傾国の女 於市

西村重紀

文字の大きさ
19 / 32
第二章

しおりを挟む
 その頃清須城内では、留守を護る女たちが皆織田勢の勝利を信じ、祭壇の前にて神仏に祈祷していた。
「殿、何卒、御無事で……」
 正室帰蝶が夫信長の身を案じる。
「摩利支天様、どうか殿に御力添えを……」
 於市も口の中で何度も反芻するように唱えた。
「南無八幡大菩薩……」
 先年、不肖の息子信長に愛息信勝を殺された生母土田御前も、数珠を揉みながら織田勢の勝利を祈った。
 すると突然、清須城の本丸御殿の屋根瓦を叩きつけるほどの勢いで、雨が降り出した。
 女たちは急な豪雨に驚き、祈りを捧げることを止め。暫し呆然と庭を見やった。篠突く雨のその音もさることながら、凄まじい水煙のため、庭の樹々すら見えない。
「恵みの雨でござるぞ、御母堂様」
 先ほどから祭壇に向かって経文を唱えていた僧侶が言った。
「沢彦殿、恵みの雨とは一体……?」
 土田御前が怪訝そうに訊ねる。
 沢彦宗恩は、唇の端に薄い笑みを作った。
「御味方を勝利に導く雨にござる」
 沢彦はさも自信ありありに言う。
 彼は、臨済宗妙心寺派の僧侶で、美濃国の大宝寺の住持であった。
 嘗て、信長の傅役平手政秀に依頼され、吉法師と呼ばれていた元服前の信長の教育係を務めた人物だ。平手政秀が諌死した後は、彼の菩提を弔うために建立された政秀寺を開山した。また、信長の元服の際、信長と言う諱を考えたのもこの僧侶であった。
「沢彦和尚様、何故に勝利に導く恵みの雨なのでしょうか」
 於市も土田御前同様意味が分からず、訝し気に眉根を寄せ訊ねる。
「ごほんっ」
 咳払いをしてから、沢彦はニンマリとした笑みを浮かべた。
「上総介殿の狙いは今川治部殿の本陣」
「今川の本陣……!?」
「はい」
 沢彦は自信あり気に頷くと、
「宜しいかな皆様、如何に今川が強大であってもその総領たる治部様を討てば、総崩れとなります。詰まるとこ、この雨は我が織田が今川の本陣を突くには打って付けの雨と言うこと。このように水煙によって一寸先も見えません。また、地面を叩く雨音で、馬の蹄の音を掻き消されまする」
「本当に斯様なことが……」
 帰蝶が問い掛けた。
「奥方様、案ずることなかれ……上総介殿には拙僧がついておりまする。されど、治部様には、もう雪斎和尚はついておられぬ」
 沢彦は、数年前に他界した臨済宗の僧侶の名を口にした。
 言わずと知れた今川義元の教育係で、義元が長じた後は、その軍師として深く関わった人物だった。
「もしも雪斎和尚が存命であれば、上総介殿に、万が一にも勝ち目はござらなんだ。されど最早今川に雪斎和尚はおらぬ」
「その御言葉信じても宜しいのでしょうね」
 於市が念を押すように聞いた。
 沢彦は両頬を崩し、満面の笑みを浮かべた。
「はい。織田の勝ちに聊かの狂いもござらぬ。必ずや勝利致す」
 沢彦は女たちの前で断言した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

元亀戦記 江北の虎

西村重紀
歴史・時代
浅井長政の一代記です

【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】 3巻からは戦争編になります。 戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。 ※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

影武者の天下盗り

井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」 百姓の男が“信長”を演じ続けた。 やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。 貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。 戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。 炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。 家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。 偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。 「俺が、信長だ」 虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。 時は戦国。 貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。 そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。 その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。 歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。 (このドラマは史実を基にしたフィクションです)

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

処理中です...