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『傷心』
其の拾 ★
しおりを挟む弓形弦月が、曇天に張りついている。時折、雲間からもれる月光が、清々しい夜だ。
時刻は三更入り、初秋の冷たい風は、武官宿舎の一室に懊悩を運びこみ、李蒐を今夜も眠れなくする。前立物の武礼冠を外し、補子のついた官服を脱ぎ、縁側で一人、ぼんやりと鳥篭離宮をながめていた李蒐は、中でうごめく人影に気づき、忌々しげに舌打ちした。
さて、そんな折も折。彼の居室に、珍客が現れた。
「おう、李蒐。まだ起きていたのか?」
板戸を開け、隙間からひょいと顔をのぞかせたのは、同役の武官《宗阮》だった。
寡黙で神経質な李蒐は、文武ともに群を抜いて秀でながら、董家武官の中では、浮いた存在だった。しかし宗阮は、そんな彼に唯一平気で近づいて来る、人懐っこい同役だった。
李蒐の方も、彼の場合に関しては、殊更に嫌がる風もなく、迎え入れる体勢を見せた。
「なんだ、宗阮か……お前こそ、珍しいな。こんな夜更けに、俺の部屋に来るなんて。今日は非番ゆえ、遊郭に出向くんじゃなかったのか? それとも、馴染みにフラれたか?」
普段は生真面目な李蒐からも、明朗な彼が相手なら、ついつい冗談も出る。
「ふん……勘がいいな。図星だ。クソ……他の大尽客に、持ってかれちまった。だから今夜は、自棄酒だ。他の奴らは熟睡しているし……すまんが、つき合ってもらうぞ、李蒐」
「……仕方ないな。一杯だけだ」
「ありがたい」
宗阮はニヤリと笑い、李蒐の居室へ足を踏み入れた。李蒐が進める円座へ腰を下ろす。
ここで李蒐は気づいたが、今宵の宗阮は、奇妙なものを持参して来ていた。
「しかし……瓢箪酒とは、珍しいな」
「なに、骨董屋で見つけたのさ。なかなか、いい代物だろ?」
赤茶けた表面をひとなでし、得意げに語る宗阮だ。李蒐は苦笑いした。
「大徳酒か?」
「いや、七宝酒だ。まぁ、呑め」
やはり宗阮が持参した酒盃を受け取ると、すぐに『七宝酒』をナミナミと注がれた。
酸味の強い発酵酒だ。李蒐は、なんの疑いもなく、酒盃に口をつけ、一気に呑み干した。
クラリ……と、突然めまいがしたのは、三杯目を口に含んだ直後だったろうか。
遠くで宗阮の声が聞こえる。
「しかし、男同士で酌とは、いささか味気ないな……李蒐、喂」
コトッと、李蒐の手から縁側の床板へ、酒盃がすべり落ちた。宗阮はご満悦である。
「哈哈、眠ったか……どうやら、もう『蠱惑酒』の効き目が、現れたようじゃ喃」
そのまま、横倒しになりそうな李蒐の体を支え、隣室の臥所へ運び、横たえてやった宗阮……いや、一角坊は、蠱惑酒の効能を最大限に活かし、早速、李蒐の夢を窃視し始めた。
…………………………………………………………………………………………………………
『誰……誰です? お願いだから、もう、ここには来ないで……』
ならば、もっと声を荒げればいい。本当は、待っていたんでしょう? 俺のことを。
『やめて……どうか、許して……こんなことが、夫に知れたら……ああっ!』
可愛い人、こんなに寝乱れて、秘所を濡らして……俺をもとめている! たまらない!
あんな、放埓な浮気者のことなど、すぐに忘れさせてあげますよ、水沫さま……。
『今なら、まだ……うっく、ま、間に合う、から……もう、やめ……あぁあ、あん!』
判っているんだ。俺が誰だか、きっと……こばまないで、優しくするから……だってあなたも、俺を欲しているじゃないですか。この薄化粧は、誰のためのものですか? 今夜もあの、『夜さりの残夢』を唄っていたのは、俺への合図だったんでしょう? 朱薇が浮気相手の元へ去って、今宵の閨は寂しいからと……俺に、こうして会いに来て欲しいと!
『ううっ……ハァ、ハァ、お願い……どうか、子種だけは……はうぅっあぁあっ、あっ!』
また、達してくれた! 俺の、俺のモノで……信じられない! 啊、水沫さま! 愛しています……誰よりも、なによりも、あなたが好きです! 今だけは、俺を感じていてください! 子種だって、本当は欲しいはずだ……間抜けな朱薇になら、気づかれまい!
『嫌っ……ダメぇ! あんっ、あんっ……んぐ!』
静かに……誰か来た。そう、唇をふさいでしまおう、俺の唇で……啊! なんて甘くて、かんばしい……こんな御方を捨ててまで、他の女に走るなんて、朱薇はイカレてるんだ!
『ん……んんっ…………あぁ……』
そう……静かに、大丈夫。気づかずに、往ってしまいましたよ。でも……そろそろ宿舎に戻らねば……名残惜しいけれど、もう一度だけで、今夜は帰りましょう。必ずまた、会いに来ますよ、水沫さま……この世で、最も美しく、この世で最も、愛おしい御方……。
…………………………………………………………………………………………………………
あぁあっ……何故だ、何故! 水沫さまが、自害するなんて……嘘だ! 悪い夢だ!
俺のせいなのか、やはり……俺のせいなんだ! いや、ちがう! 董朱薇……あいつさえ、水沫さまを苦しめなければ、あんな鳥篭に、幽閉してしまわなければ、俺がいつでも、慰めて差し上げられたのに……畜生っ! 朱薇が憎い……許せない! 殺してやりたい!
だが、それより、なにより……彼女を救えなかった、この俺自身が一番、許せない!
罰を与えねば……人生の半分を、闇の中で過ごされた水沫さまと同じように、俺自身も、闇の中へ叩きこんでやる! 水沫さま……あなたさまに捧げます! 俺の、この片目を!
『うぐっ……くくっ、あぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあっ!』
…………………………………………………………………………………………………………
ここで、唐突に李蒐の夢は途切れた。
いや、一角坊が目を開けた途端、窃視が終わったのだ。
「なるほど、それで眼帯を……しかし、この男の愛執には、凄まじいものがある喃」
一角坊は、暗い表情で、酒瓢箪に栓をしながら、行灯の火を消すと、李蒐の枕元へ端座した。その間も、李蒐は相変わらず、両手を宙でかき回すようにし、うなされている。
「しかし、この男は、水沫の方を殺した犯人ではない。では一体……誰が」
その時であった。
「喂、一角坊……ちょっと、来てくれねぇか」
「那咤か? 随分、早かった喃……なんじゃい?」
縁側から、一角坊に声をかけたのは、不寝番に化けた那咤霧だった。
「夜叉面と宿喪にも、顔つなぎして来たトコだ。とにかく、一緒に来てくれ」
いつになく真剣な那咤霧に急かされ、一角坊は李蒐武官の寝顔を振り返りつつ、足早に回廊へ出た。鳥篭離宮が見える位置まで移動する。その途中で、一角坊も気づいたようだ。
「あれは……あの天狗面は、よもや……《朱牙天狗》!?」
「いいえ、ちがいます」
鳥篭離宮へと続く太鼓橋手前、回廊欄干と灌木の茂みで、丁度死角になっている場所に、夜叉面扮する典磨老が、じっとしゃがみこんでいた。侍女・樺蓮役の宿喪も一緒である。
一角坊と那咤霧も、慌ててその場へ身をかがめた。
「ありゃあ、どうも、キナ臭ぇな……」
「嫌な予感が……いや、嫌な予感しかせん喃」
「そうであろう? 吾も、気鬱で仕方ない」
予期せず出そろった【鬼凪座】四人衆は、互いの顔を見合わせ、次いで太鼓橋を渡る天狗面の男に視線をやり、杞憂に満ちた声音で、斯くつぶやいた。夜叉面が事情を説明する。
「実は、つい先程、こんなことがありましてね……」
…………………………………………………………………………………………………………
出仕から帰参し、居室で休んでいた楚白は、よほど疲れていたのか、そのまま転寝を始めた。静かな寝息だけが、室内に響く。ところが寸刻後、楚白は突然、目を覚ました。
「私は、またしても楚白が、蛍拿の元へ往くのではと、気をもみながら監視していたのですがね……その後の楚白の行動は、いつもとちがい、かなり奇妙なものだったのですよ」
まず、元結髷を解き、髪をザンバラにした。高価な長袍は脱ぎ捨て、奥の納戸から葛篭を引っ張り出すと、そこに仕舞っておいたボロボロの衣装を着つける。しかし、なにより夜叉面を瞠目させたのは、最後に楚白が素顔へつけた、真っ赤な『天狗面』だった。
〈あれでは……まるで、【朱牙天狗】ではないか!〉
そう、夜叉面を驚愕させた天狗面と、襤褸蓬髪姿は、楚白の身体つきなどから、かなり本物とは異なるものの、後宮菊花殿で憤死した異相の修験者を、どことなく彷彿させるものだったのだ。天狗面をかぶった楚白は、やはりボロけた深沓で、右足首の古傷を念入りに隠すと、ゆっくり居室から出た。そうして変装した上で、目指す先は、やはり蛍拿を幽閉した鳥篭離宮であった。夜叉面は、ついに激昂した。
〈蛍拿をいたぶり、さいなみ、嬲り者にするだけに飽き足らず、朱牙天狗の姿で逢いに往き、彼女をさらに懊悩の淵へ貶めるつもりだな! もう、これ以上は我慢ならない! すみません、座長! 今度ばかりは、あなたの脚本に逆らいますぞ! 勝手ながら、筋書きを変えさせて頂きますぞ! 楚白には、今宵の内にも、相応の罰を受けてもらいます!〉
ところが、楚白のあとに続き、独鈷杵を片手に鳥篭離宮へ近づいた夜叉面は、太鼓橋の手前で蛍拿の声を聞き、立ち止まった。それは、喜びと活気に満ちあふれた声音だった。
「青耶さん! 今夜も来てくれたのね?」
「勿論だよ、蛍拿。でも、そんな大きな声を出したら、見つかってしまうよ?」
「啊、ごめんなさい……つい、うれしくて……」
「ありがとう、蛍拿。君にそう云ってもらえると、僕も本当にうれしいよ」
太鼓橋の向こう、鉄格子の扉をはさんで、楽しげに話しこむ蛍拿と楚白。
夜叉面は、愕然となった。
〈蛍拿? 何故……あの男に……まさか、騙されているのか?〉
夜叉面は、二人の会話に耳をそばだてながら、ますます混迷の度合いを深めていた。
その中で、聞き逃せない一言があった。蛍拿は楚白を、《青耶》と呼んだのだ。
〈今、確かに奴を『青耶』と呼んだ……やはり、楚白だとは思っていないのだ!〉
つまり、蛍拿は楚白が扮する青耶なる人物に、すっかり騙され、心を許してしまっていることになる。憎い仇であるはずの楚白に……これは忌々しき事態だ。とても、黙って見てなどいられない。夜叉面は、奮い立った。独鈷杵をにぎる手に、いよいよ力をこめる。
〈奴の化けの皮を、すぐにはがしてやる!〉
ところが、その時、新たな人の気配を察知して、夜叉面は急ぎ独鈷杵を仕舞った。
『夜叉面、待て。前にも云っただろ。奴に手出しは無用だ』
…………………………………………………………………………………………………………
「それが、あろうことか座長だったのです」
夜叉面の言葉に、一角坊は目を丸くした。
「なに? 座長がここへ、来たのか?」
「吾は、すれちがいだったがな。朴澣のヤツ、なにを考えているのやら、さっぱり判らん」
宿喪は不機嫌そうに、美しい顔をしかめている。
「あいつの自分勝手な秘密主義にゃあ、時々どうにもムカッ腹が立つぜ!」
那咤霧に至っては、イライラした様子で舌打ちまでする始末だ。
「それで、座長はなんと?」
「座長は、いつになく神妙な面持ちで、こう云いました」
…………………………………………………………………………………………………………
『青耶と名乗っている時の楚白には、絶対に手を出すんじゃねぇ。アレには、深い意味があるんだ。だから、邪魔しねぇでやってくれ。蛍拿だって、奴の来訪を喜んでいるだろ?』
…………………………………………………………………………………………………………
「確かに、喜んどるようだが、あれは……」
一角坊は、太鼓橋の向こう側、鉄格子をはさんで、楽しげに会話する二人の姿を、憐憫に満ちた目で見やった。そういう点では、夜叉面も、宿喪も、まったく同じ気持であった。
「とにかく、監督の指示だ。仕方ねぇ……今だけは、大目に見てやるさ。なんにせよ俺は明日、別の役でまたここに現れるぜ。そうすると、色々忙しくなるからな。そろそろ寝かしてもらうぜ……けっ、やっぱ降りときゃよかったぜ。やってられっかよ、こんなクソ芝居!」
辛辣に吐き捨てる那咤霧は、もう鳥篭離宮を見るのも厭わしいとばかり、そっぽを向き、足元の石くれを思いきり蹴飛ばし、泉へ放りこむと、不寝番宿舎へ帰って往ってしまった。
突然、響き渡った派手な水音に驚き、ハッと身がまえる蛍拿と《青耶》から、急いで身を隠し、典磨老と樺蓮、宗阮も、結局その場はスゴスゴと、引き下がるを得なかった。
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