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第四章 蛟竜雲雨
二十二
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怒涛に降る豪雨の幕を、まるで一迅の太刀のように切り裂きながら信長は進んだ。迷わずに進むことができるのは備わっていた土地勘の所為でもあるが、何より、ただ一つの分かりやすい目印を目指したからだった。
沓掛の峠には、文字通り頭一つ抜けた巨大な楠がある。大の大人が二、三人と手を繋いでやっとその幹を囲めるかどうかというそれは、この日、雲で低くなった天へ架けられた梯子のように聳えていた。それ自体、自らの存在を厳として誇示するかのように、折り重なる風雨にその巨体を揺らしながら。桶狭間山はこの楠の峠道まで行かず、途上をを南に折れたところにあるのだ。
太子ヶ根と呼ばれるところまで来て、織田軍は制止した。嵐はいよいよ最高潮に達し、信長は「からだを冷やすな」「火薬を濡らすな」などと兵たちに細かく指示した。
その時である。沓掛峠の楠が、風雨に耐えかねたか、はたまた、落雷にでも打たれたか、ゆっくりと東へ向かって降り倒された。まるで、信長軍を案内することが自分の役目の終えたとでも言うようだった。さらに、驚いたことには、その倒れた方角というのが桶狭間山を示しているようにすら見える。
「熱田大明神の加護に違いない。我らは神軍だッ」
開口一番、唇を切りながら利家が叫んだ。「その通りだ」と一斉に奮い立った。あまりのことに、根拠薄弱な迷信を嫌う信長ですら数奇な偶然に季忠を想った。
桶狭間山へ登りかけたときには、嵐の勢いが収まりかけていた。もう迷うこともなかった。元より、軍勢の通れるような開けた道は多くなく、ぬかるんだ斜面を進むに至っておのずと道は限られていた。確実に、少しずつ、互いに手を貸し合いながら敵に迫った。山頂が近くなると鬱蒼とした木々が開けて空が見えた。二度と日の光が差し込まないかのように思われていたあの分厚い黒雲も、その遥か南は破れており、空の青が覗いていた。
――雨が、上がるな――
気付けば、雷も、風も、音はすでに止んでいた。
不意に、山頂から人の声が聞こえた。織田軍は皆それが敵であることを直覚し、示し合わせたように息を殺して、槍をギュッと握りしめた。声は、何やら宴会のようだが、節がある。謡っているのだ。
一歩一歩を踏みしめるように、織田軍は尾根の斜面に隠れながら敵にじりじりと接近する。声の方から鳥たちが一斉に羽ばたき、織田軍の頭上を飛び回った。雨がもう止んでいた。雲間から光が差して辺りを照らして行く。それを見た敵の足軽らは、木陰から次々に顔を出し「えらい嵐だった」「難儀な日だった」とか、もう、すべてが終わった気でいるらしい。「晴れた、晴れたぞ」と同輩を手招きし、やや広い台地のうえに談笑している。彼らの視線は、揃って爽快な天へと向けられている。泥水にまみれた地を見る者など皆無である。だから、気付かなかった。落ちくぼんだ山の斜面の影に、薄汚れた甲冑を身にまとった野犬の群れが牙を剥いていることに。
「火蓋を切れ――、撃て」
織田軍の鉄砲隊が一益の合図で斉射した。笑い合っていた者たちが全員ぱったりと倒れた。
再び鳥たちが一切に羽ばたいた。
「そら、かかれッ」
信長の命令一下、滞留する鉄砲の黒煙の中を可成率いる槍隊が駆けて行く。
今川軍は雨宿りに戦列を乱していた。中には槍を手放し小便をしている者まで居た。織田軍が雪崩れ込むと、彼らはまるで状況を飲み込めないままに次々と首を落とした。兵力ではまだわずかに今川が優勢のはずだが、そんなことはもう関係がなかった。彼らは悪戯に辺りをウロウロと逃げ惑うばかりで、組織だった抵抗が出来ていない。揉みくちゃになったら、まず、誰が敵で誰が味方か分からない。甲冑の背や腰には識別の印を付けているのだが、折からの嵐で汚れてしまってよく見えない。今川軍の兵たちは、とにかく、自分に斬りかかって来る者を相手取るより他になく、疑心暗鬼に陥った者はところ構わず槍を振るって同志討ちを頻発させた。
ところが、織田軍は違うらしい。何処を見ても、敵一人を相手に二人以上で組みかかっている。一人が火花を散らして敵と斬り結ぶうち、もう一人が側背から、胸を突く、羽交い絞めにする、首を打ち落とす。そうやって切り伏せたら「サ、次はアイツをやるぞ」と、仲間同士が阿吽の呼吸でさらなる敵に襲いかかる。倒した敵兵は置き晒しだ。
「分捕るな」と信長の厳命を受けているから、生きているか、死んでいるか、すら確認しない。動けなくなった敵兵なんか放っておいて差支えないのだ。そうして、首を獲らなくていいなら、何も一対一の勝負に拘る理由もない。とにかく時間をかけずに敵を無力化し、一刻も早く義元へ迫ることだけが、織田軍の目的のすべてだった。
総崩れで逃げ去る今川軍を見て、信長は叫ぶ。
「輿だッ。義元は輿に乗っているぞ。腰を探せッ」
信長自ら下馬して槍を振るう信長の姿に、織田軍はほとんど熱狂して突き進む。
よく通る信長の大音声は陣幕の奥の義元にも聞こえた。
「輿を打ち捨てよッ――」
義元は即座に状況を解した。塗輿は哀れにも桶狭間山の斜面から蹴落とされてゴロゴロ転がり、義元はそれを見届けることもなく馬に跳び乗り、逃走した。馬に揺られながら、義元は押し寄せる屈辱を何度もかみ殺す。今は悔恨している暇などは何処にもないはずだが、それでも考えずにはいられなかった。
『何だ、これは。何が起きている。一体、どうして、こうなった。直盛は破れたのか?』
噛みしめる唇から血が滲む。白粉の塗られた高貴な顔も、獣じみた武士の面構えに変わって行った。
本陣跡の近くの斜面を転がった塗輿は、中途で斜めに突き出た大木の幹に引っかかっていた。
降り注ぐ日の光に漆を煌々と輝かせたそれはすぐに可成に見つけられた。
「義元は輿を捨てて逃げたぞッ。探せ、決して逃がすなッ」
可成は十文字槍で陣幕を切り裂き、消えた義元一行を探して四方に散る。
信長は焦ってはいなかった。
桶狭間山が易々と降りられるような場所ではないということを、義元よりもよく知っていたからだ。
周囲の深田を堀の代替として正面から真っすぐに来る敵を迎え撃つにはあつらえ向きだが、一度懐に入られたなら逃亡に適さない最悪の陣地となり果てる。馬など使えたものではない。丘陵続きで、まず、どの方角へ進めば降りられるようになっているのか分からない。東海道へ出られないかと何となく南東へ行くが、どういうわけか、今度は上り坂になっていて、一向に降りられる気配がない。そのうえ、山頂を除けば、至るところに灌木が群生し見通しが効かない。苛立たし気に手で掻き分けながら進んだなら、そこへ唐突に広大な沼地や深田が広がっているといった按配なのだ。思い返して、ただ一つの確かな道筋は元きた道を戻ることだ。当然、そんなことは出来やしない。そのただ一つの確かな道から、信長軍がやってくるのだ。狭い斜面から馬は引っ切り無しに滑落し、義元とおよそ三〇〇の旗本たちは徒歩で道なき道を進むしかなかなくなり、織田軍に補足される。
「居たぞッ。あれが義元の旗本だッ。あれにかかれッ」
今川義元の首と聞いて織田の若武者たちは先を競って襲いかかった。
義元はいよいよ最後の望みにすべてを賭した。
「尾張の弱兵、何する者ぞッ。直に別働隊が彼奴らの背後を突くであろうッ。迎え討て、持ち堪えよッ――」
高根山に展開する直盛隊が急行し駆け付けたなら、織田軍の背後を取り、形勢はひっくり返るだろう。空が晴れてからのこの騒ぎに直盛が気がついていないということはあり得ない。
――それまでを持ち堪えてみせる。こんなところで、殺られてたまるものか――
義元は自ら左文字を抜いた。采配の如くに振り上げ、追いすがってくる織田勢に押し返さんと奮戦する。
一度目は優勢に打ち勝ち、隙を見てさらに南東へ逃げる。二度目に追いつかれたときは押し込まれながらも、上手く姿を晦ました。ところが、三度目、四度目となるともう続かなかった。血みどろになりながら怯むことなく襲ってくる鬼のような織田の武者を、今川の兵たちは恐怖し始めた。義元と共に漆山の山頂から眺めたあの丸根砦の佐久間盛重と同じ気狂いが次から次へと飛び掛かって来るのだから、堪らない。五度目には、ついに三〇〇居たはずの旗本は五十にまで人数を減らし、ついに義元自ら剣を振るわねばならぬほどに追い詰められた。
「オノレ。尾張の野犬風情がッ」
信長の奇襲を受けた時点で義元本隊は瓦解していた。逃亡を即断した義元はここまで何とか逃げ果せたが、逆を言えば、それ故に、三〇〇〇の兵隊をも同時に手放してしまった。義元の監視がなければ「命大事」と我先に逃亡する者もあったことだろう。結果、彼を懸命に守らんとするのは手塩にかけて育てた旗本三〇〇であり、元より命の覚悟を決めて突撃してきた二〇〇〇の兵とは量質ともに完全なる敗北を喫していたのだ。
「かかれッ、義元の息の根を止めよッ」
乱戦、乱戦、乱戦。義元も今は一介の兵となり、名も知らぬ織田の若武者と斬り結ばなければならない。後々に思い返すことがあったなら、この屈辱だけでも義元は憤死したことだろう。義元は、迫りくる敵兵の長槍をすんでのところで避け、退き際にその膝口を斬りつけた。
「織田の童がッ。今川を舐めでないわッ――」
そう息巻いた途端、背後から脇腹に槍を受けた。思わず佩刀を取り落としたところ、新手の兵がうえから馬乗りに抑えつけられる。首にグイと脇差を押し当てられるが、これにも義元は屈さなかった。まるでこの世の者とは思えぬ目付きで敵を睨み付けると、ヴヴヴと野犬の唸り声をあげ、その親指に食らいついて噛みちぎった。とろとろ流れ出る敵の血にまみれながら、どたばた暴れ回る。
なりふり構わぬ義元の反撃に苦悶させられるのは織田の若武者・名を毛利新介良勝と言ったが、古くから信長の小姓として仕え、誰より肝が据わっていた。
――指は痛いが、それは良い。ここで義元を逃してしまえば、その方が、この先も私はずっと痛い――
吹き出る冷汗を気力で押し留め、冷静さをしかと取り戻した。脇差の柄を振り下ろし、駄々っ子のように身をよじらんとする義元の顔面をガツンと殴りつけて昏倒させ、そのまま一挙に首を押し切った。
泥と血で判別の難しい首だったが、信長はそれをしかと義元と認めて「良し」と満足気に良勝の背をひっ叩いた。
直盛隊が高根山から取って帰して駆け付けたのはそれからほどなくした頃だった。
敵は六〇〇〇の大軍で、形勢不利と思われたが、信長は迷いなく正面から堂々と迎え討つ。
――ここで焦って退いては駄目だ――
戦場で一度敵と向かい合ったら、無事に退くことは容易ではない。義元を打ち破った戦の原則を、今度は自軍に重ね合わせる。兵数は遥かに劣っていたが負ける気はしなかった。信長には分かっていた。義元本隊を敗走した今川兵が直盛に「今川義元討死」の報を伝えること、そして、その瞬間に敵は一切の統率を失わざるを得ないことを。
「悉く討ち取れッ」
井伊直盛は不幸だったかもしれない。なまじ残っていた忠義心で桶狭間山まで駆けつけたが、織田軍と交戦した後に、最も悪いタイミングで義元討死の事実を知った。逃げようにもこの山に退路は少ない。敵が崩れたのを知った信長は、「銘々、好きに手柄を稼げ」と討ち捨ての命すら撤回した。威勢有り余る若武者たちの餌食となって、直盛は桶狭間にその命を散らしたのである。
義元の首を天に高らかと掲げ、織田軍は勝ち鬨を挙げた。
勝鬨に紛れ、信長は「見たか、見たか」と叫んだ。それは、一体、誰へ対する誇示だっただろう。天へ旅立った二人の父親たち、追腹を割いた老臣か、はたまた、自分の行く手に立ち塞がった親類縁者の数々か。さらには、これより戦国乱世に立ち塞がるであろう化物じみた同業者たちへの宣戦布告だったのかもしれない。
沸きに沸いた織田軍は、さらに、
「このまま大高へ攻めかけ、一挙に落としてしまいましょう」
「その次は鳴海でござる。尾張から今川を追い出してくれる」
「イヤ、それよりも、熱田の舟を並べる服部党を討たねばッ」
などと、各々が唾を飛ばしながら信長に進言した。
どれもがきっと不可能ではなかったことだろう。だが、信長はそのうちの一つしか聞き入れなかった。
それは、遅ればせながら泥だらけでひょっこり現れた恒興の言である。
「義元をもう討ったのだから、今日のところはこれに満足して帰りましょうや」
「アア。そうしよう」
来るときと同じかそれ以上の速さで来た道を駆け抜けた。
気付けば日が落ちかけていた。夕焼けは、漂う雲の輪郭を金色の稲妻のように染め上げ、清洲へ向かう信長軍の掲げた槍をきらめかせた。
――これは果たして夕焼けだろうか。それとも、朝焼けだろうか――
信長には判別が付かないような気がした。
あれほど倒したくて堪らなかった義元を討ち取った、今日の勝利の先に、信長はまだ何も見えていなかった。それでも『明日から何をすれば良いのか』なんて不安はなかった。何故なら、すでにこの瞬間から、新たな大きな流れが蠢き出す、そんな息吹を感じ取っていたからかもしれない。
――
義元が桶狭間に散った同時刻、熱田の港にも小さな戦勝が祝われていた。
「信長軍たあ出張らっとるんじゃないんか。ウソ言われたわ、ワシ」
服部友貞は熱田港から沖へ離れて、命からがら、吐き捨てるように呟いた。
義元の要請に応えて合力し、大高城への兵糧入れを成し遂げた後、服部党は熱田港の接収を企図した。織田軍が善照寺砦へ向かったのを見て、もぬけの殻となった中心地・熱田で略奪を働く算段だったのだ。
しかし、そのアテは大きく外れてしまう。
「火付けの輩がおる。焦らず、ぜんぶ捕まえい」
『港の人家から煙が上がったら、混乱に乗じて町へ押し入る』
友貞の手筈はまったく阻止されてしまう。手に手に武器を取った五〇〇の町人が自警団さながらに港を巡検していて、放火など働く隙がない。配置にしても、手際にしても、イヤに巧みで無駄がない。それもそのはずだろう、熱田の町民たちをを統率して采配を振るったのは、織田随一の猛将・柴田権六勝家なのだから。
織田軍が中島砦へ向かう折、信長は逃亡し始めた町民たちを斟酌した。
「オレが義元に負けたら、残してきた女房、子どもがいよいよ危ないってとこだろう。勝家。キサマ、付いて行って熱田を守ってやれ」
「何を申されるッ――ここまで来て、某のみ戦に加わらぬなどッ」
顔を真っ赤にして反発する勝家に信長は笑いながら、
「黙れ。稲生原でオレに盾突いたバツだ。今日は熱田を守ってくれ。そうしたなら、謀叛の件をチャラにしよう」
信長が言った「今日は」という言葉を勝家は信じた。この大将は死なない、とそう信じた。
町民たちは必死に戦った。信長の手駒となって無謀な戦に死ぬのは御免だが、自分の家族を守るために槍を取ることはやぶさかではない。それも、勝家のおかげで面白いように勝てるものだから、途中からは妙な勇気が湧いてきた。「アレは追わんでいい」と勝家が言う者さえ必死に追い立て町から追い出し、ついに、服部党は熱田の町に一切の手出しが出来ず終い、海上に並べた十数艘の舟は、何の戦闘も行うことなく、雲の子を散らしたようにてんでばらばらに荷之上へと帰還して行った。
「お侍さん、サアサ、お飲みくだせえ」
「アンタみてえな下っ端でも、こんなに強えのが居るってこたあ、織田信長さまはやっぱ強いのかね」
「下っ端――」
思えば一万余の軍勢に立ち向かう本隊をただ一人離れて町の面倒を見る役回り。下っ端だと思われても仕方はない。勝家は振舞われた酒を一口煽り、『オレに盾突いたバツだ』という信長の言葉に思わず笑った。
「アア、つよい。我らの殿様は、織田信長はつよい。いずれ天下を統べるかもしれぬぞ」
「アハハ。大袈裟なお侍さんだッ」
その時、鳴海方面から海沿いを駆けて来る織田軍の姿が見えた。
義元を討ち獲る大勝利の報せを聞き、熱田の町民たちはまるで掌を返して喜びあがった。「信長さまよ、わたしらも戦いましたよ」などと死闘の疲れも知らずに褒めそやしたが、信長は「そうか、そうか」なんて、いちいち芯から喜びながら、飲めないはずの酒もいくらか飲んだ。
――
一方は夕刻の大高城。松平元康の元に、一人の使者が来訪していた。少なくとも客人という扱いは受けていない様子で、周囲を元康の配下にぐるりと囲まれ、今にも斬り殺されてしまいそうな、ただならぬ雰囲気の中に座していた。
男は冷や汗をかきながらも、微笑を湛えて口を開いた。
「ずいぶんななさりようだ。私はあなたの伯父である水野信元さまの使者として参ったのだと、先刻申し上げたつもりですがね」
「これは伯父上という人間を考えればこその対応だ。織田に与しながら使者を送るとは、何事か。降伏の嘆願に参られたのか」
丸根砦の戦勝が未だ武士の魂を昂らせているのか、元康の口ぶりは辛辣だったが、これを受けて男は大笑いした。
「ハハハ。イヤイヤ、歯切れがいい。信元さまとは、似ているような似ていないような。知恵が回る、戦争は強い、何より、家臣にも、マア――慕われている。しかし、もう少し、物事を広く考えなくちゃアなりませんね。おっと、これは信元さまの伝言です。元康さまには『心して聞いてもらいたい』と、そう仰っておりました」
「こう見えて気の長い方ではない。回りくどい言い方をするな」
「失礼失礼。なにぶん、私が聞いても驚愕のお話でしたので、つい。しかし、肝の据わった元康殿には無用でしたな。それでは、ハッキリと申し上げましょう。本日、未の刻、今川義元が桶狭間山にて織田軍に討ち取られました」
松平家臣団は対して二通りに態度を現した。あまりの虚説、無礼極まる物言いに憤慨する者、もしくは、荒唐無稽が過ぎるあまりに吹き出してしまう者、の二通り。ところが、元康だけはにわかに緊張し、徐に立ち上がると、今度は、太刀を抜いて自ら使者に迫った。
「虚言であれば命はないぞ。もう少し、詳しくお話しいただきたい」
松平元康はこの後、織田の追手が来るのを警戒して夜半になってから大高城を脱出する。大樹寺を経て父祖伝来の地・岡崎城へ押し入り、これを奪い取って独立を果たす。一年の後には織田信長と同盟を結ぶが、清洲同盟と呼ばれるそれは、以後、信長が京・本能寺に果てるまで長く続くこととなる。
――
信長は日入りの前に清洲城へ辿り着いた。
帰蝶は帰ってきた信長を見たが、まるで戦の勝利などには触れなかった。
「ずいぶん汚い恰好だこと」
ただ帰ってきただけの信長を、いつものように迎えた。
「綺麗だったことがあったかね、オレが」
「そういえば、ないわね」
「そうだろう」
ほどなく女中たちが総出で餅やら湯漬けやらを給仕した。男たちは泥だらけのまま曲輪に転がり、それを次から次へと頬張った。
桶狭間から清洲へ至る帰途に、信長は、帰るということがこれほど楽しみな日はなかった。『家とは、睨み付けて蹴り付けてやるものであり、帰って来なくていいなら二度と帰ってきたくない』、そんなかつての信長だったが、この日は違っていた。珍しい武器や菓子を買ったり、義元のような大名をこの手に討ち獲ったり、堪能な芸を身に着けたり、いずれにしても、いの一番に気心の知れた者たちに自慢したい。それだけが、信長の楽しみのすべてだった。
――アア。オレは、「オレ」なんてものは、意外と何処にもいないのかもしれんな、きっと――
永禄三年(一五六〇年)桶狭間の戦いがここに終結する。駿府の大名・今川義元は、味方の籠る大高城救出を目的に駿府を出立し、一万余の大軍でこれを見事に成し遂げるも、撤退途上、織田信長の軍勢に襲撃され討死を遂げた。
義元を討った信長は、ところが、東国には興味を示さない。早々に三河の松平元康と和議を結び、その後は、ひたすら個人の関心事を追いかけた。領国拡大というような大それた野望も、すぐには思いつかなかった。「鉄砲がもっとたくさん欲しい」だとか「海のある港がもっと欲しい」だとか「城をあっちへ移そう」だとか、そんなことばかりを、帰蝶や恒興に語って聞かせた。それを可成や一益が窘めることもあった。
「公方さまからの文を見られたでしょうが。これからはもう遊びで済みませんぞ。もう少し、真面目にやったらどうです」
そう口を酸っぱくして言うのだが、その度に、信長は実に楽しそうに居直り、こう言うのだった。
「遊びさ、死ぬまでの。オレは遊びにはいつも真剣さ」
沓掛の峠には、文字通り頭一つ抜けた巨大な楠がある。大の大人が二、三人と手を繋いでやっとその幹を囲めるかどうかというそれは、この日、雲で低くなった天へ架けられた梯子のように聳えていた。それ自体、自らの存在を厳として誇示するかのように、折り重なる風雨にその巨体を揺らしながら。桶狭間山はこの楠の峠道まで行かず、途上をを南に折れたところにあるのだ。
太子ヶ根と呼ばれるところまで来て、織田軍は制止した。嵐はいよいよ最高潮に達し、信長は「からだを冷やすな」「火薬を濡らすな」などと兵たちに細かく指示した。
その時である。沓掛峠の楠が、風雨に耐えかねたか、はたまた、落雷にでも打たれたか、ゆっくりと東へ向かって降り倒された。まるで、信長軍を案内することが自分の役目の終えたとでも言うようだった。さらに、驚いたことには、その倒れた方角というのが桶狭間山を示しているようにすら見える。
「熱田大明神の加護に違いない。我らは神軍だッ」
開口一番、唇を切りながら利家が叫んだ。「その通りだ」と一斉に奮い立った。あまりのことに、根拠薄弱な迷信を嫌う信長ですら数奇な偶然に季忠を想った。
桶狭間山へ登りかけたときには、嵐の勢いが収まりかけていた。もう迷うこともなかった。元より、軍勢の通れるような開けた道は多くなく、ぬかるんだ斜面を進むに至っておのずと道は限られていた。確実に、少しずつ、互いに手を貸し合いながら敵に迫った。山頂が近くなると鬱蒼とした木々が開けて空が見えた。二度と日の光が差し込まないかのように思われていたあの分厚い黒雲も、その遥か南は破れており、空の青が覗いていた。
――雨が、上がるな――
気付けば、雷も、風も、音はすでに止んでいた。
不意に、山頂から人の声が聞こえた。織田軍は皆それが敵であることを直覚し、示し合わせたように息を殺して、槍をギュッと握りしめた。声は、何やら宴会のようだが、節がある。謡っているのだ。
一歩一歩を踏みしめるように、織田軍は尾根の斜面に隠れながら敵にじりじりと接近する。声の方から鳥たちが一斉に羽ばたき、織田軍の頭上を飛び回った。雨がもう止んでいた。雲間から光が差して辺りを照らして行く。それを見た敵の足軽らは、木陰から次々に顔を出し「えらい嵐だった」「難儀な日だった」とか、もう、すべてが終わった気でいるらしい。「晴れた、晴れたぞ」と同輩を手招きし、やや広い台地のうえに談笑している。彼らの視線は、揃って爽快な天へと向けられている。泥水にまみれた地を見る者など皆無である。だから、気付かなかった。落ちくぼんだ山の斜面の影に、薄汚れた甲冑を身にまとった野犬の群れが牙を剥いていることに。
「火蓋を切れ――、撃て」
織田軍の鉄砲隊が一益の合図で斉射した。笑い合っていた者たちが全員ぱったりと倒れた。
再び鳥たちが一切に羽ばたいた。
「そら、かかれッ」
信長の命令一下、滞留する鉄砲の黒煙の中を可成率いる槍隊が駆けて行く。
今川軍は雨宿りに戦列を乱していた。中には槍を手放し小便をしている者まで居た。織田軍が雪崩れ込むと、彼らはまるで状況を飲み込めないままに次々と首を落とした。兵力ではまだわずかに今川が優勢のはずだが、そんなことはもう関係がなかった。彼らは悪戯に辺りをウロウロと逃げ惑うばかりで、組織だった抵抗が出来ていない。揉みくちゃになったら、まず、誰が敵で誰が味方か分からない。甲冑の背や腰には識別の印を付けているのだが、折からの嵐で汚れてしまってよく見えない。今川軍の兵たちは、とにかく、自分に斬りかかって来る者を相手取るより他になく、疑心暗鬼に陥った者はところ構わず槍を振るって同志討ちを頻発させた。
ところが、織田軍は違うらしい。何処を見ても、敵一人を相手に二人以上で組みかかっている。一人が火花を散らして敵と斬り結ぶうち、もう一人が側背から、胸を突く、羽交い絞めにする、首を打ち落とす。そうやって切り伏せたら「サ、次はアイツをやるぞ」と、仲間同士が阿吽の呼吸でさらなる敵に襲いかかる。倒した敵兵は置き晒しだ。
「分捕るな」と信長の厳命を受けているから、生きているか、死んでいるか、すら確認しない。動けなくなった敵兵なんか放っておいて差支えないのだ。そうして、首を獲らなくていいなら、何も一対一の勝負に拘る理由もない。とにかく時間をかけずに敵を無力化し、一刻も早く義元へ迫ることだけが、織田軍の目的のすべてだった。
総崩れで逃げ去る今川軍を見て、信長は叫ぶ。
「輿だッ。義元は輿に乗っているぞ。腰を探せッ」
信長自ら下馬して槍を振るう信長の姿に、織田軍はほとんど熱狂して突き進む。
よく通る信長の大音声は陣幕の奥の義元にも聞こえた。
「輿を打ち捨てよッ――」
義元は即座に状況を解した。塗輿は哀れにも桶狭間山の斜面から蹴落とされてゴロゴロ転がり、義元はそれを見届けることもなく馬に跳び乗り、逃走した。馬に揺られながら、義元は押し寄せる屈辱を何度もかみ殺す。今は悔恨している暇などは何処にもないはずだが、それでも考えずにはいられなかった。
『何だ、これは。何が起きている。一体、どうして、こうなった。直盛は破れたのか?』
噛みしめる唇から血が滲む。白粉の塗られた高貴な顔も、獣じみた武士の面構えに変わって行った。
本陣跡の近くの斜面を転がった塗輿は、中途で斜めに突き出た大木の幹に引っかかっていた。
降り注ぐ日の光に漆を煌々と輝かせたそれはすぐに可成に見つけられた。
「義元は輿を捨てて逃げたぞッ。探せ、決して逃がすなッ」
可成は十文字槍で陣幕を切り裂き、消えた義元一行を探して四方に散る。
信長は焦ってはいなかった。
桶狭間山が易々と降りられるような場所ではないということを、義元よりもよく知っていたからだ。
周囲の深田を堀の代替として正面から真っすぐに来る敵を迎え撃つにはあつらえ向きだが、一度懐に入られたなら逃亡に適さない最悪の陣地となり果てる。馬など使えたものではない。丘陵続きで、まず、どの方角へ進めば降りられるようになっているのか分からない。東海道へ出られないかと何となく南東へ行くが、どういうわけか、今度は上り坂になっていて、一向に降りられる気配がない。そのうえ、山頂を除けば、至るところに灌木が群生し見通しが効かない。苛立たし気に手で掻き分けながら進んだなら、そこへ唐突に広大な沼地や深田が広がっているといった按配なのだ。思い返して、ただ一つの確かな道筋は元きた道を戻ることだ。当然、そんなことは出来やしない。そのただ一つの確かな道から、信長軍がやってくるのだ。狭い斜面から馬は引っ切り無しに滑落し、義元とおよそ三〇〇の旗本たちは徒歩で道なき道を進むしかなかなくなり、織田軍に補足される。
「居たぞッ。あれが義元の旗本だッ。あれにかかれッ」
今川義元の首と聞いて織田の若武者たちは先を競って襲いかかった。
義元はいよいよ最後の望みにすべてを賭した。
「尾張の弱兵、何する者ぞッ。直に別働隊が彼奴らの背後を突くであろうッ。迎え討て、持ち堪えよッ――」
高根山に展開する直盛隊が急行し駆け付けたなら、織田軍の背後を取り、形勢はひっくり返るだろう。空が晴れてからのこの騒ぎに直盛が気がついていないということはあり得ない。
――それまでを持ち堪えてみせる。こんなところで、殺られてたまるものか――
義元は自ら左文字を抜いた。采配の如くに振り上げ、追いすがってくる織田勢に押し返さんと奮戦する。
一度目は優勢に打ち勝ち、隙を見てさらに南東へ逃げる。二度目に追いつかれたときは押し込まれながらも、上手く姿を晦ました。ところが、三度目、四度目となるともう続かなかった。血みどろになりながら怯むことなく襲ってくる鬼のような織田の武者を、今川の兵たちは恐怖し始めた。義元と共に漆山の山頂から眺めたあの丸根砦の佐久間盛重と同じ気狂いが次から次へと飛び掛かって来るのだから、堪らない。五度目には、ついに三〇〇居たはずの旗本は五十にまで人数を減らし、ついに義元自ら剣を振るわねばならぬほどに追い詰められた。
「オノレ。尾張の野犬風情がッ」
信長の奇襲を受けた時点で義元本隊は瓦解していた。逃亡を即断した義元はここまで何とか逃げ果せたが、逆を言えば、それ故に、三〇〇〇の兵隊をも同時に手放してしまった。義元の監視がなければ「命大事」と我先に逃亡する者もあったことだろう。結果、彼を懸命に守らんとするのは手塩にかけて育てた旗本三〇〇であり、元より命の覚悟を決めて突撃してきた二〇〇〇の兵とは量質ともに完全なる敗北を喫していたのだ。
「かかれッ、義元の息の根を止めよッ」
乱戦、乱戦、乱戦。義元も今は一介の兵となり、名も知らぬ織田の若武者と斬り結ばなければならない。後々に思い返すことがあったなら、この屈辱だけでも義元は憤死したことだろう。義元は、迫りくる敵兵の長槍をすんでのところで避け、退き際にその膝口を斬りつけた。
「織田の童がッ。今川を舐めでないわッ――」
そう息巻いた途端、背後から脇腹に槍を受けた。思わず佩刀を取り落としたところ、新手の兵がうえから馬乗りに抑えつけられる。首にグイと脇差を押し当てられるが、これにも義元は屈さなかった。まるでこの世の者とは思えぬ目付きで敵を睨み付けると、ヴヴヴと野犬の唸り声をあげ、その親指に食らいついて噛みちぎった。とろとろ流れ出る敵の血にまみれながら、どたばた暴れ回る。
なりふり構わぬ義元の反撃に苦悶させられるのは織田の若武者・名を毛利新介良勝と言ったが、古くから信長の小姓として仕え、誰より肝が据わっていた。
――指は痛いが、それは良い。ここで義元を逃してしまえば、その方が、この先も私はずっと痛い――
吹き出る冷汗を気力で押し留め、冷静さをしかと取り戻した。脇差の柄を振り下ろし、駄々っ子のように身をよじらんとする義元の顔面をガツンと殴りつけて昏倒させ、そのまま一挙に首を押し切った。
泥と血で判別の難しい首だったが、信長はそれをしかと義元と認めて「良し」と満足気に良勝の背をひっ叩いた。
直盛隊が高根山から取って帰して駆け付けたのはそれからほどなくした頃だった。
敵は六〇〇〇の大軍で、形勢不利と思われたが、信長は迷いなく正面から堂々と迎え討つ。
――ここで焦って退いては駄目だ――
戦場で一度敵と向かい合ったら、無事に退くことは容易ではない。義元を打ち破った戦の原則を、今度は自軍に重ね合わせる。兵数は遥かに劣っていたが負ける気はしなかった。信長には分かっていた。義元本隊を敗走した今川兵が直盛に「今川義元討死」の報を伝えること、そして、その瞬間に敵は一切の統率を失わざるを得ないことを。
「悉く討ち取れッ」
井伊直盛は不幸だったかもしれない。なまじ残っていた忠義心で桶狭間山まで駆けつけたが、織田軍と交戦した後に、最も悪いタイミングで義元討死の事実を知った。逃げようにもこの山に退路は少ない。敵が崩れたのを知った信長は、「銘々、好きに手柄を稼げ」と討ち捨ての命すら撤回した。威勢有り余る若武者たちの餌食となって、直盛は桶狭間にその命を散らしたのである。
義元の首を天に高らかと掲げ、織田軍は勝ち鬨を挙げた。
勝鬨に紛れ、信長は「見たか、見たか」と叫んだ。それは、一体、誰へ対する誇示だっただろう。天へ旅立った二人の父親たち、追腹を割いた老臣か、はたまた、自分の行く手に立ち塞がった親類縁者の数々か。さらには、これより戦国乱世に立ち塞がるであろう化物じみた同業者たちへの宣戦布告だったのかもしれない。
沸きに沸いた織田軍は、さらに、
「このまま大高へ攻めかけ、一挙に落としてしまいましょう」
「その次は鳴海でござる。尾張から今川を追い出してくれる」
「イヤ、それよりも、熱田の舟を並べる服部党を討たねばッ」
などと、各々が唾を飛ばしながら信長に進言した。
どれもがきっと不可能ではなかったことだろう。だが、信長はそのうちの一つしか聞き入れなかった。
それは、遅ればせながら泥だらけでひょっこり現れた恒興の言である。
「義元をもう討ったのだから、今日のところはこれに満足して帰りましょうや」
「アア。そうしよう」
来るときと同じかそれ以上の速さで来た道を駆け抜けた。
気付けば日が落ちかけていた。夕焼けは、漂う雲の輪郭を金色の稲妻のように染め上げ、清洲へ向かう信長軍の掲げた槍をきらめかせた。
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信長には判別が付かないような気がした。
あれほど倒したくて堪らなかった義元を討ち取った、今日の勝利の先に、信長はまだ何も見えていなかった。それでも『明日から何をすれば良いのか』なんて不安はなかった。何故なら、すでにこの瞬間から、新たな大きな流れが蠢き出す、そんな息吹を感じ取っていたからかもしれない。
――
義元が桶狭間に散った同時刻、熱田の港にも小さな戦勝が祝われていた。
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服部友貞は熱田港から沖へ離れて、命からがら、吐き捨てるように呟いた。
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「オレが義元に負けたら、残してきた女房、子どもがいよいよ危ないってとこだろう。勝家。キサマ、付いて行って熱田を守ってやれ」
「何を申されるッ――ここまで来て、某のみ戦に加わらぬなどッ」
顔を真っ赤にして反発する勝家に信長は笑いながら、
「黙れ。稲生原でオレに盾突いたバツだ。今日は熱田を守ってくれ。そうしたなら、謀叛の件をチャラにしよう」
信長が言った「今日は」という言葉を勝家は信じた。この大将は死なない、とそう信じた。
町民たちは必死に戦った。信長の手駒となって無謀な戦に死ぬのは御免だが、自分の家族を守るために槍を取ることはやぶさかではない。それも、勝家のおかげで面白いように勝てるものだから、途中からは妙な勇気が湧いてきた。「アレは追わんでいい」と勝家が言う者さえ必死に追い立て町から追い出し、ついに、服部党は熱田の町に一切の手出しが出来ず終い、海上に並べた十数艘の舟は、何の戦闘も行うことなく、雲の子を散らしたようにてんでばらばらに荷之上へと帰還して行った。
「お侍さん、サアサ、お飲みくだせえ」
「アンタみてえな下っ端でも、こんなに強えのが居るってこたあ、織田信長さまはやっぱ強いのかね」
「下っ端――」
思えば一万余の軍勢に立ち向かう本隊をただ一人離れて町の面倒を見る役回り。下っ端だと思われても仕方はない。勝家は振舞われた酒を一口煽り、『オレに盾突いたバツだ』という信長の言葉に思わず笑った。
「アア、つよい。我らの殿様は、織田信長はつよい。いずれ天下を統べるかもしれぬぞ」
「アハハ。大袈裟なお侍さんだッ」
その時、鳴海方面から海沿いを駆けて来る織田軍の姿が見えた。
義元を討ち獲る大勝利の報せを聞き、熱田の町民たちはまるで掌を返して喜びあがった。「信長さまよ、わたしらも戦いましたよ」などと死闘の疲れも知らずに褒めそやしたが、信長は「そうか、そうか」なんて、いちいち芯から喜びながら、飲めないはずの酒もいくらか飲んだ。
――
一方は夕刻の大高城。松平元康の元に、一人の使者が来訪していた。少なくとも客人という扱いは受けていない様子で、周囲を元康の配下にぐるりと囲まれ、今にも斬り殺されてしまいそうな、ただならぬ雰囲気の中に座していた。
男は冷や汗をかきながらも、微笑を湛えて口を開いた。
「ずいぶんななさりようだ。私はあなたの伯父である水野信元さまの使者として参ったのだと、先刻申し上げたつもりですがね」
「これは伯父上という人間を考えればこその対応だ。織田に与しながら使者を送るとは、何事か。降伏の嘆願に参られたのか」
丸根砦の戦勝が未だ武士の魂を昂らせているのか、元康の口ぶりは辛辣だったが、これを受けて男は大笑いした。
「ハハハ。イヤイヤ、歯切れがいい。信元さまとは、似ているような似ていないような。知恵が回る、戦争は強い、何より、家臣にも、マア――慕われている。しかし、もう少し、物事を広く考えなくちゃアなりませんね。おっと、これは信元さまの伝言です。元康さまには『心して聞いてもらいたい』と、そう仰っておりました」
「こう見えて気の長い方ではない。回りくどい言い方をするな」
「失礼失礼。なにぶん、私が聞いても驚愕のお話でしたので、つい。しかし、肝の据わった元康殿には無用でしたな。それでは、ハッキリと申し上げましょう。本日、未の刻、今川義元が桶狭間山にて織田軍に討ち取られました」
松平家臣団は対して二通りに態度を現した。あまりの虚説、無礼極まる物言いに憤慨する者、もしくは、荒唐無稽が過ぎるあまりに吹き出してしまう者、の二通り。ところが、元康だけはにわかに緊張し、徐に立ち上がると、今度は、太刀を抜いて自ら使者に迫った。
「虚言であれば命はないぞ。もう少し、詳しくお話しいただきたい」
松平元康はこの後、織田の追手が来るのを警戒して夜半になってから大高城を脱出する。大樹寺を経て父祖伝来の地・岡崎城へ押し入り、これを奪い取って独立を果たす。一年の後には織田信長と同盟を結ぶが、清洲同盟と呼ばれるそれは、以後、信長が京・本能寺に果てるまで長く続くこととなる。
――
信長は日入りの前に清洲城へ辿り着いた。
帰蝶は帰ってきた信長を見たが、まるで戦の勝利などには触れなかった。
「ずいぶん汚い恰好だこと」
ただ帰ってきただけの信長を、いつものように迎えた。
「綺麗だったことがあったかね、オレが」
「そういえば、ないわね」
「そうだろう」
ほどなく女中たちが総出で餅やら湯漬けやらを給仕した。男たちは泥だらけのまま曲輪に転がり、それを次から次へと頬張った。
桶狭間から清洲へ至る帰途に、信長は、帰るということがこれほど楽しみな日はなかった。『家とは、睨み付けて蹴り付けてやるものであり、帰って来なくていいなら二度と帰ってきたくない』、そんなかつての信長だったが、この日は違っていた。珍しい武器や菓子を買ったり、義元のような大名をこの手に討ち獲ったり、堪能な芸を身に着けたり、いずれにしても、いの一番に気心の知れた者たちに自慢したい。それだけが、信長の楽しみのすべてだった。
――アア。オレは、「オレ」なんてものは、意外と何処にもいないのかもしれんな、きっと――
永禄三年(一五六〇年)桶狭間の戦いがここに終結する。駿府の大名・今川義元は、味方の籠る大高城救出を目的に駿府を出立し、一万余の大軍でこれを見事に成し遂げるも、撤退途上、織田信長の軍勢に襲撃され討死を遂げた。
義元を討った信長は、ところが、東国には興味を示さない。早々に三河の松平元康と和議を結び、その後は、ひたすら個人の関心事を追いかけた。領国拡大というような大それた野望も、すぐには思いつかなかった。「鉄砲がもっとたくさん欲しい」だとか「海のある港がもっと欲しい」だとか「城をあっちへ移そう」だとか、そんなことばかりを、帰蝶や恒興に語って聞かせた。それを可成や一益が窘めることもあった。
「公方さまからの文を見られたでしょうが。これからはもう遊びで済みませんぞ。もう少し、真面目にやったらどうです」
そう口を酸っぱくして言うのだが、その度に、信長は実に楽しそうに居直り、こう言うのだった。
「遊びさ、死ぬまでの。オレは遊びにはいつも真剣さ」
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