電子の帝国

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第22章 外伝(新たな技術開発)

22.3章 日米新型機開発

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 陸軍のキ66試作急降下爆撃機は、九九式双軽爆撃機の後継機として、昭和16年(1941年)3月に開発が始まった。川崎航空機の1社指名で、主任設計者は、川崎のほとんどの軍用機を設計してきた土井技師である。更改の対象となっている九九式双軽も土井技師が設計主任だったのだから、順当な決定だと誰もが思っていた。

 基本検討を開始してしばらくすると、海軍が開発していた十五試特殊艦上爆撃機(試作1号機が昭和16年7月に完成)の情報が陸軍側にも伝わってきた。もちろん、航空機設計の専門家である土井技師は全翼形式の機体の利点も欠点も承知していた。

 欠点である機体の安定性と操縦性を克服できるならば、揚抗比が良好な全翼機の長所は爆撃機にとってかなり魅力的だ。海軍での実際の開発状況を知りたいと川崎から要求すると、陸軍航空研究所が動いてくれて、現場の開発者から話が聞けることになった。川崎の技術者に加えて、陸軍航空技術研究所からは、航空機開発経験のある大森技術大尉が参加することになった。

 大森技術大尉と土井技師が、海軍空技廠に出向くと十五試特爆の開発技術者の一人である三木技術中尉が対応してくれた。

 三木中尉は、あらかじめ空技廠飛行機部長から打ち合わせの主旨と内容を知らされていたようで、簡単な説明書類を準備してくれていた。しかも、外形の理解を助けるために、試作機1号機を撮影した写真も3枚ほど準備していた。

 まずは大森大尉の感謝から打ち合わせが始まった。
「我々への説明のために資料や写真まで準備していただき、感謝申し上げます」

 にやりとして三木中尉が答える。
「陸海軍航空委員会が昨年発足しましたからね。本件もその委員会活動の一つだと位置づけられているのですよ」

 挨拶が済むとさっそく、書類を見ながら議論が始まった。
「速度や航続距離については書類を見てください。試作機による計測値を記載していますが、試験の進展により数値は変わることをご承知おきください。それに、これは試作1号機の情報なので、今後の試験の進展により機体の改修もありえます。その結果、寸法や重量も変更されるでしょう」

 土井技師にとっては、試験開始後に結果に応じて変更が加わることなど常識的な範囲だ。資料に示された数字などは、社に戻ってからじっくり検証するつもりだ。それよりも、この場では気にかかっていることを直接確認したい。

「この全体図のように主翼が単純な先細翼でなく、後退角を持たせて、翼端捩じり下げを設けることによりピッチングに対する安定性を確保して、しかもロールとピッチの操縦を可能とさせているのは理解できます。しかし、縦方向の安定性については、垂直尾翼が全くない機体でも大丈夫なのですか? 機首上げにより水平きりもみに陥りやすいのと、高速飛行時にダッチロールの発生を懸念します。しかも、直感的にはヨーの操縦についても、十分な運動性が確保できるとは思えないのです」

「ええ、ロールについては、安定性確保も操縦も通常の主翼と同じですね。向かえ角が変動するピッチングに対しては、後退角と翼端の捩じり下げで対処しています。翼端が重心と空力中心よりもかなり後方になるように、後退角を持たせてます。その状態で、翼端部に下向きの揚力を発生する操縦翼をつければ、水平尾翼と同じ働きをしますよね」

 三木中尉は資料中の主翼端を記載した概略図を指さした。
「一方、ヨーの操縦に対しては、補助翼に方向舵の役割を持たせるために、上下に開くいわゆるスポイラー的な構造を採用しています。それを常時わずかに開くことで縦方向の安定性も保証しています。まあ、若干抵抗が増えるという欠点がありますが、安定性を優先しています。それに加えて、主翼後方から張り出した位置でプロペラが回転することにより、機体の最後尾でジャイロ効果が発生します。プロペラにより、ピッチングとヨーイングに対して安定させる効果が生まれています」

「なるほど、翼端の操縦翼の構造と使い方の工夫に加えて、推進プロペラのジャイロ効果による安定性まで考慮しているのですね。以前からの疑問点が一つ解決しました。欠点が解決すれば、揚抗比が良好で、機体の翼面荷重も小さくできる長所が生かせますね」

「ええ、それに加えて電波反射が小さいというのは、軍用機として大きな利点があります。但し、水平きりもみ特性は既存の機体よりもやや劣っているので、空中での機動には一定の制限が出ると思います。例えば低速時の大迎角の禁止などです。まあ、爆撃機や偵察機では、機動制限があってもこの程度ならば問題にならないでしょうが、戦闘機には使いづらいかも知れません」

 土井技師たちは、三木技師からの説明に満足して帰った。川崎航空機と陸軍航空技術研究所は、1カ月ほど検討してから、双発爆撃機のキ66を十五試特殊艦上爆撃機の設計成果を活用して開発すると決断した。すぐに、その決定を陸軍省から海軍省に通知して、十五試特殊艦爆の設計情報の提供を依頼した。

 もともと川崎ではドイツのDB605を基にしたハ40系エンジンを自社生産して、飛燕に装備していた。十五試特殊艦爆が採用していたアツタも同じDB605を内製化したエンジンだ。陸軍向けのエンジンが、既に川崎で生産されているという観点からも海軍の十五試特殊艦爆とほぼ同一の機体を採用するのは都合がよかった。

 このようないきさつで、陸軍のキ66双発爆撃機は海軍の銀河とほぼ同じ機体として、昭和17年(1942年)2月から試験を開始した。もちろん銀河の試験結果を取り入れているので、陸軍での審査はかなり迅速に進んだ。磁性体を含んだ塗装を採用して、電探により探知しにくいという特性も受け継いだ。

 一方、海軍機とは異なり、陸軍が追加を要求したのが小型の電探装備だった。陸軍は夜間の作戦や誘導弾の搭載を前提に考えていたので、その作戦には電探が必須になる。土井技師は、右翼の主車輪の外側に翼内に格納可能な電探を装備した。構造は零戦などの主脚と同じで、通常飛行時は主翼下面と同一になるように引きこんでいる。使用時には、油圧で90度近く下方に引き下ろすと小型の増槽に似た電探アンテナの格納器が出てくるようになっていた。

 海軍の銀河は爆弾倉内に電探を搭載して、使用時には扉を開いてアンテナを外に出す手法を採用したが、これでは電探を搭載すると爆弾や魚雷を格納できない。陸軍の方法ならば、主翼内の燃料タンクはやや減少するが、電探と爆弾の双方を搭載できる。しかも通常時は翼内に格納するので飛行性能や電波反射への影響がほとんどないはずだ。

 更に、陸軍では、地上攻撃時にも対空戦闘時にも機銃は有効だと考えていたので操縦席の両脇に20mm機銃を装備した。

 キ66の開発と合わせて、陸軍で新たに導入されたのが誘導弾だ。ここでも海軍で先行開発されていた空対艦と空対空誘導弾の技術を利用して、早期に実用化する方法がとられた。

 空対地誘導弾の原形になったのが、二式対艦誘導弾だ。小型のタービンロケットを推進器として内蔵して、電波反射源に向かって飛行してゆく。陸軍では対地攻撃を主体と考えていたので、重量350kgの弾頭は榴弾として、約870km/hで目標に突入させるという設計だった。誘導弾全体の重量は930kgでキ66の爆弾倉に1発を搭載する。発射時には、爆弾倉から振り子式の誘導桿を介して下方に引き出されてから、推進器に点火する。

 同時に開発されたのが空対空誘導弾だ。海軍の三式対空誘導弾を基にして、ダブルベースの固体燃料推進を利用して電波反射への誘導方式で実用化された。弾頭は20kgで試験では990km/hで飛翔した。全体の重量は200kgでキ66の爆弾倉内に2発が搭載された。2発搭載時には、爆弾倉内に2基の誘導桿を装備した。

 川崎で量産が始まったのは約1年後の昭和18年(1943年)3月だった。キ66は重爆ではないので、制式化されて三式双発爆撃機(三式双爆)となった。同時に陸軍の誘導弾は、空対空誘導弾が奮龍二型となった。また大型の空対地誘導弾は、奮龍四型として制式化された。

 三式双発爆撃機(キ66)
 ・全幅:18.2m
 ・全長:7.6m
 ・全高:2.8m
 ・翼面積:52㎡
 ・自重:5,250kg
 ・最大離陸重量:7,850kg
 ・動力:ハ140-22 離昇:1,610hp 6翅プロペラ(木製、2.5m)
 ・最高速度:620km/h、6,000m
 ・航続距離:1,600km(爆装状態)
 ・兵器搭載:1トンまでの爆弾または誘導弾、20mm×2

 ……

 陸軍のキ66開発が始まった昭和16年(1941年)に開発が佳境に入りつつある全翼機が海軍にも存在した。昭和16年中旬になって、十五試特殊艦上爆撃機の設計も終わり、試作機が飛行試験を開始し始めると、海軍空技廠は次世代の爆撃機の検討に着手した。

 一方、海軍航空本部では十三試陸攻の後継機として、4発爆撃機を考えていた。双発機を前提とすると陸上攻撃機としての航続距離も搭載量も不足する。もちろん十三試の時のように途中から開発方針を変更するような事態は二度とごめんだ。既に、ヨーロッパでは枢軸国と連合国の戦いが始まっている。のんびりと開発をしている時間の余裕はない。

 航空本部から4発爆撃機の検討が航空技術廠に降りてきた。すぐに和田廠長は、山名少佐と三木中尉を呼んだ。
「山名君、大型の爆撃機開発を検討せよとのことだ。しかも全翼形式が望ましいとの条件付きだ。現状でまだ開発が正式化しているわけではないが、我々から報告を上げれば、それを見て要求仕様を決めてから本格的に開発が始まるだろう」

「要望を記述した書類を読むと、全翼形式に加えて大型機にもかかわらず、きわめて短期間での開発を要求しているのですね。そうなるとあまり冒険はできませんよ。十五試特殊艦爆で開発した結果をできる限り流用して大型化するという方向になるでしょう。十五試から外形もあまり変えないようにして、大きさを拡大すれば、空力特性はほぼ同じなので、模型による風洞試験など基本設計の時間は短縮できるはずです」

 三木大尉は、まだ飛行試験が続いている十五試特殊艦爆の評価結果を示す書類を取り出した。
「この資料にあるように、全翼機で大きな課題の一つになる安定性や操縦性については、十五試特殊艦爆で十分検討して試験も実施しました。いろいろ苦労しましたが、機体の安定性も操縦性も軍用機として実用可能になりました。この結果を4発機にも適用すれば、やっかいな問題が再び発生する可能性も少なくなりますよ」

「私も君たちの方針に異論はない。航空本部の方針とも矛盾はないので賛成するはずだ。その方向ですぐに設計に取り掛かろう。今の世界情勢では、航空本部や現場の部隊は、かなり短い期間で実戦配備しろと言ってくるだろう。すぐにも検討に着手して、開発を進めたい」

 山名少佐と三木中尉たちは空技廠の意見として報告書を作成し、航空本部宛てに全翼の4発爆撃機について実現方針も含めて提出した。それを受けて、すぐに航空本部は、十六試陸攻として、本格的な開発開始を決めた。工場生産は、空技廠では不可能なので、十三試陸爆に続いて、中島飛行機への1社特命となった。中島はこれを受けて、機体の初期開発から空技廠と共同開発社として参加することになった。もちろん、空技廠としては、専門知識を有する民間の技術者が多く参加してくれるのは、短期開発の観点からも円滑な工場生産への移行の実現性からもとんでもなくありがたい。

 航空本部から通達を受ける前から空技廠の山名少佐と三木大尉は、基本構造の検討を既に開始して概略構成を既に決めていた。

 エンジンについては、4発化のために取付位置を変更して試験が必要になる。推進式に取り付けるという方針は変わらないので、空冷エンジンでは背面から冷却することになって都合が悪い。液冷となると、日本には十五試特殊艦爆で使用しているアツタエンジンしか候補が存在しない。必然的に1,600馬力のアツタ4発に決まった。水冷エンジンで必須となるラジエターも翼内に収めたが、冷却用空気取り入れ口は主翼上面に開口して、Bf109のようにフラップ後縁から排出する方式とした。この方式ならば加熱された空気もわずかだが推進力になる。

 もちろん、自重も増えて機体も大型化しているので構造設計は全面的にやり直しとなるが、艦上爆撃機ではなく陸上爆撃機となったので、荷重的には楽になった部分もあった。

 早くも、昭和17年(1942年)7月には試作1号機が完成した。試作2号機までの試験で設計やり直しのような大きな問題はないことがわかってきた。戦争が始まったこともあり、海軍は試験の大幅加速のために一気に増加試作を15機発注した。飛行試験だけでなく、爆弾や誘導弾の搭載試験、雷撃から偵察まで様々な使い方を並行して試験するためだ。もちろん、全翼の軍用機として最も重要な電波反射特性の試験も専用の試験機を決めて時間をかけて実施した。

 アツタエンジンも昭和17年2月には、出力を向上した改良型が完成して、1,770馬力を達成した。もともとダイムラーベンツが実用化した、無段階変速の過給器は1段だった。それを空技廠の発動機部は、2段の無段階変速過給器に発展させた。高高度での作戦が主体となる陸上爆撃機ではどうしても必要な装備だった。山名技師としては排気タービンを装備したかったのだが、今まで経験のない機構の開発は時間がかかりそうだった。やむなく機械駆動の過給器で手を打つことにした。

 エンジンの冷却不足や、プロペラの振動などの問題が発生したが、試験を開始して約1年後の昭和18年(1943年)6月には中島飛行機で生産を開始できた。本機で問題になったのは機首と尾部の防御銃座だ。試験の結果、機銃を装備するとどうしても電波反射が増大することがわかった。結局、任務により銃を取り外して滑らかなカバーを取り付けることとした。

 昭和18年(1943年)8月には連山として制式化された。

 連山11型
 ・全幅:32.0m
 ・全長:10.3m
 ・全高:4.5m
 ・翼面積:2158㎡
 ・自重:14.9t
 ・正規全備重量:28.5t
 ・発動機:アツタ34型×4、離昇:1,770馬力、1,450馬力(9,600m)
 ・プロペラ:木製定速6翅、直径:3.4m
 ・最高速度:345ノット(639km/h)(9,200m)
 ・航続距離:3,500海里(6,482km)
 ・武装:機首13mm×2挺、尾部13mm×2挺
 ・爆装:爆弾6tまたは誘導弾

 ……

 ジャック・ノースロップは、航空機の理想形態は全翼機だと信じて、N-1Mという実験機まで自己資金で作って飛行させていた。そんな彼の努力が日の目を見るようになったきっかけが、戦争の勃発だ。アメリカ陸軍航空軍は、1941年4月になって、ヨーロッパ大陸を席捲しつつあったドイツへの攻撃を前提とした大型長距離爆撃機の開発を各社に打診した。10,000ポンド (4.54トン)の爆弾を搭載して、10,000マイル(16,090 km)を飛行するという、いわゆるテンテンボマー(Ten-Ten Bomber)構想である。

 もちろん、ノースロップは、この要求に対して全翼形式の4発爆撃機を提案した。彼の全翼機に対するキャッチフレーズは、全翼形式ならば、理論的に最も揚抗比が優れた機体が実現できるというものだった。揚抗比が優れているならば、より速く、より遠くに、より多くを搭載して飛行できる。しかも、独立した胴体や尾翼が存在しない全翼機であれば、従来型の機体に比べより少ない資材で機体を製作できるという点もノースロップが強調したポイントだった。

 ノースロップのアピールと既に全翼の小型実験機が飛行しているという実績が評価されて、1941年11月には、アメリカ陸軍航空軍は、B-35とB-36の2機種に対して開発契約を結んだ。ノースロップはさっそく開発に着手すると共に、全翼機の飛行データを収集するためにB-35を3分の1スケールに縮小したN-9Mという名称の実験機を飛行させた。

 1942年(昭和17年)1月になって、B-35に転機が訪れた。アメリカ合衆国がヨーロッパの戦いに参戦すると、ドイツ軍の強さを身に染みて知ることになったのだ。陸軍航空軍は既に開発中だったB-29の実戦配備を加速すると共に、それより約1年遅れで開発を開始していたB-35とB-36にも試作機を早期に完成させるべく強く要求してきたのだ。

 ノースロップは陸軍からの援助を得て、新たな設計者を雇い入れて設計部隊を強化した。アーノルド大将からの圧力は機体設計メーカーだけではなかった。3,000馬力近い大出力エンジンを開発していたプラットアンドホイットニーとB-35用プロペラを設計していたハミルトン、更には排気タービンのGEなどの関係メーカーにも及んだ。

 ノースロップにとっては、新型のエンジンと推進型の二重反転プロペラは、まだ試験も完了しておらず、試作機の完成に対しての懸念材料の一つだった。陸軍航空軍から、B-35開発向けを優先するように強力な要求が行われたのは、彼にとって渡りに船だった。

 1943年3月になって、陸軍航空軍の作戦検討をしていたバンデンバーグ大佐が、カリフォルニア工場を視察に訪れた。彼は、日本海軍がパナマ攻撃に投入した全翼型攻撃機の有効性を分析していた。その結果、レーダーに映りにくい航空機は、大きな利用価値があるとの結論に達していた。

 アメリカ軍も類似の機体をすぐにも整備すべきとの思いから、実現性の検討を開始すると、B-35という全翼型の爆撃機が既に開発中であることが判明した。彼はすぐに、B-35がレーダーに捕捉されにくい機体なのか、その実力を自分の目で確認するために、カリフォルニアのノースロップに会いに来たのだ。

「これが、日本軍が投入した機体の写真です。尾翼も備えていないこんな機体が安定して飛行できるとは、本当に驚きです。しかし、それゆえに地上からの電波を反射する部分が少なく、レーダーに捉えられない機体となっているのです。B-35も同様の特性を有していると考えるのですが、間違いないですよね?」

「ええ、一般論として、胴体や尾翼がない全翼機は電波の放射を受けても、送信方向に反射する割合はかなり小さくなっているはずです。私のところで作成した全翼の試験機がありますので、実際に飛ばしてレーダー反射の試験をすることも可能ですよ」

 バンデンバーグ大佐は、ノースロップがB-35の試験のために制作していたN-9Mを陸軍で購入することをその場で決めた。小型の試験機の購入ぐらいならば、彼の決裁可能な範囲だ。

 実際のB-35は、まだ試作機が完成していなかったので、図面上で機体を確認することになった。

「翼の幅が171フィート(52m)というのは、ボーイングが開発中のB-29よりも大きいですね。それに比べて全長が53フィート(16m)というのはとんでもなく寸詰まりだ。それでいて、こんなに巨大な機体が、約400マイル/時(644km/h)の速度で飛行できるとはにわかに信じがたい」

「全翼機は、通常形式の航空機に比べて空気に対する抗力が小さいのです。エンジンの出力さえ額面通りであれば、これくらいの性能は出せるはずです」

 航空軍に戻ると、大佐はB-35はレーダーに映りにくい爆撃機として大きな利用価値があるうえに、爆撃機としての性能も一流であるとの報告書をまとめた。もちろん、できるだけ早く部隊配備を実現するために、現状以上に強力に開発を推進すべきであるとの意見も強調しておいた。

 当時、アメリカ合衆国は、太平洋とヨーロッパの2面で戦っており、そのどちらの戦況も思わしくなかった。とにかく戦いに勝つために利用できる兵器を手に入れるためならば、アメリカ軍は金に糸目をつけるつもりはなかった。

 直ちに、バンデンバーグ大佐の進言は受け入れられて、更にB-35を加速するために、陸軍航空軍の仲介により、より強力な設計部隊を有するダグラス社が設計を支援することになった。

 既に機体の設計はかなり進んでいたが、巨大な爆撃機を構成する部品は数多く存在した。それらの部品設計の一部をダグラスの技術者が分担することで、機体の設計はどんどん進んだ。

 しかも、機体の電波反射を計算するためにノイマン博士の開発したコンピュータが導入された。コンピュータにより、機体全体だけでなく、脚や爆弾倉の扉のエッジが電波を送信側に戻す(面での反射ではなく回析現象)ことを見つけて設計を修正することになった。

 それでも、開発体制の強化に加えて、新型エンジンとプロペラの開発も順調に進んだために、1943年8月には、早くもXB-35の試作1号機が組み立てられた。試作機完成の報告を受けると、再びバンデンバーグ大佐がノースロップ工場にやってきた。

「巨大な全翼機がついに完成したのですね。やはり主翼の幅が想定以上に大きいな。これだけ翼面積が大きければ、かなり爆弾を積めそうだ」

 銀色に輝く巨大な機体を目の前にして、大佐は思わず感嘆の声を上げた。

「地上での、エンジンの試験は済んでいます。来週になれば試験飛行を開始することになるでしょう。この機体は、純粋な飛行試験機なので、爆撃機として必要な、照準器や防御機銃は何も搭載していません。逆に飛行状態やエンジンの運転状態を計測して記録する機器を追加で搭載しています」

「この機体が実戦配備されれば、間違いなく大きな戦力になりますよ。私は、ドイツに対する決定的な闘いで大きな戦果を挙げると信じています」

「まあ、そうなることを私も期待しています」

 やがて、バンデンバーグ大佐の言葉が本当になるとは大佐自身もノースロップも気づいていなかった。

 試験機の評価と並行して、地上で爆撃システムや搭載する無線機器、防御銃などの装備開発が行われていた。ここでも大佐の報告書が影響を及ぼして、期間短縮が大きな目標になっていた。そのために、爆撃機として搭載する装置に関しては、一部の手直しを行っただけで、B-29向けに開発された機器を大幅に利用すると決定していた。しかも、この機体で想定される使用法から、尾部銃座を除いてB-29のような胴体銃座を装備しないと決まったことも開発期間の短縮に寄与した。

 試作3号機からは、ドイツの合板製VDSプロペラのようなハミルトンが設計した幅広の木製プロペラに交換した。しかも、デュポン社が開発した強磁性体粉末を含むパテで外板の隙間を埋めて、更に3層の特殊塗料を全面に塗った。実際に試験機を飛行させて、前面や側面、後方などの各方向からレーダーがどの程度の距離で探知できるかの評価が行われた。また電波反射の評価を基にして、塗布する塗料にも改良が加えられた。

 試作7号機からは、各種の艤装品も装備して、機体の修正も行ったことからほぼ生産型と同一の機体となった。これらの前期量産型ともいえる機体が工場で生産されたのは、1943年(昭和18年)12月だった。工場での生産は、ノースロップとダグラスが協力してカリフォルニアに建設した新工場で集中的に生産が始まった。

 B-35
 ・全幅:171.3ft(52.2m)
 ・全長:53.1ft(16.2m)
 ・全高:20.3(6.2m)
 ・翼面積:370㎡
 ・自重:89,500lb(40.6t)
 ・正規全備重量:209,000lb(95.0t)
 ・発動機:P&W R-43604(ワスプメジャー)、離昇:3,000馬力
 ・プロペラ:木製二重反転:4翅×2、直径:4.65m
 ・最高速度:393mph(631km/h)
 ・航続距離:8200マイル(13,196km)、16,000ポンド(7,258 kg)搭載時)
 ・武装:尾部13mm×2挺
 ・搭載量:最大23,000lb(10.4t)

 ……

 昭和16年(1941年)から、陸軍において隼の後継との位置づけで次期戦闘機の検討が始まった。

 当初中島飛行機は、キ44(鍾馗)の性能を向上させた機体をキ44Ⅲという名称で検討していた。キ44のエンジンを中島が開発していたハ45(陸軍名称ハ145、海軍名称誉)に換装して、旋回性能を改善するために主翼と胴体をやや大きくする案が当初案だった。2,000馬力のエンジンを搭載して機体設計を空力的に洗練させれば、最大速度は660km/h程度に向上するはずだ。

 しかし、陸軍の航空技術研究所は、この提案では満足しなかった。既に、キ44Ⅱで18気筒エンジンのハ110(海軍名称は新星)を採用済みで、最大速度も640km/hを記録していた。わざわざ機体を再設計するのに性能向上の割合が小さいという意見が続出した。しかも当時開発中だった、海軍の性能向上型十五試艦戦は離昇2,300馬力の三菱のA20(後のハ43)を搭載して、700km/hを目指していた。陸軍航空技術研究所としては、海軍よりも開発が後発になったにもかかわらず、性能で艦戦に見劣りする機体には我慢ならなかった。

 結局、中島も陸軍の航空技術研究所に押し切られる形で、大馬力の発動機搭載を前提として、キ44Ⅲの設計を進めることになった。三菱のA20はハ45よりも50mm直径が拡大して、重量は125kgも増して、1トンに迫るような発動機だ。しかもアメリカの爆撃機が軒並み排気タービンを備えて、大幅に高空性能を改善していることからキ44Ⅲにも排気タービンの装備が要求された。結果的に、機体もかなり大型化して、排気タービンによる重量増加も影響して全備で5トン程度の見込みとなった。このために、昭和16年(1941年)11月にはキ44とは全く異なる機体として、キ84という新たな試作機番号が付与された。

 中島では、キ84の発動機として陸軍の技術部隊の要望に従って、三菱のエンジンを搭載するつもりなど当初からなかった。社内で、A20とほぼ同じ性能の18気筒エンジンを開発していたからだ。開発を急いでいた自社開発のハ5系の14気筒エンジンを18気筒化したハ44(陸軍名称ハ219)の実用化のめどが立ったのは、昭和17年(1942年)1月だった。排気タービンについては、基本的にエンジンが変わっても大きな違いはないはずだ。既に石川島芝浦タービンが海軍のA20の向けに実用化している装置を小変更すれば、ハ44にも使えることになった。

 中島飛行機、太田製作所の大和田所長と小山技師長は、自社製のエンジンへの変更を直々に陸軍に訴えた。もちろん離昇2,400馬力のハ44を使用できれば、性能が向上できるとの内容だ。加えて高高度性能の改善により、エンジンを変更すれば、キ84は高度1万メートルでの性能が740km/hに達する見込みとの報告を受けて、航空技術研究所も中島飛行機からの申し出を了承した。

 既に戦争が始まっていたために、キ84の開発を太田製作所は総力を挙げて進めることになった。この頃には中島の陸軍機開発は、各専門分野毎に班を分けた第1設計課と開発対象の機体をそれぞれの班が担当して取りまとめを行う第2設計課に分かれていた。陸軍の了承を得る前からキ84の設計は内々で始まっていたが、正式な承認を得て、組織的にも変更が行われた。第2設計課にキ84設計班を設けて機体全体の設計を進めることになった。第1設計課では、全体設計に従って、各部の詳細設計を行うことになった。

 昭和17年(1942年)2月にはキ84の木型審査が始まった。並行して太田製作所では、試作機の詳細設計が進められていた。単発単座の戦闘機としてはかなり大型の完全新規設計の機体だが、内部構造や機構自体はキ43とキ44を踏襲している。小山技師長は、戦時の開発ということもあって、脚やフラップなどの動作機構や主翼や胴体の内部構造には、極力今までの航空機で実績のある方式を採用して冒険を避けた。

 無難な機体設計のおかげで、昭和17年10月には試作1号機が完成して、翌年には試験飛行が開始された。昭和17年12月には排気タービンを備えた5号機までの試作機が完成して、高度10,000mで730km/hの速度を記録した。

 キ84の開発手法で特筆されるのは、100機もの試作機を製作したことだ。昭和17年の時点では、キ84の開発計画は増加試作まで含めて10機程度を製作するという、従来と変わらない計画だった。それが、木型審査の途中で航空本部の清水中佐と荒蒔少佐が試作機の大幅増を要求してきた。清水中佐たちは、海外では多数の試作機により審査完了までの時間を短縮しているとの情報に接して、戦時の戦闘機開発にそのやり方を応用しようと考えた。

 実際には100機の試作機を一気に生産したのではなく、先ずは段階的に30機程度を完成させた。それでも、この施策で制式化までの期間が短くなったのは間違いない。しかも、実質的に工場で多数機を短期間で組み立てることになり、量産の立ち上がりも促進する効果があった。早くも昭和18年(1943年)2月には、制式化前にもかかわらず、24機の試作機を利用して部隊の訓練が開始された。既に試験で730km/hの速度を確認できていたから、陸軍は何としても早期に部隊配備するつもりになっていた。キ84は、昭和18年(1943年)4月に疾風として採用が決定された。

 疾風(キ84)
 ・全幅:13.5m
 ・全長:11.8m
 ・全高:4.5m
 ・翼面積:26.2㎡
 ・自重:4,050kg
 ・正規全備重量:5,980kg
 ・発動機:ハ44-32ル(ハ219ル)離昇馬力:2,450hp、公称馬力2,050hp(2段2速排気タービン過給機)
 ・プロペラ:3.8m、4翅プロペラ
 ・最高速度:735km/h 9,500mにて
 ・上昇力:6,000mまで5分32秒
 ・武装:翼内:20mm×4

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みにみ
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ソ連がフランス侵攻中のナチスドイツを背後からの奇襲で滅ぼし、そのままフランスまで蹂躪する。日本は米英と組んで対ソ、対共産戦争へと突入していくことになる

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

戦神の星・武神の翼 ~ もしも日本に2000馬力エンジンが最初からあったなら

もろこし
歴史・時代
架空戦記ファンが一生に一度は思うこと。 『もし日本に最初から2000馬力エンジンがあったなら……』 よろしい。ならば作りましょう! 史実では中途半端な馬力だった『火星エンジン』を太平洋戦争前に2000馬力エンジンとして登場させます。そのために達成すべき課題を一つ一つ潰していく開発ストーリーをお送りします。 そして火星エンジンと言えば、皆さんもうお分かりですね。はい『一式陸攻』の運命も大きく変わります。 しかも史実より遙かに強力になって、さらに1年早く登場します。それは戦争そのものにも大きな影響を与えていきます。 え?火星エンジンなら『雷電』だろうって?そんなヒコーキ知りませんw お楽しみください。

札束艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 生まれついての勝負師。  あるいは、根っからのギャンブラー。  札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。  時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。  そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。  亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。  戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。  マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。  マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。  高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。  科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

超量産艦隊

ypaaaaaaa
歴史・時代
海軍内では八八艦隊の議論が熱を帯びていた頃、ある一人の天才によって地味ではあるが大きく日本の未来を変えるシステムが考案された。そのシステムとは、軍艦を一種の”箱”と捉えそこに何を詰めるかによって艦種を変えるという物である。海軍首脳部は直ちにこのシステムの有用性を認め次から建造される軍艦からこのシステムを導入することとした。 そうして、日本海軍は他国を圧倒する量産性を確保し戦雲渦巻く世界に漕ぎ出していく… こういうの書く予定がある…程度に考えてもらうと幸いです!

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