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第21章 欧州の戦い
21.1章 モスクワの戦い1
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ドイツ第三帝国は1942年の戦いの結果、ウクライナとコーカサスを含むソ連領土とエジプトなどの北アフリカの占領地域を大幅に拡大していた。1943年になってもこれらの地域の防衛をおろそかにするわけにはいかない。しかも、東部戦線北方のモスクワ西方やレニングラード周辺の戦線では、ソ連軍との対峙が続いており、簡単には動かせない。その結果、ソ連軍は今季のドイツ軍の攻勢については、前年のブラウ作戦のような大規模な攻勢よりも、雪解け後に実現可能なのは限定的な作戦になるだろうと考えていた。
それでも1943年3月になると泥濘期の終わりをにらんで、東部戦線でも再び戦闘活発化の兆しが出てきた。ソ連軍が攻撃の対象としたのは、作年までの戦闘の結果により生じていた、枢軸軍の東への張り出しだった。モスクワとクルスクの間のオリョールの北西から南南東にかけて、いまだにドイツ軍が占領している領域がなだらかな山のように東側に突出していた。
ソ連軍は前年の5月にはこの地域への反撃を検討したが、1942年にスターリングラードやコーカサス方面の戦闘が発生したために、先送りにせざるをえなかった。一方、ドイツ軍にとっても事情は同じで、1942年末まではブラウ作戦に投入する兵力や資材を優先したおかげで、東南のモスクワ方面で攻勢を仕掛けることなどもってのほかだった。しかし、1943年になって損害を受けた東部戦線北方に配備されている部隊の戦力も徐々に回復してきて状況は改善していた。
……
オリョールやブリャンスクの東側に張り出した地域をいまだにドイツが支配しているのは、スターリンにとって、絶えず不安の種になっていた。張り出し部からモスクワまでは、直線距離で300kmもないからだ。ソ連領土の広大さと比べると目と鼻の先のように思える。1943年5月中旬になって、ソ連軍の西部方面軍とブリャンスク方面軍は、赤軍最高総司令部(Stavka)の命令を受けて作戦の準備にとりかかった。北から南への戦線が小山を横倒ししたような形状になったオリョールを含む領域をドイツから奪還するのが作戦目的だった。
しかし、ドイツ国防軍情報部もソ連軍の動きを既につかんでいた。傍受した通信文を軍のコンピュータを使って解読した結果、東部戦線北部から中央部にかけてのソ連軍に攻勢に向けた動きがあることを察知したのだ。いくつもの電文をつなぎ合わせて、ドイツ軍国防軍情報部は、赤軍が攻撃を1カ月以内に始める可能性が高いと判断した。
ソ連軍の準備行動は、中央軍集団の指揮官に就任していたマンシュタイン上級大将に通報された。中央軍集団は、もともとスモレンスクの東側からオリョールを経てクルスク方面にかけて布陣していた。マンシュタインは、警告を受ける以前から、オリョールの張出部の兵力強化に着手していた。暗号解読情報などなくとも、空からの偵察結果を注意深く分析していれば、前線でのソ連側の動きはある程度わかる。
中央軍集団は、この張り出し部に部隊を集中させて、防御を固めていたことから、この地域は非公式に「ツィタデレ(城塞)」と呼ばれるようになった。
18トン重ハーフトラックの荷台に大型計算機を搭載した計算機車と、複数の通信機器を積み込んだ通信車が配備されて、ドイツ軍の前線部隊と本国との間の意思疎通は飛躍的に改善していた。無線による通信文は、最新の電子計算機暗号(エニグマⅡ)により暗号化されるので、格段に解読が難しくなったはずだ。しかも、電子機器の改良により通信文は計算機に記憶され、指揮官が必要とする時にテキスト文で出力できるようになった。
マンシュタインのところに、国防軍最高司令部(OKW)からの通知文を持って、トレスコウ大佐がやってきた。
「OKWから作戦命令が来ました。ソ連軍が東部戦線中央部への攻勢をまもなく開始するだろうとのことです。まずは、攻撃してくるソ連軍の撃破と反撃命令が出ました。ソ連軍の攻撃を打ち砕いた後は、モスクワ方面に向けて侵攻せよとの内容です。これはハルダー上級大将の名で出ています」
「今まで攻勢の準備をしていたソ連軍が本格的に動き出すということだな。オリョール付近のツィタデレの突出部は、いかにも切り取ってくれというような前線の形状になっている。間違いなく、その地域への攻撃が東部戦線攻撃ののろしになるだろう。オリョールの攻防戦で我々が勝利しなければ、東部戦線全体で押されることになるだろうな」
「その考えに同意します。モスクワ方面への進撃も命令に含まれていますが、攻勢を仕掛けてきたソ連軍を打ち破っても、モスクワの前面には防衛隊が布陣しているはずです。それらを合計すれば、明らかに我が部隊よりも大きな兵力です。いくらなんでも我々だけの戦力ではモスクワの占領までは不可能ですよ」
マンシュタイン上級大将は、メモを手にとってOKWからの命令内容の詳細を確認していた。
「我々がソ連軍を撃破して、東北方面への進撃に転ずれば、北部軍集団も連携して攻勢に転ずるとある。つまり、モスクワへの進撃のきっかけを我々が作れば、北部からも攻勢に加わるということだ。モスクワの攻略が可能になれば、北部軍集団はレニングラードの包囲よりも南東への攻撃を優先することになる。しかし、口火を切ることになる我々にとっては、被害が多くなる損な役回りだな」
参謀のトレスコウ大佐も国防軍司令部の考えを理解した。マンシュタインの中央軍集団に先頭に立って戦わせて、ソ連軍をモスクワの南西の前線に引き付ける。その後に北側の戦線から攻撃を仕掛けて、2正面からあたかも挟撃するようにモスクワに向けて侵攻させるつもりなのだ。
オリョールの周辺のツィタデレは、第4軍に属する第12軍団と第43軍団を中心として張り出し部分に防衛陣地を構築していた。防衛線は、直線状に構築されて、対戦車壕や地雷原、火砲を多重に配置していた。
ソ連軍のブリャンスク方面軍のポポフ大将は、航空偵察によりドイツ軍が構築していた陣地のだいたいの規模をつかんでいた。それでも、大将はソ連軍の兵力から考えて突破可能な防衛線だと判断した。それを肯定するように、方面軍の司令部は、マンシュタインの防衛陣地は縦深が不足していると分析した。不十分な原因に対しては、長い前線に対してドイツ軍の兵力が十分ではないからだと推定していた。
……
5月25日になって、ドイツ軍の防御陣地に向けて長距離砲と多連装ロケット弾の攻撃により、ソ連軍の本格的な攻撃が始まった。激しい砲撃が陣地の前面から奥地へと移行してゆくと、穴だらけになった地帯に向かって、タンクデサントで前進してきた工兵が対戦車地雷を除去してゆく。地雷原奥の鉄道のレールを組み合わせたような対戦車障害に対しては、爆薬を仕掛けて次々と爆破する。ある程度、突破路が切り開かれると、戦車が前進を開始した。多数の戦車がまだ残っていた障害物を砲撃で破壊しながらゆっくりと前進してゆく。戦車の前方には後方の砲兵からの激しい砲撃が続いていた。
ブリャンスク方面軍は、オリョール東側で張り出しの南半分に相当する地域を攻撃した。このあたりの防衛線はわずか2日間の攻撃で突破された。陣地の後方には戦車と突撃砲を主力とした第4軍配下の第56装甲軍団と第2軍の第4装甲軍団が控えていたが、圧倒的なソ連軍の攻撃に徐々に西側へと押されて後退していった。
しかし、早期にドイツ軍の後退が始まったことに違和感を覚えたソ連軍司令官のポポフ大将は、部隊の前進を一旦停止させた。参謀長のサンダロフ中将に意見を求める。
「ドイツ軍の後退が鮮やかだ。このまま前進すると、ドイツ軍の罠にはまる可能性があると思うが、意見はあるか?」
参謀長も同じ意見だった。前年の戦いでソ連軍は繰り返し罠にはめられている。警戒は当然だ。
「今までドイツ軍は、意図的に後退してそれを追撃した我が軍を誘い込んでから、待ち構えた強力な火力で撃破してきました。イジュームの戦いではそれを大規模な包囲戦に発展させています。私もドイツ軍の罠の可能性が高いと考えます。我々は誘いに乗るべきではありません」
サンダロフ中将の見解が、ほとんど同じだと知ってポポフ大将もうなずいた。
「このまま深追いせず、ドイツ軍部隊の南方を大きく迂回して、後退している部隊の更に後方に出て、背後から攻撃を行いたい。前線のドイツ軍は複数の軍団規模のようだ。そうならば迂回する兵力を増加させるが良いな」
「前線の突破はうまくいったので、一気に、後方から大兵力のドイツ軍をたたくつもりですね。罠を仕掛けているドイツ軍部隊が潜んでいても、迂回してまさか背後から攻撃されるとは考えていないでしょう。背後からの攻撃が成功すれば、前面のドイツ軍だけでなくこのあたりの前線は総崩れになると考えます」
すぐに、ポポフ大将の作戦は実行に移された。ブリャンスク方面軍の戦車部隊は防衛線を抜けた後に、進撃する方向を大きく南側に変えた。圧力を受けて西へと下がったドイツ軍機甲部隊の更に西の後方を目指した。ブリャンスク方面軍配下の第3親衛戦車軍と第3軍が中心となってドイツ軍の前線を突破したが、ポポフ大将はツィタデル内部のドイツ軍兵力を徹底的に掃討するために、突破口から更に兵力を追加した。予備兵力として、前線の東側に控えていた第61軍と第21軍を前進させたのだ。もちろん迂回する部隊の戦闘は、移動速度の速い戦車を中心とした機甲部隊だ。
……
さすがに、複数の軍を含むソ連軍が迂回を初めてしばらくすると、ドイツ軍偵察機はソ連軍進撃方向が南に変わったことを察知した。
偵察機がつかんだ情報はすぐに中央軍司令部のマンシュタインのところに上がってきた。
「我が軍の南側をソ連部隊が迂回しています。このままではツィタデレ南半分で防衛戦闘をしていた第4軍と第2軍の後方に出ます」
それでもマンシュタインは焦っていない。
「やはり迂回してきたか。さすがにソ連軍も今までの戦いで学習しているな。後退する我が軍を追い抜いて、先回りしてくるいうのは我々の想定範囲内だ」
マンシュタインは、ソ連軍は直線的に前進せずに、迂回するとにらんでいた。北側に迂回しても南回りでも、後退するツィタデルの防衛軍の西側に出てくることに変わりはない。第4軍と第2軍が後退してゆくその先を目指すというのは、ドイツ軍にとってソ連軍の進出位置を想定できることになる。
「後退している第4軍の2個軍団と第2軍を停止させよ。このまま、迂回しているソ連軍が我々の期待している位置に達するのを待つ」
……
ドイツ軍の観測兵は、大兵力のソ連軍が想定していた位置まで前進してくるのを待っていた。進軍してきた部隊を確認できると、マンシュタインは、ツィタデレ防衛線の西南西に隠れていた軍団に前進を命じた。
突破された前線後方の森林や廃屋などに隠れていた第1SS装甲師団「アドルフ・ヒトラー」と第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」、第3SS装甲師団「トーテン・コップ」が侵攻してきたソ連軍に向けて前進を始めた。そもそもツィタデレの前面部隊の防衛線が薄かったのも、2段に配置した後方部隊に戦力を割いていたからだった。
結果的に、ツィタデレ前面から後退してきた部隊と、後方で待ち構えていた2段配備の部隊の間に、迂回してきたソ連軍が入り込むことになった。
後方の南西側から前進してきたSS第2装甲軍団配下の3個装甲師団は、合わせて約150両のティガーⅠを装備していた。それが森林地帯から出てきて、一斉にソ連軍への攻撃を開始した。
T-34とKV-1の76.2mm砲では、もちろん100mmの車体前面と120mmの砲塔防盾装甲を撃ち抜くことはできない。100m以内に接近しなければ、80mmの側面と後部の装甲も貫通できない。機動力に劣っているティガーⅠもこのような待ち伏せ攻撃ならば、欠点が露呈しなかった。
ティガーの前進と合わせて、後方に擬装させていた88mm高射砲も砲身を水平にして射撃を開始した。ティガーの主砲と高射砲の88mm徹甲弾は、最もぶ厚いKV-1の正面装甲であっても貫通した。
……
ソ連軍の戦車の前進に合わせて、ブリャンスク方面軍の第15航空軍に所属する100機以上のIl-2がLa-5に護衛されて飛来した。ドイツ軍の上空には、第6航空艦隊に所属する第51戦闘航空団(JG51)の戦闘機隊が飛行していた。JG51は1943年の初めにほとんどの保有機が、Me309Bに機種変更されており、ソ連戦闘機とはかなり有利に戦うことができた。しかも東部戦線に配備されたMe309Bは、翼内の2挺の13.2mm機銃を撤去して代わりにエンジンの同軸機銃を30mmに強化していた。これで武装が30mm×1(エンジン同軸)、20mm×2(翼内)となった。
第51戦闘航空団第Ⅰ飛行隊(Ⅰ/JG51)のハイツ・ベーア大尉は中隊を率いて友軍の北東側を警戒していた。
「方位50度、高度3,000mで大編隊が接近中」
後方を飛行している電探装備のFw200が接近して来るソ連軍編隊を探知した。すぐに指示された方向に飛行してゆく。高度は有利に戦闘できるように4,000mあたりまで上昇した。まもなく横に広がった大編隊が見えてきた。よく見ると上下に雲のような編隊が分離している。上の雲は護衛戦闘機の編隊だろう。
「上空護衛の戦闘機はLa-5のようだ。先ずは戦闘機隊に降下攻撃を仕掛ける」
あらかじめ敵編隊の位置も高度もわかっているので、ドイツ側の戦闘機は有利な位置から降下攻撃を仕掛けることができた。態勢の優位性に加えて、Me309Bは速度も50km/h以上優速だった。しかも、新型機にはジャイロと計算機を内蔵したEZ42と名付けられた照準器が装備されており、満星照準でも見越し射撃が可能になっていた。すなわち、敵機の翼幅設定さえ間違えなければ、目標をレクティルの中心に捉えてそのまま射撃して命中させられた。
上空から射撃を加えると、La-5の胴体に弾丸が吸い込まれていった。木金混合の胴体は、30mm弾ならば1発が命中してもバラバラになった。JG51の機体は優位な位置から次々とLa-5を撃墜していた。
「戦闘機の攻撃はここまでだ。下方を飛行しているシュトルモビクを攻撃する。このまま地上の部隊が攻撃されたらとんでもない被害が出るぞ」
30mm機銃を搭載したMe309Bは、重装甲のIl-2も簡単に撃墜した。ベーア大尉機は、2機のIl-2を撃墜したところで、同軸機銃の30mm弾が無くなった。しかしまだ、MG151/20の弾丸が残っている。20mm弾であれば、命中時の角度が浅くなければ、シュトルモビクのバスタブ装甲を貫通できる。
Il-2と戦闘を続けながら、北方から新たな戦闘機隊が飛来したのを大尉は見逃さなかった。一瞬、La-5かと思ったが、機首の細長いFw190Dだった。接近してきたドーラの編隊は、大尉の目の前で、10機以上のIl-2をあっという間に撃墜した。機体のマークを確認すると第4飛行隊だ。
(Ⅳ/JG51の連中だ。さすがにFw190Dが搭載した4挺の20mm機銃は威力があるな)
この日の空中戦は、JG51の活躍で、ソ連空軍の大編隊は、地上部隊をまともに攻撃する以前に駆逐された。一方、ソ連軍の大部分の戦闘機が撃墜されると、ドイツ空軍の攻撃機が飛行してきた。第2突撃航空団(StG2)のJu87スツーカが地上攻撃を開始した。37mm砲を2門搭載したJu87Gが地上すれすれに舞い降りると、T-34やKV-1の後方から攻撃を始めた。スツーカと同時にJu88が飛来して、ソ連軍の歩兵や砲兵を狙って爆弾を投下してゆく。
SS装甲師団により、前進していたソ連軍への攻撃が開始された頃、前線を突破された第4装甲軍団と第56装甲軍団は、西に向かってソ連軍の後方を遮断するように前進を開始した。これらの部隊は、ソ連軍の攻撃に対して、早い段階で引き下がったために大きな被害を受けていなかった。
結果的に、ブリャンスク方面軍の大部分の部隊は西側のSS第2装甲軍団と東の2個装甲軍団で挟撃されることになった。しかも、多数のティーゲルⅠを装備したSS装甲軍団はかなり強力なので、退路を断たれた部隊の兵力はどんどん消耗していった。兵力が消耗すればするほど、ソ連軍が脱出できる可能性は減少していった。
……
ブリャンスク方面軍のツィタデレ正面への攻勢が始まった頃、それに呼応して、トゥーラ近辺からソ連西部方面軍が西南西に向けて前進を開始した。もちろん、ポポフ大将の部隊と同時攻撃でツィタデレ北方の戦線を突破するためだ。この地域を守っていたのは第9軍の3個軍団だった。
前進してきたソ連軍の兵力が想定以上に大きいことを知ると、マンシュタインは、予備としてブリャンスク近郊に控えていた第3装甲軍を北東に前進させた。しかも第3装甲軍の後方には45両のティーゲルⅠを定数とする503重戦車大隊が続いていた。
結果的に、ツィタデレの北東から侵入した西部方面軍の後方に大兵力の第3装甲軍と重戦車部隊が出現することになった。ソ連西部方面軍もドイツ軍により退路を遮断された。周囲のドイツ地上軍からの攻撃に加えて、ドイツ空軍の攻撃により西部方面軍も次第に消耗していった。
……
1943年が明けるとドイツ空軍は東部戦線に配備している機体を順次新型機に更新すると共に、新たな航空基地の整備を進めていた。特に大型機のHe177の運用を可能とするために、新たに占領した基地の中から、規模が大きく輸送条件も整った飛行場を選定した。次に選んだ基地の滑走路を延長して格納庫や整備施設を拡充した。
基地の拡張作業が一段落すると、1943年初旬からHe177が本土から飛来してきた。1943年3月に東部戦線で作戦可能となったHe177の基地は、昨年から配備が進んでいたロストフの郊外に加えて、ベラルーシのミンスク東方とウクライナのキエフ東南の基地だった。いずれの基地も大都市の近くで輸送路も比較的整備されていて、大飯ぐらいのHe177を配備するには都合がいい。キエフには第40爆撃航空団第Ⅰ飛行隊(Ⅰ/KG40)が配備された。ミンスク方面を基地としたのはⅡ/KG40だった。これらの爆撃隊では、しばらくはHe111を使用して訓練が行われていたが、1943年4月初旬には双方の部隊共に、He177Cへの機体の更新が完了していた。
新型のHe177Cは、He177BからエンジンをJumo213Eに換装していた。このエンジンは回転速度を3段階に変速できる2段式の過給機を備えて、航空の飛行性能を大きく改善していた。2段3速式の遠心式過給器で断熱圧縮した空気は高温となるため、エンジン冷却と共用の水冷式の中間冷却器(インタークーラー)で吸気温度を下げていた。Jumo213Eは、新型過給器のおかげで、全開高度を9,600mまで改善していた。Jumo213Eの改善した高高度性能のおかげで、He177Cは、高度9,100mにおいて615km/hで飛行できた。
6月4日になるとモスクワ近郊の天候は快晴になった。好天を待っていた爆撃隊は、ミンスクとキエフから合計45機のHe117Cを発進させた。ミンスクからモスクワまでの直線距離は約700kmで、キエフからは750kmだったので、5,000km近くを飛行できるHe177Cの航続距離からは十分攻撃可能だ。
しばらくしてスモレンスク近郊の基地に配備されていた24機の新型戦闘機が離陸した。高空でも爆撃隊の護衛が可能な新型機は、Fw190の機体を利用して、He177Cと同じJumo213Eを搭載して、主翼を全幅14.4mまで延長したTa152Hだった。
第54戦闘航空団第Ⅲ飛行隊(Ⅲ/JG54)は、戦力回復のために一時的にドイツ本土へと戻っていたが、新型のTa152Hを受領して東部戦線に戻ってきた。
中隊を指揮していたシュネル大尉に基地から連絡が入ってきた。
「高度9,000m、方位150度に友軍爆撃機の編隊が見えてくるはずだ」
通報を受けるまでもなく、彼は接近してくる大型機の編隊を発見していた。
「大丈夫だ。グライフの編隊を目視できている。これより爆撃隊の上空を飛行してゆく」
ソ連空軍はモスクワ方面に飛行するドイツ軍機の編隊を発見して、直ちに戦闘機を離陸させた。しかし、ほとんどの作戦では、6,000m以下の高度で戦闘しているソ連の戦闘機にとって、高高度飛行は苦手だった。ソ連空軍で9,000m以上で戦闘可能な戦闘機はそれほど多くはなかった。
高高度でドイツ軍を迎撃できたのは、高高度向けのエンジンを搭載していたMiG-3とアメリカから供与されたP-47だった。
シュネル大尉はモスクワの前面で上昇してきたソ連の戦闘機を発見した。
「方位70度、高度はやや低い。どうやら空冷機の後方に液冷機が続いているようだ」
大馬力のエンジンと排気タービンを備えたP-47が先行して、MiG-3はその後方から追いかけていた。空冷機は約20機、後方の液冷戦闘機は30機程度の編隊に見える。明らかにドイツ軍の戦闘機よりも数が多い。
「全機、上昇してくる敵機を攻撃せよ。我々の機体の性能ならば決して負けることはない」
すぐに、28機のTa152Hは翼を翻してP-47に向けて降下していった。この高度では、Ta152Hの最高速度は710km/hだった。一方、P-47はエンジン全開でも670km/hが限度だった。しかも細長く延長した主翼の揚力を生かした水平旋回ならば、Ta152Hが圧倒的に優れていた。急降下とロールを生かした機動ならば、P-47の方がやや有利だったのだが、ソ連のパイロットはそんな知識を有していなかった。
大尉のTa152HはP-47の背後に回り込むと、一連射した。シュネル大尉の実戦経験に、ジャイロ照準器の性能も加わって、短時間の射撃にもかかわらず、数発の30mmと20mmの機銃弾が命中した。数発の大口径弾が左翼で爆発すると、さすがに頑丈なP-47も主翼が折れて墜ちていった。そのままのシュネル機は、更に前方を左旋回で逃げようとしているP-47に追いつくと短く連射した。この機体も同じように胴体後部が爆発したようになって墜ちていった。
Ta152Hは圧倒的に有利に戦って、10機程度のP-47を撃墜すると、残ったP-47は急降下で逃げてゆく。P-47の後方を飛行していたMiG-3はもっと哀れだった。600km/h程度でやっと飛んでいたこの機体は、高速で降下してきたTa152Hから全く逃げることができなかった。射撃訓練の目標のように、20機以上があっという間に撃墜された。残りの機体は、戦闘に参加もしないで、機首を下に向けた。そもそも航続距離の短いMiG-3は、この高度まで上昇してきて何度か旋回しただけで、燃料が心もとなくなっていたのだ。
……
ペーターXと命名された爆弾は、既に実戦配備されていたフリッツXを基礎として、威力を増すために2.5トンまで重量を増加していた。外形については、尾翼の形状を音速付近での空力特性を考慮して後退翼形状に変更していた。加えて、爆弾の先端カバーもとがった形状に変更して、高高度から投下した場合の遷音速での抵抗を減少させていた。
ペーターXの弾体自身は徹甲爆弾としての一般的な構造を有していた。爆弾の外皮は戦艦などの装甲板と類似のニッケルとクロムを含有した厚い鋼材で表面は硬化処理を実施していた。もちろん爆弾の前部ほどケースはぶ厚くなっていて、空力性能を向上させるために弾頭部には戦艦の主砲弾のようなとがったキャップがついていた。弾体内には450kgの炸薬と誘導器が格納されていた。
モスクワの上空に達したHe177Cはそれぞれの機体が、重量2.5トンのペーターXを2発搭載していた。モスクワ侵攻前に爆撃隊は、途中で機材の不調から引き返した3機を除いて、10機と15機、17機の3群の編隊に分かれた。
モスクワで狙うべき目標に関する詳細情報は、昨年の東部戦線の戦いで捕虜となったティモシエンコから得た情報に基づいていた。ティモシエンコは1941年にスターリングラード方面の指揮官に任命される以前は、ソ連軍総司令部(STAVKA)の首脳の一人として勤務していたのだ。スターリンの日頃の行動も含めて、赤軍の最高指揮官たちの行動を把握していた。
最初の9機編隊は、クレムリンの一部を狙って誘導弾を投下した。無線で弾道を補正できる誘導弾にとって、地上で動くことがなく、しかも上空から判別しやすい建築物は比較的照準が容易な目標だった。高度9,000mから投下された誘導弾は音速近くに達して、大きな威力を発揮した。最初の爆発により地上の建築物は完全に破壊された。厚さ数m以上のコンクリート製の防御壁もすぐに破壊された。あっという間に地下の防空壕内で爆弾が貫通した。
20発の2.5トン爆弾の直撃を受けた建築物と地下施設は完全に消滅して、爆煙がおさまった後には、直径50m以上のクレータが残っていた。
次の15機編隊が狙ったのは、モスクワ中心部のキーロフ門近くの大きな住宅だった。30発の誘導弾が集中して投下されたために、邸宅のあったあたりには深い穴ができた。この住宅の地下には、10以上の部屋を有する大きなコンクリートの構造物があった。爆弾の命中により上部の土は完全に吹きとばされて、地下の構造物があらわになってからも、連続して爆弾が命中した。このために、コンクリート製の天井も貫通されて、構造物の内部も完全に破壊された。
3番目の17機編隊はモスクワの地下鉄であるソコリニチェスカヤ線のキーロフスカヤ駅が存在する一帯を狙った。キーロフスカヤ駅は1939年まではモスクワ市内で最も深い駅だった。遷音速で地面に命中した徹甲弾は20m以上の深さに潜って地中で爆発した。地下鉄駅上の土砂は爆発でえぐられて、やがて地下鉄駅まで爆弾が達した。その後は地表のコンクリート製の建造物と同様に、命中した爆弾があっという間に駅を粉々に破壊した。34発の2.5トン徹甲弾は、地中深くに建設された地下鉄駅を完全に破壊するだけの威力があった。
最初の編隊が破壊したのは、クレムリン内の共産党書記長の執務エリアだった。2番目の目標はキーロフ門の近くの家屋の地下に建設されていた最高総司令部の施設だった。オリョールのツィタデルの戦闘が佳境になっていた時期なので、スターリンも含めて最高総司令部(STAVKA )の参謀長や委員などの赤軍の最高司令官たちが、作戦を検討していた可能性がある。3番目の地下鉄駅はモスクワが爆撃された時に最高総司令部のメンバーたちが避難する施設だった。指揮が可能となるようにキーロフ門近くの最高総司令部施設に準ずる機器が設置されていた。He177Cの編隊は、モスクワに接近した時点で発見されていたので、最高司令部の要員たちは爆撃を避けるために、地下鉄駅に避難していた可能性もある。
ティモシェンコの証言で確実になったのは、スターリン自身が戦争中もモスクワに留まっていることと、最高総司令部で作戦の検討が行われている時には、かなりの確率で彼も出席しているということだ。
爆撃が終わると、胴体後部にカメラを搭載した3機の偵察型Ju-288がモスクワ上空を飛行していった。もちろん爆撃の効果を詳細に撮影するためだ。
He177Cによるモスクワ爆撃は翌日以降も継続された。次に狙われたのは、国家防衛委員会や参謀本部の作戦局や情報局、編成局などの赤軍の上部組織の建物だった。更に、共産党政治局や書記局、NKVDの入った建築物も目標とされた。モスクワ市内だけでも攻撃すべき目標はいくつもある。He177Cは連日空襲を続けた。
ドイツ軍が目標としたのは、国家レベルの戦争指揮機能の麻痺だった。モスクワ爆撃の影響は東部戦線の戦いにもすぐに現れた。窮地に陥っていたブリャンスク方面軍も西部方面軍も孤立するまま、包囲を突破するための増援は送られることはなかった。
それでも1943年3月になると泥濘期の終わりをにらんで、東部戦線でも再び戦闘活発化の兆しが出てきた。ソ連軍が攻撃の対象としたのは、作年までの戦闘の結果により生じていた、枢軸軍の東への張り出しだった。モスクワとクルスクの間のオリョールの北西から南南東にかけて、いまだにドイツ軍が占領している領域がなだらかな山のように東側に突出していた。
ソ連軍は前年の5月にはこの地域への反撃を検討したが、1942年にスターリングラードやコーカサス方面の戦闘が発生したために、先送りにせざるをえなかった。一方、ドイツ軍にとっても事情は同じで、1942年末まではブラウ作戦に投入する兵力や資材を優先したおかげで、東南のモスクワ方面で攻勢を仕掛けることなどもってのほかだった。しかし、1943年になって損害を受けた東部戦線北方に配備されている部隊の戦力も徐々に回復してきて状況は改善していた。
……
オリョールやブリャンスクの東側に張り出した地域をいまだにドイツが支配しているのは、スターリンにとって、絶えず不安の種になっていた。張り出し部からモスクワまでは、直線距離で300kmもないからだ。ソ連領土の広大さと比べると目と鼻の先のように思える。1943年5月中旬になって、ソ連軍の西部方面軍とブリャンスク方面軍は、赤軍最高総司令部(Stavka)の命令を受けて作戦の準備にとりかかった。北から南への戦線が小山を横倒ししたような形状になったオリョールを含む領域をドイツから奪還するのが作戦目的だった。
しかし、ドイツ国防軍情報部もソ連軍の動きを既につかんでいた。傍受した通信文を軍のコンピュータを使って解読した結果、東部戦線北部から中央部にかけてのソ連軍に攻勢に向けた動きがあることを察知したのだ。いくつもの電文をつなぎ合わせて、ドイツ軍国防軍情報部は、赤軍が攻撃を1カ月以内に始める可能性が高いと判断した。
ソ連軍の準備行動は、中央軍集団の指揮官に就任していたマンシュタイン上級大将に通報された。中央軍集団は、もともとスモレンスクの東側からオリョールを経てクルスク方面にかけて布陣していた。マンシュタインは、警告を受ける以前から、オリョールの張出部の兵力強化に着手していた。暗号解読情報などなくとも、空からの偵察結果を注意深く分析していれば、前線でのソ連側の動きはある程度わかる。
中央軍集団は、この張り出し部に部隊を集中させて、防御を固めていたことから、この地域は非公式に「ツィタデレ(城塞)」と呼ばれるようになった。
18トン重ハーフトラックの荷台に大型計算機を搭載した計算機車と、複数の通信機器を積み込んだ通信車が配備されて、ドイツ軍の前線部隊と本国との間の意思疎通は飛躍的に改善していた。無線による通信文は、最新の電子計算機暗号(エニグマⅡ)により暗号化されるので、格段に解読が難しくなったはずだ。しかも、電子機器の改良により通信文は計算機に記憶され、指揮官が必要とする時にテキスト文で出力できるようになった。
マンシュタインのところに、国防軍最高司令部(OKW)からの通知文を持って、トレスコウ大佐がやってきた。
「OKWから作戦命令が来ました。ソ連軍が東部戦線中央部への攻勢をまもなく開始するだろうとのことです。まずは、攻撃してくるソ連軍の撃破と反撃命令が出ました。ソ連軍の攻撃を打ち砕いた後は、モスクワ方面に向けて侵攻せよとの内容です。これはハルダー上級大将の名で出ています」
「今まで攻勢の準備をしていたソ連軍が本格的に動き出すということだな。オリョール付近のツィタデレの突出部は、いかにも切り取ってくれというような前線の形状になっている。間違いなく、その地域への攻撃が東部戦線攻撃ののろしになるだろう。オリョールの攻防戦で我々が勝利しなければ、東部戦線全体で押されることになるだろうな」
「その考えに同意します。モスクワ方面への進撃も命令に含まれていますが、攻勢を仕掛けてきたソ連軍を打ち破っても、モスクワの前面には防衛隊が布陣しているはずです。それらを合計すれば、明らかに我が部隊よりも大きな兵力です。いくらなんでも我々だけの戦力ではモスクワの占領までは不可能ですよ」
マンシュタイン上級大将は、メモを手にとってOKWからの命令内容の詳細を確認していた。
「我々がソ連軍を撃破して、東北方面への進撃に転ずれば、北部軍集団も連携して攻勢に転ずるとある。つまり、モスクワへの進撃のきっかけを我々が作れば、北部からも攻勢に加わるということだ。モスクワの攻略が可能になれば、北部軍集団はレニングラードの包囲よりも南東への攻撃を優先することになる。しかし、口火を切ることになる我々にとっては、被害が多くなる損な役回りだな」
参謀のトレスコウ大佐も国防軍司令部の考えを理解した。マンシュタインの中央軍集団に先頭に立って戦わせて、ソ連軍をモスクワの南西の前線に引き付ける。その後に北側の戦線から攻撃を仕掛けて、2正面からあたかも挟撃するようにモスクワに向けて侵攻させるつもりなのだ。
オリョールの周辺のツィタデレは、第4軍に属する第12軍団と第43軍団を中心として張り出し部分に防衛陣地を構築していた。防衛線は、直線状に構築されて、対戦車壕や地雷原、火砲を多重に配置していた。
ソ連軍のブリャンスク方面軍のポポフ大将は、航空偵察によりドイツ軍が構築していた陣地のだいたいの規模をつかんでいた。それでも、大将はソ連軍の兵力から考えて突破可能な防衛線だと判断した。それを肯定するように、方面軍の司令部は、マンシュタインの防衛陣地は縦深が不足していると分析した。不十分な原因に対しては、長い前線に対してドイツ軍の兵力が十分ではないからだと推定していた。
……
5月25日になって、ドイツ軍の防御陣地に向けて長距離砲と多連装ロケット弾の攻撃により、ソ連軍の本格的な攻撃が始まった。激しい砲撃が陣地の前面から奥地へと移行してゆくと、穴だらけになった地帯に向かって、タンクデサントで前進してきた工兵が対戦車地雷を除去してゆく。地雷原奥の鉄道のレールを組み合わせたような対戦車障害に対しては、爆薬を仕掛けて次々と爆破する。ある程度、突破路が切り開かれると、戦車が前進を開始した。多数の戦車がまだ残っていた障害物を砲撃で破壊しながらゆっくりと前進してゆく。戦車の前方には後方の砲兵からの激しい砲撃が続いていた。
ブリャンスク方面軍は、オリョール東側で張り出しの南半分に相当する地域を攻撃した。このあたりの防衛線はわずか2日間の攻撃で突破された。陣地の後方には戦車と突撃砲を主力とした第4軍配下の第56装甲軍団と第2軍の第4装甲軍団が控えていたが、圧倒的なソ連軍の攻撃に徐々に西側へと押されて後退していった。
しかし、早期にドイツ軍の後退が始まったことに違和感を覚えたソ連軍司令官のポポフ大将は、部隊の前進を一旦停止させた。参謀長のサンダロフ中将に意見を求める。
「ドイツ軍の後退が鮮やかだ。このまま前進すると、ドイツ軍の罠にはまる可能性があると思うが、意見はあるか?」
参謀長も同じ意見だった。前年の戦いでソ連軍は繰り返し罠にはめられている。警戒は当然だ。
「今までドイツ軍は、意図的に後退してそれを追撃した我が軍を誘い込んでから、待ち構えた強力な火力で撃破してきました。イジュームの戦いではそれを大規模な包囲戦に発展させています。私もドイツ軍の罠の可能性が高いと考えます。我々は誘いに乗るべきではありません」
サンダロフ中将の見解が、ほとんど同じだと知ってポポフ大将もうなずいた。
「このまま深追いせず、ドイツ軍部隊の南方を大きく迂回して、後退している部隊の更に後方に出て、背後から攻撃を行いたい。前線のドイツ軍は複数の軍団規模のようだ。そうならば迂回する兵力を増加させるが良いな」
「前線の突破はうまくいったので、一気に、後方から大兵力のドイツ軍をたたくつもりですね。罠を仕掛けているドイツ軍部隊が潜んでいても、迂回してまさか背後から攻撃されるとは考えていないでしょう。背後からの攻撃が成功すれば、前面のドイツ軍だけでなくこのあたりの前線は総崩れになると考えます」
すぐに、ポポフ大将の作戦は実行に移された。ブリャンスク方面軍の戦車部隊は防衛線を抜けた後に、進撃する方向を大きく南側に変えた。圧力を受けて西へと下がったドイツ軍機甲部隊の更に西の後方を目指した。ブリャンスク方面軍配下の第3親衛戦車軍と第3軍が中心となってドイツ軍の前線を突破したが、ポポフ大将はツィタデル内部のドイツ軍兵力を徹底的に掃討するために、突破口から更に兵力を追加した。予備兵力として、前線の東側に控えていた第61軍と第21軍を前進させたのだ。もちろん迂回する部隊の戦闘は、移動速度の速い戦車を中心とした機甲部隊だ。
……
さすがに、複数の軍を含むソ連軍が迂回を初めてしばらくすると、ドイツ軍偵察機はソ連軍進撃方向が南に変わったことを察知した。
偵察機がつかんだ情報はすぐに中央軍司令部のマンシュタインのところに上がってきた。
「我が軍の南側をソ連部隊が迂回しています。このままではツィタデレ南半分で防衛戦闘をしていた第4軍と第2軍の後方に出ます」
それでもマンシュタインは焦っていない。
「やはり迂回してきたか。さすがにソ連軍も今までの戦いで学習しているな。後退する我が軍を追い抜いて、先回りしてくるいうのは我々の想定範囲内だ」
マンシュタインは、ソ連軍は直線的に前進せずに、迂回するとにらんでいた。北側に迂回しても南回りでも、後退するツィタデルの防衛軍の西側に出てくることに変わりはない。第4軍と第2軍が後退してゆくその先を目指すというのは、ドイツ軍にとってソ連軍の進出位置を想定できることになる。
「後退している第4軍の2個軍団と第2軍を停止させよ。このまま、迂回しているソ連軍が我々の期待している位置に達するのを待つ」
……
ドイツ軍の観測兵は、大兵力のソ連軍が想定していた位置まで前進してくるのを待っていた。進軍してきた部隊を確認できると、マンシュタインは、ツィタデレ防衛線の西南西に隠れていた軍団に前進を命じた。
突破された前線後方の森林や廃屋などに隠れていた第1SS装甲師団「アドルフ・ヒトラー」と第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」、第3SS装甲師団「トーテン・コップ」が侵攻してきたソ連軍に向けて前進を始めた。そもそもツィタデレの前面部隊の防衛線が薄かったのも、2段に配置した後方部隊に戦力を割いていたからだった。
結果的に、ツィタデレ前面から後退してきた部隊と、後方で待ち構えていた2段配備の部隊の間に、迂回してきたソ連軍が入り込むことになった。
後方の南西側から前進してきたSS第2装甲軍団配下の3個装甲師団は、合わせて約150両のティガーⅠを装備していた。それが森林地帯から出てきて、一斉にソ連軍への攻撃を開始した。
T-34とKV-1の76.2mm砲では、もちろん100mmの車体前面と120mmの砲塔防盾装甲を撃ち抜くことはできない。100m以内に接近しなければ、80mmの側面と後部の装甲も貫通できない。機動力に劣っているティガーⅠもこのような待ち伏せ攻撃ならば、欠点が露呈しなかった。
ティガーの前進と合わせて、後方に擬装させていた88mm高射砲も砲身を水平にして射撃を開始した。ティガーの主砲と高射砲の88mm徹甲弾は、最もぶ厚いKV-1の正面装甲であっても貫通した。
……
ソ連軍の戦車の前進に合わせて、ブリャンスク方面軍の第15航空軍に所属する100機以上のIl-2がLa-5に護衛されて飛来した。ドイツ軍の上空には、第6航空艦隊に所属する第51戦闘航空団(JG51)の戦闘機隊が飛行していた。JG51は1943年の初めにほとんどの保有機が、Me309Bに機種変更されており、ソ連戦闘機とはかなり有利に戦うことができた。しかも東部戦線に配備されたMe309Bは、翼内の2挺の13.2mm機銃を撤去して代わりにエンジンの同軸機銃を30mmに強化していた。これで武装が30mm×1(エンジン同軸)、20mm×2(翼内)となった。
第51戦闘航空団第Ⅰ飛行隊(Ⅰ/JG51)のハイツ・ベーア大尉は中隊を率いて友軍の北東側を警戒していた。
「方位50度、高度3,000mで大編隊が接近中」
後方を飛行している電探装備のFw200が接近して来るソ連軍編隊を探知した。すぐに指示された方向に飛行してゆく。高度は有利に戦闘できるように4,000mあたりまで上昇した。まもなく横に広がった大編隊が見えてきた。よく見ると上下に雲のような編隊が分離している。上の雲は護衛戦闘機の編隊だろう。
「上空護衛の戦闘機はLa-5のようだ。先ずは戦闘機隊に降下攻撃を仕掛ける」
あらかじめ敵編隊の位置も高度もわかっているので、ドイツ側の戦闘機は有利な位置から降下攻撃を仕掛けることができた。態勢の優位性に加えて、Me309Bは速度も50km/h以上優速だった。しかも、新型機にはジャイロと計算機を内蔵したEZ42と名付けられた照準器が装備されており、満星照準でも見越し射撃が可能になっていた。すなわち、敵機の翼幅設定さえ間違えなければ、目標をレクティルの中心に捉えてそのまま射撃して命中させられた。
上空から射撃を加えると、La-5の胴体に弾丸が吸い込まれていった。木金混合の胴体は、30mm弾ならば1発が命中してもバラバラになった。JG51の機体は優位な位置から次々とLa-5を撃墜していた。
「戦闘機の攻撃はここまでだ。下方を飛行しているシュトルモビクを攻撃する。このまま地上の部隊が攻撃されたらとんでもない被害が出るぞ」
30mm機銃を搭載したMe309Bは、重装甲のIl-2も簡単に撃墜した。ベーア大尉機は、2機のIl-2を撃墜したところで、同軸機銃の30mm弾が無くなった。しかしまだ、MG151/20の弾丸が残っている。20mm弾であれば、命中時の角度が浅くなければ、シュトルモビクのバスタブ装甲を貫通できる。
Il-2と戦闘を続けながら、北方から新たな戦闘機隊が飛来したのを大尉は見逃さなかった。一瞬、La-5かと思ったが、機首の細長いFw190Dだった。接近してきたドーラの編隊は、大尉の目の前で、10機以上のIl-2をあっという間に撃墜した。機体のマークを確認すると第4飛行隊だ。
(Ⅳ/JG51の連中だ。さすがにFw190Dが搭載した4挺の20mm機銃は威力があるな)
この日の空中戦は、JG51の活躍で、ソ連空軍の大編隊は、地上部隊をまともに攻撃する以前に駆逐された。一方、ソ連軍の大部分の戦闘機が撃墜されると、ドイツ空軍の攻撃機が飛行してきた。第2突撃航空団(StG2)のJu87スツーカが地上攻撃を開始した。37mm砲を2門搭載したJu87Gが地上すれすれに舞い降りると、T-34やKV-1の後方から攻撃を始めた。スツーカと同時にJu88が飛来して、ソ連軍の歩兵や砲兵を狙って爆弾を投下してゆく。
SS装甲師団により、前進していたソ連軍への攻撃が開始された頃、前線を突破された第4装甲軍団と第56装甲軍団は、西に向かってソ連軍の後方を遮断するように前進を開始した。これらの部隊は、ソ連軍の攻撃に対して、早い段階で引き下がったために大きな被害を受けていなかった。
結果的に、ブリャンスク方面軍の大部分の部隊は西側のSS第2装甲軍団と東の2個装甲軍団で挟撃されることになった。しかも、多数のティーゲルⅠを装備したSS装甲軍団はかなり強力なので、退路を断たれた部隊の兵力はどんどん消耗していった。兵力が消耗すればするほど、ソ連軍が脱出できる可能性は減少していった。
……
ブリャンスク方面軍のツィタデレ正面への攻勢が始まった頃、それに呼応して、トゥーラ近辺からソ連西部方面軍が西南西に向けて前進を開始した。もちろん、ポポフ大将の部隊と同時攻撃でツィタデレ北方の戦線を突破するためだ。この地域を守っていたのは第9軍の3個軍団だった。
前進してきたソ連軍の兵力が想定以上に大きいことを知ると、マンシュタインは、予備としてブリャンスク近郊に控えていた第3装甲軍を北東に前進させた。しかも第3装甲軍の後方には45両のティーゲルⅠを定数とする503重戦車大隊が続いていた。
結果的に、ツィタデレの北東から侵入した西部方面軍の後方に大兵力の第3装甲軍と重戦車部隊が出現することになった。ソ連西部方面軍もドイツ軍により退路を遮断された。周囲のドイツ地上軍からの攻撃に加えて、ドイツ空軍の攻撃により西部方面軍も次第に消耗していった。
……
1943年が明けるとドイツ空軍は東部戦線に配備している機体を順次新型機に更新すると共に、新たな航空基地の整備を進めていた。特に大型機のHe177の運用を可能とするために、新たに占領した基地の中から、規模が大きく輸送条件も整った飛行場を選定した。次に選んだ基地の滑走路を延長して格納庫や整備施設を拡充した。
基地の拡張作業が一段落すると、1943年初旬からHe177が本土から飛来してきた。1943年3月に東部戦線で作戦可能となったHe177の基地は、昨年から配備が進んでいたロストフの郊外に加えて、ベラルーシのミンスク東方とウクライナのキエフ東南の基地だった。いずれの基地も大都市の近くで輸送路も比較的整備されていて、大飯ぐらいのHe177を配備するには都合がいい。キエフには第40爆撃航空団第Ⅰ飛行隊(Ⅰ/KG40)が配備された。ミンスク方面を基地としたのはⅡ/KG40だった。これらの爆撃隊では、しばらくはHe111を使用して訓練が行われていたが、1943年4月初旬には双方の部隊共に、He177Cへの機体の更新が完了していた。
新型のHe177Cは、He177BからエンジンをJumo213Eに換装していた。このエンジンは回転速度を3段階に変速できる2段式の過給機を備えて、航空の飛行性能を大きく改善していた。2段3速式の遠心式過給器で断熱圧縮した空気は高温となるため、エンジン冷却と共用の水冷式の中間冷却器(インタークーラー)で吸気温度を下げていた。Jumo213Eは、新型過給器のおかげで、全開高度を9,600mまで改善していた。Jumo213Eの改善した高高度性能のおかげで、He177Cは、高度9,100mにおいて615km/hで飛行できた。
6月4日になるとモスクワ近郊の天候は快晴になった。好天を待っていた爆撃隊は、ミンスクとキエフから合計45機のHe117Cを発進させた。ミンスクからモスクワまでの直線距離は約700kmで、キエフからは750kmだったので、5,000km近くを飛行できるHe177Cの航続距離からは十分攻撃可能だ。
しばらくしてスモレンスク近郊の基地に配備されていた24機の新型戦闘機が離陸した。高空でも爆撃隊の護衛が可能な新型機は、Fw190の機体を利用して、He177Cと同じJumo213Eを搭載して、主翼を全幅14.4mまで延長したTa152Hだった。
第54戦闘航空団第Ⅲ飛行隊(Ⅲ/JG54)は、戦力回復のために一時的にドイツ本土へと戻っていたが、新型のTa152Hを受領して東部戦線に戻ってきた。
中隊を指揮していたシュネル大尉に基地から連絡が入ってきた。
「高度9,000m、方位150度に友軍爆撃機の編隊が見えてくるはずだ」
通報を受けるまでもなく、彼は接近してくる大型機の編隊を発見していた。
「大丈夫だ。グライフの編隊を目視できている。これより爆撃隊の上空を飛行してゆく」
ソ連空軍はモスクワ方面に飛行するドイツ軍機の編隊を発見して、直ちに戦闘機を離陸させた。しかし、ほとんどの作戦では、6,000m以下の高度で戦闘しているソ連の戦闘機にとって、高高度飛行は苦手だった。ソ連空軍で9,000m以上で戦闘可能な戦闘機はそれほど多くはなかった。
高高度でドイツ軍を迎撃できたのは、高高度向けのエンジンを搭載していたMiG-3とアメリカから供与されたP-47だった。
シュネル大尉はモスクワの前面で上昇してきたソ連の戦闘機を発見した。
「方位70度、高度はやや低い。どうやら空冷機の後方に液冷機が続いているようだ」
大馬力のエンジンと排気タービンを備えたP-47が先行して、MiG-3はその後方から追いかけていた。空冷機は約20機、後方の液冷戦闘機は30機程度の編隊に見える。明らかにドイツ軍の戦闘機よりも数が多い。
「全機、上昇してくる敵機を攻撃せよ。我々の機体の性能ならば決して負けることはない」
すぐに、28機のTa152Hは翼を翻してP-47に向けて降下していった。この高度では、Ta152Hの最高速度は710km/hだった。一方、P-47はエンジン全開でも670km/hが限度だった。しかも細長く延長した主翼の揚力を生かした水平旋回ならば、Ta152Hが圧倒的に優れていた。急降下とロールを生かした機動ならば、P-47の方がやや有利だったのだが、ソ連のパイロットはそんな知識を有していなかった。
大尉のTa152HはP-47の背後に回り込むと、一連射した。シュネル大尉の実戦経験に、ジャイロ照準器の性能も加わって、短時間の射撃にもかかわらず、数発の30mmと20mmの機銃弾が命中した。数発の大口径弾が左翼で爆発すると、さすがに頑丈なP-47も主翼が折れて墜ちていった。そのままのシュネル機は、更に前方を左旋回で逃げようとしているP-47に追いつくと短く連射した。この機体も同じように胴体後部が爆発したようになって墜ちていった。
Ta152Hは圧倒的に有利に戦って、10機程度のP-47を撃墜すると、残ったP-47は急降下で逃げてゆく。P-47の後方を飛行していたMiG-3はもっと哀れだった。600km/h程度でやっと飛んでいたこの機体は、高速で降下してきたTa152Hから全く逃げることができなかった。射撃訓練の目標のように、20機以上があっという間に撃墜された。残りの機体は、戦闘に参加もしないで、機首を下に向けた。そもそも航続距離の短いMiG-3は、この高度まで上昇してきて何度か旋回しただけで、燃料が心もとなくなっていたのだ。
……
ペーターXと命名された爆弾は、既に実戦配備されていたフリッツXを基礎として、威力を増すために2.5トンまで重量を増加していた。外形については、尾翼の形状を音速付近での空力特性を考慮して後退翼形状に変更していた。加えて、爆弾の先端カバーもとがった形状に変更して、高高度から投下した場合の遷音速での抵抗を減少させていた。
ペーターXの弾体自身は徹甲爆弾としての一般的な構造を有していた。爆弾の外皮は戦艦などの装甲板と類似のニッケルとクロムを含有した厚い鋼材で表面は硬化処理を実施していた。もちろん爆弾の前部ほどケースはぶ厚くなっていて、空力性能を向上させるために弾頭部には戦艦の主砲弾のようなとがったキャップがついていた。弾体内には450kgの炸薬と誘導器が格納されていた。
モスクワの上空に達したHe177Cはそれぞれの機体が、重量2.5トンのペーターXを2発搭載していた。モスクワ侵攻前に爆撃隊は、途中で機材の不調から引き返した3機を除いて、10機と15機、17機の3群の編隊に分かれた。
モスクワで狙うべき目標に関する詳細情報は、昨年の東部戦線の戦いで捕虜となったティモシエンコから得た情報に基づいていた。ティモシエンコは1941年にスターリングラード方面の指揮官に任命される以前は、ソ連軍総司令部(STAVKA)の首脳の一人として勤務していたのだ。スターリンの日頃の行動も含めて、赤軍の最高指揮官たちの行動を把握していた。
最初の9機編隊は、クレムリンの一部を狙って誘導弾を投下した。無線で弾道を補正できる誘導弾にとって、地上で動くことがなく、しかも上空から判別しやすい建築物は比較的照準が容易な目標だった。高度9,000mから投下された誘導弾は音速近くに達して、大きな威力を発揮した。最初の爆発により地上の建築物は完全に破壊された。厚さ数m以上のコンクリート製の防御壁もすぐに破壊された。あっという間に地下の防空壕内で爆弾が貫通した。
20発の2.5トン爆弾の直撃を受けた建築物と地下施設は完全に消滅して、爆煙がおさまった後には、直径50m以上のクレータが残っていた。
次の15機編隊が狙ったのは、モスクワ中心部のキーロフ門近くの大きな住宅だった。30発の誘導弾が集中して投下されたために、邸宅のあったあたりには深い穴ができた。この住宅の地下には、10以上の部屋を有する大きなコンクリートの構造物があった。爆弾の命中により上部の土は完全に吹きとばされて、地下の構造物があらわになってからも、連続して爆弾が命中した。このために、コンクリート製の天井も貫通されて、構造物の内部も完全に破壊された。
3番目の17機編隊はモスクワの地下鉄であるソコリニチェスカヤ線のキーロフスカヤ駅が存在する一帯を狙った。キーロフスカヤ駅は1939年まではモスクワ市内で最も深い駅だった。遷音速で地面に命中した徹甲弾は20m以上の深さに潜って地中で爆発した。地下鉄駅上の土砂は爆発でえぐられて、やがて地下鉄駅まで爆弾が達した。その後は地表のコンクリート製の建造物と同様に、命中した爆弾があっという間に駅を粉々に破壊した。34発の2.5トン徹甲弾は、地中深くに建設された地下鉄駅を完全に破壊するだけの威力があった。
最初の編隊が破壊したのは、クレムリン内の共産党書記長の執務エリアだった。2番目の目標はキーロフ門の近くの家屋の地下に建設されていた最高総司令部の施設だった。オリョールのツィタデルの戦闘が佳境になっていた時期なので、スターリンも含めて最高総司令部(STAVKA )の参謀長や委員などの赤軍の最高司令官たちが、作戦を検討していた可能性がある。3番目の地下鉄駅はモスクワが爆撃された時に最高総司令部のメンバーたちが避難する施設だった。指揮が可能となるようにキーロフ門近くの最高総司令部施設に準ずる機器が設置されていた。He177Cの編隊は、モスクワに接近した時点で発見されていたので、最高司令部の要員たちは爆撃を避けるために、地下鉄駅に避難していた可能性もある。
ティモシェンコの証言で確実になったのは、スターリン自身が戦争中もモスクワに留まっていることと、最高総司令部で作戦の検討が行われている時には、かなりの確率で彼も出席しているということだ。
爆撃が終わると、胴体後部にカメラを搭載した3機の偵察型Ju-288がモスクワ上空を飛行していった。もちろん爆撃の効果を詳細に撮影するためだ。
He177Cによるモスクワ爆撃は翌日以降も継続された。次に狙われたのは、国家防衛委員会や参謀本部の作戦局や情報局、編成局などの赤軍の上部組織の建物だった。更に、共産党政治局や書記局、NKVDの入った建築物も目標とされた。モスクワ市内だけでも攻撃すべき目標はいくつもある。He177Cは連日空襲を続けた。
ドイツ軍が目標としたのは、国家レベルの戦争指揮機能の麻痺だった。モスクワ爆撃の影響は東部戦線の戦いにもすぐに現れた。窮地に陥っていたブリャンスク方面軍も西部方面軍も孤立するまま、包囲を突破するための増援は送られることはなかった。
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