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『鬼憑き』
其の四
しおりを挟むそこは大湖に面した釣殿で、板張り朱塗り支柱の八角堂であった。
七方の壁板を外し、夜風が抜ける涼やかな舞台造りになっていた。
広さは対角が約三十間、八方に盛り塩、注連縄と紅米が魑魅魍魎の侵入をこばみ、神域を天地で結んでいる。壁板の残る一箇所には、真諦教の天帝《摩伽大神》を描いた神体画が掛けられ、護摩壇は八角堂中央に張られた四橛結界内部へ、すでに組み上げられていた。
暗い湖面に映る不気味な赤い忌月。月齢満願を告げるかの如く、闇夜に響く鵺の吟声。
「ここから先は、姫君と舜啓殿主従以外には、ご遠慮願います。危険が伴いますゆえ」
「皆さまには先刻お伝えした通り、我らが持参した御神酒を、一口なりとも必ず身に入れて頂くよう、かさねてお願い申しますぞ。姫君御身よりさまよい出た鬼神が、皆さまの身の内に巣喰わぬための禊が聖水……御身命を案ずるならば、是非もなく。なに、酔うほどの酒気は含んでおりませぬゆえ、ご案じ召されるな」
修験者二人の用命に従い、釣殿の八角堂太鼓橋を渡れたのは、美甘姫と見届け役の舜啓坊、彼の侍従僧二人を含む、六名のみだった。あとの侍女や閹官家臣、側用人などは、湖水をはさんだ向こう岸から見守ることとなった。
「今宵の趣向は夜神楽か、舞手は誰じゃ?」
美甘姫は、己の背負いこんだ鬼業の重大さが少しも判らぬと見え、天真爛漫に訊ねる。
雅奄居士は手始めに、儀式の要点を、まるで童女の如き姫君にも判りやすく説き砕いた。
「姫さま、あなたさまには悪い鬼めが憑いています。そやつを今宵、我らがお祓いしようとまかり越した次第。お命に関わる大事ですゆえ、これから私が云うことをよく聞き、お守りください。ひとつ、結界に入ったら我らの指示に従うこと。二つ、なにが起きても結界を決して出ないこと。三つ、誰に呼ばれても絶対に返事をしないこと。上手く、この三つを守れたあかつきには、姫さまの願い、我らがなんなりと、叶えて差し上げましょう」
真剣に語る雅奄居士の黒い隻眼を、美甘姫は挑むように見すえ、鼻で嗤って悪態をつく。
「では……そなたの素顔を見せておくれ。わらわはどうしても見たいぞ。閻魔の顔をのう」
「姫さま! 戯言はおやめなされ! 聖人さまに対し、無礼でございましょう!」と、青筋立てる舜啓坊を手で制し、雅奄居士はうなずいた。
「いいでしょう、かまいませんよ。姫さまにだけ、そっとお見せ致しましょう。但しつまらぬ悪相ゆえ、見たあとでお気を悪くせぬとよろしいが」
この間、五彩色顔料で中央床板に、曼荼羅を配していた天幻坊。舜啓主従は緊張した面持ちで、邪魔にならぬよう心がけ、四橛結界の外に待機する。はるか対岸の船着場を見やり、儀式に間に合わなかった聖戒王を案じつつも、待つことをあきらめた彼ら。修験者二人はあらためて経帷子へと着替え、片足の不自由な雅奄居士を天幻坊が介助し円座に着かせた。
準備がつつがなく整ったところで、いよいよ美甘姫の鬼祓い祈祷が始まった。
護摩壇に火が焼べられ、七神木が妖しい七色の香烟をくゆらせる。
湖面を渡る夜風が注連縄の幣束を揺らし、甘ったるい香気を対岸桟敷へと運ぶ。
息を詰めて見守る、閹官女官の鼻先をくすぐり、気だるくつつみこむ香烟。
丁度そこへ、渡殿から酒器を手に手に、侍女数名が現れた。
「どうぞ、お召し上がりを。聖人さまがご用意くだされた、鬼除けの神酒でございます」
浅黄小袖に褶姿の侍女たちが、甲斐甲斐しく酒盃を配り、白磁の瓶子で皆に酌をする。
「なんだ、お前たち。別邸詰めに替わったはずではなかったのか? いつの間にこちらへ戻ったのだ?」と、怪訝そうに、侍女たちの無表情を見つめるのは、先刻の髭面家臣だ。
だが返事を待たず、横合いから瓶子をかたむける侍女に、髭面家臣は興味をうつした。
「……お前、見かけぬ顔だな。新入りか?」
「はい」
お多福ぞろいの侍女の中、色白で鼻筋の通った端整な顔立ちの美女に微笑まれ、うっとりと見惚れる髭面家臣だった。酒盃を口に運びながら、早くもぼんやり夢見心地となった。
「名は、なんと申す?」と、大事を忘れてニヤつく髭面家臣に冷水を浴びせるが如く、鞨鼓の叩音が勇壮に鳴り響いた。
修験者たちの、荒々しい『光明真言』諷経が始まったのだ。
『……唵 阿謨伽 尾嚧左曩 摩訶母捺羅 摩抳 鉢納麼 入縛攞 鉢羅韈哆野 吽!』
印契を結び、平玉の数珠をたぐり、一心不乱に読経する雅奄居士。
かたわらで卍模様の鞨鼓を、激しく打ち鳴らす天幻坊。九度叩いては一拍入れて、燃えさかる護摩壇に、種字を綴った九十九札を焼べていく。濛々と火の粉が舞い上がる。
中央の曼荼羅上に横たわる、白装束の美甘姫は、口に鬼除けの樒葉をくわえ、愉しげにその様子をながめている。湖畔の浅瀬で八角堂を支える太い柱に、打ち寄せる波音がどことなく不穏だ。舜啓坊は、酒気も味気もない御神酒を、ひと息に呑み干した。
彼の袖を侍従の若沙弥が引き、おずおずとささやいたのは、その時だ。
「僧正、鵺の声が……近づいて来ます」
若沙弥の懸念通り、先刻からはるけし大湖を啾々と伝っていた鵺のかすかな吟声が、徐々に大きく、明瞭に聞こえ出したのだ。直後、今一人の若沙弥が、湖面を指差し、絶叫した。
「そっ、僧正! あそこに、人影が!」
「なにを、莫迦な! 湖面に人なぞ……うぬっ!」
若沙弥が示す方角、暗い湖上に水輪を広げ、ゆっくりこちらへ歩いて来る巨影――人であろうはずがない。女の悲鳴に似た妖しい鵺吟を発しているのも、どうやらあの影らしい。
「……啊、あ、あれは……あの影は!」
怪士の接近に目を瞠り、思わずうろたえて座を崩す舜啓主従へ、天幻坊の大喝が飛んだ。
「静かに! 声を立ててはいかん!」
一瞬そちらに気を取られ、目を離した隙に、湖面を渡る妖しい巨影は消えていた。
いや、すでに彼らの手がかりまで、肉薄していたのだ。
「ふふ、ふふふ……」
突然笑い出したのは、曼荼羅上に仰臥する美甘姫だ。くわえた樒がヒラリと落ちる。
雅奄居士の読経と、天幻坊の鞨鼓もピタリとやむ。
そして、カッと目をむいた雅奄居士。
「来る!」
同時に、八角堂を揺るがす凄まじい衝撃が、ドドオォォン……と、床下から突き上げた。
護摩壇は崩れ、四橛結界は破れ、舜啓主従の体は宙に浮き、修験者二人も横倒しとなる。
しかし、これほどの衝撃にもかかわらず、唯一人美甘姫だけは少しも動じない。
舞い上がる曼荼羅の、五彩色顔料が白装束に降り注いでも、床板に張りつき笑っていた。
それもそのはず。
よく見れば彼女の全身には、床板から伸びた木の根が、血管の如く張り廻らされていた。
しかもその根、触手のように素肌を這い、姫君御身をくまなく侵蝕し、伸び続けている。
「ふふ、くすぐったいのう……ふふ」
『哈哈哈……』
美甘姫の含み笑いにかさなって、床下からも不気味な獣声が嘲嗤う。
舜啓坊は、震えてしがみつく二人の若輩僧侶を押しのけた。
密かに隠し持っていた懐刀を抜き払う。
「おのれ! 鬼畜の分際で、我らの大事な姫さまに穢い触手を伸ばすなぞ、不届き千万!」
舜啓坊は、殺気立った激語を発し、美甘姫を救わんと、必死に駆け寄ったのだが――、
「舜啓殿! 迂闊に近づいてはいかん!」
雅奄居士が叫んだ瞬間、強烈な打撃を受けた舜啓坊の巨躯は、跳ね飛ばされ、八角堂欄干を突き破り、湖水へと転落してしまった。
派手な水音と飛沫が上がり、慌てた若沙弥二人が、暗い水面へ僧正を助けに向かう。
ところが、八角堂での大騒動を目撃しながら、対岸桟敷の家臣一同……助太刀せんと太鼓橋を渡って来る者が誰もいないのだ。呆れることに、むしろ桟敷席は、観劇でも愉しむような風情である。太平楽に盃あおる酒席の面々は、女官も閹官も武官も側用人も、ぼんやり心地よさそうな酔夢眼。時に意味不明な歓声を飛ばし、時に拍手まで送る始末。
実は対岸の一同にも、恐ろしい異常事態が起きていた。
けれど今、驚くべきは、美甘姫を取り巻く状況の激烈な悪化である。
若沙弥たちに手助けされ、ようやく釣殿の縁につかまった舜啓坊。
彼が、そこに見た光景とは……複雑にからみ合った木の根の巨大編み篭へ、完全に閉じこめられた美甘姫の、異様な姿であった。朱一色に染まる装束で身をつつみ、胎児の如く縮まる彼女は、意識を失った挙句、なんの支えもなしに、体を宙へと浮かしていたのだ。
その姿は、乾燥した酸漿の宿存萼網状脈が、艶やかな赤い実をつつむ情景に酷似。
しかも、支柱や床板へ深々と根づいた巨大な鬼灯篭は、不気味にうごめき、脈打っては、八角堂を侵略する。最早、崩壊寸前の危険な状態である。
さらに鬼灯篭の天井部から、獰悪な獣のうなり声が響き、恐々と見上げた一同……絶句。
なんとそこには、八尺強の黒光る巨影、異形の怪物が、不気味な邪眼で炯々と、八角堂を睥睨していたのだ。そのおぞましさと云ったら――巨体をおおう濡れ羽色の獣毛、隆々たる筋肉で盛り上がり、不自然にゆがんだ骨格、虎より狂猛な面がまえ、柘榴の如く呪気を孕んだ深紅の複眼に、黄金の瞳も四つ、頭部には彎曲した二本角、眼窩の上にも二本の小角、長い手足は八肢、爬虫の如くヌメヌメとした尻尾がしなり、鬼灯篭へとからみついていた。
「……お、おおっ、鬼だぁあ!」
「啊! 天帝……どうか、お助けを!」
「信じられん……こんな、化け物!」
舜啓主従は顔面蒼白で凍りつき、腰を抜かさんばかりに驚倒する。しかし雅奄居士と天幻坊は冷静さを失わず、鬼神の醜悪な姿をまっすぐ見すえて、感情を抑制し、問いかけた。
「その方……壊劫穢土より現れた【卍巴四鬼神】が一鬼《未伽始羅》に、相違ないな?」
『いかにも……我が名は未伽始羅。約束通り今宵が刻限ゆえ、月齢満願の贄として、この処女を頂いて逝くぞ……その前に、まずは地獄の露祓い……貴様らの首を手土産に喃……』
耳まで裂けた真っ赤な豺狼口をゆがめ、凶悪に嗤う鬼神《未伽始羅》――美甘姫を内包した鬼灯篭を、蜘蛛状八肢で器用に逆さ伝い、するすると八角堂へ降り立った。
そして、本当に血生臭い惨劇が幕を開けたのは、この直後であった。
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