆い被さっていた。
 ちょっとまてっ、なんなんだっっ、こりゃぁ・・・・・・・・・! 

「くっ・・・」
 池山は喉を鳴らす。
 空いている手で江口の肩口を力いっぱい何度も叩くと、彼はゆっくりと唇を放した。
「本当に、覚えてないんですか?」
 池山の両脇に手をついた状態のまま、江口は尋ねる。
 彼の暖かい吐息が、ゆるやかに池山の頬を撫でる。
 射るような瞳は、池山の瞳に固定したまま動かない。
 ぞくっとするほどの、真摯な眼差し。
 昨夜の酒が残っているわけでも、ふざけているわけでもないことは、一目瞭然である。 と、いうことは・・・?
 トランクス一枚で、ベッドに横たわっている自分。
 朝っぱらから、しらふで思いっきりディープなキスをしかけてきた江口。
 どちらかというと、腰の中心に集中している、この痛み。
 それでもって、ここは、俗に言うラブホテルの一室。
 考えたくないけど、これは・・・?
 池山の顔が、次第にこわばっていく。
「全然っ、まぁーったく覚えてねーけど、・・・・まさか、と思うけど・・・」
「はい?」
 言いよどむ池山の言葉の続きを促す。

「・・・お前、俺を、抱いた、のか?」

 違うと言ってくれっ!
 頼むから、たちの悪い冗談だと笑い飛ばしてくれぇっ!
 おお、神よ!!
 池山は、この、コンマ零点一秒にどれほど力を入れて祈ったか知れない。
 しかし、池山のこのささやかな願いを、江口はあっさりとはねのけた。

「はい」

 あああああーっ!!
 なんてこった!!

 池山は慌てて矢継ぎ早に質問する。
「あの・・・さ、抱くって、肩を抱く、とかじゃなくってな・・・」
「ええ」
「大人の、男と女のする・・・」
「・・・」
 こっくり。
 ただ黙って、江口は頷く。
 池山の全身から冷汗が流れる。
「・・・やっちまったってわけ?」
「はい」
「フルコース?」
「そうです」
「・・・一発?」
「いいえ。・・・三回くらいだと・・・」
「さ、さんかい?」
 引いていた血が一気に逆流し、頭のてっぺんに駆け上がった。
「こんの馬鹿ものーっ!ヤロー相手に、そこまでする奴がいるかーっ!」
 渾身の右ストレートが、綺麗に江口の頬に納まった。
 江口が床に転げ落ちるのを見届けると、池山は上半身を起し、ベッドから飛び降りる。
「・・・くぅ・・・」
 やはり腰はまだかなり痛い。
 しかも、膝ががくがく、いや、げらげら笑っている。
 痛みをこらえつつ、部屋を横切り、ソファに掛けてあるスーツとシャツを乱暴に手に取る。
 怒りに頭を煮たぎらせながら、シャツのボタンをいらいらととめる。
「池山さん・・・」
 床から起き上がった江口が背後から声を掛けてくる。
「うるさいっ」
「でも、あの・・・」
 心なしか狼狽の色が見えた。
 池山は手を止めずに、すばやく考えをめぐらせる。
 『酔った弾みで男と体の関係を結びました』だと?
 冗談じゃないっ!
 いくら自分が女にだらしないからといって、男に欲情されるなどと、池山和基としての矜持が許さない。
 ましてや、酔っていたとはいえ、男に三回も突っ込まれるなんて、もってのほかだ。
 二度とこいつからこんな目に遭わされないためにも、予防線はしっかりはっきり張らねばなるまい。
 相手は、三つ年下のエンジニア。
 こっちはキャリア四年の新鋭営業。
 とりあえず、こういうときは主導権を先に握ったものが勝ちだ。
 自動車事故の時だとて、そうではないか。
 たとえ、どんなに自分が悪いのであっても、先に謝ったほうがあとあと分が悪くなる。
 ここは一つ、口八丁手八丁に限る。
 よし。
 一呼吸置いてから、池山は何事もなかったような顔をして振り返る。
「五分でここを出るぞ。荷物をまとめろ」
「え?」
「俺は体調不良で年休を取る。お前は、仕事に行け」
「は?」
 とまどう江口を黙殺して、池山は靴を履き、腕時計をはめる。
「あのっ」
 ふわり。
 そのとき、江口の服に染みついた匂いが鼻に届いた。
 池山は一瞬立ち止まり、すぐに振り返る。
「・・・ちょっと待った」
 おもむろに男の襟元を両手でつかんで、ぐいっと引き寄せた。
「・・・?」
「・・・・やっぱりな」
 くんくんとシャツの匂いを犬のように嗅いでみて、顔をしかめる。
「ここからだと俺ん家のほうが近い。仕方がないから、シャツだけでも着替えて行け」
「あ、いいです。俺はこのままで・・・」
「たわけ。・・・お前、酒臭いんだよ。お前が気にせんでも客が気にする」
「あ、いや、そういうことじゃなくって、池山さんの具合悪いのは俺のせいなんだから、俺、今日は池山さんの看病を・・・・」 
再び、池山はこぶしを振り上げた。
 またもや見事に江口の頬にヒットする。
「馬鹿たれっ!今日の会議は、お前が、主役なんだろーがっ!」
「はぁ・・・」
「てめーが仕事に穴開けりゃ、客に頭下げるのは、結局俺なんだよっ。酔っ払って前後不覚になった人の体をいーよーにして、少しでも悪かったと思うなら、うまく客を丸め込んで受注を取ってこいっ」
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