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第一章 うつろの気
十三
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同天文十八(一五四九年)三月、帰蝶の輿入れからおよそ一か月の後、岡崎城の松平広忠が突如病死したという急報が尾張にもたらされた。
「キナ臭い話だ。今川が噛んでいやしないか」
信秀は即座にそう睨んだが、一方、今川の方でも同じように織田の関与を疑っていた。両者の疑念は互いに向けられ、真実からは逸れていたものの、しかし、広忠の死因が病死ではなく暗殺であったこと自体はまったく的中していた。
松平広忠は、幼少の頃より家中の者に命を狙われて各地を流浪し、やがて今川家の後ろ盾を得ることでようやく岡崎への帰還を成就させた苦労人だったが、そもそも松平氏というのがそういう家なのである。いくらかに分派した一族の間で宗家奪取の争いを続けており、広忠の父に当たる清康もそういった政争の禍根から家臣に斬殺されていた。そこで、二代に渡って当主が暗殺されたとあってはあまりに外聞が悪いというので、「広忠は病で死んだ」と家中で口裏を合わせたのだ。
広忠の死に対していち早く動いたのは、やはり今川義元だった。
義元は、幼い頃より教育係として自身を支えた唯一無二の腹心・太原雪斎(崇孚)を岡崎城へ派遣し、あっという間に城を接収してしまった。
「今こそ、竹千代殿を織田の魔手から取り戻すときである」
雪斎は松平家中を取りまとめると、気炎を上げて織田方の安城城へと攻めかかった。
安城城の味方は、一時は敵の攻撃を凌いで追い返したものの、同年十一月、万全の軍勢で再び攻め寄せた雪斎の猛攻に晒されると、平手政秀の救援もむなしく落城。さらには、守将だった織田信広が敵方に捕縛されるという一大事となってしまった。
末森城での評定の場にドタドタという足音が近づいてくる。家臣らは示し合わせたかのように揃って険しい顔をする。こんな足音でやってくるのはアレのほかにはいない。面倒事が服を着ているようなあの男。
「兄上が今川勢に捕まったそうですね、父上」
「そうだ」
敵方に捕らえられた安城城の守将・織田信広という男は、信長の腹違いの兄だ。信長は嫡男だが三男である。信秀が若い時分に側女に産ませた長男坊がこの信広で、齢二十を超えた今では、一人の武士として対今川の最前線を任されるほどに父の信頼を買っており、また、信広自身にしてみても弾正忠信秀の長男という自負を強く持っていた。
「敵は兄上を返す代わりに、竹千代の身柄を渡すよう言ってきたとか」
「そうだ」
「応じるつもりですか」
「そうだ」
「竹千代を手放しては、いけない」
瞬間、信秀は手に持っていた扇子を信長に向けて投げつける。
「誰に向かって口を聞いている」
扇子は信長の額をかすめて斬った。血が流れ出て床にとつとつと床に落ちると、場は凍り付いた。誰もが自分事のように肝を冷やし脂汗を流していた。
「竹千代を手放さないということは、信広を殺すということだ。信長、貴様が一体なにをした。貴様が遊びほうけているとき、信広は小豆坂で俺を逃がすために殿となって戦った。貴様が昼寝をしているとき、信広は安城で敵方の猛攻を退けた。もう一度言う。貴様が何をしたのか。信広の命を奪ういかなる権利が貴様にあるのか。言えるものなら言ってみろ」
「本当に勇敢な武士なら敵に捕まる前に腹を切る。信広は敵の言い分に乗って戦うことをやめたのです。竹千代を失えば、松平が我らの麾下に加わることは二度とないでしょう。それでは、今川に勝てない」
「松平はとうに竹千代を見捨てて今川についた。この上は、竹千代に人質としての価値はない」
「みすみす敵の手に落ちるような者よりは、よほど価値があります」
「実の兄だぞ」
暗に「俺の息子だぞ」と言っているのだが、この手の含意を信長は理解しない。
「なればこそ。情しか残らぬ身内など、生かしておいたらキリがない」
働きの鈍い者、己の足を引っ張る者は、例え血が繋っていようとも生かしておくには値はない。信長は親族の多く集まっている場で、そう宣言したようなものだった。
「オレが戦に出ていたなら、この信長が安城城に詰めていたなら、城は落ちなかったでしょう」
何という大言壮語。これを聞いて、いくらかの者たちはついに緊張の糸が切れたのか、嘲笑の声を漏らし始めた。
「うつけが。思い上がりも大概にしろ。これ以上口を開くならば貴様を即刻廃嫡とするぞ」
「では、口でなく行動で示してご覧に入れましょう」
両の眼をかっ開いて立ち上がる信長。並々ならぬ気迫を感じ取り、信秀はその場ですぐさま信長を取り押さえさせた。安城城の今川勢へ無謀な攻撃を仕掛けるつもりだったのか、はたまた竹千代を強奪し人質交換を反故にするつもりだったのか、いずれにせよ、放っておけばろくなことをしでかさない。信長は、今川との人質交換が滞りなく終わるまで那古野城に半ば軟禁されることとなった。
こうして信広は一命をとりとめ尾張へ戻ったが、代わりに竹千代は今川義元の手に渡り、松平および彼らが治めていた三河国に織田が付け入る隙はとうとう完全になくなってしまった。
また、水面下のことに言及すれば、事はそれだけにとどまっていてはくれない。
例の応酬の中で、信秀が「廃嫡」などという過激な言葉を使ったことが、弾正忠家の未来にまた一つ暗い影を落としていたのだ。信広を助けようとする一心で、あるいは、嫡男・信長の恥をこれ以上家中に晒すまいとした焦りから口走った言葉ではあったが、受け手の方ではそういった親心の複雑な心情などはあえて理解せず、もっと好き勝手に解釈するものだ。織田信長の家督継承を快く思わない家中の者に「そういった芽もあるのだな」というお墨付きを与えるのに、信秀の発言は十分すぎたのだった。
さらに言えば、「織田信長の家督継承を快く思わない家中の者」とは、何も弾正忠家の臣下とは限らない。
評定の列座からすこし離れたところ。元服を控えているあの嫡弟が、無様に取り押さえられ退場する兄・信長の姿をじっと見ていた。
「キナ臭い話だ。今川が噛んでいやしないか」
信秀は即座にそう睨んだが、一方、今川の方でも同じように織田の関与を疑っていた。両者の疑念は互いに向けられ、真実からは逸れていたものの、しかし、広忠の死因が病死ではなく暗殺であったこと自体はまったく的中していた。
松平広忠は、幼少の頃より家中の者に命を狙われて各地を流浪し、やがて今川家の後ろ盾を得ることでようやく岡崎への帰還を成就させた苦労人だったが、そもそも松平氏というのがそういう家なのである。いくらかに分派した一族の間で宗家奪取の争いを続けており、広忠の父に当たる清康もそういった政争の禍根から家臣に斬殺されていた。そこで、二代に渡って当主が暗殺されたとあってはあまりに外聞が悪いというので、「広忠は病で死んだ」と家中で口裏を合わせたのだ。
広忠の死に対していち早く動いたのは、やはり今川義元だった。
義元は、幼い頃より教育係として自身を支えた唯一無二の腹心・太原雪斎(崇孚)を岡崎城へ派遣し、あっという間に城を接収してしまった。
「今こそ、竹千代殿を織田の魔手から取り戻すときである」
雪斎は松平家中を取りまとめると、気炎を上げて織田方の安城城へと攻めかかった。
安城城の味方は、一時は敵の攻撃を凌いで追い返したものの、同年十一月、万全の軍勢で再び攻め寄せた雪斎の猛攻に晒されると、平手政秀の救援もむなしく落城。さらには、守将だった織田信広が敵方に捕縛されるという一大事となってしまった。
末森城での評定の場にドタドタという足音が近づいてくる。家臣らは示し合わせたかのように揃って険しい顔をする。こんな足音でやってくるのはアレのほかにはいない。面倒事が服を着ているようなあの男。
「兄上が今川勢に捕まったそうですね、父上」
「そうだ」
敵方に捕らえられた安城城の守将・織田信広という男は、信長の腹違いの兄だ。信長は嫡男だが三男である。信秀が若い時分に側女に産ませた長男坊がこの信広で、齢二十を超えた今では、一人の武士として対今川の最前線を任されるほどに父の信頼を買っており、また、信広自身にしてみても弾正忠信秀の長男という自負を強く持っていた。
「敵は兄上を返す代わりに、竹千代の身柄を渡すよう言ってきたとか」
「そうだ」
「応じるつもりですか」
「そうだ」
「竹千代を手放しては、いけない」
瞬間、信秀は手に持っていた扇子を信長に向けて投げつける。
「誰に向かって口を聞いている」
扇子は信長の額をかすめて斬った。血が流れ出て床にとつとつと床に落ちると、場は凍り付いた。誰もが自分事のように肝を冷やし脂汗を流していた。
「竹千代を手放さないということは、信広を殺すということだ。信長、貴様が一体なにをした。貴様が遊びほうけているとき、信広は小豆坂で俺を逃がすために殿となって戦った。貴様が昼寝をしているとき、信広は安城で敵方の猛攻を退けた。もう一度言う。貴様が何をしたのか。信広の命を奪ういかなる権利が貴様にあるのか。言えるものなら言ってみろ」
「本当に勇敢な武士なら敵に捕まる前に腹を切る。信広は敵の言い分に乗って戦うことをやめたのです。竹千代を失えば、松平が我らの麾下に加わることは二度とないでしょう。それでは、今川に勝てない」
「松平はとうに竹千代を見捨てて今川についた。この上は、竹千代に人質としての価値はない」
「みすみす敵の手に落ちるような者よりは、よほど価値があります」
「実の兄だぞ」
暗に「俺の息子だぞ」と言っているのだが、この手の含意を信長は理解しない。
「なればこそ。情しか残らぬ身内など、生かしておいたらキリがない」
働きの鈍い者、己の足を引っ張る者は、例え血が繋っていようとも生かしておくには値はない。信長は親族の多く集まっている場で、そう宣言したようなものだった。
「オレが戦に出ていたなら、この信長が安城城に詰めていたなら、城は落ちなかったでしょう」
何という大言壮語。これを聞いて、いくらかの者たちはついに緊張の糸が切れたのか、嘲笑の声を漏らし始めた。
「うつけが。思い上がりも大概にしろ。これ以上口を開くならば貴様を即刻廃嫡とするぞ」
「では、口でなく行動で示してご覧に入れましょう」
両の眼をかっ開いて立ち上がる信長。並々ならぬ気迫を感じ取り、信秀はその場ですぐさま信長を取り押さえさせた。安城城の今川勢へ無謀な攻撃を仕掛けるつもりだったのか、はたまた竹千代を強奪し人質交換を反故にするつもりだったのか、いずれにせよ、放っておけばろくなことをしでかさない。信長は、今川との人質交換が滞りなく終わるまで那古野城に半ば軟禁されることとなった。
こうして信広は一命をとりとめ尾張へ戻ったが、代わりに竹千代は今川義元の手に渡り、松平および彼らが治めていた三河国に織田が付け入る隙はとうとう完全になくなってしまった。
また、水面下のことに言及すれば、事はそれだけにとどまっていてはくれない。
例の応酬の中で、信秀が「廃嫡」などという過激な言葉を使ったことが、弾正忠家の未来にまた一つ暗い影を落としていたのだ。信広を助けようとする一心で、あるいは、嫡男・信長の恥をこれ以上家中に晒すまいとした焦りから口走った言葉ではあったが、受け手の方ではそういった親心の複雑な心情などはあえて理解せず、もっと好き勝手に解釈するものだ。織田信長の家督継承を快く思わない家中の者に「そういった芽もあるのだな」というお墨付きを与えるのに、信秀の発言は十分すぎたのだった。
さらに言えば、「織田信長の家督継承を快く思わない家中の者」とは、何も弾正忠家の臣下とは限らない。
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