織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

二十一

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 織田秀俊の自害と守山城陥落の報せは城を脱した坂井喜左衛門により、すぐさま清洲城の信長へ伝えられた。信長はただ一言、おもしろくなさそうに「馬鹿野郎が」と呟いただけだった。それから、ほどなく秀孝誤射事件で出奔した信次が乞食紛い放浪生活を続けながら清洲の近くをうろついているという話を風の噂に伝え聞くと、
「叔父上に会ったら伝えろ。『守山城を角田某の手から取り返したら、もう一度城主に据えてやる』とな」
 信長はそう命じて喜左衛門をこれの捜索に当たらせた。信次が頭を丸めて清洲城に出頭し、守山城の攻囲を始めるのは、ちょうど秀俊の死からまるふた月が経過した夏の終わり頃のことだった。

「オイ、信長さま、篠木三郷しのぎさんごうの地が奪われたッ。やったのは末森から出た津々木蔵人の軍勢って話ですぜ」
 恒興は清洲城の北櫓に上がり込むや矢継ぎ早にそう告げた。信長は窓から眼下に広がる田園をぼんやりと眺めたまま、一向に振り返る素振りすら見せず、「ああ」と生返事をするばかりだった。
 秀俊の死後に訪れたふた月の静寂は、信勝から兄に突きつけた最後通牒のつもりだったらしい。岩倉、荒子、米野、大秋、那古野、そして守山といった諸城が信長に敵対して尾張国を分断したうえは、清洲の信長に勝ちの目はない。『敗軍の将が最期にとるべきは、人死を出さぬ降伏か、名を惜しんでの切腹か』と、百姓に至るまで誰しもそう考えていたが、信長は当然そのどちらも選ばなかった。事も有ろうに、信勝方の動きが止まったのを良いことに、粛々と美濃で失った自らの軍兵の増強に努めていたのである。これを知った信勝は、僅かばかりかけてやった気でいた兄弟の情けを踏みにじられたと感じたのか、ついに信長の領地を直接横領するに至った。 
「すぐに三郷へ軍勢をお出しになられませッ。奴らやりたい放題だ」
「いや」
「このままじゃあ、いずれ川岸の領地までをも奪いにやってきますよ」
「そうだな」
「あのねえ、そうだな、じゃないでしょう? 何を落ち着いているのだか、この人は。森殿からも何とか言ってやってくださいな。私の言うことは無視しても、あなたの言うことなら聞くんだから」
 信長の傍らには可成が黙って座していた。
 声を荒立たせる恒興に、可成は落ち着いて答えた。
「池田殿、あなたの方がもう少し落ち着かれるとよろしい。三郷の地は遠い。奪い返したとてキリがない」
「じゃあ、このまま黙って見ていろと言うんですかい。そんなのはねえ――」
 残暑の生暖かい風が窓から不意に吹きつけたとき、信長は、湯帷子の袖をたなびかせながら、ゆっくり恒興たちの方を振り向いた。傾きかけた太陽が、信長の形姿を影に浸しながらもその輪郭だけを稲穂のような金色に縁どっていた。
「もう、手は打ってある」

――

 ちょうど前日のことである。
「末森、那古野の両軍とまともにぶつかっても勝ち目はありませんッ」
「では、どのようにしてぶつかれば勝ち目があるか申してみよ」
「ぶつかっては、駄目なのです」
 信盛は泪を滲ませながら声を張った。石橋を叩いて渡るようなこの男が、いつにも増して激情している。信長は、信勝方の領土横領の件を、恒興の口から伝え聞くよりも前に信盛からいち早く知らされていた。
「私がこの事実を知らせに参ったのは、そのようなあなたの早まった行動を止めるためです」
 諫言というよりは、嘆願だった。こめかみに一筋の汗が流れ、肩で息をしていた。
 信長は信盛の心境を看破したうえで、あえてはっきりと告げる。
「弟との決戦はもはや避けられんよ」
「それでは困るのですッ。私は清洲でも、末森でもなく、あなたのお父上が残された織田弾正忠家を守り通すことを忠義と心得ます。あなたと信勝さまとの間で戦が起こればどうなります。どちらもただでは済みませぬ。長い戦いとなりましょう。今川が、斎藤が、それをいつまでも指を加えて見てくれているとお思いですかッ」
 信勝の方では、誰も彼もが、『斎藤道三さえ居なくなれば、信長を締め上げることなど赤子の手を捻るも同然』と考えていた。ところが、信盛は違っている。赤塚の戦いの以後、織田信長という男の戦争の才だけは骨身に染みて知っていたからである。
――この兄弟間で一度開戦したなら、尾張の国内外を巻き込んだ大乱に発展してしまうかもしれない!――
 そう見越して、戦を起こすことそれ自体の無益を説きに清洲を訪れた。
 ところが、信長の自己評価は信盛の想定を超えてしまっている。
「オレは長い戦いにするつもりはない。ただ一度きりの戦争で、弟との因縁のすべてにケリをつけてやる。名塚なつかに砦を築き、奴らを決戦に引きずり出すのだ」
 名塚という地は、尾張を東西に二分して流れる於多井川とそこへ合流する支流との間に広がる大きな中州にある村である。行く行くは信勝が川岸にまで進出して来るに違いないと読んだうえでの先手であるが、しかし、先手を打つとは即ち自ら開戦の火ぶたを切ることを意味している。
「馬鹿なことをッ。それでは、信勝さまに攻める口実を与えるようなものです」
 砦とは敵に対峙させるものに決まっている。いくら信長と信勝の不仲が巷間に囁かれてはいようとも、事実上に戦争の事実はないのだから、もし彼の地に砦が構えられたとすれば、それは信長から信勝へ向けられる宣戦布告と同義となる。
「そうさ。オレから仕掛けた戦いだと誰もが見做すだろう。だからこそ、信勝の奴もこの期に及んで遠慮などはしないだろう。自ら全軍を率いて現れるはずだ。そこをこちらも全軍で打ち負かすのだ。どうだい、勝っても負けても、一度きりさ」
「絵に描いた餅も良いところです。決戦の無謀は言わずもがな、名塚に砦を築くなどもどだい無理な話ですはないですか。彼の地は那古野と目と鼻の先だ。あの林秀貞に真っ先に気取られ、攻められてしまいましょう」
「林勢が単独で出て来ることはあり得ない。オレは城を見物してきたが、奴らの軍勢は八〇〇を越えてはいない。それしきの兵では、オレに勝てるという保証はないナ。保証のない戦をするくらいなら、末森城の信勝本隊が出張ってくるのを待つはずだ。兄も弟もそういう奴らだ。お前もよく知っているはずだな」
「たとい林兄弟の動きがあなたの読み通りだったとしても、です。末森城から敵が駆け付ければ同じことではありませんか。砦の普請が間に合うかどうかはの保証など、何処にもないではないですか」
「ウルサイ奴だ。だからこそ、キサマに頼んでいるというのがわからんかね」
「そ、そんなものは他人にものを頼む態度ではありませんぞッ」
 信長、信盛の両者とも、息を弾ませ唾を飛ばし合う。信長とて、人を喰ったような態度は常の通りであるものの、まったくの平静ではない。周囲が悉く敵にまわり、追い詰められているのは紛うことなき事実なのだから。どれほど戦に対する自負があっても、多勢には無勢なのだ。一対一で敵を投げ飛ばして勝利を掻っ攫うことが出来る相撲と、戦争は違う。戦争の達人だった道三のあっけない死で、それは信長の身に染みている。
「間に合わなければ、どうするおつもりなのですッ?」
「そのときは、そのときだよ」
「馬鹿を申されますな。そのときとは、砦を預かる私が死ぬということではないですか」
「アア、そうだ。だから、頑張った方がいいんだぞ、キサマ」
 信長は投げやりに命じて、それ以上は、信盛から何を聞かれても知らんふりをした。名塚砦の築城を遂行することは、信長にとってすでに決定事項だったのである。そして、そのあまりにもあっけらかんとしたその態度が、信盛の悪意を刺激して新たな思惑を浮かび上がらせることになる。

『私はこれより織田信長の命により川西の名塚の地で築城にかかります。しかし、早まるなかれ、これは、そちらを敵と見立てた砦にあらず。言うも更なり信長の清洲城へと迫るための砦にござる。勝家殿は時期を見て信勝さまを奉じてご出陣なされるとよろしい。私は門を開いて、お二方を迎え入れましょう。
 サテ、名塚砦が信勝さまの手に落ちたとあれば、信長は、今度こそ降伏を申し出るに違いありません。お家の紛争が無血で解決された暁には、かつての守山城での我が非礼を詫び、誠に勝手なことではありますが、信勝さまの元へと帰参を申し出たいと思っております。その時、柴田殿にお口添えいただければこれに勝る喜びはありません』

 弘治二年(一五五六年)八月二十二日、名塚砦の築城に着工する傍ら、信盛はこう記した文を下社城の勝家に届けさせた。信盛から連絡を受けた勝家は、これをただちに末森城の信勝に知らせることはしなかった。まずは自らの信頼する家臣たちを数名、名塚まで走らせ、その築城の様子をしばし見分させたのであるが、その一瞬の心の緩みが仇となった。
「帰ったか! いかがだったか。信盛殿の申されることは誠か」
「名塚の砦は、川を挟んで西に築かれておりますッ。いけません、あれは清洲を攻めるための砦ではありません。佐久間殿の言は、すべて真っ赤な偽りでございます」
 百戦錬磨の猛将の勘をわずか鈍らせたのは、一重にただ一度の間違いを犯した友の命を救おうとする真心だった。かつて守山城での背反で信勝の逆鱗に触れた信盛がもし赦免される目があるとするなら、それはこの機会だけだと勝家は考えたのである。しかしながら、戦場において敵を打ち負かすこと以外の思惑に注意を向けることのすべてを、一つ残らず「隙」と言う。
 無論、信盛とて再び信勝へ寝返ることを逡巡しないほどに清廉潔白の人ではなかったが、それでも、彼は信長のための忠勤をついに務めあげてしまった。疑いを持ちながらも、あえて、信盛にすべての決断を委ねた信長の開き直った覚悟が、信盛を巻き込んだのである。事実、信盛は、名塚の地へと材木を運び込み、「さて仕事にかかろうか」というその瞬間まで、信長を滅ぼす砦を作ることが出来たのだから。
――まさか、信頼とは、猜疑よりもあくどい人心掌握ではあるまいか――
 信盛は考える。人はとかく何かを疑うことが知性の条件だと考えがちなのだ。信長とても、他者を、慣習を、世間を、常識をこれでもかというほどに疑ってきた。しかし、この男は、いつの間にかまた信頼することも体得していたようだった。綺麗ごとではなかった。信じられるに足る相手を信じるというのではないからだ。一見してとても信じられぬ相手、状況であろうとも、全身が信じ切ることにより、その覇気が相手の心を蹂躙してしまう。
 翌・二十三日は雨がしんしんと降り続けた。いつ勝家の軍勢が現れるか知れぬ恐怖のなか、信盛はからだに打ちつけては流れる汗だか雨だかを拭い、ここに織田信長の家臣である自分を誰に言うでもなく楽しんでいる。
 いわゆる「十九箇条の折檻状」なる不名誉の罪状で織田家を追放されるまでの二十四年間、以後、佐久間信盛は信長の信望並ぶ者のない譜代の重臣として、織田家の隆盛に大いに貢献することとなるのであった。
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