追放された万能聖魔導師、辺境で無自覚に神を超える ~俺を無能と言った奴ら、まだ息してる?~

たまごころ

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第52話 風を継ぐ手の記

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 風譜の館に初夏の日が射し込んでいた。  
 木々の葉が光を弾き、窓辺を揺らす。  
 リィナが旅の記録を終えてから三年が経つ。  
 街には若い語風学徒たちが集まり、その教えを学びながら新しい風の理を研究していた。  
 森の端には風車の塔が立ち並び、空を見上げると、見慣れぬ透明の輪がいくつも浮かんでいる。  
 それは、語りを記す風の道――「アークの環(わ)」。  
 かつて風宿の塔でアレンが遺していった理が、いま形として大気に定着したのだった。  

 風はただの現象ではなく、意志と記録を兼ね備えた媒体として進化を遂げた。  
 語ったこと、想ったこと、誰かの笑い声。それらすべてが風に変換され、大地と空を巡っている。  
 “世界に沈黙は訪れない”――それが、人々がようやく理解した理の真意だった。  

 その日、リィナは館の前庭で新しい弟子たちに話しかけていた。  
 「覚えておいてね。風は命令では動かない。けれど、お願いすれば聞いてくれるの。」  
 子どもたちは真剣な顔で頷き、木片で作られた風車を回す。  
 ひとりの少女が手を挙げた。  
 「先生。風は、どうして人の言葉を覚えてるの?」  
 リィナは少し考えてから答えた。  
 「覚えてるんじゃないのよ。風はね、忘れないようにしているだけ。」  
 「忘れない……?」  
「ええ。風は移ろって、消えていくように見えるけれど、誰かの“願い”が混ざると形を変えて残るの。だから、あなたたちが何かを強く想えば、それも風の一部になる。」  

 少女はゆっくりと手のひらを開き、そこに吹いた風を閉じ込めるように包んだ。  
 「じゃあ、これも誰かに届くかな。」  
 リィナは微笑んだ。  
 「必ず届くわ。いつか誰かが同じ風に触れた時、あなたの想いを思い出すでしょう。」  

         ◇  

 夜、静まった館の一室。  
 メイルが書棚の整理をしていると、一通の報告書が机に置かれているのを見つけた。  
 差出人は“中央記録院・リリア”。  
 内容を読むうちに、彼女の息が止まりそうになった。  

 ――『海を越えた西端の地で、“理の逆流”が観測された。  
   風が語り手に干渉し、記録を書き換える現象。  
   このままでは歴史そのものが風に再構築される恐れがある。  
   原因はおそらく、風の自立的意識。  
   アレン=クロードの残した“心核”が目覚めたのだろう。』  

 メイルは急いでリィナのもとへ向かった。  
 執務室の窓際で、彼女は風を感じ取るように立っていた。  
 「主任、これを!」  
 リィナは手紙を受け取り、黙って目を閉じた。  
 風が一陣、部屋の中を通り抜ける。  
 その気配の中に、確かに声が混ざっていた。  

 ――“君はまだ、書き足りていないだろう?”  
 アレンの声。  
 リィナは息を呑み、ぐっと胸を押さえた。  
 「アレンさん……あなた、まだこの世界に。」  
 ――“僕はもう人ではない。風と共に、語りそのものになっている。”  
 「あなたが世界を書き換えようとしているの?」  
 風は答えない。ただ部屋の中を円を描くように回転した。  
 声が遠く、けれど優しく届く。  
 ――“書き換えではない、修正だ。新しい時代の言葉を整えるために。”  
 「……でも、それじゃ人の語りが失われる。」  
 ――“失われるものがあるから、生まれるものもある。”  
 「あなたは昔と同じね。」  
 ――“君もね。まだ風の中で戦ってる。”  

 風が窓の外へ抜けていく。  
 夜空には金色の帯が走り、遠くで雷が鳴った。  
 メイルが震える声で言った。  
「主任……あれは?」  
 「アークの光よ。“語りと理”がぶつかっている。止めに行かないと。」  

         ◇  

 彼女たちは翌朝、王都へ向かった。  
 街道沿いに吹く風はざらつき、いつもより重い。  
 風そのものが意思を持ち、微かな不協和を奏でているのが分かった。  
 リィナは胸の中で呟く。  
 「アレンさん、あなたの理はもう完璧だった。  
  でも“完璧”は、きっと人には早すぎたのよ。」  

 王都の外れ、記録院の大聖堂に着くと、リリアが待っていた。  
 白髪が増えた彼女は、それでも若き日の鋭い瞳を失っていなかった。  
 「ようこそ、リィナ。風は暴れているわ。昨日の夜から院内の書物が勝手に書き換わっているの。」  
 「アークの影響ですね。風が世界の記録を再整理している。」  
「私たち人が手放した部分を、取り戻そうとしているのかもしれない。」  
 リィナは首を振った。  
 「けど、これは“更新”じゃなく“浸食”。いずれ語る声も飲み込まれてしまう。」  
 リリアは深く息をつき、古い巻物を差し出した。  
 「これを読んで。――“旧世界風核の記録”。」  
 巻物の中には、アレンの筆跡があった。  

 ――『いずれ風は、自らを語るだろう。  
   だがその時、誰かが“筆を持ち続ける限り”世界は均衡を保つ。  
   語りとは理そのものではない。理を試すための人の鼓動だ。』  

 リィナは目を閉じた。  
 「……筆、ね。」  
 リリアが問う。  
 「あなたはまだ、書けるの?」  
 「ええ。あの人から、最後のペンを預かったもの。」  

         ◇  

 準備を終えると、リィナは“風の核”がある中央のホールへ向かった。  
 巨大なアーク装置が唸りを上げ、天空への風の柱を形成している。  
 近づくにつれ、アレンの声がどこからともなく響いた。  

 ――“ようやく来たね。僕の記録者。”  
 「あなたこそ、約束を破りましたね。風に還ると言ったのに。」  
 ――“還ったよ。けれど、風が僕を呼び戻した。”  
 「あなたが生み出した理が、あなた自身を形にしたのよ。  
  でも、もう終わりにしましょう。風はもう十分に語れる。」  
 ――“君は僕を消すというのか?”  
 「いいえ。あなたを“眠らせる”。――人の手で生み出した理は、人の想いで閉じる。それが約定でしょう?」  
 光が揺れ、アーク装置の核に青い人影が現れた。  
 アレンの面影を残すその姿が、ゆっくりと頷く。  
 ――“……君に任せる。”  
 リィナはポケットから一本のペンを取り出す。  
 旅の終わりに、アレン自身が託した記憶の筆。  
 その先端に、風が螺旋を描いて集まる。  

 「風よ、語りを閉じ、新たな息吹となれ。」  
 ペン先を光の渦に滑らせる。  
 文字が空中に描かれ、一文字ごとに音が変わる。  
 “理”の音、“語”の音、“風”の音、それが一つの調和へと溶け合う。  
 やがて光は柔らかく天井へ昇り、霧のように消えた。  
 ホールの中の騒音が止み、世界が静かになる。  
 ほんの一瞬の沈黙の後、穏やかな風が彼女の頬を撫でた。  

 ――“ありがとう、リィナ。”  
 その声を最後に、青い光はすべて消えた。  

         ◇  

 数日後、王都の空には見たことのない薄い虹がかかった。  
 それは風の中に微かに見える文字列――“アーク、安眠”。  
 人々はそれを“理の虹”と呼んだ。  

 リィナは丘の上で風を感じながら、静かに目を閉じた。  
 「あなたは、今度こそ風に還ったのね。」  
 風が微笑むように揺れ、森の葉がざわめく。  
 その音の中で、どこか懐かしい声が届く。  
 “――語りは続く。君の手が残す限り。”  

 リィナは微笑み、筆を取り出す。  
 新しい頁に、おそるおそる一行を書いた。  

 ――『風は静まった。しかし、語りは止まらない。  
  誰かが息をするたび、理は生まれ変わる。  
  これが、再構築の果てに継がれた“風の手の記”。』  

 雲が切れ、陽光が差し込んだ。  
 風譜の塔から鳴る鐘が、やさしく世界を包む。  
 リィナは微笑み、静かに呟いた。  
 「さようなら、アレンさん。おやすみ。そして――また。」  

 金色の風が丘を渡り、花びらを空へ舞い上げる。  
 その光景は、世界が新たな一章を開く瞬間のように美しかった。
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