追放された万能聖魔導師、辺境で無自覚に神を超える ~俺を無能と言った奴ら、まだ息してる?~

たまごころ

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第44話 風の記憶と夜明けの響き

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 夜の帳が下りる頃、デールの森を包む風がゆるやかに動いていた。  
 街の灯は柔らかく、丘の上にある風譜の館にはまだ灯火が残っている。  
 窓の中では筆の音が響き、紙の上で言葉が刻まれていく。  
 リィナは机に向かい、淡い光を放つ墨壺を覗き込んだ。  
 硝子の底で、青い光が脈を打っている。その灯りは、再構築の理を微かに受け継ぐ“語りの墨”。  
 彼女がそれを使う時、書かれた言葉は風に乗り、世界のどこかで同じ響きを残す。  

 「……これで最後の章。」  
 窓の外を流れる風に語りかけ、リィナは静かに筆を走らせた。  
 『理は記録となり、記録は風となり、風は心となる。  
  風が変わるたび人は動き、動くたび理は歌う。  
  その歌を聴く者こそが、新しい世界の語り部である――』  

 その一文を書いた刹那、部屋の空気が震えた。  
 音もなく扉が開き、外の空気が流れ込む。  
 リィナは顔を上げ、息を呑んだ。  
 風そのものが形を持っていた。霞のように淡く、しかし確かな人影の輪郭がある。  
 「……また、あなたですか。」  
 姿のない声が答える。  
 「君の書く音が、あまりに澄んでいたからね。」  
 懐かしい声。アレンのものだった。  

 リィナは微かに笑った。  
 「あなたの理はもう滅びたはずでしょう。」  
 「滅びてなどいないさ。理は人に宿る。僕が消えたあとも、誰かが続きを書くだけ。」  
 「じゃあ今のあなたは?」  
 「君の記した文字の息だよ。思いを持つ言葉は、風そのものだ。」  

 部屋の中の紙が一枚、二枚と宙を舞い上がる。  
 風の中にアレンの声が溶けていく。  
 「もうすぐ暁が来る。新しい風が吹く。君はそれを見届ける人だ。」  
 「あなたは?」  
 「僕はもう、記憶で十分だ。世界が人の声で語られるなら、それが理の完成だ。」  
 風が柔らかく彼女に触れた。まるで別れを告げる手のように。  

         ◇  

 翌朝、デールは新しい朝を迎えた。  
 夜明けとともに、森の上に雲ひとつない青空が広がる。  
鳥たちの鳴き声が混ざり合い、街のあちこちから木琴や笛の音が聴こえてくる。  
 年に一度の“風迎え祭”の始まりだ。  
 森と風と人を祝うこの日、街じゅうが歌い、踊り、語り合う。  
 昨晩、リィナが記し終えた書は、今日の祭りで人々に公開される予定になっていた。  
 彼女は館の扉を開けると、朝の光の中で深呼吸をした。  
 湿った土の匂いが立ちのぼり、空気の流れが胸いっぱいに広がる。  

 「アレンさん。聞こえてますか。」  
 彼女は小さく呟いた。  
 風は答えるように頬を掠めていく。  
 丘を下る道には、すでに行商人や吟遊詩人、森の民たちが集まっていた。  
 見知った顔もある。かつて王都から訪ねてきたリリアの弟子や、風譜を学ぶ若い学徒たち。  
 リィナは祭りの中央に設けられた台の上へと向かった。  
 古い木の階段を上るたびに、胸の内に小さな鼓動が重なる。  

 「リィナ先生!」と子どもたちの声。  
 振り返ると、あの橋の少年も手を振っていた。あの日から幾年も経ったが、彼は今や“風読”と呼ばれる若者の一人として成長していた。  
 少年が抱える箱には、小さな風鈴がぎっしり詰められている。  
 「みんなで作ったよ。先生の本にあった“風を聴く道具”!」  
 リィナの目が潤んだ。  
 「ありがとう。本当に……ありがとう。」  

 やがて、広場の中心に風の柱が立つ。  
 薄く回転する光。祭りの合図だ。  
 人々が輪を作り、子どもも大人も手を取り合う。  
 太鼓が鳴り、笛の音が空を貫く。  
 まるで風自身がこの瞬間を祝福しているようだった。  

 リィナは柱の前に立ち、書を掲げる。  
 声に出して読むその言葉が、風に乗って広がる。  
 『――かつて神は理を司り、人は理の中で生きた。  
  けれど、理の器が壊れた時、人が祈りを得た。  
  祈りこそ、理を継ぐ風である。』  

 群衆が静まり返る。  
 遠く、森の奥からも風が吹き抜けてくる。  
 周囲の風鈴が一斉に鳴り始めた。  
 その音は、まるで誰かの笑い声のようだった。  
 リィナは微笑んだ。気づけば頬を濡らす涙が一筋、光の中へこぼれている。  

         ◇  

 祭が終わった夕刻。  
 丘の上の館は静まり返っていた。  
 外では子どもたちが灯火を片付け、森には小さな風の音だけが残る。  
 リィナは机に向かい、空白の頁を開いた。  
 そこに書き始めるのは、今日のこと。そして“これから”のこと。  
 彼女の手は迷いなく動いた。  

 ――『風迎え祭の夕べ。  
  世界は歌を覚え、理は歌へと還った。  
  私はもう、過去を書かない。これからを記す。  
  風が新しい声を求める限り、人は言葉を持ち続ける。  
  語ること。それが、アレン・クロードの教えだった。』  

 一文を書き終えた後、リィナは筆を置く。  
 窓の外を見ると、遠くの山脈の上で一筋の光が立ち昇っていた。  
 それはまるで、かつて神門のあった場所から吹き上がる黎明の風。  
 あの光には、もう神の威光も理の混乱もない。  
 ただ、人の息吹と記憶を乗せた風が、空高く昇っていく。  

 リィナは立ち上がり、窓を開けた。  
 風が流れ込み、机の上の紙を舞い上げる。  
 宙に浮かぶ紙の一枚が、彼女の手の中へ戻る。  
 その紙には、アレンがかつて書いた一行が残っていた。  
 『――風は、聴く者を選ばない。物語を綴る者がいる限り、終わりはない。』  

 彼女は微笑み、紙を胸に抱きしめた。  
 「はい、聞こえてます。」  
 風が返事をするように、静かに頬を撫でる。  

         ◇  

 夜が更ける。  
 デールの街は静かに眠り、森の奥では葉の擦れ合う音が囁きのように響く。  
 川辺では、昼に飛ばした風鈴たちがまだ鳴っていた。  
 その音は町を包み、いつしか世界の境界へ溶けていく。  

 そして、遥か遠く。  
 風の果てに広がる空の下、一人の旅人が歩いていた。  
 灰色の外套を纏い、手には新しい杖。  
 その背を追う風は優しく、懐かしい匂いを運ぶ。  
 旅人は口元に笑みを浮かべ、軽く呟く。  
 「人が語り続ける限り、風はまた僕を呼ぶ。」  

 彼の足跡が砂に残り、夜明けの光がその上を照らす。  
 風が吹く。  
 その風はデールへ、森へ、王都へ、そして世界の果てへと広がっていく。  

 新しい朝が来た。  
 物語はまだ途切れない。  
 語り手が声を上げるたび、風の歌は世界中を巡る。  
 それは、誰かが誰かを思い出すために存在する優しい理。  

 ――そして今日も、風は語る。  
 終わりではなく、続くための始まりとして。
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