電子の帝国

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第22章 外伝(新たな技術開発)

22.2章 連合軍ジェット機開発

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 イギリス空軍の士官だったフランク・ホイットルは、1936年に空軍を退役するとジェットエンジン開発を専門に行うパワージェット社を設立した。以前から構想を温めていた革新的なエンジンを自分の手で開発するためだ。振動や加熱、バックファイアーなど、多くの問題を解決して飛行可能なW.1(WはWhittle)エンジンは、1941年になって完成した。W.1エンジンを搭載したグロスターE.28/39は1941年5月15日に初飛行した。これは、ハインケルが世界最初のジェットエンジン実験機を飛行させてから1年半後のことだった。

 イギリス空軍は、グロスター社の試験機が飛行する約半年前に、ジェット戦闘機の必要性を考えて開発を決定していた。空軍からの開発要求を受けて、グロスター社は実用ジェット戦闘機の基本設計に着手した。初期のジェットエンジンは、高速戦闘機を実現するには、単発エンジンでは、推力が必ずしも十分でないと想定された。しかもジェットエンジンはまだ信頼性も未知なので、片発になってもなんとか飛行できる双発機が好都合だ。

 グロスター社のカーター技師は双発形式として左右の主翼にエンジンを搭載すると決定した。カーター技師が設計した機体は、双発プロペラ機のエンジンだけを置き換えたしたような、従来機とそれほど変わらない機体となった。なんといっても、プロペラ双発のP-38よりも大きな34.75㎡という主翼面積がそれを証明していた。

 一方、ジェットエンジンについては、W.1エンジンの完成後にそれを大型高性能化したW.2開発が始まっていた。しかし、設計と製造を請け負っていたローバー社と発明者のホイットルとの間では開発方針をめぐって、いくつものもめ事が発生した。

 他人から何と言われようとも、自分の信念を貫いてジェットエンジンを開発したホイットルだった。逆に周りの意見に流されていては、1930年代にジェットエンジンなどという当時は海のものとも山のものとも知れない装置を完成させることは不可能だっただろう。

 しかし、会社組織と共同作業をするとなると、周囲からの意見に耳を傾けない頑固者の性格が邪魔をした。例えば、ホイットルは圧縮機で高圧になった空気を、180度、前方に折り返して燃焼させるという逆流型燃焼器にこだわった。ローバー社の技術者が、効果が少ないわりに、直径が大きくなって、しかも構造も複雑だという欠点を指摘しても、頑として意見を曲げなかった。

 結局、ことあるごとにホイットルと衝突を繰り返したローバー社の技術陣は、共同開発作業に音を上げた。ジェットエンジン開発から手を引いたローバー社に代わって、開発途中からロールスロイス社が引き継ぐという通常ではありえないような状況になった。

 航空機生産省は、こんな事態を知ってさすがに危機を感じ取った。ホイットルの開発成果を利用しつつも、経験のある別の技術者にジェットエンジンを開発させようとしたのだ。

 政府が目を付けたのは、各種ピストンエンジンの開発実績を有するフランク・ハルフォードだった。途中まで開発が進んでいたW.2エンジンの資料を渡して、独自開発を依頼した。ハルフォードは、1941年4月からさっそくジェットエンジン開発に取り掛かった。

 ハルフォードは、自分に開発要求が発出された理由が、ホイットルエンジンが失敗した場合の保険の位置づけだということを十分理解していた。そのため、H1と名付けたエンジンではできる限りリスクを避けて堅実かつシンプルな設計を心がけた。

 H1エンジンは、遠心型圧縮機への空気取り入れ口を前面だけにして、背中合わせの前後2面の圧縮機を1面だけに簡略化した。しかもホイットルが考案したエンジンの特徴だった逆流型燃焼器もストレートな圧縮機の後方取り付けに変更して、簡単な構造に変更した。このような方策が功を奏して、後発だったにもかかわらずハルフォードのH1エンジンは開発途中でごたごたのあったW.2よりも早く完成した。

 完成した試作エンジン1号機は、1942年1月には試運転を開始することができた。しかも、大きな問題もなく試験開始後わずか2カ月で、目標とした1トン(10.2kN)の推力に到達できた。

 グロスター社が開発していた機体は、ミーティアと命名されてエンジンに先行して完成していた。ミーティアは、飛行試験が可能なH1ジェットエンジンが完成すると、1942年6月になって、やっとのことで初飛行に成功した。続いてロールスロイスが開発していたW.2Bエンジンも4カ月後には完成してミーティアに搭載された。

 しかし、2種類のエンジンを使った試験飛行の結果、ミーティア(グロスターF9/40)の最大速度は、415マイル/時(668km/h)程度だということがわかってきた。エンジンがまだ発展途上であり、推力がこれからも増えてゆくということを前提としてもこれでは期待外れの性能だ。

 航空機は、推力が機体の空気抵抗を上回っている限り加速できる。レシプロエンジン機が飛行速度をどんどん増加させると、プロペラの先端速度が音速に近づく。プロペラに衝撃波が発生すれば、抵抗が著しく増えて推進効率は一気に悪化する。ジェットエンジンには、このような推力が減少する事象は発生しない。

 つまりジェット機は、機体の抗力を削減させれば、プロペラ機よりも高速で飛行できることになる。プロペラ機のように翼面積を大きくしたグロスター社は、ジェット機の本質について理解が足りなかったのだ。

 結局、イギリス空軍はミーティアをジェットエンジン試験機の位置づけとして評価を継続することとした。主翼に取り付けられるエンジンであれば、支持架とナセルを再設計すれば、交換は比較的簡単にできた。ミーティアのこの構造はエンジン試験機としては都合が良かった。

 ミーティアの性能が目標値には達しないことが明らかになったので、イギリス空軍の期待はデハビランドが開発していた戦闘機に移っていた。1941年末には、デハビランド社が提案した開発案は、軍の承認を受けてDH100の開発番号が付与され、詳細設計が始まった。この機体は、中央胴体に単発のジェットエンジンを搭載して、双胴形式の後部胴体が尾翼を支えるという特徴的な形態だった。単発のジェットエンジンを胴体内の重心近くに装備して、更に推力損失を小さくするためにテールパイプを短くすると、どうしても双胴機になる。

 ハルフォードH1を搭載したDH100は、早くも1942年10月に初飛行に成功した。rテストの結果は良好で、500マイル/時(805km/h)を超える速度が明らかになった。イギリス空軍はすぐに採用を決定した。モスキートという優秀な航空機を開発したデハビランド社を空軍も信頼していたのだ。

 戦時中で実戦化を急がれたこともあり、デハビランド社は12機の試験機を製作して並行してDH100の試験を消化した。ヴァンパイアと命名された最初の生産型は、1943年7月から生産を開始した。

 デハビランド社はジェット機の量産化に伴い、資本力の小さなハルフォードの会社を買収して傘下に収めた。エンジンの名称も「ゴブリン」と変えて自社工場で大量生産できる体制を整えた。

 デハビランド H100 ヴァンパイア F1
 ・全幅:12.2m
 ・全長:9.37m
 ・全高:2.74m
 ・翼面積:23.29㎡
 ・正規全備重量:3,632kg
 ・エンジン:ゴブリン(推力1226kg)
 ・最高速度:520マイル/時(836km/h、6,000mにて)
 ・上昇力:6,000mまで5分36秒
 ・武装:機首:20mm機銃4挺

 ……

 日本海軍が、ドイツのハインケル社から購入したHeS3タービンロケットは昭和14年(1939年)12月から空技廠で本格的な試験が開始された。推力が450kg程度で、30分も運転すれば燃焼器が高温になって停止せざるを得ないようなしろものだったが、タービンロケットにほれ込んだ永野大尉は、解決可能な問題だと捉えていた。

 海軍航空技術廠は、この新型のエンジンに対しては、将来性に大きく期待しているわけではなかった。それでも、発動機部での研究対象の一つとして認めてくれた。しかも、噴進型エンジンの将来性に注目していた同じ発動機部の種子島中佐が、航空本部と空技廠にかけあってくれたおかげで、研究予算も認められた。

「なんとかタービンロケット型エンジンの研究を続けるだけの金は確保した。しかし、戦闘機や爆撃機に搭載するような高出力エンジンの開発はハードルが高い。何よりも、研究費用も人員も十分ではない。そこでだ、2段階の研究法を提案する。まずは小型のエンジンを開発して、無人の小型機に搭載して性能を実証するんだ。有人機向けはその次の段階としたい」

 種子島中佐からの提案に対しては、永野大尉も賛成した。
「今の我々にとって、一足飛びに大型エンジンに飛躍するのは無理があると私も思います。ドイツでは無人の飛行体に弾頭をつけて使用することを考えています。まずは短期間で小型のエンジンで実績を作ることが必要です。海軍の上層部に対して、小型のエンジンでもそのような用途に使えると納得させることができれば、大型のエンジン開発も可能になると確信します」

 開発法に2人が合意をしたことで、ハインケルエンジンの小型改良版の開発が海軍空技廠において実際に始まった。

 昭和15年(1940年)3月からは無人機への搭載を前提として、小型エンジンの設計が空技廠で始まった。もちろん、少ない予算で少人数による開発だ。

 彼らが実用上の問題点として捉えていたのは、エンジンの直径だ。無人機に搭載するにしても、もっと小直径にする必要がある。もともと、遠心式圧縮機の外周に取り囲むように配置されていた燃焼器が直径増加の原因だったのでその配置を後方に移動させた。圧縮機の直後には、ドーナッツ型燃焼器を配置するように変更した。もちろんエンジンの全長は後方に伸びるが高速機向けに直径を減少させることを優先した。

 エンジン直径は480mmまで縮小して、目標推力を500kgとした。これは、九一式魚雷と同じ程度の胴体を有する誘導弾であっても、エンジンの搭載を可能とするためだ。小型にもかかわらず、500kgの推力を発生させるためには、ハインケルエンジンから推進効率を改善する必要があった。

 自分たちで設計した1号機が完成するとさっそく試験運転を開始した。しかし、推力は300kgに満たない。ハインケルエンジンを縮小したことで性能も低下すると思っていたが、それを目の当たりにすると、やはり落胆が大きい。

 種子島中佐と永野大尉は、実験機の運転データを確認して、今後の対策を検討していた。
「まずは、回転数を増加させてみましたが、12,000rpmあたりで振動が発生します。原形としたハインケルのエンジンよりも、低い回転数で強く共振しているようです」

「やはり燃焼器を後ろに持っていって、圧縮機からタービンまでの軸長を長くしたことが影響しているな。圧縮機の回転部分の共振周波数を分析する必要があるぞ。おそらく回転軸や軸受を改良する必要があるだろう。出力を増やすためには、圧縮比の向上も間違いなく必要だ」

「昭和14年(1939年)になってオモイカネ一型が完成してから、航空機やエンジンの設計に計算機の利用が広がっています。回転部分の振動の解析や圧縮機周りの気流の分析に大型計算機を使いましょう。燃焼器の温度分布についても計算機を使えば、計測が不可能な内部の燃焼状態が推定できると思います」

 永野大尉の思惑通り、計算機による分析で改良が必要なポイントが明らかになった。まず、推力を増加させるために、前段の軸流型圧縮機を1段から2段に増やして圧縮率を向上させた。しかも、改良型エンジンは圧縮羽根の断面形状と気流に対する仰角を計算機を使って改善した。振動に対しては、単純なベアリングを用いた軸受をローラベアリングに変更した。また回転軸も剛性を増すように、軸部の肉厚を若干増加した。

 改良設計により、昭和15年11月には、小型エンジンであるにもかかわらず、推力が500kgを達成した。限界まで運転するならば、推力600kgも可能だろう。

 小型化したタービンロケットエンジンはほぼ性能目標を達成して、ネ10型として、昭和16年(1941年)1月から無人機に搭載されて飛行試験を開始した。6月からは、小型計算機も載せて事前に設定した経路に従って、無人飛翔体を飛行させることが可能になった。もちろん飛行中にエンジンの推力を変化させて、高度と速度を変えられる。

 使い捨てのエンジンが前提なので、貴重な耐熱金属の使用量を減らして、容易に大量生産可能にするため各部をプレスを多用した部品に置き換えたネ12型が誘導弾向けのエンジンとして、昭和16年(1941年)12月に採用された。

 エンジンの生産については、全体を中島飛行機が製作して、燃焼器とタービンは石川島が分担することとなった。生産の準備は制式化の数カ月前から始まっていて、制式化時には工場の整備はほぼ完了していた。

 ……

 一方、無人機向けの小型エンジンからやや遅れて、種子島中佐たちは、昭和16年(1941年)2月からは有人機に使用可能な大型エンジンの検討を開始した。既にこの時期には、小型ジェットエンジンの推力が目標値に達して、無人機の実験飛行も始まっていた。このため、ジェットエンジンに疑念を持つ者はほとんどいなくなっていた。中佐と永野大尉は、大型化したエンジンにより、推力1,000kgが実現可能だという検討資料を作成して航空本部に提出した。

 しばらくして、種子島中佐と永野大尉は、空技廠の和田廠長に呼ばれた。
「航空本部でタービンロケットの開発が本決まりになった。推力を増加した大型エンジンの開発を命ずる。それに加えて、タービンロケットを搭載する局地戦闘機の開発も決まったぞ。発動機と機体の同時開発は異例だが、昨今の国際情勢の変化に鑑みて決定されたとのことだ」

 航空本部は、大型エンジンの開発をすんなりと認めてくれたのだ。空技廠も本腰を入れるために今まで以上に人員を増やして開発に取り組むことになった。

 既に検討を進めていたので、大型エンジンは、空気取り入れ口を900mmまで拡大して、全体もそれに応じて大型化させた。また、無人機向けの用途では、短寿命と割り切っていた内部構造も長時間の運転に耐えられるように変更を加えた。例えば、圧縮機から高圧空気を抽出して燃焼器内に流して側壁を冷却したり、回転軸から空気をタービンブレードの根元に噴き出して温度を低下させるなどの仕組みを追加した。また、スロットル操作に応じて推力を変更するための機構は、大気圧とエンジン回転数に応じて燃料噴射を調節する制御装置を小型の計算機を利用して開発した。

 種子島中佐と永野大尉は、大型化したジェットエンジン開発の成果として、推力が900kgに達したことを報告することができた。種子島中佐は勇んで、廠長に報告にいった。
「開発中のタービンロケットエンジンで推力が900kgに達しました。エンジンの回転数とタービンの入り口温度はまだ限界値ではありませんので、このまま試験を続ければ間違いなく1,000kgを超える見込みです」

 和田中将は、顔をほころばせた。
「これでタービンロケットを動力源として戦闘機の実用化に大きく近づいたな。この新型エンジンを使用した航空機についてはイギリスとドイツが既に開発に着手しているとの情報がある。それに対して、我が国が後れを取らないためには、ぜひともエンジン開発には、成功してもらわねばならぬと考えていた」

 ……

 ジェットエンジン開発とほぼ同時に、それを搭載する十六試局地戦闘機の開発が始まった。試作を受注したのは十四試局地戦闘機に引き続いて三菱だった。

 設計主務となったのは第三設計課の佐野技師だった。開発の基本方針を決めると、まず河野技術部長に報告した。
「いろいろ勘案した結果、単発で行くことに決めました。タービンロケットの推力が1トンであれば、単発でも戦闘機が成立すると思います。双発になるとエンジンや燃料が2倍になります。注意すべきなのは、エンジンの燃料消費量が今までに比べてかなり大きいことです。双発化すれば、機体も大型化するので空気抵抗も増大します。その上、大型化により操縦員からは、戦闘機なのに運動性が悪いと必ず言われるでしょう」

「いいだろう。未知の分野の戦闘機だが、空戦主体の機体だということを考慮すると単発機でまとめる利点はあると思う」

「それで、単発機を前提とすると、機体には双胴形式を採用したいと考えます。全長の短い中央胴体の前半部に武装と操縦席を配置して、後半部にエンジンを搭載します。尾翼は主翼の左右から突き出た双胴で支えます。双胴の内部は主脚の格納ができるので好都合です。エンジンへの空気取り入れ口は、主翼の付け根あたりの胴体側面に開口することになろうかと思います。エンジン本体から胴体後部の噴射口までの距離を短くできるので、推進力の損失はほとんどないはずです」

「重量物であるエンジンを重心近くに配置するのは機動性の観点から好ましいな。私が気づいた注意点なのだが、双胴形式とすると、タービンロケットの噴射ガスがまともに水平尾翼に当たることになるぞ。水平尾翼を垂直尾翼の上の方に取り付けて、後方に噴射されるガスを避ける必要がある。もう一つは脚の構成だ。尾輪式にすると、噴射ガスが飛行場の地面にぶつかることになって地面を痛めることになる。機首に脚を配備する3車輪式にする必要があるだろう。まあ、3車輪にしてもプロペラがないから脚柱の長さはかなり短縮できるだろう」

 河野部長からの見解もとりいれた結果、全くの偶然だったが、日本のジェット戦闘機もイギリスのデハビランド機と似通った形状になった。

 佐野技師が十六試局戦の設計を本格的に始めると、今度は空技廠の飛行機部から提案があった。

「飛行機部の山名少佐から連絡があった。タービンロケットを搭載した無人機の試験結果から導き出された結論とのことだ。飛行速度が、音速に近い領域にまで達することを前提にすると、主翼に後退角を持たせる必要があるとのことだ」

 佐野技師が空技廠からのメモを読むと確かに衝撃波対策との記述があった。山名少佐が記載したメモには以下のような対策が記載されていた。

 航空機の速度をどんどん増加させてゆくと、気流の速度が速くなる翼上面で衝撃波が発生する可能性がある。後退翼はその発生を遅らせる効果を有する。水平飛行で衝撃波の発生が懸念されるような速度に達しなくとも、戦闘機なので急降下時には危険な領域に入り込む恐れがある。一般に大気中の音速は高度が上がると低下するので、高空での急降下が特に危険である。衝撃波が一旦発生すれば激しい振動を伴うので、翼の破損などの大事故が発生するかもしれない。

 一読して、佐野技師も書かれている内容が、おおむね正しいだろうと推測ができた。
「三菱でも高速機で発生する衝撃波については以前から懸念していました。この指摘は技術的な観点からももっともだと思います」

 山名少佐からの指摘も勘案して、当初は翼弦の前方から25%の空力中心を零戦の主翼のように一直線にすることを考えていたが、後退角を持たせると決めた。翼型に対する風洞試験の結果も加味して佐野技師は、主翼の空力中心線で15度の後退角を持たせることとした。なお高速であることを勘案して主翼や尾翼の操縦翼は全て羽布張りを止めて、ジュラルミンの薄板を貼り付けた。

 設計を開始して、約1年半後の昭和17年(1942年)8月には試作1号機が完成した。この頃には、ネ22型と命名されたタービンロケットエンジンも推力が1,200kgに達しており、試験飛行に十分耐えられる状態となっていた。昭和17年11月から試験飛行を開始すると、最大速度はプロペラ機では絶対に不可能な440ノット(815km/h)を超えることが確実になった。

 佐野技師が、計算機で強度計算はやりつくしたと言ったようにこの機体では、機体の補強が必要になるような問題は発生しなかった。しかし、最後まで残ったのが、高速で機首を急激に持ち上げると、尾部に振動が発生するという問題だった。もともと水平尾翼にエンジンが噴射したガスや胴体の乱気流が当たる可能性を考慮して、高い位置に取り付けていたが、大迎角時の乱気流の範囲が想定以上に広かった。結局、垂直尾翼の上端に水平尾翼を取り付けて、この問題を回避した。

 小型計算機によるエンジンの出力制御機構を既に実装していたが、計算機への入力を大気圧力や温度、エンジンの回転数や排気温度を基にするように変更して問題を解決した。計算量が増えたおかげで、スロットル操作に対する反応が遅れるようになったので、操縦員からは評価が芳しくなかったが燃焼の異常状態は避けられた。

 十六試局地戦闘機は、昭和18年6月には閃電として制式化された。

 閃電11型(試作名称J4M1) 昭和18年(1943年)6月
 ・全幅:11.7m
 ・全長:11.5m
 ・全高:3.8m
 ・翼面積:21.2㎡
 ・正規全備重量:4,600kg
 ・発動機:ネ22型、推力1,250kg
 ・最高速度:472ノット(874km/h)高度8,500mにて
 ・武装:機首:30mm機銃1挺、20mm機銃2挺
 ・爆装:6番(60kg)×2または25番(250kg)×2、両翼下に増槽×2

 ……

 イギリスからジェットエンジンの技術供与を受けたアメリカでも戦闘機の開発が始まっていた。最初に開発されたのは、イギリスから入手したW.1エンジンの設計情報を基にジェネラルエレクトリック社が開発したJ-31を搭載した機体だった。P-59エアラコメットと命名された双発の機体は、1942年7月に初飛行した。

 しかし、この機体は、双発にもかかわらずエンジンの推力が十分ではなかった。しかもレシプロ機並みに大きな主翼を備えたために、双発のエンジンを収めた太い胴体とあいまって、高速機向きな機体形状ではなく重量も過大だった。結局、最大速度も413マイル/時(665km/h)程度であり、既存のP-51やP-47よりも劣ることが明らかになった。しかも、高速時の直進安定性にも問題があったために、アメリカ陸軍航空軍は、パイロットをジェットエンジン機に慣れさせるための練習機と決定した。

 W.1に続いて、イギリスでハルフォードが開発したH.1が好成績を収めていることを知ると、アメリカ陸軍航空軍は、ベルのP-59からやや遅れてこのエンジンを搭載した戦闘機の開発を決めた。航空軍上層部は、既に欧州の諜報組織から、ドイツでプロペラのない戦闘機が飛行している情報を入手しており、一刻も早いジェット戦闘機の戦力化が要求されていた。

 開発を打診されたロッキード社は、契約からわずか180日以内での試作機の完成を要求された。契約が行われると、設計主任のケリー・ジョンソンはロッキード本社の風洞施設の横の建物に子飼いの設計チームメンバー(後のスカンクワークス)を集めて集中作業を開始した。

 契約の1カ月後には胴体前方とエンジン搭載部のモックアップが完成して軍の審査が行われた。1943年2月にはハルフォードのH.1がイギリスから到着した。1943年6月には、ジョンソン技師は、約束通り180日以前に試作1号機を完成させた。翌月には、ミューロック乾湖で初飛行までこぎつけた。XP-80は初期の試験で490マイル/時(789km/h)を記録した。

 一方、試験の結果、低速でフラップを降ろすと突然失速して右にロールするという問題が発見された。ジョンソンは風洞試験を繰り返して、主翼付け根に小さなフィレットを追加することで問題を解決した。それ以外には操舵力の重さが指摘されたが、すぐに修正された。機体の改修後は、大きな問題は無くなって、パイロットの評価も良好だった。

 1943年8月には、改良型のP-80Aが生産を開始するというスピードぶりだった。量産型となったP-80Aはイギリスの技術資料を基にして、アメリカのGE社が開発した推力3,000ポンド(1,361kg)のJ-33を搭載することにより、試作機から性能が改善していた。

 P-80
 ・全幅:11.27m
 ・全長:10.0m
 ・全高:3.2m
 ・翼面積:22.3㎡
 ・正規全備重量:3,900kg
 ・発動機:J-33、推力1,700kg
 ・最高速度:560マイル/時(901km/h、6,100mにて)
 ・武装:機首:12.7mm機銃6挺
 ・爆装:爆弾2.000ポンドまたは5インチロケット弾×10発

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