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第54話 最後の風をあなたへ
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夜明け前、風譜の館の屋上でリィナは筆記台に向かっていた。
空は深い群青で、星々がまだ瞬いている。
指先に触れる風は、少しだけ甘い。春の終わりの香りが混ざっていた。
「もう一冊……これが最後になるかしら。」
彼女の声を、風だけが静かに受け止める。
机の上に置かれた原稿用紙には、“語生の記録 終章”と題が書かれていた。
世界は、変わっていた。
アレンが残した理と、リィナたちの語りが広まり、今や人々の生活には「風の記録」が当たり前のように溶け込んでいる。
街を歩けば、誰もが小さなアーク装置を携え、日々の思いや発見を風に預ける。
人が語れば風が応え、風が人を導く。
そうして積み重なった声が、空全体を覆う巨大なひとつの“語りの樹”のように広がっていた。
しかし、それは完成の兆しでもあった。
理が満ちすぎれば、やがて均衡が崩れる。
どんな言葉も矛盾を持たず、すべてが正しく、すべてが優しければ、世界は何も生み出さなくなってしまう。
リィナはそれを理解していた。
そして――そのことを、アレンもまた知っていたに違いない。
「ねえ、アレンさん。」
彼女は空に視線を向け、呟いた。
「あなたはこの終わりも、はじめから計算していたのね。」
答えるように、一陣の風が吹いた。
柔らかな光が漂い、空の彼方の風の道に、青い残光が走る。
リィナは目を細める。
あの色は、忘れるはずがない――アレンの理の色。
◇
午後、中央記録院から使者が訪れた。
リリアの後任を務める青年官吏が、慎重な様子で書状を差し出す。
「主任、風譜統合評議会よりの伝令です。“風の樹”の管理を全世界共同体に移行することが決まりました。」
「つまり、風を国単位で扱うわけね。」
「はい。しかし……」
青年は言葉を濁した。
「何か問題が?」
「“語りの光”が弱まっているそうです。全てのアーク装置で、記録の更新が途絶え始めています。」
「……風が、語るのをやめた?」
青年は困惑の表情で頷いた。
「現象の原因は不明ですが、人々が同じ記録を繰り返し語っているうちに、風が“新しい言葉”を拒んでいるのではないかと。」
リィナは黙って立ち上がった。
「行きましょう。」
「主任、まさか“風の樹”へ?」
「ええ。終わりが近いなら、せめて世界の息を見届けたいの。」
◇
風の樹は、大陸中央の空に浮かぶ巨大な光輪だった。
かつてアレンが創った“中央アーク”が、数百年分の語りを吸い上げ、成長した結果である。
今では地上からもはっきりその根が見えるほど大きく、その枝は雲を貫いて天へと伸びている。
リィナは船型の昇降艇で樹の根のふもとに降り立った。
周囲の空気が震える。
それは言葉の余韻に似ていた。
数えきれない感情、名前、約束、悔恨――それらすべてが風の中でまだ息づいている。
けれど、そのどれもがもう語りをやめていた。
風は穏やかで、沈黙そのもののように静かだった。
「……やっぱり、あなたの終焉はここね。」
リィナが呟くと、枝のひとつが光を帯びて振動した。
音が、世界の端から届くように響く。
――“リィナ、また会えたね。”
「アレンさん……」
――“風が静かになるのは悪いことじゃない。語りが満ちれば、次に沈黙が訪れる。
沈黙こそが、次の言葉を呼ぶ。”
「それでも、世界があなたを失うのは嫌よ。」
――“僕はもう失われない。風の中で、人の中で、君の中にいる。
でも、この“語り”そのものは、一度眠らなければいけない。”
「眠らせるって……風を止めるの?」
――“それが僕たちの願った循環だ。風を止め、また語る。
記録を閉じ、また書き始める。
君になら、その第一声を任せられる。”
リィナの胸に、微かな痛みが走る。
彼女は空を仰ぎ、長く息を吸い込んだ。
「あなたって、本当に勝手。でも……分かりました。
私が止めます。あなたの理に、終わりを与えます。」
白いペンを取り出す。
それはかつて、アレンが手渡した最後の筆だった。
その先端が淡く光り、風が集まって渦を巻く。
リィナは一行、空へ文字を書く。
――『風、眠れ。語り、息を潜めよ。』
瞬間、周囲の空気が弾けた。
青い光の樹全体が震え、枝々が一斉に輝く。
その光が徐々に薄れ、まるで雪のように散っていく。
風の渦が静まり、音が消える。
風の声も、語りの音も、すべて沈黙に包まれた。
◇
――翌朝。
世界は異様なほど静かだった。
誰の声も風に乗らず、どんなアークも応答しない。
しかし、人々の顔には不安はなかった。
まるで新しい季節を迎えたような穏やかさが、街中に広がっていた。
リィナはデールの丘に立っていた。
朝日が昇り、風が緩やかに頬を撫でる。
「沈黙の風……これが、再生のはじまり。」
彼女の隣には、メイルがいる。
「主任、世界は……これで正しいんですか?」
「ええ。語りは止まった。でも、それは終わりじゃない。」
「また始まる?」
リィナは微笑んだ。
「人が語るかぎり、風は戻るわ。
風が沈黙を覚えた今、次の語りは“人の声”から始まるの。」
彼女は小さな手帳を取り出し、真っ白なページを開いた。
風の残滓がその上でふっと揺れ、柔らかな光を宿す。
新しい物語の予感。
リィナは息を吸い、小さく呟いた。
「第零章――風の名を呼ぶ日。」
その瞬間、世界のどこかで、微かな風が生まれた。
それはまだ言葉を持たない。
けれど、確かに“次”の語りの種だった。
◇
数ヶ月後、リィナは海辺の小さな村で暮らしていた。
風譜の館を辞し、穏やかな生活を選んだのだ。
子どもたちに読み書きを教え、ときおり風の話をする。
誰もが知らなかった“語りの時代”を。
その日も、子どもたちは彼女を囲み、せがんだ。
「先生、昔みたいな風の話をして!」
リィナは苦笑する。
「風の話? もうあの日の風は眠っているのに。」
「でも、聞きたい!」
そう言われ、彼女はふっと空を見上げた。
「……じゃあ、一つだけ。」
リィナはゆっくりと語り出す。
「昔、風と話せる人がいました。
その人は、みんなの言葉を風に託して、世界を繋いだの。
けれど、ある日、その風が眠ってしまった。
でもね、それは悲しいことじゃなかったのよ。
なぜなら、風は夢の中で、また新しい声を探していたから。」
子どもたちが目を輝かせる。
リィナは笑って言葉を続ける。
「そしていつか、誰かがその風をまた起こす。
その時きっと、あなたたちの声が一番に届くでしょう。」
浜辺を渡る潮風が、草の間を抜けて駆ける。
リィナの髪を揺らし、子どもたちの笑い声を運ぶ。
その風の中で、ひとつのさざ波のような声がした。
――“また会おう。”
リィナはそっと目を閉じ、微笑んだ。
「ええ、また。――風の物語が目覚める時に。」
空は透き通るような青。
世界は沈黙しているのに、不思議とどこからか語りが聞こえる気がした。
それは、風の果実が残した約束の音だった。
風はもう、ただの空気の流れではない。
それは、誰かが語り、誰かが聴くための――永遠の記録そのもの。
リィナは最後の一行を胸の中で描いた。
――『風は終わらない。語る者がいる限り。』
そして、静かな潮騒の中で彼女は微笑んだ。
物語は、確かに完結していた。
けれど、それは「終わり」ではなく――次の息吹の始まりだった。
空は深い群青で、星々がまだ瞬いている。
指先に触れる風は、少しだけ甘い。春の終わりの香りが混ざっていた。
「もう一冊……これが最後になるかしら。」
彼女の声を、風だけが静かに受け止める。
机の上に置かれた原稿用紙には、“語生の記録 終章”と題が書かれていた。
世界は、変わっていた。
アレンが残した理と、リィナたちの語りが広まり、今や人々の生活には「風の記録」が当たり前のように溶け込んでいる。
街を歩けば、誰もが小さなアーク装置を携え、日々の思いや発見を風に預ける。
人が語れば風が応え、風が人を導く。
そうして積み重なった声が、空全体を覆う巨大なひとつの“語りの樹”のように広がっていた。
しかし、それは完成の兆しでもあった。
理が満ちすぎれば、やがて均衡が崩れる。
どんな言葉も矛盾を持たず、すべてが正しく、すべてが優しければ、世界は何も生み出さなくなってしまう。
リィナはそれを理解していた。
そして――そのことを、アレンもまた知っていたに違いない。
「ねえ、アレンさん。」
彼女は空に視線を向け、呟いた。
「あなたはこの終わりも、はじめから計算していたのね。」
答えるように、一陣の風が吹いた。
柔らかな光が漂い、空の彼方の風の道に、青い残光が走る。
リィナは目を細める。
あの色は、忘れるはずがない――アレンの理の色。
◇
午後、中央記録院から使者が訪れた。
リリアの後任を務める青年官吏が、慎重な様子で書状を差し出す。
「主任、風譜統合評議会よりの伝令です。“風の樹”の管理を全世界共同体に移行することが決まりました。」
「つまり、風を国単位で扱うわけね。」
「はい。しかし……」
青年は言葉を濁した。
「何か問題が?」
「“語りの光”が弱まっているそうです。全てのアーク装置で、記録の更新が途絶え始めています。」
「……風が、語るのをやめた?」
青年は困惑の表情で頷いた。
「現象の原因は不明ですが、人々が同じ記録を繰り返し語っているうちに、風が“新しい言葉”を拒んでいるのではないかと。」
リィナは黙って立ち上がった。
「行きましょう。」
「主任、まさか“風の樹”へ?」
「ええ。終わりが近いなら、せめて世界の息を見届けたいの。」
◇
風の樹は、大陸中央の空に浮かぶ巨大な光輪だった。
かつてアレンが創った“中央アーク”が、数百年分の語りを吸い上げ、成長した結果である。
今では地上からもはっきりその根が見えるほど大きく、その枝は雲を貫いて天へと伸びている。
リィナは船型の昇降艇で樹の根のふもとに降り立った。
周囲の空気が震える。
それは言葉の余韻に似ていた。
数えきれない感情、名前、約束、悔恨――それらすべてが風の中でまだ息づいている。
けれど、そのどれもがもう語りをやめていた。
風は穏やかで、沈黙そのもののように静かだった。
「……やっぱり、あなたの終焉はここね。」
リィナが呟くと、枝のひとつが光を帯びて振動した。
音が、世界の端から届くように響く。
――“リィナ、また会えたね。”
「アレンさん……」
――“風が静かになるのは悪いことじゃない。語りが満ちれば、次に沈黙が訪れる。
沈黙こそが、次の言葉を呼ぶ。”
「それでも、世界があなたを失うのは嫌よ。」
――“僕はもう失われない。風の中で、人の中で、君の中にいる。
でも、この“語り”そのものは、一度眠らなければいけない。”
「眠らせるって……風を止めるの?」
――“それが僕たちの願った循環だ。風を止め、また語る。
記録を閉じ、また書き始める。
君になら、その第一声を任せられる。”
リィナの胸に、微かな痛みが走る。
彼女は空を仰ぎ、長く息を吸い込んだ。
「あなたって、本当に勝手。でも……分かりました。
私が止めます。あなたの理に、終わりを与えます。」
白いペンを取り出す。
それはかつて、アレンが手渡した最後の筆だった。
その先端が淡く光り、風が集まって渦を巻く。
リィナは一行、空へ文字を書く。
――『風、眠れ。語り、息を潜めよ。』
瞬間、周囲の空気が弾けた。
青い光の樹全体が震え、枝々が一斉に輝く。
その光が徐々に薄れ、まるで雪のように散っていく。
風の渦が静まり、音が消える。
風の声も、語りの音も、すべて沈黙に包まれた。
◇
――翌朝。
世界は異様なほど静かだった。
誰の声も風に乗らず、どんなアークも応答しない。
しかし、人々の顔には不安はなかった。
まるで新しい季節を迎えたような穏やかさが、街中に広がっていた。
リィナはデールの丘に立っていた。
朝日が昇り、風が緩やかに頬を撫でる。
「沈黙の風……これが、再生のはじまり。」
彼女の隣には、メイルがいる。
「主任、世界は……これで正しいんですか?」
「ええ。語りは止まった。でも、それは終わりじゃない。」
「また始まる?」
リィナは微笑んだ。
「人が語るかぎり、風は戻るわ。
風が沈黙を覚えた今、次の語りは“人の声”から始まるの。」
彼女は小さな手帳を取り出し、真っ白なページを開いた。
風の残滓がその上でふっと揺れ、柔らかな光を宿す。
新しい物語の予感。
リィナは息を吸い、小さく呟いた。
「第零章――風の名を呼ぶ日。」
その瞬間、世界のどこかで、微かな風が生まれた。
それはまだ言葉を持たない。
けれど、確かに“次”の語りの種だった。
◇
数ヶ月後、リィナは海辺の小さな村で暮らしていた。
風譜の館を辞し、穏やかな生活を選んだのだ。
子どもたちに読み書きを教え、ときおり風の話をする。
誰もが知らなかった“語りの時代”を。
その日も、子どもたちは彼女を囲み、せがんだ。
「先生、昔みたいな風の話をして!」
リィナは苦笑する。
「風の話? もうあの日の風は眠っているのに。」
「でも、聞きたい!」
そう言われ、彼女はふっと空を見上げた。
「……じゃあ、一つだけ。」
リィナはゆっくりと語り出す。
「昔、風と話せる人がいました。
その人は、みんなの言葉を風に託して、世界を繋いだの。
けれど、ある日、その風が眠ってしまった。
でもね、それは悲しいことじゃなかったのよ。
なぜなら、風は夢の中で、また新しい声を探していたから。」
子どもたちが目を輝かせる。
リィナは笑って言葉を続ける。
「そしていつか、誰かがその風をまた起こす。
その時きっと、あなたたちの声が一番に届くでしょう。」
浜辺を渡る潮風が、草の間を抜けて駆ける。
リィナの髪を揺らし、子どもたちの笑い声を運ぶ。
その風の中で、ひとつのさざ波のような声がした。
――“また会おう。”
リィナはそっと目を閉じ、微笑んだ。
「ええ、また。――風の物語が目覚める時に。」
空は透き通るような青。
世界は沈黙しているのに、不思議とどこからか語りが聞こえる気がした。
それは、風の果実が残した約束の音だった。
風はもう、ただの空気の流れではない。
それは、誰かが語り、誰かが聴くための――永遠の記録そのもの。
リィナは最後の一行を胸の中で描いた。
――『風は終わらない。語る者がいる限り。』
そして、静かな潮騒の中で彼女は微笑んだ。
物語は、確かに完結していた。
けれど、それは「終わり」ではなく――次の息吹の始まりだった。
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