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第三章
六
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八月七日、信長は上洛に先駆けて、妹と偽って嫁がせた於市の婿長政に会うため佐和山城を訪れた。佐和山城の城主は、磯野員昌である。
於市は想い人である信長に会えると喜んだのだが、糠喜びに終わってしまった。
もう一人意気消沈した人物がいる。この時、既に織田家中の重臣まで出世していた木下藤吉郎秀吉である。
秀吉は、小谷城下の清水谷の浅井屋敷で執り行われた祝言以来、憧れの女性於市に会えると喜んで信長のお供をして佐和山城までやって来たのだ。
「如何致した猿、浮かない顔をして」
勝家が秀吉を揶揄った。
「そう申す柴田殿もお顔の色が優れまえぬぞ」
秀吉も負けじと勝家に言い返す。
猿面冠者同様、強面の猛者鬼の権六勝家も満更でもなかった。於市のことを密かに想っていた男の一人だった。
秀吉、勝家の他に織田家臣の顔触れは、佐久間信盛、稲葉良通(一鉄)らだ。
対する浅井側は、当主の浅井長政、佐和山城主の磯野員昌、新庄直頼、そして遠藤直経といった面々だ。
「義兄上、お初にお目に掛かります。某が浅井備前守長政でござります」
長政は初めて見る信長を目の前にして、やや緊張気味にだった。
それに比べると信長は落ち着いていた。
「ふむ、織田弾正忠信長である」
名乗り、顎をしゃくった。傍らに控える小姓に指示を出したのだ。
かの桶狭間の合戦にて清須城を撃って出た信長に最初に付き従った五人の中の一人、長谷川橋介他小姓たちが幾つかの桐の箱を運び入れた。
「これは……?」
訝しげに長政が訊ねる。
まず細長い箱から信長は開けた。
「無銘であるが兼光が鍛えたし脇差でござる」
「か、兼光……!?」
長政は、鎌倉時代末期から南北時代の名匠備前長船兼光の脇差を目の当たりにし絶句した。
兼光は、地刃ともに沸の強い覇気がある名刀である。
長政が兼光の妖しげな輝きに心を奪われていると、信長は正方形の木箱を開けた。
「堺の魚屋与四郎(のち千利休)に命じ、取り寄せた茄子じゃ」
桐の箱から茄子の茶入を取り出した。信長の手に収まるその茶入は、黒く光り輝いていた。
三つ目の木箱を掛けると、信長は中から掛け軸を取り出した。
「雪舟の筆による墨絵でござる。備前守殿数奇屋にでも掛けられい」
信長は体温の低い声で言った。
「あ、義兄上……」
唖然としながら長政は信長の顔を見た。
「頼りにしておる。この信長に力を貸して頂きたい」
「はっ、この浅井備前、どこまでも義兄上のお供を仕りまするっ」
長政は浅井家臣が見盛る中、まるで信長が主君であるかのように恭しく振舞った。
その様子に冷めた視線を送っていた者がいる。一人は木下秀吉だ。
「御屋形様も何故浅井如き気を遣われるのじゃ」
秀吉は、ごもごもと口籠るように不満を漏らした。チラリと勝家の顔を見やる。
勝家も面白くないらしく先ほどから仏頂面だった。
秀吉は視線を浅井家臣たちに向けた。
主君長政の遜った態度に、流石に面白くないらしく皆苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
その中の一人の男と目が合った。
すると相手はすかさず視線を逸らした。
「あれは確か……遠藤喜右衛門ではなかったか」
記憶力の良い秀吉は、彼の名前と顔を覚えていた。
直経は、隣に座る直頼に耳元で何かを囁き中座した。
秀吉は何か悪い予感を覚えた。先ほどから胸騒ぎがしてならないのだ。
秀吉の予感した通りこのとき遠藤直経は、のちの憂いを断つため、信長と刺し違える気でいたのだ。
「柴田様、某ちと催した故、厠に」
と、お道化た表情を作り秀吉は中座した。
対面の間から廊下に出ると、広縁の端で待機していた配下の美濃川並衆の許へ向かった。
「何じゃ猿っ、浮かぬ顔をして」
怪訝気味に蜂須賀小六が問う。
「最前、ここを浅井の者が通らなんだか」
「いいや」
と小六はかぶりを振った。
「褐色の素襖を着た男じゃが」
「通らなんだ」
首を傾げながら小六は答えた。
「どこへ行ったんじゃ、まさか……!?」
秀吉は、直感的に主君信長に危機が迫っていることを察して、慌てて対面の間に戻ろうと踵を返した。
信長と刺し違える覚悟を決めていた直経は、対面の間の襖の前に、秀吉と配下の美濃川並衆の姿を死認するなり舌打ちした。
「如何されやぁーした遠藤さぁ」
秀吉は白々しく問い掛けた。
「否、何も」
直経は憮然と言い捨て、秀吉と共に対面の間に入った。
信長と刺し違える好機を逸することになった直経は、不機嫌そうに座に戻った。
秀吉もそれを見届け、末席に着いた。
「遅かったな猿」
勝家が問い掛ける。
「どうも今朝から腹の調子が悪うていかんわっ」
秀吉は苦しそうに腹を摩りながら言った。
「意地汚いお主のことじゃ、道端に落ちておった犬の糞を団子か何かと間違って食ったんじゃろうガハハハァァ」
勝家は秀吉を嘲笑うように腹を叩き大声を上げた。
「煩いぞっ権六っ」
信長が勝家を睨み付けた。
「はっ、申し訳ござらん」
勝家は顔を赤く染め、頭を下げた。
長政との対面を恙なく無事に終え、帰路に就いた信長は関ヶ原を越えた辺りで秀吉を傍に呼んだ。
「先ほどは大義であった」
低い声で短く告げる。
「ご用心召されませ御屋形様、浅井家中には御屋形様を快く思わぬ者がおりまする。あの遠藤喜右衛門もその一人かと存じ上げ奉る」
「案ずるな猿。浅井備前には釘を刺しておいた。よもやこの俺を裏切ることはなかろう」
信長は不敵な笑みを浮かべると、栗毛の駿馬の尻に鞭を入れた。
秀吉は、馬に跨り走り去る主君信長の後姿を見送った。
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「如何致した猿、浮かない顔をして」
勝家が秀吉を揶揄った。
「そう申す柴田殿もお顔の色が優れまえぬぞ」
秀吉も負けじと勝家に言い返す。
猿面冠者同様、強面の猛者鬼の権六勝家も満更でもなかった。於市のことを密かに想っていた男の一人だった。
秀吉、勝家の他に織田家臣の顔触れは、佐久間信盛、稲葉良通(一鉄)らだ。
対する浅井側は、当主の浅井長政、佐和山城主の磯野員昌、新庄直頼、そして遠藤直経といった面々だ。
「義兄上、お初にお目に掛かります。某が浅井備前守長政でござります」
長政は初めて見る信長を目の前にして、やや緊張気味にだった。
それに比べると信長は落ち着いていた。
「ふむ、織田弾正忠信長である」
名乗り、顎をしゃくった。傍らに控える小姓に指示を出したのだ。
かの桶狭間の合戦にて清須城を撃って出た信長に最初に付き従った五人の中の一人、長谷川橋介他小姓たちが幾つかの桐の箱を運び入れた。
「これは……?」
訝しげに長政が訊ねる。
まず細長い箱から信長は開けた。
「無銘であるが兼光が鍛えたし脇差でござる」
「か、兼光……!?」
長政は、鎌倉時代末期から南北時代の名匠備前長船兼光の脇差を目の当たりにし絶句した。
兼光は、地刃ともに沸の強い覇気がある名刀である。
長政が兼光の妖しげな輝きに心を奪われていると、信長は正方形の木箱を開けた。
「堺の魚屋与四郎(のち千利休)に命じ、取り寄せた茄子じゃ」
桐の箱から茄子の茶入を取り出した。信長の手に収まるその茶入は、黒く光り輝いていた。
三つ目の木箱を掛けると、信長は中から掛け軸を取り出した。
「雪舟の筆による墨絵でござる。備前守殿数奇屋にでも掛けられい」
信長は体温の低い声で言った。
「あ、義兄上……」
唖然としながら長政は信長の顔を見た。
「頼りにしておる。この信長に力を貸して頂きたい」
「はっ、この浅井備前、どこまでも義兄上のお供を仕りまするっ」
長政は浅井家臣が見盛る中、まるで信長が主君であるかのように恭しく振舞った。
その様子に冷めた視線を送っていた者がいる。一人は木下秀吉だ。
「御屋形様も何故浅井如き気を遣われるのじゃ」
秀吉は、ごもごもと口籠るように不満を漏らした。チラリと勝家の顔を見やる。
勝家も面白くないらしく先ほどから仏頂面だった。
秀吉は視線を浅井家臣たちに向けた。
主君長政の遜った態度に、流石に面白くないらしく皆苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
その中の一人の男と目が合った。
すると相手はすかさず視線を逸らした。
「あれは確か……遠藤喜右衛門ではなかったか」
記憶力の良い秀吉は、彼の名前と顔を覚えていた。
直経は、隣に座る直頼に耳元で何かを囁き中座した。
秀吉は何か悪い予感を覚えた。先ほどから胸騒ぎがしてならないのだ。
秀吉の予感した通りこのとき遠藤直経は、のちの憂いを断つため、信長と刺し違える気でいたのだ。
「柴田様、某ちと催した故、厠に」
と、お道化た表情を作り秀吉は中座した。
対面の間から廊下に出ると、広縁の端で待機していた配下の美濃川並衆の許へ向かった。
「何じゃ猿っ、浮かぬ顔をして」
怪訝気味に蜂須賀小六が問う。
「最前、ここを浅井の者が通らなんだか」
「いいや」
と小六はかぶりを振った。
「褐色の素襖を着た男じゃが」
「通らなんだ」
首を傾げながら小六は答えた。
「どこへ行ったんじゃ、まさか……!?」
秀吉は、直感的に主君信長に危機が迫っていることを察して、慌てて対面の間に戻ろうと踵を返した。
信長と刺し違える覚悟を決めていた直経は、対面の間の襖の前に、秀吉と配下の美濃川並衆の姿を死認するなり舌打ちした。
「如何されやぁーした遠藤さぁ」
秀吉は白々しく問い掛けた。
「否、何も」
直経は憮然と言い捨て、秀吉と共に対面の間に入った。
信長と刺し違える好機を逸することになった直経は、不機嫌そうに座に戻った。
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