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第四章 蛟竜雲雨
十
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兵蔵は迷っていた。今すぐにでもここを飛び出して、信長のところへ駆けて行くべきかもしれない。しかし、今はさまざまな目的を秘めた上洛作戦のただ中である。事が重大なだけに、もし間違っていたときには「勘違いでした」では済まされない。根拠が童の言というだけでは心もとない。
――もう少し多くの人間から情報をとろう。それに、これは、信長さまにとっては危機かもしれないが、自分にとっては好機だ――
逡巡の末にそう決意し、刺客の一団の武士たちへ接近を試みた。
探るうちに暗殺計画の裏は取れたが、末端の者たちはどうにもそれ以上の仔細を知らされていない様子だった。どうやら一団の頭目には六人の侍たちがあり、込み入った話は彼らのみが把握しているようであった。
さて、明日には京へ入るだろうという日の夜更け、兵蔵は最期の機会と心得て頭目たちの寝所へ耳をそばだててみた。そして、ついにその話のわずか一端を盗み聴くことに成功する。
「公方さまの御了解を得たなら、後はどうにでもなるだろう。信長めを鉄砲で蜂の巣にしてくれるその時が楽しみよ」
聞けたのはこの一言だけ。相も変わらず詳しい話は分からない。
けれども、もはや信長暗殺の計画が確実なことは疑いようはない。もう、時間もなかった。
翌朝から兵蔵は先回りして京へ入り、刺客の一団が二条は薬師堂のほど近いところの宿へ入っていったのをしかと目に焼き付けた。後はもう、一路、信長の元へと合流を目指して走るばかりだった。信長一行が宿泊しているのは上京の裏築地の辺り。出立前に聞かされていたので探り当てることに時間はかからなかった。
「国もとから使いに参った者で、丹羽兵蔵と申します。火急の用件でありますので、金森様ないし蜂谷様にお目にかかりたい」
息せき切りながら門番に告げる。此度の上洛作戦において信長の寝所警護を務める金森長近・蜂屋頼隆の名前を挙げて、自分の素性に偽りがないことを証明した。やがて金森長近が現れたので、見聞きした一切を知らせようと尚も早口にまくしたてたが、
「待て。触りは分かった。それが本当なら私に話す時間さえ惜しかろう。上がれ」
長近は兵蔵の言葉に真実を感じ取り、直接に信長へ引き合わせた方が良いと判じた。
「なるほど。高政め。ゆっくりと京見物をさせてもくれないな。それにしても、『公方さまの御了解』とは何だろうね」
当の信長は兵蔵からの報せを受けても、特に動揺する様子も見せず、ただ、敵の計画を丹念に省察するばかりだった。
「ともかく、丹羽兵蔵、大義だった。奴らの宿は何処だか覚えているか」
「ハ。二条は薬師堂の付近にある宿屋にまとまって宿泊しています。その宿の門柱に脇差で目印を刻んで参りました。目印はちょうど膝の丈ぐらいの低いところにあり、このように屈んで手を触れたなら、闇夜でも決して間違えることはございません」
「弥五郎は良い配下を持ったな」
兵蔵の周到ぶりに信長は舌を巻いて満足した。
すると、それに発奮させられたのか、傍らの長近が口を開いた。
「兵蔵の話に挙がる一団の頭目と思しき者たちの名には、いくらか知った顔がありますよ。ここはすべてこの長近にお任せください。今から彼らのところへ赴き、様子を見て参りましょう」
長近は美濃国の生まれであった。幼くして美濃を追われやがて尾張で信長の親衛隊に抜擢されたが、『知った顔がある』などというのは嘘だ。彼が美濃に居たのはずっと幼いときの話である。けれども、もし、この騒動を無事に治めて見せたなら、信長の親衛隊の中でも頭一つ抜けることになるのは間違いない。長近はこれに命を賭す覚悟を固めたのである。そして、信長もまた、その覚悟を言外に承知していた。
「考えがあるようだな。いいだろう、好きにやってみろ」
明朝、長近は兵蔵と共に刺客らの宿を訪れた。
「後は俺の仕事だ。兵蔵、お前はしばらくここに隠れていなさい。もし、俺が辰の刻までに戻らなかったら、お前は走って戻り殿にその旨を伝えよ。そして、その時は、殿には一散に清洲へと帰っていただかなければならぬ。いいな」
兵蔵にそう言い渡し、単身、敵地へ乗り込んだ。
裏手の警護についている見張り番を捕まえ開口一番に言い放つ。
「『織田信長の遣いがきた』と中の者に伝えろ」
男はあんぐり口を開き、それから、血相を変えて中へ駆け込んで行った。長近は待たずにその後へ続きスタスタと奥へ進んだ。早暁のことで、まだ誰もが寝ぼけ眼であったのか、静かに落ち着いた足取りで侵入してきた長近を不審に思う者はまったく居らず、長近は、瞬く間に六人の頭目たちが寄り合っている奥間まで辿り着いてしまった。
「昨夜、あなた方が上洛したことは既に信長公の知るところです。もちろん、その目的も。いかがです、ここは一つ、今から私と共に信長公の元へ挨拶に参上しては?」
突然の来訪者に六人の頭目らは度肝を抜かれて目を覚ました。そして、表情はみるみる青ざめていった。
暗殺計画がその標的に露見してしまったとすれば、成功は既に絶望的だ。諦めの早い者などはもう刀の柄に手をかけていた。計画が破綻した腹いせに長近を殺すつもりか、もしくは、捕まえて拷問し信長の居所を吐かせようという腹なのか、いずれにせよ瀟洒な動きは既にままならない。
「サテ、俺を殺しますか。信長さまの宿所が知りたければ教えてやってもいいけれど、しかし、それだけであなた方は無事に事を成すことが果たしてできますかね。公方さまへの根回しはもう済んでいるのですか?」
役者のような堂々たる威嚇に刺客らは怯み、唾を飲んだ。『一体どこまでが信長に筒抜けなのだろう?』彼らは不安に包まれている。長近の仕掛けたカマは、刺客らが信長暗殺のために最も重大と考えていた一つの未達成の段取りを突いていたからだった。
――
「いいかね。これから話すことはお前たち六人だけの秘密としなければならない。ほかの者たちは寄せ集めだからな。すべてを秘密裡に運びなさい」
そう前置いて、高政は六人の頭目らに信長暗殺の段取りを語り聞かせた。
「此度の信長暗殺において、最も重要なことは大事件にしないことだよ」
高政が最も神経質に考えたのは、京に同居している二つの勢力の関係についてだった。
永禄二年(一五五九年)の京では、将軍・足利義輝と、本来はその臣下であるところの三好長慶が、表面上は手を取り合いながらも火種として燻っていた。長慶はかつて将軍の実権を侵し、あまつさえ京より追放し、長く都を実行支配してきた。ところが、前年にようやく義輝との和睦を結んだ。数年ぶりに都へ舞い戻った義輝は幕府機構の再建に腐心し始め、手始めに信長を含む各地の実力者へ上洛を要請したのである。
「信長を殺すには洛中でやるしかないが、何の考えもなしにそんな騒ぎを起こしてみろ。すぐに開闔やら奉公衆やらが飛び出して来てお前たちを捕えてしまうね。公方さまの上洛要請に従った織田信長を殺した私たちはどうなるかな、幕府に対する謀叛者の烙印を押されかねない。イヤ、それだけならまだ良い方かもしれないよ。我らは三好殿とすでに誼を通じている間柄だからね、この諍いが巡り巡って再び公方さまと三好殿の戦争に発展せぬとも限らない」
「それでは、我らはどのように動けば、――」
「ウン。まずは、何にも先駆け、公方さま、そして、三好殿に話を付けておくことが肝要だね。双方に顔の効く政所執事・伊勢貞考殿は知っていよう。彼の屋敷へ赴き、この書状を届けなさい。公方さまに対しては彼から言い繕ってもらう。たとえ、洛中で大規模な殺傷騒動が起ころうとも『すべてはただの酒の席の乱闘』だと、ね。公方さまの御了解は是が非で貰わなければいけないのだよ」
――
「な、何を申すかッ。確かに我らは美濃から参った。だが、貴殿の申すような無頼の輩ではない。主命により公方さまへの御挨拶に参った次第である。貴殿の申すところは、いかにも血気盛んな織田殿らしい邪推であろうが、まったく以て事実無根だ。用が済んだなら、早々に立ち去られよッ」
とうとう刺客らは適当に否認しながら長近を帰してしまった。ところが、これが長近を確信させる。
「連中はやはり未だ根回しが成っていないと見える。もし、すべての準備が整っていたなら、一人でやってきた私に殿の居場所を吐かせることもなく、みすみす帰すことはしないでしょうからね」
「よくやった。さすれば、奴らはすぐにでも動くだろうな。サテ、公方さまはいま細川殿の屋敷に居られる。ふふ。どれ、オレも奴らを少しからかってやろうか」
長近からの報告を聞いた信長は、翌日、側近たちを引き連れて小川通へ散策に出かけた。都を彩る繁華街だが、その突き当たるところが管領・細川晴元邸で、現在、義輝が仮住まいとしている屋敷である。もし、刺客らが将軍に話を付けに来るとすればこの近辺を通るはずだと、信長は途上に待ち構えた。すると、目論見通りに刺客らが現れた。初めに長近と兵蔵が気がついた。すると、刺客らの方でも目を合わせて信長一行に気がついて、「まずい」とばかりに踵を返したが、もう遅い。
「オイ。キサマらだな」
信長の大音声が何の予兆もなく一帯にこだました。雑踏はこの音声に切り裂かれた。誰もが注意を惹かれ、思わず口を閉じ、足を止めた。そして信長の方を向いた。
「オレを殺すために美濃からノコノコやってきたようだな。キサマら如き三下がオレの命を狙うなどとは笑い種だ。サア、その蟷螂の斧をここで突き立ててみるか。どうだ、織田上総介信長はこの通り逃げも隠れもしないぞ」
町民たちの視線は一拍置いて信長の悪罵の宛先、刺客ら一団に向けられた。早暁から伊勢貞孝との接触を滞りなく済ませ、まさに、義輝の居る細川邸へ向かうはずだった刺客らは、この奇襲に大いに狼狽えた。
「どうしたッ。治部大輔の軍兵の度胸はそんなものかい。将軍さまに官位を強請るだけの奸物が主君じゃそれも仕方ねェか。やるなら、やってみろッ」
刺客らは進退に窮して思わずその場から逃走した。およそ三十人あまりが一斉に逃げ出したものだから、まだ何の事件も起きていないにも関わらず大変な騒動となった。人伝に話が広まり「信長が小川通で美濃の刺客に暗殺されかけた」という噂になって町は持ち切りだった。すぐに義輝や長慶たちの耳に入ったことは言うまでもない。
半日もしないうちに開闔が多く派遣され、上京一帯は忽ち物々しい雰囲気となった。隅から隅まで役人やその息がかかった武辺者たちが目を光らせており、暗殺はおろか、口喧嘩さえすぐに取り締まられてしまうほど厳重な町に様変わりしてしまった。刺客らが付け入る隙はもう何処にもない。彼らは一から十まで後手に回ってしまったのである。
信長は暗殺の憂き目を逃れ、数日後、近江の守山まで降ると雨の降りしきる八風峠を一足に駆けて清洲へ帰還した。
「公方さまにお会いにならずに、本当によろしかったのですか。尾張守護、いただけたかもしれませんのに」
一益が信長に訊ねたが、信長は拘らなかった。
「イヤね、町で思わず高政のことを『官位を強請るだけの奸物』なんて罵ってしまったからさ。そんな奴が『尾張守護をくれ』なんて言いに来たら、お前、どう思うよ」
織田信長の名は堺に続き京でも評判となったが、この小川通での一見は貶す者と褒める者との二通りがあったという。前者曰く「一城の主のやることとしては軽挙妄動が過ぎる」というもの、さて後者が言うことには「若い殿さまなのだから、あれぐらいの気風がなければ乱世は生き抜けやしない」というものだった。
後に織田信長がその生涯を終えることになる京の都は、実にその二十余年も前からこの男を評して遊んでいたということのようである。
――もう少し多くの人間から情報をとろう。それに、これは、信長さまにとっては危機かもしれないが、自分にとっては好機だ――
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さて、明日には京へ入るだろうという日の夜更け、兵蔵は最期の機会と心得て頭目たちの寝所へ耳をそばだててみた。そして、ついにその話のわずか一端を盗み聴くことに成功する。
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聞けたのはこの一言だけ。相も変わらず詳しい話は分からない。
けれども、もはや信長暗殺の計画が確実なことは疑いようはない。もう、時間もなかった。
翌朝から兵蔵は先回りして京へ入り、刺客の一団が二条は薬師堂のほど近いところの宿へ入っていったのをしかと目に焼き付けた。後はもう、一路、信長の元へと合流を目指して走るばかりだった。信長一行が宿泊しているのは上京の裏築地の辺り。出立前に聞かされていたので探り当てることに時間はかからなかった。
「国もとから使いに参った者で、丹羽兵蔵と申します。火急の用件でありますので、金森様ないし蜂谷様にお目にかかりたい」
息せき切りながら門番に告げる。此度の上洛作戦において信長の寝所警護を務める金森長近・蜂屋頼隆の名前を挙げて、自分の素性に偽りがないことを証明した。やがて金森長近が現れたので、見聞きした一切を知らせようと尚も早口にまくしたてたが、
「待て。触りは分かった。それが本当なら私に話す時間さえ惜しかろう。上がれ」
長近は兵蔵の言葉に真実を感じ取り、直接に信長へ引き合わせた方が良いと判じた。
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「ともかく、丹羽兵蔵、大義だった。奴らの宿は何処だか覚えているか」
「ハ。二条は薬師堂の付近にある宿屋にまとまって宿泊しています。その宿の門柱に脇差で目印を刻んで参りました。目印はちょうど膝の丈ぐらいの低いところにあり、このように屈んで手を触れたなら、闇夜でも決して間違えることはございません」
「弥五郎は良い配下を持ったな」
兵蔵の周到ぶりに信長は舌を巻いて満足した。
すると、それに発奮させられたのか、傍らの長近が口を開いた。
「兵蔵の話に挙がる一団の頭目と思しき者たちの名には、いくらか知った顔がありますよ。ここはすべてこの長近にお任せください。今から彼らのところへ赴き、様子を見て参りましょう」
長近は美濃国の生まれであった。幼くして美濃を追われやがて尾張で信長の親衛隊に抜擢されたが、『知った顔がある』などというのは嘘だ。彼が美濃に居たのはずっと幼いときの話である。けれども、もし、この騒動を無事に治めて見せたなら、信長の親衛隊の中でも頭一つ抜けることになるのは間違いない。長近はこれに命を賭す覚悟を固めたのである。そして、信長もまた、その覚悟を言外に承知していた。
「考えがあるようだな。いいだろう、好きにやってみろ」
明朝、長近は兵蔵と共に刺客らの宿を訪れた。
「後は俺の仕事だ。兵蔵、お前はしばらくここに隠れていなさい。もし、俺が辰の刻までに戻らなかったら、お前は走って戻り殿にその旨を伝えよ。そして、その時は、殿には一散に清洲へと帰っていただかなければならぬ。いいな」
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「サテ、俺を殺しますか。信長さまの宿所が知りたければ教えてやってもいいけれど、しかし、それだけであなた方は無事に事を成すことが果たしてできますかね。公方さまへの根回しはもう済んでいるのですか?」
役者のような堂々たる威嚇に刺客らは怯み、唾を飲んだ。『一体どこまでが信長に筒抜けなのだろう?』彼らは不安に包まれている。長近の仕掛けたカマは、刺客らが信長暗殺のために最も重大と考えていた一つの未達成の段取りを突いていたからだった。
――
「いいかね。これから話すことはお前たち六人だけの秘密としなければならない。ほかの者たちは寄せ集めだからな。すべてを秘密裡に運びなさい」
そう前置いて、高政は六人の頭目らに信長暗殺の段取りを語り聞かせた。
「此度の信長暗殺において、最も重要なことは大事件にしないことだよ」
高政が最も神経質に考えたのは、京に同居している二つの勢力の関係についてだった。
永禄二年(一五五九年)の京では、将軍・足利義輝と、本来はその臣下であるところの三好長慶が、表面上は手を取り合いながらも火種として燻っていた。長慶はかつて将軍の実権を侵し、あまつさえ京より追放し、長く都を実行支配してきた。ところが、前年にようやく義輝との和睦を結んだ。数年ぶりに都へ舞い戻った義輝は幕府機構の再建に腐心し始め、手始めに信長を含む各地の実力者へ上洛を要請したのである。
「信長を殺すには洛中でやるしかないが、何の考えもなしにそんな騒ぎを起こしてみろ。すぐに開闔やら奉公衆やらが飛び出して来てお前たちを捕えてしまうね。公方さまの上洛要請に従った織田信長を殺した私たちはどうなるかな、幕府に対する謀叛者の烙印を押されかねない。イヤ、それだけならまだ良い方かもしれないよ。我らは三好殿とすでに誼を通じている間柄だからね、この諍いが巡り巡って再び公方さまと三好殿の戦争に発展せぬとも限らない」
「それでは、我らはどのように動けば、――」
「ウン。まずは、何にも先駆け、公方さま、そして、三好殿に話を付けておくことが肝要だね。双方に顔の効く政所執事・伊勢貞考殿は知っていよう。彼の屋敷へ赴き、この書状を届けなさい。公方さまに対しては彼から言い繕ってもらう。たとえ、洛中で大規模な殺傷騒動が起ころうとも『すべてはただの酒の席の乱闘』だと、ね。公方さまの御了解は是が非で貰わなければいけないのだよ」
――
「な、何を申すかッ。確かに我らは美濃から参った。だが、貴殿の申すような無頼の輩ではない。主命により公方さまへの御挨拶に参った次第である。貴殿の申すところは、いかにも血気盛んな織田殿らしい邪推であろうが、まったく以て事実無根だ。用が済んだなら、早々に立ち去られよッ」
とうとう刺客らは適当に否認しながら長近を帰してしまった。ところが、これが長近を確信させる。
「連中はやはり未だ根回しが成っていないと見える。もし、すべての準備が整っていたなら、一人でやってきた私に殿の居場所を吐かせることもなく、みすみす帰すことはしないでしょうからね」
「よくやった。さすれば、奴らはすぐにでも動くだろうな。サテ、公方さまはいま細川殿の屋敷に居られる。ふふ。どれ、オレも奴らを少しからかってやろうか」
長近からの報告を聞いた信長は、翌日、側近たちを引き連れて小川通へ散策に出かけた。都を彩る繁華街だが、その突き当たるところが管領・細川晴元邸で、現在、義輝が仮住まいとしている屋敷である。もし、刺客らが将軍に話を付けに来るとすればこの近辺を通るはずだと、信長は途上に待ち構えた。すると、目論見通りに刺客らが現れた。初めに長近と兵蔵が気がついた。すると、刺客らの方でも目を合わせて信長一行に気がついて、「まずい」とばかりに踵を返したが、もう遅い。
「オイ。キサマらだな」
信長の大音声が何の予兆もなく一帯にこだました。雑踏はこの音声に切り裂かれた。誰もが注意を惹かれ、思わず口を閉じ、足を止めた。そして信長の方を向いた。
「オレを殺すために美濃からノコノコやってきたようだな。キサマら如き三下がオレの命を狙うなどとは笑い種だ。サア、その蟷螂の斧をここで突き立ててみるか。どうだ、織田上総介信長はこの通り逃げも隠れもしないぞ」
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「どうしたッ。治部大輔の軍兵の度胸はそんなものかい。将軍さまに官位を強請るだけの奸物が主君じゃそれも仕方ねェか。やるなら、やってみろッ」
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半日もしないうちに開闔が多く派遣され、上京一帯は忽ち物々しい雰囲気となった。隅から隅まで役人やその息がかかった武辺者たちが目を光らせており、暗殺はおろか、口喧嘩さえすぐに取り締まられてしまうほど厳重な町に様変わりしてしまった。刺客らが付け入る隙はもう何処にもない。彼らは一から十まで後手に回ってしまったのである。
信長は暗殺の憂き目を逃れ、数日後、近江の守山まで降ると雨の降りしきる八風峠を一足に駆けて清洲へ帰還した。
「公方さまにお会いにならずに、本当によろしかったのですか。尾張守護、いただけたかもしれませんのに」
一益が信長に訊ねたが、信長は拘らなかった。
「イヤね、町で思わず高政のことを『官位を強請るだけの奸物』なんて罵ってしまったからさ。そんな奴が『尾張守護をくれ』なんて言いに来たら、お前、どう思うよ」
織田信長の名は堺に続き京でも評判となったが、この小川通での一見は貶す者と褒める者との二通りがあったという。前者曰く「一城の主のやることとしては軽挙妄動が過ぎる」というもの、さて後者が言うことには「若い殿さまなのだから、あれぐらいの気風がなければ乱世は生き抜けやしない」というものだった。
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