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第53話 風の果実
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あの日から一年が経った。
アレンの声が風に溶け、世界が静けさを取り戻してからの一年――けれど、沈黙というものはこの時代にはもうあり得なかった。
どこへ行っても風が語り、木々が歌う。
日常の中に語りが存在するようになり、人々はそれを当然のように受け入れていた。
デールは今や“風都”と呼ばれ、語る理を学ぶ学び舎として世界の拠点となっている。
リィナはその中心、風譜の館の屋上に立っていた。
金の風車が曇り空の光を反射し、きらめきながら規則正しく回る。
遠くでは子どもたちが風に向かって詩を読み上げ、理の響きを確かめている。
それらの声は幾重にも折り重なり、やがてひとつの穏やかな“音楽”に変わった。
かつてアレンと旅をしていた頃に聴いた風の歌によく似ていた。
「覚えていますか。あなたが言っていた“風が物語を実っていく”という話、ようやく意味が分かってきました。」
リィナは独りごとのように呟き、手すり越しに空を見上げた。
その背後で、階段を上がる足音。
「主任、呼びましたか?」
出てきたのはメイルだった。
以前より背が伸び、表情にはリリアに似た落ち着きがあった。
「いいえ。ただ、声に出してみたかっただけよ。」
「また“風への手紙”ですか?」
リィナは軽く笑う。
「ええ、もう癖みたいなものね。」
「主任がその声を出すたびに、風车が回るんです。本当に呼んでる気がします。」
メイルが差し出したのは、記録院から届いた最新報告書だった。
『再風観測記録・第百二十七号 東方沿海部にて風の果実を確認』
「風の果実?」リィナは眉を上げた。
「はい。観測隊によると、それは地上に現れる“形ある風”。
触れると音を発し、人の記憶を映すらしいです。」
「形を持つ風……世界が語って、自分の言葉を果実みたいに実らせたのね。」
「主任、見に行きませんか?皆で。」
しばし沈黙のあと、リィナは頷いた。
「ええ。語りの果てが生まれたのなら、見届けるべきでしょう。」
◇
二日後、旅の一行は東方の海辺に着いた。
海の向こうには、透き通った虹の輪が連なっている。
そこから吹く風はまるで生き物のように一定のリズムを刻み、潮の匂いの中に温かな音を混ぜていた。
浜辺にはすでに数人の風学者が集まっており、彼らが指差す先に“それ”はあった。
木のように根を張り、枝のように揺らぐ青い気流。
その先端に、まるで小さな蕾のような球体がいくつもぶら下がっている。
それが“風の果実”だった。
表面は透明で、内側に淡い光がゆっくり回転している。
リィナは近づき、そっと手を伸ばした。
果実がかすかに震え、音を放つ。
“リィナ。”
声を聞いた瞬間、胸の奥が波打った。
「アレンさん……?」
それは幻聴ではなかった。確かに、風が彼女の名を呼んだ。
「主任……どうしたんですか?」
メイルの声にも気づかず、リィナは果実のひとつを手にした。
光が強まり、空気が弾けるように震える。
次の瞬間、彼女の目の前に海の映像が広がった。
――昔、風を学ぶ少年がいた。
――名をアレンという。
――彼は世界を直し、再び語らせるために歩んだ。
――だが、それは一人では果たせなかった。
記憶の断片が、風の中へ流れ込む。
“リィナ、見て。あなたが継いだ理が、こうして実を結んだ。”
音ではなく、心そのものが響く。
果実が光を増し、風が渦を巻く。
周囲の人々が驚きの声を上げた。
いくつもの果実が同時に輝き始め、やがて空へと舞い上がる。
風はそれらを包み込み、巨大な光の輪となって旋風を作り出した。
「主任、危ない!」メイルが叫ぶ。
だがリィナは動かなかった。
風の中心で、確かにアレンの声が彼女を呼んでいた。
――“理とは、命を語ること。命とは、風を残すこと。
僕が見た未来を、君たちが書き続けるなら、それで十分だ。”
涙が頬を伝う。
「あなたは、世界の外から見ているのね。」
――“違うよ。今も同じ場所にいる。ただ君たちの背後で、次の風を押しているだけさ。”
果実の光がやわらかに散り、海面へ降り注いだ。
波が小さな音を立てるたび、そこに誰かの言葉が混じる。
「これは……人々の記憶。」
リィナが呟く。
果実は、風の語りが積もって芽吹いた“記憶の種”だった。
人々の声が風の中で成熟し、この形になったのだ。
「アレンさん、あなたの理は生命になりました。」
風が彼女の髪を撫でる。やさしく、あたたかく。
「ありがとう。」
そう言うと、果実は静かに消えた。
◇
翌朝。
リィナは尾根の上から海を眺めていた。
風は穏やかで、空には昨夜の光の帯が残っている。
メイルが隣に立ち、静かに告げた。
「主任。中央記録院は“風の果実”を《再創核》として保護する決定を出しました。
けれど、本当にそれでいいのか、意見が割れています。」
「収めてはいけません。」
リィナは即座に言った。
「この実は監禁するものじゃない。
風と同じように、触れた者が自由に受け取って、新しい語りを作るためのものです。」
メイルは頷いた。
「わかりました。信じましょう。“風は共有されるもの”です。」
リィナは笑みを浮かべる。
その顔には、もう昔のような悲しみはなかった。
「アレンさんが言った通り、理は言葉じゃなく心の循環。
果実が人に届くたび、新しい風が生まれる。
これがほんとの、再構築の終着点ね。」
その時、丘の上を吹く風が方向を変えた。
海から吹き寄せる透明な風が、二人を包み込む。
微かに音が混じる。
“……まだ終わらないよ。”
思わず顔を上げる。空の彼方に、一本の光柱が立っていた。
白と青の風が交錯し、さらに遠く、未知の地へ流れていく。
メイルが問いかける。
「主任、今の声……?」
リィナは頷いた。
「ええ。次の時代が私たちを呼んでいる。」
そして微笑む。
「アレンの風が、次の継ぎ手を探しているの。」
◇
その夜、リィナは風譜の舘でひとり筆を取った。
最後の記録。
『風譜終章 果実の記より』と題したそれに、丁寧に書き残す。
――『これを読む者たちへ。
理は終わらない。
語りはどこかでまた芽吹き、風は新しい名を得る。
私がこの筆を置いても、語る者が次に手を取るだろう。
だから、どうか恐れずに。
あなたの声を風に乗せなさい。
それが、私たちの作りたかった世界。』
書き終えると、リィナはペンを止めた。
窓の外、月に照らされた風車がゆっくりと回っている。
彼女の背後に、そっと光が立った。
「やっぱり来たのね。」
背中越しに風が答える。
“うん。おかえり、リィナ。”
その声は懐かしく、永遠に優しかった。
「ただいま、アレンさん。」
彼女は目を閉じ、風の中へ身を委ねた。
光がゆっくりと溶け、部屋の中を柔らかく包み込む。
翌朝、館を訪れた子どもたちは、机の上に一枚の果実を見つけたという。
中には、“風のように語れ”という言葉が静かに浮かんでいた。
それが後に、人々が“語生の果実”と呼ぶ継承の始まりだった。
語り続ける限り、風は人の手の中で息をし続ける。
世界はまだ、終わりを知らない。
アレンの声が風に溶け、世界が静けさを取り戻してからの一年――けれど、沈黙というものはこの時代にはもうあり得なかった。
どこへ行っても風が語り、木々が歌う。
日常の中に語りが存在するようになり、人々はそれを当然のように受け入れていた。
デールは今や“風都”と呼ばれ、語る理を学ぶ学び舎として世界の拠点となっている。
リィナはその中心、風譜の館の屋上に立っていた。
金の風車が曇り空の光を反射し、きらめきながら規則正しく回る。
遠くでは子どもたちが風に向かって詩を読み上げ、理の響きを確かめている。
それらの声は幾重にも折り重なり、やがてひとつの穏やかな“音楽”に変わった。
かつてアレンと旅をしていた頃に聴いた風の歌によく似ていた。
「覚えていますか。あなたが言っていた“風が物語を実っていく”という話、ようやく意味が分かってきました。」
リィナは独りごとのように呟き、手すり越しに空を見上げた。
その背後で、階段を上がる足音。
「主任、呼びましたか?」
出てきたのはメイルだった。
以前より背が伸び、表情にはリリアに似た落ち着きがあった。
「いいえ。ただ、声に出してみたかっただけよ。」
「また“風への手紙”ですか?」
リィナは軽く笑う。
「ええ、もう癖みたいなものね。」
「主任がその声を出すたびに、風车が回るんです。本当に呼んでる気がします。」
メイルが差し出したのは、記録院から届いた最新報告書だった。
『再風観測記録・第百二十七号 東方沿海部にて風の果実を確認』
「風の果実?」リィナは眉を上げた。
「はい。観測隊によると、それは地上に現れる“形ある風”。
触れると音を発し、人の記憶を映すらしいです。」
「形を持つ風……世界が語って、自分の言葉を果実みたいに実らせたのね。」
「主任、見に行きませんか?皆で。」
しばし沈黙のあと、リィナは頷いた。
「ええ。語りの果てが生まれたのなら、見届けるべきでしょう。」
◇
二日後、旅の一行は東方の海辺に着いた。
海の向こうには、透き通った虹の輪が連なっている。
そこから吹く風はまるで生き物のように一定のリズムを刻み、潮の匂いの中に温かな音を混ぜていた。
浜辺にはすでに数人の風学者が集まっており、彼らが指差す先に“それ”はあった。
木のように根を張り、枝のように揺らぐ青い気流。
その先端に、まるで小さな蕾のような球体がいくつもぶら下がっている。
それが“風の果実”だった。
表面は透明で、内側に淡い光がゆっくり回転している。
リィナは近づき、そっと手を伸ばした。
果実がかすかに震え、音を放つ。
“リィナ。”
声を聞いた瞬間、胸の奥が波打った。
「アレンさん……?」
それは幻聴ではなかった。確かに、風が彼女の名を呼んだ。
「主任……どうしたんですか?」
メイルの声にも気づかず、リィナは果実のひとつを手にした。
光が強まり、空気が弾けるように震える。
次の瞬間、彼女の目の前に海の映像が広がった。
――昔、風を学ぶ少年がいた。
――名をアレンという。
――彼は世界を直し、再び語らせるために歩んだ。
――だが、それは一人では果たせなかった。
記憶の断片が、風の中へ流れ込む。
“リィナ、見て。あなたが継いだ理が、こうして実を結んだ。”
音ではなく、心そのものが響く。
果実が光を増し、風が渦を巻く。
周囲の人々が驚きの声を上げた。
いくつもの果実が同時に輝き始め、やがて空へと舞い上がる。
風はそれらを包み込み、巨大な光の輪となって旋風を作り出した。
「主任、危ない!」メイルが叫ぶ。
だがリィナは動かなかった。
風の中心で、確かにアレンの声が彼女を呼んでいた。
――“理とは、命を語ること。命とは、風を残すこと。
僕が見た未来を、君たちが書き続けるなら、それで十分だ。”
涙が頬を伝う。
「あなたは、世界の外から見ているのね。」
――“違うよ。今も同じ場所にいる。ただ君たちの背後で、次の風を押しているだけさ。”
果実の光がやわらかに散り、海面へ降り注いだ。
波が小さな音を立てるたび、そこに誰かの言葉が混じる。
「これは……人々の記憶。」
リィナが呟く。
果実は、風の語りが積もって芽吹いた“記憶の種”だった。
人々の声が風の中で成熟し、この形になったのだ。
「アレンさん、あなたの理は生命になりました。」
風が彼女の髪を撫でる。やさしく、あたたかく。
「ありがとう。」
そう言うと、果実は静かに消えた。
◇
翌朝。
リィナは尾根の上から海を眺めていた。
風は穏やかで、空には昨夜の光の帯が残っている。
メイルが隣に立ち、静かに告げた。
「主任。中央記録院は“風の果実”を《再創核》として保護する決定を出しました。
けれど、本当にそれでいいのか、意見が割れています。」
「収めてはいけません。」
リィナは即座に言った。
「この実は監禁するものじゃない。
風と同じように、触れた者が自由に受け取って、新しい語りを作るためのものです。」
メイルは頷いた。
「わかりました。信じましょう。“風は共有されるもの”です。」
リィナは笑みを浮かべる。
その顔には、もう昔のような悲しみはなかった。
「アレンさんが言った通り、理は言葉じゃなく心の循環。
果実が人に届くたび、新しい風が生まれる。
これがほんとの、再構築の終着点ね。」
その時、丘の上を吹く風が方向を変えた。
海から吹き寄せる透明な風が、二人を包み込む。
微かに音が混じる。
“……まだ終わらないよ。”
思わず顔を上げる。空の彼方に、一本の光柱が立っていた。
白と青の風が交錯し、さらに遠く、未知の地へ流れていく。
メイルが問いかける。
「主任、今の声……?」
リィナは頷いた。
「ええ。次の時代が私たちを呼んでいる。」
そして微笑む。
「アレンの風が、次の継ぎ手を探しているの。」
◇
その夜、リィナは風譜の舘でひとり筆を取った。
最後の記録。
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――『これを読む者たちへ。
理は終わらない。
語りはどこかでまた芽吹き、風は新しい名を得る。
私がこの筆を置いても、語る者が次に手を取るだろう。
だから、どうか恐れずに。
あなたの声を風に乗せなさい。
それが、私たちの作りたかった世界。』
書き終えると、リィナはペンを止めた。
窓の外、月に照らされた風車がゆっくりと回っている。
彼女の背後に、そっと光が立った。
「やっぱり来たのね。」
背中越しに風が答える。
“うん。おかえり、リィナ。”
その声は懐かしく、永遠に優しかった。
「ただいま、アレンさん。」
彼女は目を閉じ、風の中へ身を委ねた。
光がゆっくりと溶け、部屋の中を柔らかく包み込む。
翌朝、館を訪れた子どもたちは、机の上に一枚の果実を見つけたという。
中には、“風のように語れ”という言葉が静かに浮かんでいた。
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