傾国の女 於市

西村重紀

文字の大きさ
29 / 32
第三章

しおりを挟む
 九月七日、遂に織田信長が岐阜を発った。足利義昭を奉じて上洛を開始したのだ。
「市、義兄上が岐阜を発たれた」
 小谷城下の清水谷の浅井屋敷にて、夫長政から一報を聞いた於市は、乳母や侍女らに囲まれて遊ぶ我が子万福丸を、目を細めながら見やり、
「そうですか」
 と素っ気なく言い捨てた。
「此度の上洛には、三河の徳川殿も兵を送られたそうじゃ。我が浅井としても兵を送らねば」
 長政がここまで語ると、於市は万福丸から視線を長政に移した。
「従兄(あに)上のため、兵をお出しするおつもりでございますか」
 於市は疑うような眼差しを向けた。
「ああ、そのつもりじゃ……不満か」
「いいえ、滅相も」
 於市は軽くかぶりを振ると、再びその視線を万福丸に戻した。
 このところ万福丸はよく喋るようになった。まだ赤ちゃん言葉で喋るので、何を言っているのか大人たちには理解出来なかった。だが、誕生間もない頃、虚弱体質でよく熱を出していた時に比べると健やかに育ってくれた。
 乳母や侍女らと遊ぶその姿を見ているだけで、於市は幸せな気持ちになれ幸福だった。
 しかし、彼女の心の奥底には常に、あの男の黒い影が存在していた。
 従兄織田信長だ。
 嘗て於市が全身全霊を懸けて愛した唯一の男だ。
 浅井長政に嫁ぐにあたって、信長は於市を自分の妹と偽った。
 何と自分勝手な男だろうと於市は信長を恨み呪ったりもした。孕み腹という取り返しのつかない身体にさせられ、挙句の果てに猫の子をやるように、腹に宿る胎児共々浅井に嫁ぐことになった。
 於市は、長政の許に嫁いでからも思いを寄せた信長の呪縛から逃れられずにいた。
 何れ、従兄信長は夫浅井長政と袂を分かつであろう、於市は予感めいたものを覚えていた。
 あの男は、常にそうだった。生まれ持っての猜疑心の強い男で、決して他人に気を許すことをしない。それは血を分けた肉親であっても。否、肉親だからこと彼は心の底から憎みもした。
 従兄の勘十郎信勝は、無残にも騙し討ちにあって殺された。
 於市の父、織田信光は、甥信長の謀略に嵌まり家臣の手によって弑逆された。
 毒婦だった母北の方は、尾張を追われ実家である桜井松平家に帰された。

 九月二十六日、信長は京の玄関口である東寺に進み、次いで東福寺に陣を敷いた。一方の義昭も清水寺に入り、ここに上洛を果たした。翌日には信長の支配下にある東寺に移った。
 敵対する三好方は、当主である三好義継、有力家臣の松永久秀らが次々と織田方に寝返り、信長は瞬く間に畿内を席巻し平定した。
 十月十八日、足利義昭は朝廷から将軍宣下を受け、遂に念願であった室町幕府十五代将軍の座に就いた。
 余談ではあるが、義昭は今回の上洛と、自らの将軍職就任の第一功労者である信長を、『御父織田弾正忠殿』と称し、桐と二引き両の紋の使用を許可し厚遇した。
 信長は、新将軍となった義昭から、副将軍、あるいは管領に就任するよう要請されたが、それを固辞し、堺、大津、草津などを織田家の直轄領とすることを要求した。
 この男は、虚実より実利を好み傾向があった。
 彼が生まれ育った尾張という土地柄そうさせたのであろう。
 尾張は、東の熱田、西の津島などの湊町が古くから栄えた商人の国だった。故に信長にはそう言った経済センスが備わっていたのだ。所謂尾張人気質というものだ。
 十月二十六日、信長は明智光秀、丹羽長秀、木下秀吉ら僅かな武将と士卒を残し美濃に引き上げた。
 秀吉は、光秀、長秀らと共に京を預かる奉行衆の一人に抜擢されたのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

元亀戦記 江北の虎

西村重紀
歴史・時代
浅井長政の一代記です

【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】 3巻からは戦争編になります。 戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。 ※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

影武者の天下盗り

井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」 百姓の男が“信長”を演じ続けた。 やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。 貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。 戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。 炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。 家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。 偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。 「俺が、信長だ」 虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。 時は戦国。 貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。 そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。 その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。 歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。 (このドラマは史実を基にしたフィクションです)

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

処理中です...