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第42話 風の灯を継ぐ日
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翌朝、デールの空は曇っていた。
東の森から漂う霧が山肌に沿って流れ、風車の羽根を柔らかく覆っている。
丘の上の古い館――風譜の館の鐘が短く鳴ると、街の人々が静かに顔を上げた。
その音を聞いて、リィナは筆を止め、窓を開ける。
「……雨が来そう。」
森の香りが部屋に差し込む。湿った空気の奥に、どこか懐かしい“理の響き”が混じっているのを彼女は感じた。
アレンは書きかけの紙束を手に立っていた。
「降る前に、もう少し書いてしまいましょう。」
「昨日から一日も休んでませんよ。」
「年のせいです、眠れないだけですよ。」
リィナは呆れ顔で笑い、ペン立てを直した。
机の上には未完成の書が広がっている。表題は『風の証書 第二稿』。
そこには、再構築から十年の歳月で変わった世界の記録が、細かい文字で綴られていた。
「不思議ですね。」リィナが呟く。
「あなたの“理”が終わってもう十年。けれどまだ、どこかで何かが動いてる。」
「理は止まりませんよ。」アレンの声は穏やかだった。「呼吸と同じです。僕たちが書く言葉さえ、風の一部です。」
リィナは頷き、机の上の小瓶を見た。透明な液体の中で、青い光が微かに瞬いている。
「これ、あの子たちから届いたんですよ。南の森の子どもたちが、“風の種”を作ったって。」
「自分たちで風を生む装置を?」
「ええ。新しい風を呼ぶための、森の理ですよ。」
アレンの口元に笑みが浮かんだ。
「もう、僕たちが理を教える時代じゃないですね。」
「そうですね。今は……子どもたちが自分で理を遊んでる時代。」
アレンは筆を置き、椅子の背に身を預けた。
風がカーテンを揺らす。机の上の紙片がはらりと宙を舞い、一枚が床に落ちる。
リィナが拾おうとして、その内容に目を留めた。
紙の隅には、彼の震える筆跡でこう記されていた。
――『私はそろそろ、“記す者”ではなく、“託す者”でありたい。』
「……もう旅に出るつもりですか?」
彼は曖昧な笑みを浮かべる。
「やり残した場所がひとつあります。北東の孤塔――旧神殿跡です。」
「そこは、王都の理が眠っている……。まさか。」
「封印はまだ完全ではありません。放っておけば、またいつか誰かが触れる。」
「行かせません!」リィナが思わず声を上げた。「あなたが何度も死にかけた場所じゃないですか!」
アレンは静かに彼女を見た。
「だから、僕が行かなければ。」
雨が窓を叩き始めた。
外の空気が一気に冷えていく。
ふたりの沈黙の中で、風車の軋む音がゆっくりと響いた。
◇
出立は三日後だった。
デールの街から北へ馬車が続く。
リィナは見送りに来ていた。森の子どもたちも手を振り、風車の上に花の旗を掲げる。
アレンは杖を手に、軽く笑った。
「そんな顔をしないでください。帰ってきますよ。」
「嘘でもいい、帰るって言ってください。」
「約束します。」
ふたりの視線が交わる。風の中で言葉は短く消えた。
馬車が丘を越え、森の端に消えていく。
リィナはしばらくその音を追い続け、やがてゆっくりと目を閉じた。
「また……風に呼ばれて行くのね。」
◇
アレンが孤塔へ辿り着いたのは、一週間後。
霧が深く、塔は半ば崩れながらもなお立っていた。
内部には苔に覆われた石像と、かつて神の理を扱っていた装置の残骸。
しかし、その中央だけが光を帯びていた。
「まだ動いているのか。」
手を翳すと、光はアレンの掌に反応して脈打った。
そこには何かの意志があった。
――“再構築者よ、記録を更新しますか?”
それは装置の機械的な声とは違った。柔らかく、まるで夢の中の囁きのよう。
「世界はもう、僕の理を越えた。更新する必要はない。」
――“では、何を残しますか?”
アレンは静かに目を閉じ、呟いた。
「……人の願いを。」
装置の光が青から金へ変わってゆく。
塔全体が低く唸り、崩れかけた壁が光に包まれる。
アレンは杖を置き、その場に膝をついた。
「リィナ。もしこの風がそっちへ届くなら……君に、託したい。」
彼は懐から一冊の小さなノートを取り出した。『風の証書 原本』と書かれたそれを、光の中に掲げた。
「これが、僕の全部です。」
風が吹いた。
塔の天井がひび割れ、光が空へと放たれる。
その瞬間、デールの街でも同じ光が見えたという。
◇
数日後。
リィナのもとに一通の手紙が届く。
それは王都記録院を経由して届けられた不思議な包みで、中には小さな透明石が入っていた。
風綴りの新しい型、その中にアレンの声が刻まれていた。
『――リィナ。これを聞いたなら、僕はもう風の中でしょう。
でも悲しまないでください。風は死なず、ただ新しい形になるだけです。
僕はきっと、誰かの言葉の中に還ります。あなたが筆を取るたび、そこにいます。
これからの世界を、記す者たちに託します。
“理”が生まれたのは、誰かに伝えたいという“願い”のためだった。
どうか世界を、誰かの声で満たしてやってください。』
声が消えると同時に、透明石が音もなく割れた。
その欠片から光が零れ、窓の外へと溶けていく。
リィナは両手を胸に当て、涙を流しながら囁いた。
「……あなたの風、ちゃんと届きました。」
◇
半年後。
風譜の館には新しい一室が増えていた。
奥の部屋には丸い机が置かれ、その中央には“光の風見”が据えられている。
風を記録し、音へ変える装置。
その横に、リィナが書き上げた新しい書が並べられていた。
『風の律(おきて) 第一章 語り継ぐ理』
『再構築記 続章 灯を継ぐ道』
妥協のない細筆の跡と、端に刻まれた小さな署名。
――アレン・クロード。
彼女は窓を開け、ゆっくりと息を吐いた。
外では、子どもたちが新しい風車を組み立てている。
金属の羽が太陽に反射し、風の声を叶えるように鳴った。
「あなたの理は、もう人々の中にある。」
彼女は微笑み、筆を取る。
新しい頁の一行目に、静かに書き記した。
――『この風を聴く時、そこに“あなた”がいる。』
その文字が風に乗り、広間へと舞う。
屋根の上で鳴る風鈴が答えるように、軽く響いた。
外は晴れ渡っていた。
リィナは窓辺に立ち、どこまでも続く空へ手を伸ばした。
その風の向こうには、見えぬ誰かが歩き続けている。
語ることをやめない声が、確かに今もこの世界を満たしていた。
東の森から漂う霧が山肌に沿って流れ、風車の羽根を柔らかく覆っている。
丘の上の古い館――風譜の館の鐘が短く鳴ると、街の人々が静かに顔を上げた。
その音を聞いて、リィナは筆を止め、窓を開ける。
「……雨が来そう。」
森の香りが部屋に差し込む。湿った空気の奥に、どこか懐かしい“理の響き”が混じっているのを彼女は感じた。
アレンは書きかけの紙束を手に立っていた。
「降る前に、もう少し書いてしまいましょう。」
「昨日から一日も休んでませんよ。」
「年のせいです、眠れないだけですよ。」
リィナは呆れ顔で笑い、ペン立てを直した。
机の上には未完成の書が広がっている。表題は『風の証書 第二稿』。
そこには、再構築から十年の歳月で変わった世界の記録が、細かい文字で綴られていた。
「不思議ですね。」リィナが呟く。
「あなたの“理”が終わってもう十年。けれどまだ、どこかで何かが動いてる。」
「理は止まりませんよ。」アレンの声は穏やかだった。「呼吸と同じです。僕たちが書く言葉さえ、風の一部です。」
リィナは頷き、机の上の小瓶を見た。透明な液体の中で、青い光が微かに瞬いている。
「これ、あの子たちから届いたんですよ。南の森の子どもたちが、“風の種”を作ったって。」
「自分たちで風を生む装置を?」
「ええ。新しい風を呼ぶための、森の理ですよ。」
アレンの口元に笑みが浮かんだ。
「もう、僕たちが理を教える時代じゃないですね。」
「そうですね。今は……子どもたちが自分で理を遊んでる時代。」
アレンは筆を置き、椅子の背に身を預けた。
風がカーテンを揺らす。机の上の紙片がはらりと宙を舞い、一枚が床に落ちる。
リィナが拾おうとして、その内容に目を留めた。
紙の隅には、彼の震える筆跡でこう記されていた。
――『私はそろそろ、“記す者”ではなく、“託す者”でありたい。』
「……もう旅に出るつもりですか?」
彼は曖昧な笑みを浮かべる。
「やり残した場所がひとつあります。北東の孤塔――旧神殿跡です。」
「そこは、王都の理が眠っている……。まさか。」
「封印はまだ完全ではありません。放っておけば、またいつか誰かが触れる。」
「行かせません!」リィナが思わず声を上げた。「あなたが何度も死にかけた場所じゃないですか!」
アレンは静かに彼女を見た。
「だから、僕が行かなければ。」
雨が窓を叩き始めた。
外の空気が一気に冷えていく。
ふたりの沈黙の中で、風車の軋む音がゆっくりと響いた。
◇
出立は三日後だった。
デールの街から北へ馬車が続く。
リィナは見送りに来ていた。森の子どもたちも手を振り、風車の上に花の旗を掲げる。
アレンは杖を手に、軽く笑った。
「そんな顔をしないでください。帰ってきますよ。」
「嘘でもいい、帰るって言ってください。」
「約束します。」
ふたりの視線が交わる。風の中で言葉は短く消えた。
馬車が丘を越え、森の端に消えていく。
リィナはしばらくその音を追い続け、やがてゆっくりと目を閉じた。
「また……風に呼ばれて行くのね。」
◇
アレンが孤塔へ辿り着いたのは、一週間後。
霧が深く、塔は半ば崩れながらもなお立っていた。
内部には苔に覆われた石像と、かつて神の理を扱っていた装置の残骸。
しかし、その中央だけが光を帯びていた。
「まだ動いているのか。」
手を翳すと、光はアレンの掌に反応して脈打った。
そこには何かの意志があった。
――“再構築者よ、記録を更新しますか?”
それは装置の機械的な声とは違った。柔らかく、まるで夢の中の囁きのよう。
「世界はもう、僕の理を越えた。更新する必要はない。」
――“では、何を残しますか?”
アレンは静かに目を閉じ、呟いた。
「……人の願いを。」
装置の光が青から金へ変わってゆく。
塔全体が低く唸り、崩れかけた壁が光に包まれる。
アレンは杖を置き、その場に膝をついた。
「リィナ。もしこの風がそっちへ届くなら……君に、託したい。」
彼は懐から一冊の小さなノートを取り出した。『風の証書 原本』と書かれたそれを、光の中に掲げた。
「これが、僕の全部です。」
風が吹いた。
塔の天井がひび割れ、光が空へと放たれる。
その瞬間、デールの街でも同じ光が見えたという。
◇
数日後。
リィナのもとに一通の手紙が届く。
それは王都記録院を経由して届けられた不思議な包みで、中には小さな透明石が入っていた。
風綴りの新しい型、その中にアレンの声が刻まれていた。
『――リィナ。これを聞いたなら、僕はもう風の中でしょう。
でも悲しまないでください。風は死なず、ただ新しい形になるだけです。
僕はきっと、誰かの言葉の中に還ります。あなたが筆を取るたび、そこにいます。
これからの世界を、記す者たちに託します。
“理”が生まれたのは、誰かに伝えたいという“願い”のためだった。
どうか世界を、誰かの声で満たしてやってください。』
声が消えると同時に、透明石が音もなく割れた。
その欠片から光が零れ、窓の外へと溶けていく。
リィナは両手を胸に当て、涙を流しながら囁いた。
「……あなたの風、ちゃんと届きました。」
◇
半年後。
風譜の館には新しい一室が増えていた。
奥の部屋には丸い机が置かれ、その中央には“光の風見”が据えられている。
風を記録し、音へ変える装置。
その横に、リィナが書き上げた新しい書が並べられていた。
『風の律(おきて) 第一章 語り継ぐ理』
『再構築記 続章 灯を継ぐ道』
妥協のない細筆の跡と、端に刻まれた小さな署名。
――アレン・クロード。
彼女は窓を開け、ゆっくりと息を吐いた。
外では、子どもたちが新しい風車を組み立てている。
金属の羽が太陽に反射し、風の声を叶えるように鳴った。
「あなたの理は、もう人々の中にある。」
彼女は微笑み、筆を取る。
新しい頁の一行目に、静かに書き記した。
――『この風を聴く時、そこに“あなた”がいる。』
その文字が風に乗り、広間へと舞う。
屋根の上で鳴る風鈴が答えるように、軽く響いた。
外は晴れ渡っていた。
リィナは窓辺に立ち、どこまでも続く空へ手を伸ばした。
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