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第二章
五
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七月、信勝と通じていた岩倉城の織田伊勢守信賢を浮野の戦いで破ると、信長は翌永禄二年(一五五九)、籠城戦の末に岩倉城を攻め落とし、遂に尾張国を統一した。
この年二月二日、信長は駿河今川義元、甲斐武田信玄など名立たる戦国大名に先駆けて、上洛を果たし、時の室町幕府第十三代将軍足利義輝に拝謁した。
永禄三年(一五六〇)、於市が信長の許に引き取られ既に四年が経過した。この年、数え年で十四歳になる彼女は、見目麗しき乙女に成長していた。そんな従妹を信長は甚く寵愛した。
はじめのうちは信長から実の妹と同じような扱いを受けていた於市であったが、いつしかその垣根を超え、男女の関係になってしまった。
やがてそれは信長の正室帰蝶の耳にも届いた。
「そうですか、殿が於市を……」
帰蝶は至極残念そうに言った。
夫と妹を同時に失ってしまった気分だ。
一方、従兄信長に抱かれ女の悦びを知った於市は、情事のあと火照った身体を冷やそうと寝所を離れ、夜風を浴びるため廊下へと出た。
夜空に浮かぶ月は、十三夜。月齢は十二日でまだ満月に満たない。
於市が白の小袖の衿をはだけながら涼んでいると、突然庭に植えられた樹々の枝が揺らいだ。
「誰かっ!?」
於市は、はだけた衿を隠しながら叫んだ。
「木下藤吉郎めにございまする」
木の陰から声がした。
「さ、猿か……?」
於市が問い返すと、
「御意」
藤吉郎の返事があった。
「猿、無礼者。このような夜分に何用じゃ」
於市は、自分が信長に抱かれ、既に破瓜を済ませていることを、この雑兵上がりの猿面冠者も知っていることを承知していた。
故に、少し恥ずかしく思い両頬と耳朶まで火照らせ、
「下がりおろうっ」
とまるで野良犬をあしらうように手で追い払おうとした。
「御屋形様に火急の御知らせが」
「殿に……」
「はいっ」
藤吉郎の低い声が闇の中に木霊した。
すると於市は、背後に人の気配を感じ振り返った。目の前には小袖を纏った信長が立っていた。
「何用じゃ猿っ!?」
信長の甲高い声が響いた。
「御無礼仕る。駿河に忍ばせておりました手前の配下の者からの知らせによりますれば、今川治部、本日駿府を出立したとのこと」
「ん!? 遂に動いたか御歯黒大夫が……」
信長が落ち着き払った声で言う。
それとは裏腹に、於市は少しばかり心の臓の鼓動が早くなっていた。
猿と呼ばれる男から、駿河、遠江、三河の三国の太守が動いたと知らされ、彼女は心の内で静かに震えていたのだ。
「駿府を発った今川勢は、総勢二万とも四万とも」
「よ、四万……!?」
今川勢の総勢を知り、於市は絶句した。信長の顏をまじまじと見やった。
「で、あるか。猿っ、大儀であった。引き続き今川の動き探れぇっ!」
「はぁっ」
庭木の枝が揺れ、人の気配が消え去った。
「殿……」
於市は声を震わせ、信長に抱き付いた。
「……案ずるな市。俺は義元如き公家かぶれには負けぬ」
そう言うと、信長は於市が纏う小袖の胸元に手を忍ばせ、少し小振りな乳房を揉みしだき始めた。
信長に抱かれ以来疎遠になっていた帰蝶の許に於市が足を運んだのはその翌日だった。
「あら珍しい於市殿が顏を出すなんて……」
帰蝶は皮肉を口にした。
「義姉上様、御存知ならば御教え下さい」
「……妾が何を知っていると申すのじゃ」
帰蝶は幾分怪訝そうに顔を顰め、首を傾げる。
「殿は、従兄(あに)上様は、昨晩、妾に案ずるなと仰せになりました」
信長から寵愛を受ける側室の一人が、正妻を前にして、昨夜信長と肌を重ねたことを白状してまで、於市は帰蝶に訊ねたいことがあったのだ。
一瞬、帰蝶は顔色を変え、両頬を強張らせたが、流石は蝮の道三の娘だけあって、直ぐに落ち着きを取り戻した。
「駿河の今川殿が動いたのですね。そのことは妾の耳にも届きました。恐らくあの殿のことです、何かしらの手は打っておられる筈。御案じ召されるな於市殿」
帰蝶は、於市を引き取った当時のような優しい眼差しを向け、そう口にした。
「ですが……」
「女子(おなご)の妾たちが口を挟んでも詮なきこと。戦は男子(おのこ)の仕事」
帰蝶は於市に言葉を掛けると、彼女の両肩にそっと手を掛け、静かに抱き寄せた。
「心配要りません。必ず殿は今川を打ち破りますから」
「はい。義姉上様……」
於市は帰蝶の温もりを肌で感じながら頷いた。
この年二月二日、信長は駿河今川義元、甲斐武田信玄など名立たる戦国大名に先駆けて、上洛を果たし、時の室町幕府第十三代将軍足利義輝に拝謁した。
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はじめのうちは信長から実の妹と同じような扱いを受けていた於市であったが、いつしかその垣根を超え、男女の関係になってしまった。
やがてそれは信長の正室帰蝶の耳にも届いた。
「そうですか、殿が於市を……」
帰蝶は至極残念そうに言った。
夫と妹を同時に失ってしまった気分だ。
一方、従兄信長に抱かれ女の悦びを知った於市は、情事のあと火照った身体を冷やそうと寝所を離れ、夜風を浴びるため廊下へと出た。
夜空に浮かぶ月は、十三夜。月齢は十二日でまだ満月に満たない。
於市が白の小袖の衿をはだけながら涼んでいると、突然庭に植えられた樹々の枝が揺らいだ。
「誰かっ!?」
於市は、はだけた衿を隠しながら叫んだ。
「木下藤吉郎めにございまする」
木の陰から声がした。
「さ、猿か……?」
於市が問い返すと、
「御意」
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於市は、自分が信長に抱かれ、既に破瓜を済ませていることを、この雑兵上がりの猿面冠者も知っていることを承知していた。
故に、少し恥ずかしく思い両頬と耳朶まで火照らせ、
「下がりおろうっ」
とまるで野良犬をあしらうように手で追い払おうとした。
「御屋形様に火急の御知らせが」
「殿に……」
「はいっ」
藤吉郎の低い声が闇の中に木霊した。
すると於市は、背後に人の気配を感じ振り返った。目の前には小袖を纏った信長が立っていた。
「何用じゃ猿っ!?」
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それとは裏腹に、於市は少しばかり心の臓の鼓動が早くなっていた。
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