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第二十九章 巣立ち
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トン、トン、トン、トン――。
春の強風が時おり砂埃を舞い上げる中、町角に金槌の音が響きます。
行き交う人の反応はまちまち。何事かと足を止めて覗き込む人もいれば、興味なさげに通り過ぎる人もいます。
「何だー? 兄ちゃん、何やってんだー?」
「ああ、いや、この掲示板を直してるだけさ。」
「頼まれたのかい?」
「いや。」
「ほう、それは感心だなあ。こんな風の中、ご苦労なこって。頑張ってな。」
「ああ!」
町角に、誰かが備え付けた掲示板。最近いよいよ流行ってきた「公共読物」を掲示するためのものです。その傷んだ部分を、先ほどからヒロが修復しているのです。隣には、ケイが立っています。
「ねえ、ヒロ兄、せっかくだからもうちょっと大きくしたら?」
「へ? 今さらそんなこと言う?」
「だって、今思いついたんだもの。」
「仕方がねえな。やってやるか。」
「お、ヒロ兄、さすが、やるじゃん!」
「ちぇっ、おだてるのがうまいんだからな、お前は。」
「へへ。」
「大きくするんなら、もうちょっと木材がいるじゃねえか。」
二人は仲良く並んでどこかへ歩いていきました。木材を調達するためでしょう。
今でこそ仲睦まじくしていますが、この二人、最初のうちは大変だったのです。何しろ、ケイにとっては、自分に刃物を突き付けてきた相手ですから――実際には刃物ではありませんでしたが。
ヒロがワクとケイの旅に同行するようになってから、およそ三年が経ちました。ケイは十八。ヒロは二十三。そしてワクは、五十七歳になりました。頭髪にも白いものがかなり混じるようになりました。
最初の頃、ケイはヒロのことをやはり恐れていました。ワクはヒロのことを、悪い奴ではないと言います。おじちゃんが言うのだからきっとその通りなのだろうとは思いながら、やはり、顔を見ると、あの晩の恐怖が脳裏に甦ります。ワクが救ってくれなくても、ヒロはきっとケイに怪我を負わせたりしなかったでしょう。が、単純に、あの時に感じた恐怖の感覚を身体が覚えていて、ヒロの姿を見ることが、それを呼び起こす引き金になるのでした。ですから、意識の上では決してヒロを嫌っているわけではないのに、恐怖感はなかなか消えませんでした。
が、それも、ヒロの性質をよく知るにつれ、薄れていきました。今では、良い兄貴のような存在です。ヒロも、弟を持ったことがないため、珍しいのか、ケイをとても可愛く思っているようでした。ワクは、結婚もしていないのに、息子が二人もいるような気分です。時には一人旅の方が気楽だな、とか、息子二人とはむさ苦しいな、などと思いながらも、やはり二人に対しては愛情を感じていました。
そのヒロには、弟はいませんが、兄はいたようです。
ある日――ヒロがワクたちの一行に加わった、あの町の隣町でのことです――。
その町の特産品を扱った店で品物を物色しているヒロに、後ろから一人の若い男が近づいて来ました。
「おお、お前!」
ビクッとして振り返るヒロ。
「お前、シゴロク! 久しぶりだなぁ。こんなところで会うなんて。」
「え。」
一緒にいたワクとケイは、思わず顔を見合わせました。
シゴロク…って?
「え、ああ、あの、人違いじゃねえのかい?」
「何言ってんだ、お前、シゴロクじゃねえかよ。元気か? 何年ぶりかな?」
「いや、あの、その…。」
情けない顔つきでワクの方を見るヒロ。ワクは初め、他人の空似だろうか、と思いました。
男はしばらくの間、ヒロと、共通の知り合いの噂話などをして、去っていきました。
「じゃあな、ロク! また会えるといいな!」
「お、おう!」
男が去った後、ワクとケイにじっと見つめられたヒロは、長身の体躯を縮め、情けない表情で下を向きました。その時には、ワクにはだいたいの察しがついていました。ニヤニヤして、
「何だ? あいつは昔馴染みなのかい、シゴロク?」
顔を真っ赤にするヒロ。
店内の一角、喫茶場に落ち着いて、三人で話します。
「お前、本名はシゴロク…っていうんだな。珍しい名前だな。」
ヒロは泣きそうな顔で、
「すんません。ヒロってのは、自分で考えた芸名っす。」
「芸名…。」
「兄貴の名前はヒフミと言うんだ。一、二、三、という意味で。」
「お兄さんがいたのか。」
「ああ。でも、十六だか十七だかの頃に、家出しちまった。」
「今は?」
「知らねえ。どこにいるのかも、生きているのかも知らねえ。」
「…そうか。」
「親は、俺たち子どもに、適当に名前をつけたんだ。きっとめんどくさかったんだろう。兄貴が一、二、三だから、俺は四、五、六なんだ。で、シゴロク。ヒフミはまだましだが、シゴロクはひどいだろう。そんな名前、聞いたことがねえ。」
冗談のような話ですが、ヒロは真剣な様子です。どうやら本当のようです。
「じゃ、もし、もう一人生まれてたら?」
ケイが口を挟みました。ヒロはケイを軽く睨んでから、
「き、きっと、七、八、九だ。」
「何て読むの?」
「ええと、シチハチ…ナッパ? …知るかよ!」
「こら、ケイ。話を茶化すんじゃない。」
人の名付け方にとやかく言うのもどうかとは思いますが、それでもさすがに、シゴロクはいかがなものかと、ワクは思いました。
「それで、自分で別の名前をつけたのか?」
「ああ。最近だけどな。聞いたことのある名前で一番かっこいいと思ったやつを名乗ることにしたんだ。」
「そうか…。」
ワクは、ヒロが不憫でした。そんなところからも、実の親の愛情不足を感じていたのでしょう。ワクは、本名を知った後も、彼のことをヒロと呼び続けることにしました。
そのシゴロク改めヒロは、日ごとに、ワクとケイと一緒の旅に馴染んでいきました。故郷の町を後にすることには、まったく未練がないようでした。本人曰く、「何ひとついいことがなかった町」だからです。
男ばかり三人ですが、ケイはまだ大人と同等の体格には至らず、ワクは年齢による体力の衰えを感じ始めたところでしたので、背が高く体格の良いヒロは、力仕事の面でも重宝されました。が、ヒロの長所はもちろんそれだけではありませんでした。彼は、黙っていればかなりの男前なのですが、口を開くと冗談ばかりの剽軽者でした。調子の良いときには、その発言の半分くらいは冗談でした。
「お、木のワクが落ちてるぞ。ヒロっておケイ!」
などと言う、何とも言えない駄洒落を連発したかと思うと、突然身体をくねらせて踊り出したりするのでした。ワクは「メチャクチャ踊り」の踊り手の称号を、ヒロに正式に譲ろうかと思ったほどでした。
彼の口癖は、
「まあいいか。」
でした。もっとも、本人に言わせれば、これは、ワクに拾われた後に定着した口癖であり、それ以前は、まあいいか、などと言えるような状況じゃなかったんだよ、とのことですが。彼は、良くも悪くも、物事を複雑に考えないのでした。が、考え過ぎず、感じたままに行動すること、時には、まあいいか、ですべてを許容すること。これらは生きていく上でのとても大事な心の姿勢だ、とワクは思います。その意味で、彼は天性の高度な生きる技術を持っていることになります。
そしてもう一つ、彼が持っていると思われる天性の才能がありました。それは、手先の器用さです。
ヒロは、ワクが自分たちの草履を自分で作っているのに興味を持ち、自分も見よう見真似で作ってみました。結果は、ワクを唸らせるほどの出来栄えでした。とても生まれて初めて作ったとは思えません。その時からワクは、ヒロが将来、手先の器用さを活かした仕事をして生きて行く道を見つけられないかと考えるようになりました。
手先が器用といえば、ヒロは別の意味でも、手先が器用でした。いえ、手癖が悪い、と言うべきでしょうか。生まれてからこれまでの環境のせいで、時にはそうせざるを得ない部分もあったのでしょう、彼は店でちょっと気に入ったものを見つけると、こっそり懐に入れる癖がありました。ワクはそれを見咎め、繰り返し説教しました。
「いいか、よく聞け。人が生きていくためにどうしても必要なものは、何だと思う? 喧嘩に勝つ強さなんかじゃないぞ。」
「?」
「信頼だ。人から信用されること。そのためには、誠実に生きることと、人のために動くことだ。分かるか?」
ヒロは初めのうち、ピンと来ない様子でしたが、何度も言われるうちに、少しずつ心得るようになってきました。
「ははは、分かっているよ、オジキ! 信頼って言いたいんだろ? シンライ、シンライ!」
――少なくとも言葉の上では。
「それともう一つ。人に対する感謝は、はっきりと言い表せ。つまり、簡単なことだ。ありがとう、ときちんと言えるようになれ。」
「うん。」
最初は、言われた言葉をそのまま飲み込んでいるだけの様子だったヒロですが、ワクをオジキと慕い、ワクと行動を共にするうちに、ワクの言わんとすることが、少しずつ体で分かってきたようでした。
さて、ヒロとケイが町角の掲示板の修復に行っている頃。ワクは、同じ町の、別の場所にいました。
この町にある唯一の工芸品屋。いえ、工芸品屋と呼ぶには、その扱う品物の幅は広く、箪笥や椅子などの家具も含まれていました。ただ、それらは実用一点張りのものではなく、どれも巧妙な彫刻や装飾を施した逸品でした。
ワクはヒロのことを考えて、この店を覗きに来たのです。
旅の道中、草履を見事に作ったことは先にも触れましたが、それ以外にもヒロはその方面の才能を発揮することがしばしばありました。中でも、大工仕事に関しては、ワクについて初めて大工仕事の手伝いに出たときから、その天賦の才を発揮しました。仕事は主に家の新築や改修でしたが、それらを、十年の経験者のように精緻にこなしました。のみならず、木工仕事に興味を持った彼は、森から拾ってきた木片を使って、リスやフクロウなどの森の生き物の彫刻を、誰に教わるでもなしに、見事に作るようになりました。そして、彫刻を作っているときの目をキラキラと輝かせたヒロは、あの出会いの晩の翌朝に、どうしようもない孤独感を身にまとい、虚ろな目をしていた彼とはまるで別人でした。ケイがヒロの作品に目を見開いて驚き喜んだのはもちろんですが、ワクも、
(こいつは、どこぞの名高い彫刻家かなんかの生まれ変わりに違いねえぞ。)
などと思うのでした。
そこで、この町に大きな工芸品屋があるのを見つけたワクは、今こうして、ヒロの作品をいくつか持参して、ヒロに出来る仕事が何かないか、いや、ヒロにその方面の何かを学ぶ機会を与えられないか、相談に来たのでした。
「ううん、これは…。」
工芸品屋の主は、もう七十に手が届こうかというような、白髪の、丸眼鏡をかけたお爺さんでした。その、まあるい物腰は、顔は全く似ていないものの、ワクに、懐かしいオジジを思い出させるものがありました。
(オジジ…。もしまだ生きていれば、九十歳くらいかな。キウエモンさんくらいだ。さすがに、ないだろうな。俺も歳を取ったわけだ。)
「大したもんですぞな、これは! まだ少し粗削りな部分はあるが、並々ならぬ才能を感じますぞ。」
主の、歳に似合わぬ大きな声に、ワクは我に返ります。
「ほ、本当ですかい?」
「この道五十年の、このわしが言うのじゃから、間違いないですぞな。」
「ありがとうございます!」
ワクは深々と頭を下げ、
「これらを作った男は、俺の息子みたいな奴なんだが…どうにかして、こっちの道で身を立てる方便はないかと思って。もちろん、最初は見習いでもいいんだ。」
「うん、そうじゃな。」
主は、我が意を得たりといった様子で、手で膝を二度叩き、
「この店へ家具を入れている職人が――もう六十半ばじゃが――つい先ごろ、もうさすがに跡取りのことを考えんといかんなあ、と言っておったぞな。独り身じゃから、子供もおらんのじゃ。」
「ほう!」
「今日び、若い衆で、家具職人になりたがるものも、そうそうおらんでな。まあ、若くなきゃいかん、ということもないがの。…ときに、お前さんの息子さんは、何歳ですかの?」
「二十三。」
「そう、それは若いの。いっぺん連れてきておくんなせ。わしも、ソウキチを呼んでおくでな。会わせてみよか。」
その職人さんは、ソウキチさんというらしいです。ワクは二つ返事で、三日後にここへヒロを連れてくる約束をして、店を辞しました。
その頃。
ケイとヒロは、町外れの林へ向かって歩いていました。ヒロの手にはノコギリ。木材を調達するのです。
と、花屋の前を通りかかったとき、ヒロの足が止まりました。ぼうっと立ちすくんでいます。
(あ。そうだった…。)
昨日ここを通った時にも、ヒロはぼうっと口を開けて立ち止まりました。その時、ケイが花屋の方を見やると、そこには若い娘の店員がいたのです。
(え? 何? 一目惚れってやつ? ヒロ兄ったら、分かりやす過ぎる! ていうか、単純! ていうか、一目惚れって、本当にあるんだ。)
そう思ったのを思い出したのです。
そのケイの父親もその昔、ケイの母親に対して一目惚れをしたことなど、ケイは聞かされておらず、知りませんから。
「あ、ヒロ兄、たしか、おじちゃんが、家に花を飾りたいって言ってたね。」
「?」
ヒロはポカンとした顔でケイを見ます。
「ほら、男ばかりの家だから華やかさがないなあ、花でも飾るか、って言ってたじゃん!」
「あ?」
「とにかく、ヒロ兄、花が欲しいんだろう?」
そこでヒロはようやく、ケイの意図を理解したようでした。
(まったく、世話が焼けるんだから。)
「ちょっと見て行こうよ。」
ケイはヒロの手をひっぱり、店内に入ります。ヒロは引かれるままに、おどおどしながらケイの後について店に入ります。どちらが年上なのだか、分かりません。
「いらっしゃいませ!」
意中の彼女が、満面の笑みでヒロとケイを迎えます。
「ご自宅に飾る花ですか?」
「え? あ、ああ、そうで…すね?」
とヒロはなぜかケイを見ます。すがるような目つきでした。
「そうです、そうです。何かお勧めはありますか?」
「あら、弟さん、しっかりしているのね。そうね、今の季節はたくさんの花が咲いているから…。」
娘は店内のあちこちから何種類かの花を取り、束ねてくれました。
「これくらいでどうかしら? 」
「きれいですね。ヒロ兄、どう?」
「あ? ああ、き、き、綺麗です!」
娘の方をじっと見ながらそう答えるヒロ。
ケイは思いました。
(それじゃ、まるで彼女のことを褒めているみたいだよ。やれやれ。まあいいか、本当の気持ちなんだから。)
思いがけず購入した花束とノコギリという奇妙な取り合わせを両手に持った大男のヒロは、あからさまに嬉しそうです。彼女と特別な会話をしたわけではありません。むしろ、客と店員としての最低限のやりとりしかしていませんが、ヒロはもう彼女と付き合い始めたかのような幸福を感じているに違いありません。こんなとき、この自分よりも五つも年上の兄貴分に対して、ケイは可愛らしさと微笑ましさを感じ、自分の方が兄になったような気分になるのでした。
その夜。泊まっている宿の部屋で。
ワクは、花束を備え付けの花瓶に挿して浮き浮きしているヒロを目の前に座らせ、昼間に行った工芸品屋について話しました。
「突然の話でなんだが、俺は前から、お前が誰か良い職人さんのところで修行出来るといいなと考えていたんだ。あの店の親父は悪くないぞ。実際には、あそこに出入りしている家具職人の親方のところへ行くんだから、その親方に会ってみないと分からないがな。」
「…。」
無言のヒロの顔には、「驚き」と「戸惑い」の文字がくっきりと書いてありました。突然のことで何も考えられないようです。
「俺、俺…。」
「会うのは三日後だ。しかも、会って気に入らなかったら、やめればいい。それほど深刻に考えなくてもいいんだよ。」
「そうだよな。うん。そうだ。嫌ならやめればいいんだな。うん、そうだ。」
何だか必死に自分に言い聞かせているようです。
「まあ、とにかく会ってみろ。それと、この三日の間に、家具職人という将来について、自分なりに考えてみろ。」
「おう。」
「おう、じゃねえ。こういう大事な話をしている時は、何て言うんだ?」
「は、はい。」
「よろしい。」
ワクはその昔、自分自身が父親から人生を考えるように言われたとき、山を目指すと決めるまで、三日間考えたことを思い起こしました。今、自分が、息子のような存在のヒロに対して、同じことをしている。ワクは感慨を覚えずにはいられませんでした。人間はこうして繋がってゆく。その一連の繋がりの中に、自分も組み込まれているのだという感覚。それが幸福感なのか、それとも束縛感なのか、ワクにははっきりと分かりませんが。そして、いずれ近い将来、ケイにも同じことをするのでしょうか。その時、ワクはまた独りぼっちになるのかもしれません。ワク自身が旅に出ることによって、父親を独りぼっちにしたように。
また、自分の息子同様に思っている若者が、自分の父親と同じような職人の道に入ろうとしていることにも、何か運命めいたものを感じずにはいられませんでした。
三日後。ワクはヒロとケイを連れて、工芸品屋へ出向きました。
「いいか、言葉遣いには気をつけろ。ああ、とか、うん、とか、初めて会った年上の人には言うもんじゃない。丁寧な言葉遣いをしろ。それと、とにかく、相手に対する感謝を忘れるな。会ってくれてありがとう。話を聞かせてくれてありがとう。とにかく、鍵は『ありがとう』だ。」
「分かってるよ。いつも言われていることだぜ。大丈夫だよ。」
気楽に答えるヒロ。ワクは若干の不安を感じますが、相手がヒロの上辺ではなく、内面を見てくれれば、きっと気に入ってもらえるでしょう。その点には、ワクは確信がありました。
「こんにちは! おやっさん、約束通り、息子を連れてきましたよ。」
店内には客はおらず、店主と、家具職人のソウキチと思われる人物が座って何やら和やかに談笑していました。
「やあ、待っていたぞな。紹介しよう、こちらが、家具職人のソウキチさんだ。」
「俺のこと、さん付けで呼ぶなんて、何年ぶりだか?」
「ははは! そうだな。」
二人の温かい関係性が伺われます。
「こんにちは…です! ありがとうございます! ひ、ヒロと申します!」
大きな声で――ほとんど怒鳴り声です――ヒロが言います。店側の二人は、少々驚いた様子でした。
「まあ、座っておくんなせ。こんなところでなんだが。うちにはまともな部屋もないしな。しかも、店番しながらじゃから、ここで我慢してくだせ。」
「ああ、全然構やしねえっすよ。こちらこそ、店の邪魔して悪いっすね。」
ヒロは先ほどからすでに、店内に置かれている、装飾の施された家具類に目を奪われている様子でしたが、
「あ、ありがとうございます!」
と、思い出したように言いました。そして、ふーっと溜息をつき、
「俺、こんなのを作れるようになりてえ!」
「そうか。気に入ったか。」
話は雑談のような雰囲気で進みました。親方は店主から、ヒロの作品についてあらかじめ話を聞いていたようでしたが、実際に目の当たりにすると、その目が鋭く光りました。
「…お前。これ、誰に習った?」
「誰にも習ってねえよ…です。自分で考えたんだ。本物のリスをようく見て、それで、本物よりも可愛くするにはどうしたらいいかと色々考えてみたんだ…です。そしたら、出来上がりの姿が目の前に浮かんだんで、それをそのまんま作った。…あ、です。」
親方は一転して相好を崩しました。というより、笑いをこらえ切れない様子でした。
「お前、そんな、取って付けたような『です』はやめろ。俺に無理してそんな丁寧な言葉を使わんでもええ。」
「う、うん。は、はい!」
それから親方は、自己紹介のように、自分のこれまでの経歴をかいつまんで語りました。二十代の頃に、先代の家具職人の親方に弟子入りして、それから四十年ほどやってきた。親方に教わった技術と、伝統的な家具づくりに加え、自分なりの装飾を加えた作品も作ってきた。作品はこの店をはじめ、この近辺のいくつかの店で扱ってもらえるようになった。あいにく結婚の機会には恵まれず、子供がいないので、弟子をとって後を継がせたいと考えている――。
丁寧な言葉遣いをしなければ、という呪縛から解放されたヒロは、普段のような気楽さで言いたいことを言い、聞きたいことを聞きました。親方の家具づくりの話を聞いているときのヒロの表情は、この上なくキラキラと輝いていました。その姿は、ワクの目にも立派な好青年に映りました。
やがて、親方は言いました。
「ようし、お前。お前のその目つきが気に入った。お前さえ良ければだが、うちへ来い。俺が仕込んでやる。」
ワクは思わず涙が一筋こぼれ落ちました。本当に最近、また一段と涙もろくなったワクです。
「ほんとかい? 俺、おやっさんみたいな職人になりてえ!」
「その代わり、修行は厳しいぞ。」
「かまうもんか! …で、です!」
正式な返事は明日、ということにして、三人は宿へ帰って来ました。宿に帰ってから、ヒロはしばらく黙って考えていました。親方のところで修業したい気持ちが強い一方で、ワクやケイと離れることが辛いようでした。が、翌朝には、ヒロはすっきりした顔で、ワクに告げました。
「オジキ、俺、あの親方のところへ行くよ。」
「そうか。」
ワクにしてみれば、初めての息子の巣立ちです。しかもワクたちは旅の身の上。別れればもう二度と会えないでしょう。ヒロのために喜ぶ気持ちと、寂しく切ない気持ちがいっぺんに襲って来ました。
数日後。
「元気でな、ヒロ。」
「オジキ…。」
ヒロは目にうっすらと涙を溜めています。
ここは、ソウキチ親方の家の前。ワクたちは、いよいよヒロを親方にあずけて、旅立とうとしています。
「ヒロ兄。ヒロ兄! また会いに来るよ。楽園についたら、すぐに引き返してここへ来るよ!」
「ケイ!」
ヒロはケイをぎゅっと抱き締めました。最初の出会いが出会いでしたので、今の二人のこんな関係はほとんど奇跡のようでした。
ケイはヒロの耳元に小声で、
「あのお姉ちゃんと仲良くなれるといいね。」
「いや、あの、お前な…。」
それからワクが、ヒロに一足の草履を手渡しました。それは、ワクがこの数日間で作った、渾身の一作です。
「こんなものしか俺にはお前にやれるものがねえけどよ。でもな、頑張って丈夫に作ったからな。毎日履いても十年はもつぜ。」
「ははは! 化け物草履だな!」
ヒロは泣き笑いの表情。でも、その草履は、きっと履かずに飾っておかれるのです。その草履には、ケイが書いた小さな色紙が貼りつけてあったからです。
【ヒロ ワクの自慢の息子。ケイの敬愛する兄貴。いつまでも。】
ワクはヒロを力一杯抱き締めました。その頬は涙でびしょびしょです。ヒロも負けじと、ワクよりもよっぽど強い力で抱き締め返してきます。
「いいか、大事なことは『ありがとう』と『まあいいか』だ。『まあいか』はお前の得意技だが、『ありがとう』も忘れるな。」
「任せとけって!」
それからワクは、親方に挨拶をし、長く丁寧に頭を下げました。
「こいつは必ず売れっ子家具職人になる。安心してていいですぜ。」
「ありがとうございます。どうか、どうかよろしくお願いします。」
ワクとケイは旅立ちました。
背後で、ヒロはいつまでも二人の背中に手を振っていました。二人は何度も振り返りましたが、角を曲がったのを最後に、とうとうヒロの姿は見えなくなりました。
前方には、真正面に、山。また少し近づいたように見えます。春には多少なりとも霞んで見えるはずの山ですが、今日はくっきりと、生き生きとして見えます。ワクたちとヒロ、それぞれの旅立ちを祝っているかのようでした。
春の強風が時おり砂埃を舞い上げる中、町角に金槌の音が響きます。
行き交う人の反応はまちまち。何事かと足を止めて覗き込む人もいれば、興味なさげに通り過ぎる人もいます。
「何だー? 兄ちゃん、何やってんだー?」
「ああ、いや、この掲示板を直してるだけさ。」
「頼まれたのかい?」
「いや。」
「ほう、それは感心だなあ。こんな風の中、ご苦労なこって。頑張ってな。」
「ああ!」
町角に、誰かが備え付けた掲示板。最近いよいよ流行ってきた「公共読物」を掲示するためのものです。その傷んだ部分を、先ほどからヒロが修復しているのです。隣には、ケイが立っています。
「ねえ、ヒロ兄、せっかくだからもうちょっと大きくしたら?」
「へ? 今さらそんなこと言う?」
「だって、今思いついたんだもの。」
「仕方がねえな。やってやるか。」
「お、ヒロ兄、さすが、やるじゃん!」
「ちぇっ、おだてるのがうまいんだからな、お前は。」
「へへ。」
「大きくするんなら、もうちょっと木材がいるじゃねえか。」
二人は仲良く並んでどこかへ歩いていきました。木材を調達するためでしょう。
今でこそ仲睦まじくしていますが、この二人、最初のうちは大変だったのです。何しろ、ケイにとっては、自分に刃物を突き付けてきた相手ですから――実際には刃物ではありませんでしたが。
ヒロがワクとケイの旅に同行するようになってから、およそ三年が経ちました。ケイは十八。ヒロは二十三。そしてワクは、五十七歳になりました。頭髪にも白いものがかなり混じるようになりました。
最初の頃、ケイはヒロのことをやはり恐れていました。ワクはヒロのことを、悪い奴ではないと言います。おじちゃんが言うのだからきっとその通りなのだろうとは思いながら、やはり、顔を見ると、あの晩の恐怖が脳裏に甦ります。ワクが救ってくれなくても、ヒロはきっとケイに怪我を負わせたりしなかったでしょう。が、単純に、あの時に感じた恐怖の感覚を身体が覚えていて、ヒロの姿を見ることが、それを呼び起こす引き金になるのでした。ですから、意識の上では決してヒロを嫌っているわけではないのに、恐怖感はなかなか消えませんでした。
が、それも、ヒロの性質をよく知るにつれ、薄れていきました。今では、良い兄貴のような存在です。ヒロも、弟を持ったことがないため、珍しいのか、ケイをとても可愛く思っているようでした。ワクは、結婚もしていないのに、息子が二人もいるような気分です。時には一人旅の方が気楽だな、とか、息子二人とはむさ苦しいな、などと思いながらも、やはり二人に対しては愛情を感じていました。
そのヒロには、弟はいませんが、兄はいたようです。
ある日――ヒロがワクたちの一行に加わった、あの町の隣町でのことです――。
その町の特産品を扱った店で品物を物色しているヒロに、後ろから一人の若い男が近づいて来ました。
「おお、お前!」
ビクッとして振り返るヒロ。
「お前、シゴロク! 久しぶりだなぁ。こんなところで会うなんて。」
「え。」
一緒にいたワクとケイは、思わず顔を見合わせました。
シゴロク…って?
「え、ああ、あの、人違いじゃねえのかい?」
「何言ってんだ、お前、シゴロクじゃねえかよ。元気か? 何年ぶりかな?」
「いや、あの、その…。」
情けない顔つきでワクの方を見るヒロ。ワクは初め、他人の空似だろうか、と思いました。
男はしばらくの間、ヒロと、共通の知り合いの噂話などをして、去っていきました。
「じゃあな、ロク! また会えるといいな!」
「お、おう!」
男が去った後、ワクとケイにじっと見つめられたヒロは、長身の体躯を縮め、情けない表情で下を向きました。その時には、ワクにはだいたいの察しがついていました。ニヤニヤして、
「何だ? あいつは昔馴染みなのかい、シゴロク?」
顔を真っ赤にするヒロ。
店内の一角、喫茶場に落ち着いて、三人で話します。
「お前、本名はシゴロク…っていうんだな。珍しい名前だな。」
ヒロは泣きそうな顔で、
「すんません。ヒロってのは、自分で考えた芸名っす。」
「芸名…。」
「兄貴の名前はヒフミと言うんだ。一、二、三、という意味で。」
「お兄さんがいたのか。」
「ああ。でも、十六だか十七だかの頃に、家出しちまった。」
「今は?」
「知らねえ。どこにいるのかも、生きているのかも知らねえ。」
「…そうか。」
「親は、俺たち子どもに、適当に名前をつけたんだ。きっとめんどくさかったんだろう。兄貴が一、二、三だから、俺は四、五、六なんだ。で、シゴロク。ヒフミはまだましだが、シゴロクはひどいだろう。そんな名前、聞いたことがねえ。」
冗談のような話ですが、ヒロは真剣な様子です。どうやら本当のようです。
「じゃ、もし、もう一人生まれてたら?」
ケイが口を挟みました。ヒロはケイを軽く睨んでから、
「き、きっと、七、八、九だ。」
「何て読むの?」
「ええと、シチハチ…ナッパ? …知るかよ!」
「こら、ケイ。話を茶化すんじゃない。」
人の名付け方にとやかく言うのもどうかとは思いますが、それでもさすがに、シゴロクはいかがなものかと、ワクは思いました。
「それで、自分で別の名前をつけたのか?」
「ああ。最近だけどな。聞いたことのある名前で一番かっこいいと思ったやつを名乗ることにしたんだ。」
「そうか…。」
ワクは、ヒロが不憫でした。そんなところからも、実の親の愛情不足を感じていたのでしょう。ワクは、本名を知った後も、彼のことをヒロと呼び続けることにしました。
そのシゴロク改めヒロは、日ごとに、ワクとケイと一緒の旅に馴染んでいきました。故郷の町を後にすることには、まったく未練がないようでした。本人曰く、「何ひとついいことがなかった町」だからです。
男ばかり三人ですが、ケイはまだ大人と同等の体格には至らず、ワクは年齢による体力の衰えを感じ始めたところでしたので、背が高く体格の良いヒロは、力仕事の面でも重宝されました。が、ヒロの長所はもちろんそれだけではありませんでした。彼は、黙っていればかなりの男前なのですが、口を開くと冗談ばかりの剽軽者でした。調子の良いときには、その発言の半分くらいは冗談でした。
「お、木のワクが落ちてるぞ。ヒロっておケイ!」
などと言う、何とも言えない駄洒落を連発したかと思うと、突然身体をくねらせて踊り出したりするのでした。ワクは「メチャクチャ踊り」の踊り手の称号を、ヒロに正式に譲ろうかと思ったほどでした。
彼の口癖は、
「まあいいか。」
でした。もっとも、本人に言わせれば、これは、ワクに拾われた後に定着した口癖であり、それ以前は、まあいいか、などと言えるような状況じゃなかったんだよ、とのことですが。彼は、良くも悪くも、物事を複雑に考えないのでした。が、考え過ぎず、感じたままに行動すること、時には、まあいいか、ですべてを許容すること。これらは生きていく上でのとても大事な心の姿勢だ、とワクは思います。その意味で、彼は天性の高度な生きる技術を持っていることになります。
そしてもう一つ、彼が持っていると思われる天性の才能がありました。それは、手先の器用さです。
ヒロは、ワクが自分たちの草履を自分で作っているのに興味を持ち、自分も見よう見真似で作ってみました。結果は、ワクを唸らせるほどの出来栄えでした。とても生まれて初めて作ったとは思えません。その時からワクは、ヒロが将来、手先の器用さを活かした仕事をして生きて行く道を見つけられないかと考えるようになりました。
手先が器用といえば、ヒロは別の意味でも、手先が器用でした。いえ、手癖が悪い、と言うべきでしょうか。生まれてからこれまでの環境のせいで、時にはそうせざるを得ない部分もあったのでしょう、彼は店でちょっと気に入ったものを見つけると、こっそり懐に入れる癖がありました。ワクはそれを見咎め、繰り返し説教しました。
「いいか、よく聞け。人が生きていくためにどうしても必要なものは、何だと思う? 喧嘩に勝つ強さなんかじゃないぞ。」
「?」
「信頼だ。人から信用されること。そのためには、誠実に生きることと、人のために動くことだ。分かるか?」
ヒロは初めのうち、ピンと来ない様子でしたが、何度も言われるうちに、少しずつ心得るようになってきました。
「ははは、分かっているよ、オジキ! 信頼って言いたいんだろ? シンライ、シンライ!」
――少なくとも言葉の上では。
「それともう一つ。人に対する感謝は、はっきりと言い表せ。つまり、簡単なことだ。ありがとう、ときちんと言えるようになれ。」
「うん。」
最初は、言われた言葉をそのまま飲み込んでいるだけの様子だったヒロですが、ワクをオジキと慕い、ワクと行動を共にするうちに、ワクの言わんとすることが、少しずつ体で分かってきたようでした。
さて、ヒロとケイが町角の掲示板の修復に行っている頃。ワクは、同じ町の、別の場所にいました。
この町にある唯一の工芸品屋。いえ、工芸品屋と呼ぶには、その扱う品物の幅は広く、箪笥や椅子などの家具も含まれていました。ただ、それらは実用一点張りのものではなく、どれも巧妙な彫刻や装飾を施した逸品でした。
ワクはヒロのことを考えて、この店を覗きに来たのです。
旅の道中、草履を見事に作ったことは先にも触れましたが、それ以外にもヒロはその方面の才能を発揮することがしばしばありました。中でも、大工仕事に関しては、ワクについて初めて大工仕事の手伝いに出たときから、その天賦の才を発揮しました。仕事は主に家の新築や改修でしたが、それらを、十年の経験者のように精緻にこなしました。のみならず、木工仕事に興味を持った彼は、森から拾ってきた木片を使って、リスやフクロウなどの森の生き物の彫刻を、誰に教わるでもなしに、見事に作るようになりました。そして、彫刻を作っているときの目をキラキラと輝かせたヒロは、あの出会いの晩の翌朝に、どうしようもない孤独感を身にまとい、虚ろな目をしていた彼とはまるで別人でした。ケイがヒロの作品に目を見開いて驚き喜んだのはもちろんですが、ワクも、
(こいつは、どこぞの名高い彫刻家かなんかの生まれ変わりに違いねえぞ。)
などと思うのでした。
そこで、この町に大きな工芸品屋があるのを見つけたワクは、今こうして、ヒロの作品をいくつか持参して、ヒロに出来る仕事が何かないか、いや、ヒロにその方面の何かを学ぶ機会を与えられないか、相談に来たのでした。
「ううん、これは…。」
工芸品屋の主は、もう七十に手が届こうかというような、白髪の、丸眼鏡をかけたお爺さんでした。その、まあるい物腰は、顔は全く似ていないものの、ワクに、懐かしいオジジを思い出させるものがありました。
(オジジ…。もしまだ生きていれば、九十歳くらいかな。キウエモンさんくらいだ。さすがに、ないだろうな。俺も歳を取ったわけだ。)
「大したもんですぞな、これは! まだ少し粗削りな部分はあるが、並々ならぬ才能を感じますぞ。」
主の、歳に似合わぬ大きな声に、ワクは我に返ります。
「ほ、本当ですかい?」
「この道五十年の、このわしが言うのじゃから、間違いないですぞな。」
「ありがとうございます!」
ワクは深々と頭を下げ、
「これらを作った男は、俺の息子みたいな奴なんだが…どうにかして、こっちの道で身を立てる方便はないかと思って。もちろん、最初は見習いでもいいんだ。」
「うん、そうじゃな。」
主は、我が意を得たりといった様子で、手で膝を二度叩き、
「この店へ家具を入れている職人が――もう六十半ばじゃが――つい先ごろ、もうさすがに跡取りのことを考えんといかんなあ、と言っておったぞな。独り身じゃから、子供もおらんのじゃ。」
「ほう!」
「今日び、若い衆で、家具職人になりたがるものも、そうそうおらんでな。まあ、若くなきゃいかん、ということもないがの。…ときに、お前さんの息子さんは、何歳ですかの?」
「二十三。」
「そう、それは若いの。いっぺん連れてきておくんなせ。わしも、ソウキチを呼んでおくでな。会わせてみよか。」
その職人さんは、ソウキチさんというらしいです。ワクは二つ返事で、三日後にここへヒロを連れてくる約束をして、店を辞しました。
その頃。
ケイとヒロは、町外れの林へ向かって歩いていました。ヒロの手にはノコギリ。木材を調達するのです。
と、花屋の前を通りかかったとき、ヒロの足が止まりました。ぼうっと立ちすくんでいます。
(あ。そうだった…。)
昨日ここを通った時にも、ヒロはぼうっと口を開けて立ち止まりました。その時、ケイが花屋の方を見やると、そこには若い娘の店員がいたのです。
(え? 何? 一目惚れってやつ? ヒロ兄ったら、分かりやす過ぎる! ていうか、単純! ていうか、一目惚れって、本当にあるんだ。)
そう思ったのを思い出したのです。
そのケイの父親もその昔、ケイの母親に対して一目惚れをしたことなど、ケイは聞かされておらず、知りませんから。
「あ、ヒロ兄、たしか、おじちゃんが、家に花を飾りたいって言ってたね。」
「?」
ヒロはポカンとした顔でケイを見ます。
「ほら、男ばかりの家だから華やかさがないなあ、花でも飾るか、って言ってたじゃん!」
「あ?」
「とにかく、ヒロ兄、花が欲しいんだろう?」
そこでヒロはようやく、ケイの意図を理解したようでした。
(まったく、世話が焼けるんだから。)
「ちょっと見て行こうよ。」
ケイはヒロの手をひっぱり、店内に入ります。ヒロは引かれるままに、おどおどしながらケイの後について店に入ります。どちらが年上なのだか、分かりません。
「いらっしゃいませ!」
意中の彼女が、満面の笑みでヒロとケイを迎えます。
「ご自宅に飾る花ですか?」
「え? あ、ああ、そうで…すね?」
とヒロはなぜかケイを見ます。すがるような目つきでした。
「そうです、そうです。何かお勧めはありますか?」
「あら、弟さん、しっかりしているのね。そうね、今の季節はたくさんの花が咲いているから…。」
娘は店内のあちこちから何種類かの花を取り、束ねてくれました。
「これくらいでどうかしら? 」
「きれいですね。ヒロ兄、どう?」
「あ? ああ、き、き、綺麗です!」
娘の方をじっと見ながらそう答えるヒロ。
ケイは思いました。
(それじゃ、まるで彼女のことを褒めているみたいだよ。やれやれ。まあいいか、本当の気持ちなんだから。)
思いがけず購入した花束とノコギリという奇妙な取り合わせを両手に持った大男のヒロは、あからさまに嬉しそうです。彼女と特別な会話をしたわけではありません。むしろ、客と店員としての最低限のやりとりしかしていませんが、ヒロはもう彼女と付き合い始めたかのような幸福を感じているに違いありません。こんなとき、この自分よりも五つも年上の兄貴分に対して、ケイは可愛らしさと微笑ましさを感じ、自分の方が兄になったような気分になるのでした。
その夜。泊まっている宿の部屋で。
ワクは、花束を備え付けの花瓶に挿して浮き浮きしているヒロを目の前に座らせ、昼間に行った工芸品屋について話しました。
「突然の話でなんだが、俺は前から、お前が誰か良い職人さんのところで修行出来るといいなと考えていたんだ。あの店の親父は悪くないぞ。実際には、あそこに出入りしている家具職人の親方のところへ行くんだから、その親方に会ってみないと分からないがな。」
「…。」
無言のヒロの顔には、「驚き」と「戸惑い」の文字がくっきりと書いてありました。突然のことで何も考えられないようです。
「俺、俺…。」
「会うのは三日後だ。しかも、会って気に入らなかったら、やめればいい。それほど深刻に考えなくてもいいんだよ。」
「そうだよな。うん。そうだ。嫌ならやめればいいんだな。うん、そうだ。」
何だか必死に自分に言い聞かせているようです。
「まあ、とにかく会ってみろ。それと、この三日の間に、家具職人という将来について、自分なりに考えてみろ。」
「おう。」
「おう、じゃねえ。こういう大事な話をしている時は、何て言うんだ?」
「は、はい。」
「よろしい。」
ワクはその昔、自分自身が父親から人生を考えるように言われたとき、山を目指すと決めるまで、三日間考えたことを思い起こしました。今、自分が、息子のような存在のヒロに対して、同じことをしている。ワクは感慨を覚えずにはいられませんでした。人間はこうして繋がってゆく。その一連の繋がりの中に、自分も組み込まれているのだという感覚。それが幸福感なのか、それとも束縛感なのか、ワクにははっきりと分かりませんが。そして、いずれ近い将来、ケイにも同じことをするのでしょうか。その時、ワクはまた独りぼっちになるのかもしれません。ワク自身が旅に出ることによって、父親を独りぼっちにしたように。
また、自分の息子同様に思っている若者が、自分の父親と同じような職人の道に入ろうとしていることにも、何か運命めいたものを感じずにはいられませんでした。
三日後。ワクはヒロとケイを連れて、工芸品屋へ出向きました。
「いいか、言葉遣いには気をつけろ。ああ、とか、うん、とか、初めて会った年上の人には言うもんじゃない。丁寧な言葉遣いをしろ。それと、とにかく、相手に対する感謝を忘れるな。会ってくれてありがとう。話を聞かせてくれてありがとう。とにかく、鍵は『ありがとう』だ。」
「分かってるよ。いつも言われていることだぜ。大丈夫だよ。」
気楽に答えるヒロ。ワクは若干の不安を感じますが、相手がヒロの上辺ではなく、内面を見てくれれば、きっと気に入ってもらえるでしょう。その点には、ワクは確信がありました。
「こんにちは! おやっさん、約束通り、息子を連れてきましたよ。」
店内には客はおらず、店主と、家具職人のソウキチと思われる人物が座って何やら和やかに談笑していました。
「やあ、待っていたぞな。紹介しよう、こちらが、家具職人のソウキチさんだ。」
「俺のこと、さん付けで呼ぶなんて、何年ぶりだか?」
「ははは! そうだな。」
二人の温かい関係性が伺われます。
「こんにちは…です! ありがとうございます! ひ、ヒロと申します!」
大きな声で――ほとんど怒鳴り声です――ヒロが言います。店側の二人は、少々驚いた様子でした。
「まあ、座っておくんなせ。こんなところでなんだが。うちにはまともな部屋もないしな。しかも、店番しながらじゃから、ここで我慢してくだせ。」
「ああ、全然構やしねえっすよ。こちらこそ、店の邪魔して悪いっすね。」
ヒロは先ほどからすでに、店内に置かれている、装飾の施された家具類に目を奪われている様子でしたが、
「あ、ありがとうございます!」
と、思い出したように言いました。そして、ふーっと溜息をつき、
「俺、こんなのを作れるようになりてえ!」
「そうか。気に入ったか。」
話は雑談のような雰囲気で進みました。親方は店主から、ヒロの作品についてあらかじめ話を聞いていたようでしたが、実際に目の当たりにすると、その目が鋭く光りました。
「…お前。これ、誰に習った?」
「誰にも習ってねえよ…です。自分で考えたんだ。本物のリスをようく見て、それで、本物よりも可愛くするにはどうしたらいいかと色々考えてみたんだ…です。そしたら、出来上がりの姿が目の前に浮かんだんで、それをそのまんま作った。…あ、です。」
親方は一転して相好を崩しました。というより、笑いをこらえ切れない様子でした。
「お前、そんな、取って付けたような『です』はやめろ。俺に無理してそんな丁寧な言葉を使わんでもええ。」
「う、うん。は、はい!」
それから親方は、自己紹介のように、自分のこれまでの経歴をかいつまんで語りました。二十代の頃に、先代の家具職人の親方に弟子入りして、それから四十年ほどやってきた。親方に教わった技術と、伝統的な家具づくりに加え、自分なりの装飾を加えた作品も作ってきた。作品はこの店をはじめ、この近辺のいくつかの店で扱ってもらえるようになった。あいにく結婚の機会には恵まれず、子供がいないので、弟子をとって後を継がせたいと考えている――。
丁寧な言葉遣いをしなければ、という呪縛から解放されたヒロは、普段のような気楽さで言いたいことを言い、聞きたいことを聞きました。親方の家具づくりの話を聞いているときのヒロの表情は、この上なくキラキラと輝いていました。その姿は、ワクの目にも立派な好青年に映りました。
やがて、親方は言いました。
「ようし、お前。お前のその目つきが気に入った。お前さえ良ければだが、うちへ来い。俺が仕込んでやる。」
ワクは思わず涙が一筋こぼれ落ちました。本当に最近、また一段と涙もろくなったワクです。
「ほんとかい? 俺、おやっさんみたいな職人になりてえ!」
「その代わり、修行は厳しいぞ。」
「かまうもんか! …で、です!」
正式な返事は明日、ということにして、三人は宿へ帰って来ました。宿に帰ってから、ヒロはしばらく黙って考えていました。親方のところで修業したい気持ちが強い一方で、ワクやケイと離れることが辛いようでした。が、翌朝には、ヒロはすっきりした顔で、ワクに告げました。
「オジキ、俺、あの親方のところへ行くよ。」
「そうか。」
ワクにしてみれば、初めての息子の巣立ちです。しかもワクたちは旅の身の上。別れればもう二度と会えないでしょう。ヒロのために喜ぶ気持ちと、寂しく切ない気持ちがいっぺんに襲って来ました。
数日後。
「元気でな、ヒロ。」
「オジキ…。」
ヒロは目にうっすらと涙を溜めています。
ここは、ソウキチ親方の家の前。ワクたちは、いよいよヒロを親方にあずけて、旅立とうとしています。
「ヒロ兄。ヒロ兄! また会いに来るよ。楽園についたら、すぐに引き返してここへ来るよ!」
「ケイ!」
ヒロはケイをぎゅっと抱き締めました。最初の出会いが出会いでしたので、今の二人のこんな関係はほとんど奇跡のようでした。
ケイはヒロの耳元に小声で、
「あのお姉ちゃんと仲良くなれるといいね。」
「いや、あの、お前な…。」
それからワクが、ヒロに一足の草履を手渡しました。それは、ワクがこの数日間で作った、渾身の一作です。
「こんなものしか俺にはお前にやれるものがねえけどよ。でもな、頑張って丈夫に作ったからな。毎日履いても十年はもつぜ。」
「ははは! 化け物草履だな!」
ヒロは泣き笑いの表情。でも、その草履は、きっと履かずに飾っておかれるのです。その草履には、ケイが書いた小さな色紙が貼りつけてあったからです。
【ヒロ ワクの自慢の息子。ケイの敬愛する兄貴。いつまでも。】
ワクはヒロを力一杯抱き締めました。その頬は涙でびしょびしょです。ヒロも負けじと、ワクよりもよっぽど強い力で抱き締め返してきます。
「いいか、大事なことは『ありがとう』と『まあいいか』だ。『まあいか』はお前の得意技だが、『ありがとう』も忘れるな。」
「任せとけって!」
それからワクは、親方に挨拶をし、長く丁寧に頭を下げました。
「こいつは必ず売れっ子家具職人になる。安心してていいですぜ。」
「ありがとうございます。どうか、どうかよろしくお願いします。」
ワクとケイは旅立ちました。
背後で、ヒロはいつまでも二人の背中に手を振っていました。二人は何度も振り返りましたが、角を曲がったのを最後に、とうとうヒロの姿は見えなくなりました。
前方には、真正面に、山。また少し近づいたように見えます。春には多少なりとも霞んで見えるはずの山ですが、今日はくっきりと、生き生きとして見えます。ワクたちとヒロ、それぞれの旅立ちを祝っているかのようでした。
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