27 / 32
第三章
五
しおりを挟む
卯の刻(午前六時頃)過ぎに岐阜城を発った於市の花嫁行列が、北近江小谷城下の清水谷の浅井屋敷に着いたのは、酉の刻(午後六時頃)を少し回った頃だった。
既に日が落ち、浅井城下は蒼白い薄闇に包まれていた。
於市を乗せた輿が豪壮な正門を潜り、浅井屋敷に入った。
庭から鈴虫の啼き声が聞こえた。
丸に井桁の家紋が入った幔幕に、篝火の灯りが映り、時折吹く風に煽られ揺れていた。
岐阜城から伴って来たお付きの侍女の手によって、御簾が上げられた。
侍女が手を差し出す。
於市は一礼して、その手を握りながら輿から降りた。
「浅井備前守様とは、どんな殿方であろうか……」
と呟く於市の胸中は不安でいっぱいだった。
「さあ、参りましょうか」
侍女に促され、於市は広縁に上がった。
長政との祝言は、居城である小谷城ではなく、平素城主家族が暮らす清水谷に建つ浅井屋敷で華やかに執り行われた。
大広間には、浅井家臣団の主だった者たちが集った。
皆三国一の美貌を誇る絶世の美女と謳われた於市御寮人の登場を、今か今かと心待ちにしていた。
祝宴には、織田方の柴田勝家や木下秀吉らの席も用意された。
岐阜城から付き従った侍女たちに伴われ、白無垢の花嫁衣装に身を包む於市が現れた。
既に臨月を迎えているため、孕み腹が目立った。
秀吉は憧れ続けた於市の晴れ姿を見やり、言葉を失った。
やり場のない怒りと深い悲しみ、憧れの女性を奪った長政に対する嫉妬で、小柄な秀吉の胸は圧し潰されそうだった。
「どうした猿、ぼうっとして」
勝家が問い掛ける。
「はぁ、柴田殿何か……?」
呆け顔で訊ねる秀吉に勝家は、
「訊ねておるのはこっちの方じゃっ」
「……否、何も」
秀吉は憮然とかぶりを振った。
間もなくして、秀吉から憧れの女性於市を奪い取った男が現れた。
北近江十二万石小谷城主の浅井備前守長政である。
はち切れんばかりの素襖を纏った肥満体型の下膨れした巨漢だ。
秀吉が心の底から畏れ敬う信長とは雲泥の差だ。
このようなぶ男に、憧れてやまない於市を奪い取られたかと思うと、悔しさのあまり腸が煮えくり返りそうだった。六本の指を握り締め秀吉は懸命に耐え続けた。
間もなくして於市は男児と女児の双子を出産した。従兄の信長との間に出来た子であるが、浅井長政の子として育てられることになった。ただ、当時双子は畜生腹と忌み嫌われ、女児は他家に預けられた。
「よくやった於市、これで儂も義兄上に顔が立った」
長政は於市が産んだ子を、万福丸と名付け我が子として可愛がった。
「越前におわす義秋様が従兄(あに)上を頼り、岐阜に移られると妾の耳にも入りました」
我が子万福丸をあやす夫長政を見ながら於市は言った。
「義秋様は既に朝倉殿を見限っておられる。あの方の望みは、上洛して京から三好一党を追い払い、天下に号令を掛けること」
長政は恐ろしい表情を見せた。
その瞬間、それまでおとなしくしていた万福丸が急にむずかり泣き出した。
「まあ、御父上が怖い顔をなさるから泣いてしまわれた」
於市は、母親の顔になってそう言った。脇に控える乳母に目を遣り合図する。
すると、すかさず乳母が手を差し伸べ、長政の腕から万福丸を預かった。
万福丸を抱きながら、器用に小袖の胸元を開き乳房を出すと、乳母は早速母乳を与えた。
美味しそうにお乳を飲む我が子を、於市は目を細め愛おしく見詰めた。この幸せが永遠に続くことを心から願った。
だが、不意に於市の脳裏に、それが破綻してしまうではないかという予感が浮かび上がった。
彼女の母、北の方がそうであったように、於市にも魔性の女の血が流れている。
「どうした市、浮かない顔をして」
長政が怪訝そうに眉を顰め訊ねた。
「いえ、何でもございません」
於市は夫に悟られまいと素っ気なくかぶりを振って見せた。
「岐阜の義兄上が、義秋様を奉じて上洛の途に就かれたら、この浅井からも兵を出さねばならぬであろうな」
「戦になるのですか」
於市は不安な眼差しを長政に向けた。
「三好の者共もそう易々と京を明け渡すまい」
真顔で言いながら長政は愛妻を見詰めた。
於市は無言で頷いた。
北近江十二万石太守、浅井長政の許に、於市が嫁いでから一年が過ぎた。
この年、永禄十一年(一五六八)七月、織田信長は越前朝倉氏を頼りその居城一乗谷城に身を寄せている足利義昭を迎え入れるため使者を派遣した。これより先の同年四月、これまで使っていた諱を、義秋から義昭と改めている。
十三日に越前一乗谷を発った義昭一行は美濃国に入った。二十五日は、岐阜城下の外れに建つ立政寺にて信長は義秋と対面を果たした。
その一方が北近江の小谷城にも伝わった。
「昨日、義兄上が立政寺にて義昭様と晴れて対面を果たされた。義兄上は、義昭様のため様々な金銀財宝を献上なされたらしい。漏れ聞くところによると、義昭様は大層喜んでおられたそうじゃ」
「然様ですか、あの方らしい」
於市は素っ気なく言い捨てた。
「あの方らしいとは」
聊か怪訝に思い、長政は訊ねた。
「派手好きな従兄(あに)上のこと、義秋様のため随分と奮発なされたに違いありません」
「義兄上が義昭様を奉じて上洛の途に就かれたら、この俺もそれに従い京に上る」
「お好きになされませ」
於市は長政の顔も見ずに言った。
正直なところ、於市は夫長政をそれほど愛してはいなかった。今でも彼女の心中には信長が住んでいたのだ。
既に日が落ち、浅井城下は蒼白い薄闇に包まれていた。
於市を乗せた輿が豪壮な正門を潜り、浅井屋敷に入った。
庭から鈴虫の啼き声が聞こえた。
丸に井桁の家紋が入った幔幕に、篝火の灯りが映り、時折吹く風に煽られ揺れていた。
岐阜城から伴って来たお付きの侍女の手によって、御簾が上げられた。
侍女が手を差し出す。
於市は一礼して、その手を握りながら輿から降りた。
「浅井備前守様とは、どんな殿方であろうか……」
と呟く於市の胸中は不安でいっぱいだった。
「さあ、参りましょうか」
侍女に促され、於市は広縁に上がった。
長政との祝言は、居城である小谷城ではなく、平素城主家族が暮らす清水谷に建つ浅井屋敷で華やかに執り行われた。
大広間には、浅井家臣団の主だった者たちが集った。
皆三国一の美貌を誇る絶世の美女と謳われた於市御寮人の登場を、今か今かと心待ちにしていた。
祝宴には、織田方の柴田勝家や木下秀吉らの席も用意された。
岐阜城から付き従った侍女たちに伴われ、白無垢の花嫁衣装に身を包む於市が現れた。
既に臨月を迎えているため、孕み腹が目立った。
秀吉は憧れ続けた於市の晴れ姿を見やり、言葉を失った。
やり場のない怒りと深い悲しみ、憧れの女性を奪った長政に対する嫉妬で、小柄な秀吉の胸は圧し潰されそうだった。
「どうした猿、ぼうっとして」
勝家が問い掛ける。
「はぁ、柴田殿何か……?」
呆け顔で訊ねる秀吉に勝家は、
「訊ねておるのはこっちの方じゃっ」
「……否、何も」
秀吉は憮然とかぶりを振った。
間もなくして、秀吉から憧れの女性於市を奪い取った男が現れた。
北近江十二万石小谷城主の浅井備前守長政である。
はち切れんばかりの素襖を纏った肥満体型の下膨れした巨漢だ。
秀吉が心の底から畏れ敬う信長とは雲泥の差だ。
このようなぶ男に、憧れてやまない於市を奪い取られたかと思うと、悔しさのあまり腸が煮えくり返りそうだった。六本の指を握り締め秀吉は懸命に耐え続けた。
間もなくして於市は男児と女児の双子を出産した。従兄の信長との間に出来た子であるが、浅井長政の子として育てられることになった。ただ、当時双子は畜生腹と忌み嫌われ、女児は他家に預けられた。
「よくやった於市、これで儂も義兄上に顔が立った」
長政は於市が産んだ子を、万福丸と名付け我が子として可愛がった。
「越前におわす義秋様が従兄(あに)上を頼り、岐阜に移られると妾の耳にも入りました」
我が子万福丸をあやす夫長政を見ながら於市は言った。
「義秋様は既に朝倉殿を見限っておられる。あの方の望みは、上洛して京から三好一党を追い払い、天下に号令を掛けること」
長政は恐ろしい表情を見せた。
その瞬間、それまでおとなしくしていた万福丸が急にむずかり泣き出した。
「まあ、御父上が怖い顔をなさるから泣いてしまわれた」
於市は、母親の顔になってそう言った。脇に控える乳母に目を遣り合図する。
すると、すかさず乳母が手を差し伸べ、長政の腕から万福丸を預かった。
万福丸を抱きながら、器用に小袖の胸元を開き乳房を出すと、乳母は早速母乳を与えた。
美味しそうにお乳を飲む我が子を、於市は目を細め愛おしく見詰めた。この幸せが永遠に続くことを心から願った。
だが、不意に於市の脳裏に、それが破綻してしまうではないかという予感が浮かび上がった。
彼女の母、北の方がそうであったように、於市にも魔性の女の血が流れている。
「どうした市、浮かない顔をして」
長政が怪訝そうに眉を顰め訊ねた。
「いえ、何でもございません」
於市は夫に悟られまいと素っ気なくかぶりを振って見せた。
「岐阜の義兄上が、義秋様を奉じて上洛の途に就かれたら、この浅井からも兵を出さねばならぬであろうな」
「戦になるのですか」
於市は不安な眼差しを長政に向けた。
「三好の者共もそう易々と京を明け渡すまい」
真顔で言いながら長政は愛妻を見詰めた。
於市は無言で頷いた。
北近江十二万石太守、浅井長政の許に、於市が嫁いでから一年が過ぎた。
この年、永禄十一年(一五六八)七月、織田信長は越前朝倉氏を頼りその居城一乗谷城に身を寄せている足利義昭を迎え入れるため使者を派遣した。これより先の同年四月、これまで使っていた諱を、義秋から義昭と改めている。
十三日に越前一乗谷を発った義昭一行は美濃国に入った。二十五日は、岐阜城下の外れに建つ立政寺にて信長は義秋と対面を果たした。
その一方が北近江の小谷城にも伝わった。
「昨日、義兄上が立政寺にて義昭様と晴れて対面を果たされた。義兄上は、義昭様のため様々な金銀財宝を献上なされたらしい。漏れ聞くところによると、義昭様は大層喜んでおられたそうじゃ」
「然様ですか、あの方らしい」
於市は素っ気なく言い捨てた。
「あの方らしいとは」
聊か怪訝に思い、長政は訊ねた。
「派手好きな従兄(あに)上のこと、義秋様のため随分と奮発なされたに違いありません」
「義兄上が義昭様を奉じて上洛の途に就かれたら、この俺もそれに従い京に上る」
「お好きになされませ」
於市は長政の顔も見ずに言った。
正直なところ、於市は夫長政をそれほど愛してはいなかった。今でも彼女の心中には信長が住んでいたのだ。
0
あなたにおすすめの小説
【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】
3巻からは戦争編になります。
戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。
※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる