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2 婚約から一気に転落
しおりを挟むあれは3年前の事だった。
クリゲル・スタンフォース公爵からシエル嬢との婚約の正式な申し込みがあった。
それまでいくつも縁談の話が来ていたシエルだったが、父はシエルが17歳になって社交界デビューが終わってから考えたいと思っていた。
そしてちょうどいい時期に申し込みをしたのがスタンフォース公爵だった。
どうやらシエルの社交界デビューの舞踏会でシエルを見て気に入ったらしい。
最初は乗り気でなかった父も息子もいるし、シエルの事を考えれば筆頭貴族でもあり宰相になたばかりのクリゲルの父親からの口添えもあってこれほどの良い話はもうないと判断したらしい。
シエルはいきなりスタンフォース公爵と婚約するようにと話を聞かされて驚いたが
「はい、わかりました」と返事をするしかなかった。
何しろ貴族の結婚はほとんどが親が決めるのが常である。
どこの令嬢も親が望んだ相手と結婚する。そんなわけでシエルもご多分に漏れずスタンフォース公爵の婚約者となった。
スタンフォース公爵は22歳、つい最近公爵位を継いだばかりらしくかなりお忙しいらしい。一度挨拶にベンハイム家に見えた時に会っただけでしばらくはお誘いもなかった。
スタンフォース公爵の父は、宰相をされることになって益々スタンフォース公爵は株が上がり我がベンハイム公爵家にも引けを取らない相手で父は安心したらしい。
そしてシエルはスタンフォース公爵家の夜会に招待される。
スタンフォース公爵に会うのは今回で2度目となるが、まだほとんどまともな会話をしたこともなくシエルはとても緊張した。
侍女のべルールは気合を入れて支度を手伝ってくれたおかげで、艶やかなドレス姿が出来上がった。
自慢のグリーンの髪は幾重にも巻き上げられ、耳元にひと房のカールした髪があった。
ドレスは瞳に合わせた淡い橙色で、鎖骨がはっきり出るデザインで胸元が大きく開いていて腰から下には幾重にもレースが重なったそれはもう美しいドレスだった。
時間になると屋敷に馬車が到着して、スタンフォース公爵が迎えに見えた。
「シエル嬢とても素敵です。仕事が忙しく婚約してからなかなかお会いできなくて申し訳ありません。ですが今宵は心行くまで語りあいたいと思っています」
クリゲルは、栗色の髪をして琥珀色の瞳を持っているとても優しそうな青年だった。
最初の印象は、一見ひ弱そうにも見えたが内面はとてもしっかりした好青年だとも思えたのだが、あれから音沙汰もなくどう接していいかと気をもんでいた。
だが、今夜こうしてはっきりと気持ちを伝えてもらってシエルはクリゲルにかなりの高評価をつけた。
結婚相手には信頼関係を築きたいと常々思っていたシエルにとって、その言葉は胸に響いた。
「はい、スタンフォード公爵様ありがとうございます、私もぜひゆっくりお話がしたいと思っておりました。夜会が楽しみですわ」
「ええ、僕もです。さあ、参りましょう」
シルクの手袋をした手を取られて馬車に乗り込んだ。
そして彼の屋敷に馬車で入ると夜会の開かれる広間に案内された。
すでに準備は整っているらしい。
彼に案内されながら入り口を入る。
足元には真っ赤な毛足の長い絨毯が敷き詰められていて、黄金の鎧やこれみよがしな大きな絵画がこれまた金色のこてこてした額に入っていた。
シエルの屋敷もかなり大きな家だったが、父親の趣味であまり派手な色合いの装飾品は置いていない。
アンティークの色合いの渋い調度品はかなり前のものだったり、絵画も落ち着いた色合いのもが多い。
これも王家ゆかりの家との違いかもしれないと思いながらも、気分はそわそわ落ち着かないままだった。
夜会の開かれる広間は、高い天井で大きく繊細なシャンデリアがいくつも吊るされて、大理石の床に美しい影を落としていた。
テーブルの上のクリスタルのグラスにさえ幾重にも光が反射してシエルは思わずため息をついた。
それに加えて、クリゲルはシエルの腰にしっかりと手を回してすでに自分の者だとでも言いたげな態度だったのも落ち着かなかった。
すぐに彼の両親に挨拶をすると夜会が始まった。
まずはスタンフォース公爵の挨拶が簡単に終わると、すぐに食事や飲み物がテーブルに並んだ。
シエルは案内された席に座った。”これでゆっくり話が出来ますね”と振り返ったがそこに彼はいなかった。
クリゲルを探すが彼は招待客のもてなしで忙しそうだった。
”まあ、公爵とはこんなものですわ。”と気持ちを入れ替える。
シエルは、適当に飲み物をもらうとひとりでちびちびワインを飲み始める。
そうこうしているうちに、クリゲルの友人だという男性数人が席にやって来た。
「あなたがクリゲルの婚約者ですか?」
「はい、シエル・ベンハイムです。どうぞよろしくお願いします。ところであなたがたは?」
シエルは愛想良く微笑む。
「僕たちは彼の友人です。あいつときたらあなたと話もせずに招待客の相手なんかしてるんですか。どうです。僕たちで良かったらお話でも」
特に問題はないわよね?
シエルは同席をしたいという男性を同じテーブルに座らせる。
1対1ではなく数人の男性だし周りにはたくさんの人もいる。別に問題はない。
シエルはクリゲルの学生の頃の話などを肴にワインをまたお替りした。
それがいけなかった。
いつもは飲まないワインを2杯も飲むと少し気分が悪くなった。ドレスできつく締め付けた事も原因かも知れない。
「すみません。私ちょっと席を外します」
「どうかされましたか?ご気分が?」
シエルの後に数人の男性がつづく。
シエルは初めて来たお屋敷でお手洗いがどこかもわからず、だが今にも吐いてしまいそうで急いで広間を出て行く。
広間の先には中庭がありそちらに向いて進んで行く。
外の空気を吸い込んで少しするとすぐに吐き気は収まりひと息ついたところにやって来たのが数人のあの男性たちだった。
「大丈夫ですか?」
「あっ、ええ…もう大丈夫です。すみませんご心配おかけしたみたいで」
「いえ、どうです。少し散歩でも…」
男性は3人。だが、庭にはかがり火が灯してあるし、夜会の人はすぐそばにいる。
「ええ、そうですね。少し歩けば気分もよくなりますね」
「ええ…今夜は少し冷えますね。寒くはありませんか?」
「ええ、ワインを飲んだので大丈夫ですわ」
近づく男性から少し距離を取った。
すぐに噴水があるところに来てシエルはそこで立ち止まった。
もう広間に帰った方がいい。
「もう広間に戻ります。スタンフォース公爵も探されているかもしれませんし…」
もう少しで男の手がシエルの腕に触れそうになったのをかわすようにシエルは向きを変えた。
「もう少しいいじゃありませんか。せっかくの夜です」
その声はシエルの耳元でいやらしく響いた。
「やめてください!」何がせっかくの夜だ。
「いいんですか?やめても…」
「何するんです。離してください。大きな声を出しますよ!」
そう言った瞬間ひとりの男がシエルの後ろから腕を取った。もう一人の男が手早く胸元をはだける。
いつも着ているようなドレスだったらこんなことにはならなかったかもしれない。だが、今日のドレスは大人っぽいデザインで胸元が大きく開いていたのが悪かった。
ドレスの胸元がはらりとはだける。
さすがに胸がさらされはしなかったが、コルセットからこぼれそうになった胸が露わになった。
キャー…
その声は男の手でふさがれて声にならなかった。
「何をしている!」
闇の中から獰猛な野獣のようなうなり声がしたかと思った。
男たちがはっと振り返る。
暗がりから出て来たのは騎士隊の服を着た男。
「おい、逃げろ!」
男たちは一目散に走って逃げた。
シエルはその場に崩れ落ちた。
恐くてまだ体が震えたままで立ち上がることも出来ない。
「大丈夫ですか?」
男がそっとシエルを抱き上げて近くの椅子に座らせる。
シエルはうつむいたまま急いで胸元を整える。
やっと顔を上げるとそこにいたのはボルクだった。
「チッ!男とこんな所に…危険だと思わなかったのですか?」
ボルクは舌打ちして小声でそう言ってシエルを見た。
「ま、まさかあんな事するなんて…私だって好きでこんな事になったわけではないわ」
「俺がいたからよかったものの…」
「でも、ボルクどうしてここに?」
「俺も招待されたんですよ。でも広間にお嬢様がいらっしゃらなかったので、庭にでも出ていようかと思ったら…ったく。いい加減にして下さいよ」
「ありがとうボルク。本当に助かったわ。あっ、私もう戻らなくては…」
ボルクはもう少し離れたところにいて広間に戻ろうとしているらしい。
その後ろ姿を見るといつものように親指と人差し指を擦り合わせていた。
やっぱり。シエルはとんでもないところを見られて恥ずかしかったが彼のおかげで助かったのだからと肩を落とした。
急いで広間に戻ると、目の前にはスタンフォース公爵の目を吊り上げた顔があった。
「シエル嬢、私の屋敷で一体何の真似です?」
「何の事でしょうか?」
周りには人がたくさんいるというのに。話ならもっと静かな場所でもいいのではと思う。
「たった今友人が貴方に誘惑されたと」
「何をおっしゃっているの?それは大間違いですわ。あの方たちが私にご無体をされたのですわ」
シエルは毅然とした態度で言った。
私は何もしていませんわ。
「グッ!された?」
スタンフォース公爵の唇がよじれて頬がひくひくとなった。
「ご、誤解です。私は何も…」
シエルは手を差しだそうとしたが公爵は彼女の前で手を跳ねのける。
次の言葉を出す暇もなく。
「あなたという人は…もう結構です。あなたとの婚約は解消します。どうかお帰り下さい。ああ、家の者が屋敷まで送り届けます。私はこれで失礼する。こんな恥をかいたことはない。まったく…なんて女なんだ。二度と顔も見たくない!」
噂のうえに噂が広まり、とうとうシエルは男好きな淫乱な女だということになった。
いくら否定しても女の言う事より男の言う事の方が通る社会。シエルの言う事は誰にも信じてもらえなかった。
ただ唯一家族とボルクだけは信じてくれた。
だからこそ、この3年シエルはそんなありもしない話に甘んじて来れたのだった。
シエルは今でも思う。
でも、あの時ボルクが来てくれなかったらどうなっていたか知れないと…
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