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第三話 価値のある一日
しおりを挟むその日の午後。私は資料を届けに宮廷の庭園を通りかかっていた。色とりどりの花々が咲き誇る、麗らかな日差しが降り注ぐ場所。
そこで、私は足はぴたりと止めた。
視線の先にいたのは、アシェン様だ。
彼の隣には、見慣れない若い女性が立っている。彼女はアシェン様を見上げてにこやかに笑いかけ、アシェン様もまた、普段の彼からは想像できないほど穏やかな表情で、彼女の言葉に耳を傾けている。
まるで、友人のような、あるいはそれ以上に親密な雰囲気。二人の間には、温かい空気が流れているように見えた。
私は、その光景をただ見つめた。胸の奥に、じわりと形容しがたい感情が広がる。これは、一体何の感情だろう。
——ああ、そうか。これは、嫉妬、というものなのだろう。
生まれて初めて感じる、ちりちりとした感覚。けれど、不思議と嫌な感情ではなかった。むしろ、少し面白くさえあった。
私は、自分の頬に触れてみる。口元は、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
「アシェン様も、あんな風に笑うんだ……」
ポツリと呟いた声は、風に溶けて消えた。
私はくるりと踵を返した。静かに、音を立てないように、その場を離れる。
アシェン様も、隣の女性も、私の存在に気づくことはなかった。
図書室に戻り、いつもの席に座る。先ほどの光景が、まぶたの裏に焼き付いている。アシェン様が誰かと親しげに話している姿を見るのは、初めてだった。いつもは冷静で感情を見せない彼が、あんなにも柔らかな表情を見せるなんて。
私にしか見せないそっけない顔も、きっと彼の魅力の一つなんだな、とそう結論づけた。
自分だけが知るアシェン様の顔、自分にしか向けられないぞんざいな態度。それは、ある意味で特別なことなのかもしれない。
机に肘をつき、顎に手を当てる。そして、にんまりと口角を上げた。
「……良いものを見たな」
私の顔は、今日一番の笑みに満たされていた。
私に残された時間は少ない。だからこそ、一つ一つの瞬間を、大切に過ごしたい。
アシェン様の新しい一面を知ることができた。それだけで、最高の思い出として刻まれるのだ。
別の日。私は図書室で、普段は立ち入らないような奥まった書庫の整理を任されていた。埃まみれの古文書を棚から下ろし、丁寧に拭き上げていく。その時、足元に置いていた脚立がぐらりと揺れた。
「きゃっ!」
バランスを崩し、棚から落ちそうになる。痛みを覚悟して強く目を瞑ると、私の体を強い腕が支えた。
「大丈夫か?」
聞き慣れた、心地よい低い声。顔を上げると、そこにいたのはアシェン様だった。彼は私の腕をしっかりと掴み、その体が完全に安定するまで離さなかった。
「アシェン様……!?」
私は驚きに目を見開く。なぜ彼がこんな場所に?
「資料を探しに来た。君こそ、こんな奥で何をしている」
アシェン様は私の体を支えていた手を離すと、何事もなかったかのように問いかける。しかし、その瞳には、一瞬だけ心配の色が宿っていたように見えた。
「あ、はい。古文書の整理を……。まさか、ここでアシェン様にお会いできるとは思いませんでした」
私は頬に熱が集まるのを感じながら答えた。こんなにも近くで、アシェン様の顔を見るのは久しぶりだ。相変わらず、月の祝福を受けたように美しい。
アシェン様は私の返答には特に興味を示さず、目的の書棚へと視線を移した。
「……このあたりに、古の魔術に関する書物があるはずなのだが」
彼は、棚に並んだ分厚い書物を指でなぞる。その真剣な横顔に、私は思わず見惚れてしまった。
「でしたら、そちらの棚の一番上の段にある、赤い表紙のものがそうかと。確か、『古代魔術の系譜』という題名だったはずです」
私は図書室の職員としての知識を発揮して助言した。アシェン様は私の言葉に促されるように、その書物を手に取る。
「そうだ、これだ。助かった」
アシェン様は、珍しく素直に礼を言った。その言葉に、私の胸が小さく跳ねる。いつもはそっけない彼からの、感謝の言葉。
「いえ、お役に立てて光栄です!」
私は満面の笑みで答えた。アシェン様は手にした書物を軽く開くと、再び私に視線を向ける。
「……君は、図書室の全ての書物の場所を覚えているのか?」
「はい。大体のものは、頭に入っています。アシェン様が何かお探しでしたら、いつでもお声がけください!」
私は得意げに胸を張る。アシェン様は私の言葉に小さく頷くと、書物を抱え、図書室の出口へと歩き去っていった。
彼の背中が見えなくなるまで見送ってから、私はそっと胸に手を当てた。心臓が、少しだけ早く脈打っている。
まさか、アシェン様とあんな風に話せるなんて……。
予期せぬ出来事に、私の心は高揚していた。いつもは一方的な告白ばかりだけど、今日は少しだけ、彼と会話ができた。
彼が、ほんの少しだけ、私を認識してくれたような気がした。
体調が昨日よりもさらに悪化している。指先の痺れが、時折、強くなることがある。
けれど、アシェン様との距離が、ほんの少しだけ近づいた今日という日。
私にとって、何よりも価値のある一日だった。
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