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第三十五章 老人と少年
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季節は五月、春真っ盛り。
ワク老人は、黄色い菜の花と白いひなぎくが咲き並ぶ小川の土手を歩いています。まるで花の一本一本に話しかけながらのように、ゆっくりゆっくりと。
山は、その形の良い姿を、遥か遠くに小さく蒼く見せています。空気が少し埃っぽいものの、空は高く高く澄んで、風は頬に心地よく当たります。お日様の光は地上のあらゆる面に降り注いで、目に入るものすべてが輝いています。
なぜだか、懐かしい故郷へ帰って来たような気分に包まれていました。実際には、遠く、故郷から何十年も歩いた先にいるはずなのに。
(いっ、ぽ、ずつ、いっ、ぽ、ずつ、ゆっ、くり、ゆっ、くり・・・。)
心の中でゆっくりと拍子を取りながら歩きます。
モンシロチョウが二羽、ひらひらと目の前を通り過ぎます。通り過ぎしなに、ワクの頭の周りをぐるっと一回りしてから飛び去って行きました。それはまるで彼に挨拶を贈っているかのようでした。
生まれ育った家を旅立ってから何度目の春なのか、もう分からなくなっています。
たしか、あの時も春だった――。
ワクはこの土手に、あの頃の自分の姿を見る気がしていました。
山を目指し、希望をいっぱい抱えて、相棒のジロウと一緒に、故郷の町を出て、春の川沿いを歩いた。胸を張って、ワクワクしながら。自分の体に力がみなぎり、何だって出来るぞという自信、万能感に満たされていた――。
あれから、何度も何度も春が巡りました。色んな、本当に色んな人や出来事に出逢いました。そして、春は何度でも、何度でも終わりなく巡って来ます。これからも。いつまでも。
ワクは、暖かい春の陽射しの中に立ち止まり、長い間、ぼんやりとした心地よい物思いに耽っていました。
町中に入りました。
ワクは、最初に見かけた茶店へ、ゆっくりと入って行きました。
「いらっしゃい! 何にしましょか、旦那?」
「…焦がし胡麻団子ひとつとお茶を。」
「へい、まいど!」
恰幅のよい、少々頭の薄くなった店主。以前どこかで会ったような。いや、確かに、この店主の男はどこかで見たことがある。遠い昔に。それがどこだったか、ついぞ思い出すことは出来ません。いえ、初めて来た町なのですから、会ったことがある道理がありません。最近は、そのような思い違いが多くなりました。しかも頭が重く、難しい考え事は上手くまとまりません。ワクは思い出すことを早々に諦めました。仮にこの男が、自分に会ったことがあるのならば、男の方がワクを思い出すはずです。男にそんな様子がさらさらないところを見ると、やはり自分が、耄碌した頭で思い違いをしているのでしょう。
(まあ、よくあることだ。)
ワクはひとりごちました。
店主が手渡してくれた焦がし胡麻団子を、少し震える手でゆっくりと口へ持っていき、少しずつ、少しずつかじります。香ばしい香りが口の中いっぱいに広がります。同時に、心には幸福感がいっぱいに広がります。が、
(気を付けないとな。いっぺんにたくさん頬張ると、喉につかえるぞ。ケイによく注意されたではないか…。)
「美味いなあ、この団子。ご店主よ、ありがとうよ。こんなに美味い団子をこしらえてくれて。おかげで、天国に昇ったような気分だよ。」
店主は一瞬驚いた様子でしたが、次の瞬間には、嬉しそうに相好を崩しました。
「いやあ、嬉しいなあ、お爺さん。こちらこそありがとう。またいつでも食べに来てくださいよ!」
ワクもにっこりして、二、三度うなずくと、それから店内を見るともなしに見回し始めました。
老若男女、色んな人たちが楽しそうに談笑しています。茶店はいつの時代も町民の社交場、人々の一番の楽しみの場です。
小さな子供を連れた親子連れ、女性ばかりの友人同士と思われる三人組、何やら紙に書きつけたものを真剣に読んでいる男性、まだ子供のようなあどけない若者――彼は足元の犬に何やら話しかけています。皆がその場を楽しんでいる様子でした。
それからワクは、目を閉じました。そのままじっと、周囲から聞こえる、平和で幸せな日常の音を味わっていました。
すると、そのワクの耳に、何やら言い争うような声が聞こえてきます。
「そんなこと言ったって、あたしだって大変なんだから。あんた、ちょっとは考えたらどうなのよ!」
目を開けると、それはすぐ隣の席の中年夫婦でした。
「何だと! 俺は忙しいんだよ。子供のことはお前の仕事だろうがよ!」
「誰がそんなこと決めたのよ? 作ったのはあんたとあたしの二人だよ。」
「うっせえ! お前がそんなだから、あいつまでお前そっくりになって俺に文句を言いやがる!」
「言われて当然だわ。この怠け者!」
「何だと!」
男の方が叫んだ瞬間に、勢い余って手に持っていた湯呑みを振り回しました。中のお茶が、ワクの胸の辺りにかかりました。
「ああー! す、すまねえ! 爺さん、大丈夫か?」
夫婦はそろって人の好さそうな顔で、目をまん丸にしてワクを見つめます。心配そうに。
ワクは、お茶がかかったにもかかわらず、笑いが込み上げてきました。きょとんとする夫婦。
「大丈夫じゃよ。そんなことより、お前さんたち。まずは笑ってごらん。何よりもまずは笑顔だ。」
ワクは笑いながらそう言いました。
「え。」
そろってばつの悪そうな顔をする二人。それから顔を見合わせて、苦笑。
「ああ。分かったよ、爺さんの言うとおりだ。」
「ごめんなさいね、お爺さん。みっともないところをお見せしちゃって。」
「いいや、仲の良さそうなお二人を見て心が温まったよ。ありがとう。」
夫婦は照れ笑い。
ワクはゆっくりとした動作で、席を立ち、店を後にしようとしました。
「お気をつけてね、お爺さん。」
「達者でな、爺さん。」
「ああ、お前さんたちも、幸せにな。」
ワクは店を出ると、ヤエさんの杖を突いてゆっくりと町中を歩いて行きました。宿に泊まるのならば、そろそろ宿屋を探して、早めに部屋を確保しておいた方が良いでしょう。が、ワクはもうしばらく、この生き生きした世界を味わっていたい気分でした。道端に腰を下ろし、ワクは往来を眺めていました。
通りを行き来する人たちは、様々な恰好、様々な表情でワクの前を通り過ぎて行きます。急いでいる様子の人、心配そうに空を見上げる人、お互いの顔を見て笑い合う二人組、ゆったりとあちらこちらを眺めながら歩く人、立ち止まって何やら思い出し笑いのようにニヤニヤする人――。
春の暖かい陽射しの中、皆が輝いています。それぞれに、悩み事や心配事、不平不満などを抱えているのでしょう。でも、それでも、人は皆、輝いている。そんなことを全部含めて、皆、幸せに輝いている。人は素晴らしい。ワクの心は満足感でいっぱいでした。
「もしもし、お爺さん、大丈夫? 気分でも悪いんじゃないの?」
「あ? ああ、大丈夫だよ。どうもありがとう、お嬢さん。」
「やだわ、お嬢さんなんていう歳じゃないわよ。…お家はどこ? 一人で帰れる?」
「ああ。すぐそこだからな。そうだな、そろそろ帰るとするか。」
「それがいいわ。春でも夕方になると意外と冷えるからね。長生きしてもらわなくちゃ。」
「はは。ありがとうよ。お嬢ちゃんも元気でな。」
「ふふふ。」
ワクはゆっくりと立ち上がって、また歩き出しました。
(この世の中は、魅力でいっぱいだ…。)
ワク老人は、しみじみとそう思いました。
(それにしても、やっぱりここはいつか来たことがあるような町だな。さっきの店主といい、町並みといい…。)
その晩は宿屋に泊まりました。宿の人は、老人の一人旅と聞いて、特別に肩揉みをしてくれたり、何かと親切にしてくれました。
(この世の中はやっぱり捨てたもんじゃない。)
ワクは改めてそう思いました。
次の日は、何となく野宿がしたくなり、郊外に寝る場所を見つけました。
野宿は言うまでもなく、数え切れないほど経験してきました。今では――歳のせいで動作こそゆっくりになっていますが――それこそ目を閉じていても準備が出来ます。
ワクは、焚火に当たりながら、初めての野宿の晩のことを、思い出すともなく思い出していました。
(何にも知らない子供だったからな。経験なんてなくても、やれば何でも出来ると思っていた。だけど実際には、火起こしひとつをとっても、自分では難しかった。あの時、近くにあのお兄さんたちがいなかったら、あの晩はどうなっていたか。いや、あの晩だけじゃない。あの人たちから、自分は、野に生きる技術の基本を教わったんだ。あの教えが、今に至るまでずっと生きている。そうやって人と人とは支え合って、助け合って生きていくんだ…。)
しみじみとそう思うワクでした。
翌日の夕暮れ時。
もう、人はみな家へ帰る頃です。
なかなか次の集落が見えて来ないうちに、こんな頃合いになってしまいました。この分では今夜も野宿かな、と考えながらも、まあそれもいいさと、気楽に構えているワクです。
ごくまれにすれ違う人の顔も、はっきり判別出来なくなる頃、いわゆる、「誰そ彼」時に近くなってきました。最近めっきり重く感じるようになった体を、無理せずゆっくり、一歩一歩前へ運んでいると――。
薄暗がりの中、目の前に一人の少年がしゃがんでいます。十七、八歳くらいでしょうか。白っぽい犬を抱きかかえているようです。
もう少し近寄ってみます。どうやら、少年は泣いているようでした。抱きかかえている犬は、動きません。具合が悪いのでしょうか。
ワクはしばらく少年を見つめた後、優しく声をかけてみました。
「何を泣いているんだね?」
少年はワクをじっと見返してきました。
その瞬間、ワクははっとしました。その姿は、少年の頃の自分自身にそっくりではありませんか。いえ、薄暗がりの中で、しかも最近かすみ勝ちになった目で、はっきりとは見えないのです。が、その背格好が、いえ、何よりもその全身から発散する気配が、その瞳の輝きが、ワクに、今この瞬間、まるで自分自身と相対しているような感覚をもたらしました。
少年は、しばらくワクを見つめた後、言いました。
「ジロウが死んじまった。」
かすかな衝撃がワクの心に走りました。が、次の瞬間には、それはより大きな、不思議な納得感に変わりました。
(そうか。ジロウ…か。)
それから少年は、まだ時折しゃくり上げながら、老人に向かって、話し始めました。
ジロウとは生まれた時からずっと一緒だったことや、いかに大切な存在であるかということを。とにかく苦しい胸の内を、誰かに聞いてほしいという風情で、一生懸命に話しました。
少年がひとしきり話し終えると、ワクは言いました。
「生き物にはそれぞれ、与えられた寿命があるのだよ。生きられる期間がどれだけなのかは、誰にも分からない。まして、聞けば君の犬は、十七年も生きたのだろう? 大往生だよ。けれど、肝心なのは生きる時間の長さではない。大切なのは、いかに楽しんで――または苦しんでもいいが――濃い、充実したときを過ごすか、ということだ。
君の犬は君に生涯愛されて、楽しい思いをたくさんしたはずだ。
幸せだったんだよ。
君と過ごした十七年間は、犬くんにとってはかけがえのない宝なんだ。
君が旅に出るとき、迷わずついて来たんだろう? 年老いて、体はきつかったはずだ。それでもジロウは、君と一緒に来ることを選んだ。最後の最後まで、幸せだっただろうな。」
少年は、改めて愛犬の亡骸を抱きしめました。もう泣いてはいないようでした。
(そうだ、それでいいんだ。お前の人生はこれからだ。前を向いて、しっかり進んで行け。)
ワクは少年のそばをそっと離れました。
ワクは、不思議な心温まる感覚に包まれていました。今の自分が失くしかけているものを、あの少年が、忘れ物として届けてくれたような――。
あれは若い頃の自分自身だったのだろうか。顔まではっきりと見えたわけではないが、姿形はそっくりだった。が、それもまた、耄碌した自分の勘違いだったのかもしれない。
いずれにしても、彼もまた、遠い将来、自分と同じように沈んでいる少年を、慰め励ます時が来るのかも知れない。人と人とは、そのようにして永遠に繋がってゆくものなのかも知れない――。
辺りはもう真っ暗。人の顔も見えません。ワクは杖を頼りに、一歩一歩、暗闇の中へと溶け込んで行きました。
ワク老人は、黄色い菜の花と白いひなぎくが咲き並ぶ小川の土手を歩いています。まるで花の一本一本に話しかけながらのように、ゆっくりゆっくりと。
山は、その形の良い姿を、遥か遠くに小さく蒼く見せています。空気が少し埃っぽいものの、空は高く高く澄んで、風は頬に心地よく当たります。お日様の光は地上のあらゆる面に降り注いで、目に入るものすべてが輝いています。
なぜだか、懐かしい故郷へ帰って来たような気分に包まれていました。実際には、遠く、故郷から何十年も歩いた先にいるはずなのに。
(いっ、ぽ、ずつ、いっ、ぽ、ずつ、ゆっ、くり、ゆっ、くり・・・。)
心の中でゆっくりと拍子を取りながら歩きます。
モンシロチョウが二羽、ひらひらと目の前を通り過ぎます。通り過ぎしなに、ワクの頭の周りをぐるっと一回りしてから飛び去って行きました。それはまるで彼に挨拶を贈っているかのようでした。
生まれ育った家を旅立ってから何度目の春なのか、もう分からなくなっています。
たしか、あの時も春だった――。
ワクはこの土手に、あの頃の自分の姿を見る気がしていました。
山を目指し、希望をいっぱい抱えて、相棒のジロウと一緒に、故郷の町を出て、春の川沿いを歩いた。胸を張って、ワクワクしながら。自分の体に力がみなぎり、何だって出来るぞという自信、万能感に満たされていた――。
あれから、何度も何度も春が巡りました。色んな、本当に色んな人や出来事に出逢いました。そして、春は何度でも、何度でも終わりなく巡って来ます。これからも。いつまでも。
ワクは、暖かい春の陽射しの中に立ち止まり、長い間、ぼんやりとした心地よい物思いに耽っていました。
町中に入りました。
ワクは、最初に見かけた茶店へ、ゆっくりと入って行きました。
「いらっしゃい! 何にしましょか、旦那?」
「…焦がし胡麻団子ひとつとお茶を。」
「へい、まいど!」
恰幅のよい、少々頭の薄くなった店主。以前どこかで会ったような。いや、確かに、この店主の男はどこかで見たことがある。遠い昔に。それがどこだったか、ついぞ思い出すことは出来ません。いえ、初めて来た町なのですから、会ったことがある道理がありません。最近は、そのような思い違いが多くなりました。しかも頭が重く、難しい考え事は上手くまとまりません。ワクは思い出すことを早々に諦めました。仮にこの男が、自分に会ったことがあるのならば、男の方がワクを思い出すはずです。男にそんな様子がさらさらないところを見ると、やはり自分が、耄碌した頭で思い違いをしているのでしょう。
(まあ、よくあることだ。)
ワクはひとりごちました。
店主が手渡してくれた焦がし胡麻団子を、少し震える手でゆっくりと口へ持っていき、少しずつ、少しずつかじります。香ばしい香りが口の中いっぱいに広がります。同時に、心には幸福感がいっぱいに広がります。が、
(気を付けないとな。いっぺんにたくさん頬張ると、喉につかえるぞ。ケイによく注意されたではないか…。)
「美味いなあ、この団子。ご店主よ、ありがとうよ。こんなに美味い団子をこしらえてくれて。おかげで、天国に昇ったような気分だよ。」
店主は一瞬驚いた様子でしたが、次の瞬間には、嬉しそうに相好を崩しました。
「いやあ、嬉しいなあ、お爺さん。こちらこそありがとう。またいつでも食べに来てくださいよ!」
ワクもにっこりして、二、三度うなずくと、それから店内を見るともなしに見回し始めました。
老若男女、色んな人たちが楽しそうに談笑しています。茶店はいつの時代も町民の社交場、人々の一番の楽しみの場です。
小さな子供を連れた親子連れ、女性ばかりの友人同士と思われる三人組、何やら紙に書きつけたものを真剣に読んでいる男性、まだ子供のようなあどけない若者――彼は足元の犬に何やら話しかけています。皆がその場を楽しんでいる様子でした。
それからワクは、目を閉じました。そのままじっと、周囲から聞こえる、平和で幸せな日常の音を味わっていました。
すると、そのワクの耳に、何やら言い争うような声が聞こえてきます。
「そんなこと言ったって、あたしだって大変なんだから。あんた、ちょっとは考えたらどうなのよ!」
目を開けると、それはすぐ隣の席の中年夫婦でした。
「何だと! 俺は忙しいんだよ。子供のことはお前の仕事だろうがよ!」
「誰がそんなこと決めたのよ? 作ったのはあんたとあたしの二人だよ。」
「うっせえ! お前がそんなだから、あいつまでお前そっくりになって俺に文句を言いやがる!」
「言われて当然だわ。この怠け者!」
「何だと!」
男の方が叫んだ瞬間に、勢い余って手に持っていた湯呑みを振り回しました。中のお茶が、ワクの胸の辺りにかかりました。
「ああー! す、すまねえ! 爺さん、大丈夫か?」
夫婦はそろって人の好さそうな顔で、目をまん丸にしてワクを見つめます。心配そうに。
ワクは、お茶がかかったにもかかわらず、笑いが込み上げてきました。きょとんとする夫婦。
「大丈夫じゃよ。そんなことより、お前さんたち。まずは笑ってごらん。何よりもまずは笑顔だ。」
ワクは笑いながらそう言いました。
「え。」
そろってばつの悪そうな顔をする二人。それから顔を見合わせて、苦笑。
「ああ。分かったよ、爺さんの言うとおりだ。」
「ごめんなさいね、お爺さん。みっともないところをお見せしちゃって。」
「いいや、仲の良さそうなお二人を見て心が温まったよ。ありがとう。」
夫婦は照れ笑い。
ワクはゆっくりとした動作で、席を立ち、店を後にしようとしました。
「お気をつけてね、お爺さん。」
「達者でな、爺さん。」
「ああ、お前さんたちも、幸せにな。」
ワクは店を出ると、ヤエさんの杖を突いてゆっくりと町中を歩いて行きました。宿に泊まるのならば、そろそろ宿屋を探して、早めに部屋を確保しておいた方が良いでしょう。が、ワクはもうしばらく、この生き生きした世界を味わっていたい気分でした。道端に腰を下ろし、ワクは往来を眺めていました。
通りを行き来する人たちは、様々な恰好、様々な表情でワクの前を通り過ぎて行きます。急いでいる様子の人、心配そうに空を見上げる人、お互いの顔を見て笑い合う二人組、ゆったりとあちらこちらを眺めながら歩く人、立ち止まって何やら思い出し笑いのようにニヤニヤする人――。
春の暖かい陽射しの中、皆が輝いています。それぞれに、悩み事や心配事、不平不満などを抱えているのでしょう。でも、それでも、人は皆、輝いている。そんなことを全部含めて、皆、幸せに輝いている。人は素晴らしい。ワクの心は満足感でいっぱいでした。
「もしもし、お爺さん、大丈夫? 気分でも悪いんじゃないの?」
「あ? ああ、大丈夫だよ。どうもありがとう、お嬢さん。」
「やだわ、お嬢さんなんていう歳じゃないわよ。…お家はどこ? 一人で帰れる?」
「ああ。すぐそこだからな。そうだな、そろそろ帰るとするか。」
「それがいいわ。春でも夕方になると意外と冷えるからね。長生きしてもらわなくちゃ。」
「はは。ありがとうよ。お嬢ちゃんも元気でな。」
「ふふふ。」
ワクはゆっくりと立ち上がって、また歩き出しました。
(この世の中は、魅力でいっぱいだ…。)
ワク老人は、しみじみとそう思いました。
(それにしても、やっぱりここはいつか来たことがあるような町だな。さっきの店主といい、町並みといい…。)
その晩は宿屋に泊まりました。宿の人は、老人の一人旅と聞いて、特別に肩揉みをしてくれたり、何かと親切にしてくれました。
(この世の中はやっぱり捨てたもんじゃない。)
ワクは改めてそう思いました。
次の日は、何となく野宿がしたくなり、郊外に寝る場所を見つけました。
野宿は言うまでもなく、数え切れないほど経験してきました。今では――歳のせいで動作こそゆっくりになっていますが――それこそ目を閉じていても準備が出来ます。
ワクは、焚火に当たりながら、初めての野宿の晩のことを、思い出すともなく思い出していました。
(何にも知らない子供だったからな。経験なんてなくても、やれば何でも出来ると思っていた。だけど実際には、火起こしひとつをとっても、自分では難しかった。あの時、近くにあのお兄さんたちがいなかったら、あの晩はどうなっていたか。いや、あの晩だけじゃない。あの人たちから、自分は、野に生きる技術の基本を教わったんだ。あの教えが、今に至るまでずっと生きている。そうやって人と人とは支え合って、助け合って生きていくんだ…。)
しみじみとそう思うワクでした。
翌日の夕暮れ時。
もう、人はみな家へ帰る頃です。
なかなか次の集落が見えて来ないうちに、こんな頃合いになってしまいました。この分では今夜も野宿かな、と考えながらも、まあそれもいいさと、気楽に構えているワクです。
ごくまれにすれ違う人の顔も、はっきり判別出来なくなる頃、いわゆる、「誰そ彼」時に近くなってきました。最近めっきり重く感じるようになった体を、無理せずゆっくり、一歩一歩前へ運んでいると――。
薄暗がりの中、目の前に一人の少年がしゃがんでいます。十七、八歳くらいでしょうか。白っぽい犬を抱きかかえているようです。
もう少し近寄ってみます。どうやら、少年は泣いているようでした。抱きかかえている犬は、動きません。具合が悪いのでしょうか。
ワクはしばらく少年を見つめた後、優しく声をかけてみました。
「何を泣いているんだね?」
少年はワクをじっと見返してきました。
その瞬間、ワクははっとしました。その姿は、少年の頃の自分自身にそっくりではありませんか。いえ、薄暗がりの中で、しかも最近かすみ勝ちになった目で、はっきりとは見えないのです。が、その背格好が、いえ、何よりもその全身から発散する気配が、その瞳の輝きが、ワクに、今この瞬間、まるで自分自身と相対しているような感覚をもたらしました。
少年は、しばらくワクを見つめた後、言いました。
「ジロウが死んじまった。」
かすかな衝撃がワクの心に走りました。が、次の瞬間には、それはより大きな、不思議な納得感に変わりました。
(そうか。ジロウ…か。)
それから少年は、まだ時折しゃくり上げながら、老人に向かって、話し始めました。
ジロウとは生まれた時からずっと一緒だったことや、いかに大切な存在であるかということを。とにかく苦しい胸の内を、誰かに聞いてほしいという風情で、一生懸命に話しました。
少年がひとしきり話し終えると、ワクは言いました。
「生き物にはそれぞれ、与えられた寿命があるのだよ。生きられる期間がどれだけなのかは、誰にも分からない。まして、聞けば君の犬は、十七年も生きたのだろう? 大往生だよ。けれど、肝心なのは生きる時間の長さではない。大切なのは、いかに楽しんで――または苦しんでもいいが――濃い、充実したときを過ごすか、ということだ。
君の犬は君に生涯愛されて、楽しい思いをたくさんしたはずだ。
幸せだったんだよ。
君と過ごした十七年間は、犬くんにとってはかけがえのない宝なんだ。
君が旅に出るとき、迷わずついて来たんだろう? 年老いて、体はきつかったはずだ。それでもジロウは、君と一緒に来ることを選んだ。最後の最後まで、幸せだっただろうな。」
少年は、改めて愛犬の亡骸を抱きしめました。もう泣いてはいないようでした。
(そうだ、それでいいんだ。お前の人生はこれからだ。前を向いて、しっかり進んで行け。)
ワクは少年のそばをそっと離れました。
ワクは、不思議な心温まる感覚に包まれていました。今の自分が失くしかけているものを、あの少年が、忘れ物として届けてくれたような――。
あれは若い頃の自分自身だったのだろうか。顔まではっきりと見えたわけではないが、姿形はそっくりだった。が、それもまた、耄碌した自分の勘違いだったのかもしれない。
いずれにしても、彼もまた、遠い将来、自分と同じように沈んでいる少年を、慰め励ます時が来るのかも知れない。人と人とは、そのようにして永遠に繋がってゆくものなのかも知れない――。
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