26 / 173
第5章 新兵器と新型計算機
5.3章 図上演習
しおりを挟む
昭和15年(1940年)10月に「オモイカネ二型」の完成に目途がついてくると、向上した性能を生かした新たな活用法が考えられるようになった。そのような新発想の一つとして、計算機開発課に机上演習への計算機活用について、軍令部から打診があった。軍令部第一部二課長である田口大佐と第三部第十課長の小倉少佐が、図上演習の資料を持参して彼らの考えていることの説明にやってきた。ちなみにこの時期には、軍令部の第十課には暗号を扱っている戦史班と計算機の活用を任務とする情報班が存在していた。
軍令部の課長訪問に対して、技研からは真田少将以下、望月少佐などの計算機開発課の技術者が出席した。座席に座ると、すぐに田口大佐が説明を始めた。
「さっそく要件について説明させていただきます。我々は、計算機を軍の図上演習に利用することを考えています。今日は、計算機技術者としての忌憚のない意見を聞かせていただきたい。小倉君、まずは我々が考えていることを説明してくれ」
彼らが持参した資料には、図上演習の進め方について記載されていた。まずは、戦いが始まる時の条件設定だ。
「ご存じだとは思いますが、図上演習を実施する時には、互いに戦う赤軍と青軍に分かれます。資料にもある様に、それ以外に統監部という部門が演習全体の管理・監督を行います。最初に戦場や兵力などの戦いの前提条件を統監部が赤軍、青軍に伝達します。もちろん相手の兵力や部隊の位置など、事前に知りえない敵方の情報は通知しません」
最初のページを説明すると、小倉少佐は我々の方を見回して質問がないことを確認した。確かに説明されなければ、技術者である我々はあまり知らないことだ。
「戦いが開始されてからは、赤と青それぞれが自軍の作戦行動を統監部に提出します。例えば、海戦であれば艦隊行動に対して、統監部が青軍、赤軍それぞれの位置を海図に記述します。次に、統監部は行動の結果を両軍に伝えます。互いの位置が接近した場合に、偵察行動を実行すれば、その結果、相手の艦隊を発見することもあり得ます。相手を発見して、接近してゆけば、戦闘可能な距離で戦いが生起します」
図上演習の説明は、統監部の役割についての解説に進んだ。
「統監部は、現状では『演習審判標準』に基づいていろいろな判定を行います。戦闘が開始されたら砲弾や爆弾の命中判定を行います。このために、『演習審判標準』には、距離や天候、砲の種類や爆弾種別により命中率がどのようになるかを示した表が記載されています。距離などの当該条件に加えて、サイコロを振ることで表中の特定の升目を選びます。サイコロを使うのは、乱数による偶然性の要素を命中か否かの判定に加えるためです」
真田少将が質問する。
「いろいろな条件に応じた判定用の表となると、多くの情報を詰め込んでいることになるだろう。しかも、距離の刻み幅等を細分化すれば表の情報は級数的に増えて実用性が失われるはずだ。逆に、情報を減らすために、粗い表にすれば誤差が生まれることになる。また、サイコロを使う限り乱数は大きな値ではないので、選択する候補はそれほど多くはできない。つまり、実用性を考えると、結構、判定がおおざっぱになってしまう可能性があるが、この認識であっているかね?」
「おっしゃる通りです。現状の判定法では精度に限界があります。しかも分厚い本を使って判定するために、結果が出るまでには時間を要することになります。言い換えれば、演習の時間を引き延ばす要素になっているともいえるでしょう。それも計算機により改善したいことです。資料の後半に我々が考えていることを記載しています」
小倉少佐の示した資料のページには、いくつかの山型の曲線のグラフが書かれていた。
「これは、確率分布のグラフです。全てを表の形にしなくとも、確率変数を求める計算式を使えば、かなりきめ細かく確率を計算できます。しかも、距離や気象などいろいろな条件に合わせて計算式の係数を変えれば、条件が代わったことに応じて変化する確率を求められます。しかも、計算機であれば、サイコロなど使わなくとも、数学的に広範囲の乱数を算出できるのでより厳密な計算が短時間で可能です」
私も軍令部のこの中佐が構想していることはよく理解できた。計算機を使えば、もっといろいろな利点が考えられるだろう。
「計算機は、プログラムにより演算を行うので、確率分布の計算式を変更することは容易です。実際の砲弾や爆弾の命中率と計算結果に差異がある場合には、誤差を減らすように数式や係数を修正することは、かなり短時間でできると思います。しかも彼我の損失の集計や、残存兵力計算もお手のものです。演習時の記録も磁気テープに全て記録しておいて、後で研究のために完全に再現することもできます。あるいは有益な演習を再現して、士官養成時の教材にするようなことも可能ですね」
田口大佐は、もともと計算機を活用するつもりで意見を聞きにきたが、否定的な見解がないことに安堵していた。しかも、想定以上にいろいろな利用法がありそうだ。
「心強い意見です。軍令部第一部では、図上演習専用の計算機を導入する予定です。もちろん、計算機を使うならば、現状で最も高性能な装置を導入するつもりです。ついては、厚かましいお願いですが、図上演習用の計算機の立ち上げについて、技研の専門家の支援をお願いしたい。演習時の総監部を計算機がかなり手助けすることになるが、そのためのプログラム開発も必要です。計算機技術者の助力をお願いしたいのです」
真田少将にとっては、計算機利用が拡大することは、望ましい方向だ。しかし、プログラムが作成できるような計算機の専門家はまだそれほど多くはない。そこまで考えて、軍令部には、既に計算機を活用している部門が存在していることに気づいた。
「計算機の机上演習への活用については、使えるようになるまでは技研も協力する。しかし、計算機の操作員や図演向けのプログラム作成要員はそちらで準備をお願いしたい。既に軍令部第三部は計算機を利用しているはずだ。『戦史分析』と言えばわかるだろう。第三部が、計算機操作とプログラムを作成できる人員の育成をしているはずなので、まずは軍令部内で融通するなり、計算機教育をお願いする」
「むろん、第三部が計算機を活用していることは知っています。計算機要員の育成も実施します。しかし、それでは時間がかかりすぎるのです。図演用の計算機プログラムの開発と使用が軌道に乗るまでは支援をお願いします」
真田少将は、仕方ないという顔をしながらも全て拒否はしなかった。但し、軌道に乗るまでという言葉は曲者だ。少将はプログラムの作成だけに話題を絞った。
「初期の図上演習用のプログラム作成については、雛形もないので技研側の技術者が協力しよう。しかし、計算機で確率計算をしてもそもそも計算式が間違っていては、結果は正しくない。現実の出来事を数式するためには、確率論に対する数学の専門家の協力が必要だろう。大学の数学科や学者から協力を得るように手配してほしい。当面は、『演習審判標準』に記載されている砲弾や爆弾、魚雷などの命中率の情報を使うことになるだろうが、計算機はもっと多くの情報を活用できる。追加する情報については、よく検討して決めてもらいたい。例えば、空戦時の撃墜率や、逆に爆撃時の被撃墜率なども演算式にできるならば計算可能だと思う」
田口大佐は、暗号分析を計算機で処理する場合に、数学者の協力が要請されたことを知っていた。そのため、今回も計算機を活用するためには、数学の専門家の参加が必要だろうと考えていた。それでも、第三部の「戦史研究」に比べれば、応用する数学は高度ではないだろう。
加えて、図演の有効性を高めるために、「演習審判標準」にとらわれることなく、判定内容も正確化して範囲ももっと広げたいとの思いは当然有していた。そのための各種の情報は、軍令部自身が保有しているはずだ。
「わかりました。我々の方で協力してもらえる数学者を探します。大学に協力を呼びかけることになるでしょう。審判の範囲の拡大については、軍令部と艦隊で訓練や演習時の各種の結果を保有していますので、整理して利用できるようにします」
……
昭和15年(1940年)11月から、図上演習に対して、計算機を利用するためのプログラム開発が始まった。技研からは、海野少尉以下の計算機課の技師が参加した。開発時には、小倉少佐自らが旗振り役になって、第三部第十課の要員も加わった。田口大佐が依頼した数学科の教授も2週間後には参加して、図上演習向けのプログラム開発が進んだ。
そもそも、確率分布の計算は航空機の空力計算やエンジンの燃焼の計算ほど、複雑な計算ではない。処理すべき情報量も暗号処理のように莫大ではない。そのために、2カ月もすれば、確からしい確率計算の答えが出せるようになった。砲弾や爆弾、魚雷の命中率の判定だけでなく、航空攻撃時に要撃戦闘機による攻撃隊の被害数の算定や戦闘機の空戦時の戦果と被害の集計もすぐに行えるようになった。偵察時に相手を発見できるか否かの計算や、天候や昼夜の違いによる戦果と被害の変化も算出できるようになった。
計算機が演習時の行動や状況の変化も含めて戦果と損害を全て記録するようになったために、演習終了後に任意の時間に戻って検討が行えるようになった。将棋で言えば、対戦が終了した後に、優劣が変化した時点に棋譜を戻して、その時の最善手を研究することに相当するだろう。
加えて、戦術の研究時に、複数の作戦案に対してそれぞれの比較結果を計算機が示すことも可能になった。例えば、軍事作戦として、甲案、乙案、丙案を示すと、各案に対しての友軍の損害や相手に対する戦果、領土や経済的な影響について算出できる。それぞれの結果を用いて、作戦案の比較評価を行うことが可能になった。
昭和15年(1940年)12月には、軍令部が増上寺の南側に芝支所として建設していたビルが完成した。1階と2階の大きな部屋は計算機室として、10台以上の大型計算機を収容可能な床面積を確保した。軍令部が専用に使用する計算機の用途は暗号と図上演習を含む戦術、戦略研究用途だ。芝支所の「軍令部大規模計算機施設」が建設当初の名称だったが、一般には「軍令部情報研究所」あるいは「情報研」と呼ばれるようになった。
私と、海野少尉は設置された試製「オモイカネ二型」の試験調整の名目で軍令部情報研究所を幾度も訪れていた。計算機を構成する演算部そのものや周辺機器については、民間会社で試験を行って納入してくるので、特に問題は発生しない。しかし、計算機プログラムについては、暗号も演習も軍事専門であり、守秘の必要性から民間には開示せず軍の技術者だけで開発していた。我々も軍属の一員になるので、設置された計算機の調整を行っていたのだ。
このところ、海野少尉は引っ張りだこだったが、とにかくプログラム作成に関しては短時間で要求された機能を開発することで仕事をこなしていた。この頃になると、プログラムの生産性については、とんでもなく大きな個人差があることがわかってきた。当初は習熟度の違いが原因だと考えていたが、それだけではなく、そもそも個人に適性があることがわかってきた。その観点からは、海野少尉はプログラムへの適性がかなりあったことになる。
「『情報研』は、陸軍の登戸にも負けないような近代的な計算機専用施設になりましたね」
「やはり、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるべきだということだ。計算機本体や端末機器を無理なく配置できる。しかも当初から、強力な冷房機を備えているので、部屋の温度が、計算機により高温になることも避けられる」
「ええ、我々も計算機の設置に関してはいろいろ経験を積んできたので、その知見を全て生かしました。軍用ということで、民間にお披露目できないのが残念です」
もう一つ情報研究所には新しい装置が設置された。当時、陸軍と共同開発中だった計算機間あるいは計算機と端末装置間の通信装置を早くも情報研に設置した。通信回線を経由して遠隔地に2進数で表現された用途別の情報塊(ファイル)や計算機自身への操作と応答(コマンドとレスポンス)を伝送する情報通信装置だ。
まだ試験中の通信装置を設置したのは、人の移動を少なくするためだ。軍令部の情報研究所と技研の目黒の計算機棟を接続することで、わざわざ技術者が芝まで出向かなくても、勤務地の目黒から、計算機のプログラムの検証や計算機自身の操作が行えるようになった。
……
計算機課長の望月少佐は、最近使えるようになったばかりのブラウン管を備えた新型端末に表示された計算結果に見入っていた。彼が電動タイプライターから2九歩を示す命令を入力すると、表示管に29フと表示された。時間を空けずに69カクと表示が追加された。
少佐は、それを見て小さく叫んだ。
「えっ、こんな手があったのか。これは読みに入っていなかったな」
我々は目黒の研究所にいるのだが、この端末は通信回線を経由して情報研究所に接続していた。回線を利用して芝の計算機と将棋をしていたのだ。少佐は、電子管表示器の横に置いた将棋盤の駒を6九角に進める。彼はしばらく盤面を見ていたが、やがてブラウン管の表示部に向かって静かに頭を下げた。
「まいりました」
私は、人間対機械の勝負を後ろから見ていた。
「軍令部の技師が改良したこのプログラムは、確か将棋6版のはずです。改版が進むたびに、どんどん強くなっていますね。私が指しても、全く勝てそうに思いません。特に計算機は、定石にないような手で指してくるのがすごいですね」
「まあ、その割に中盤では時々意味不明のような手を指すこともあるが、本職の棋士でもなければ、軽くひねられる程度の実力になったな」
そもそも我々が作成していたのは、演習で人間の相手ができる自動対応プログラムだ。相手の作戦行動に対応して、こちらが勝てるような最善手を示すことを目標としていた。その過程で、将棋のプログラムを開発して、計算機自身に最善手を見つけ出させる方法を研究していたのだ。但し、ブラウン管の表示器を使っても将棋盤の図形そのものは、まだ表示できない。そのため、実際の盤面がどのようになっているのかを、対戦している人間が全体を理解するために横に将棋盤を置く必要があった。それでも、私は1年もしないうちにブラウン管の画面に将棋や囲碁の盤面を表示できるだろうと確信していた。
……
昭和16年(1941年)8月になって、太平洋の戦いを念頭にした本格的な図上演習が開催されることになった。もちろん、計算機を積極的に使用した演習だ。そのため、田口大佐と小倉少佐から、望月少佐はじめ計算機課員に対して演習内容について説明があった。実際に利用する計算機は既に大幅に性能を向上した「オモイカネ三型」に進化していた。
「今回の演習は、約1カ月をかけて図上演習による作戦の研究を行う。仮想敵国は太平洋の向こうの国だ。演習は1回だけでなく、彼我の兵力を変えたり、戦闘開始時間や開戦時の場所を変えて、様々な条件で行う予定となっている。計算機を積極的に活用してゆくつもりなので、万が一の不具合に備えて、計算機課においては待機をお願いしたい」
「もちろん協力は惜しみません。但し、現状においては、図上演習の用途では、プログラムも含めて計算機に関係する不具合はほぼ発生していません。しかも、情報研究所の計算機と我々が勤務する目黒は計算機による情報通信が可能な回線が何重にも接続しています。そのおかげで、我々は通常の勤務をしていても軍令部の計算機の状態を回線経由で知ることができます。ちょっとしたプログラムの修正程度ならば、わざわざ出かけて行かなくても、遠隔で更新が可能です。当面の間は、目黒にある技研の計算機課から状況を確認するということにさせてください」
「わかりました。そうであれば、我々が技研との連絡を密にするために、演習の期間中は、小倉少佐が技研計算機課に常駐することにさせてほしい。彼も計算機の技術者と一緒にいた方が得るものがあるだろう」
翌週から対米作戦を想定した図上演習が開始された。初回の演習は、日本軍の位置づけの青軍に対して、米軍に相当する赤軍が侵攻して来るのを太平洋上で迎え撃つという想定だった。青軍は背後の本土を守りつつ赤軍を撃退すれば、勝ちになる。逆に青軍背後の本土を攻撃できれば、赤軍の勝ちだ。青軍は主に連合艦隊の各部隊からやってきた参謀たちが指揮することになっていた。一方、侵攻してくる赤軍の役割は軍令部の佐官級が担うことになっていた。
実際の演習では、戦闘の推移とともに、双方の艦隊が徐々に消耗して行く接戦となった。青軍も赤軍もそれほど大きな戦力差がない状況で演習しているのだから、無理もない。やがて、赤軍の被害が蓄積していってついに作戦目的を果たせないと判断した赤軍指揮官が、西方に退却するという決断をした。この時点で青軍にもかなり損害が発生していたが、青軍の防衛戦闘は何とか成功するという結果で終わった。
幸いにも小倉少佐が、我々にもわかる様に演習の推移を説明してくれた。
「この戦いの推移は、軍令部で当初から想定していた内容に近い。戦力にあまり差がないならば、どちらかの軍が作戦で失敗をしない限り、接戦になるはずだ。今回は本土の近くで防衛するという地の利を行かせた青軍が最終的に優勢になったということだ」
二回目の模擬戦闘では、条件を変えて赤軍の指揮を計算機が行うことになった。
「戦闘開始時の条件は最初の演習時と同じだ。計算機に赤軍を指揮させる目的は、単に計算機の対戦能力を試そういうわけではない。計算機自身に作戦を立案させることで、通常の軍人では想定しないような打ち手を明らかにすることを考えている。たとえ、突拍子もない作戦案を計算機が提示しても、そのまま総監部に伝えてほしい」
もちろん、我々は技術者として計算機の能力を試してみたいと思っていたので、願ったりかなったりだ。
通信回線がつながっているおかげで、軍令部の計算機の出力はそのまま見ることができる。演習中は軍令部の小倉少佐と私が定期的に計算機の動きを確認していた。何か異常があれば、計算機課に通知することになっている。
「どうやら赤軍は、自軍を3つに分けて侵攻する作戦のようですね。戦艦を主体にして護衛の空母1隻を配置した砲撃主体の部隊と、残りの空母を等分して2つの高速の機動部隊の構成にしました」
「戦艦と空母を船足に応じて分けるのは理解できるが、空母の部隊を2分したのは戦力の集中原則には反するな。空母の数が多いのならばあり得るが、4隻の空母ならば2分はしないだろう」
計算機は、戦艦部隊をどんどん前進させた。青軍は突出した赤軍の戦艦部隊を索敵機で発見すると、主力部隊だと認定して、艦載機で遠距離から攻撃した。続いて、赤軍も偵察機により青軍の艦隊を探知すると、南方に迂回させた空母機動部隊が艦載機による攻撃を仕掛けた。青軍の主力部隊からやや離れた位置に配備した艦が、接近してくる赤軍の航空機による攻撃隊を探知した。
「艦隊から距離をとって、警戒のために哨戒艦を配備するという青軍の作戦がうまくいったようだな。これで航空攻撃は強襲になる。青軍は守備のための時間を稼ぐことができた」
強襲が前提になったために、攻撃隊が受ける損害は増えて、青軍の艦に与える被害は減ることになった。青軍の赤軍の戦艦部隊への攻撃隊は、戦艦に随伴した空母の戦闘機により要撃を受けた。青軍攻撃隊は、護衛の空母1隻を無力化したが、戦艦への戦果は減少するという判定になった。赤軍の戦艦は7割が残った。青軍は赤軍の空母への攻撃を優先することとした。戦艦部隊への攻撃隊を収容すると、空母機動部隊を南下させて、赤軍の空母に全力で航空攻撃を仕掛けた。
その結果、青軍の5隻の空母と赤軍の2隻の空母による正面からの戦いとなった。大方の予想通り、2隻の赤軍空母は艦載機の攻撃であっという間に無力化された。青軍の空母は1隻が被害を受けたが他は無傷という判定になった。
小倉少佐は自分の予測が当たって、自慢げに話し始めた。
「やっぱり、赤軍が兵力を分散したつけが回ってきたぞ。赤軍の空母はこれで半減だ。次は、残った艦隊も各個撃破されるぞ」
「それでも、空母部隊が時間を稼いでいる間に赤軍の戦艦部隊はどんどん前進していますよ。最初に航空攻撃を受けて戦艦の戦力は7割くらいに減少していますが、未だに有効な戦力を保っています。このまま前進を続ければ、戦艦どうしの海戦が生起する可能性がありますね」
「まあその時は、青軍には、まだ空母が残っているはずだから、南下した空母を北上させて空と海からの2面作戦で赤軍の戦艦部隊を攻め立てることになるだろう。私が赤軍の指揮官ならば、被害が拡大する前に戦艦部隊を退却させるぞ。さて、計算機はどんな判断をするのかね?」
中佐の想定に反して、計算機は赤軍の戦艦部隊をそのまま前進させた。青軍は領土に接近されては大きな脅威になるので、空母と戦艦の全力で攻撃を行った。青軍は既に偵察情報により、赤軍戦艦部隊の編制を把握していた。彼我の戦力は青軍が有利とわかった上で、繰り返し攻撃してきた。
「計算機は、何を考えているんだ? 主力部隊の一つの戦艦を全滅させるつもりなのか」
「どうやら、損害に耐えかねて退避するようですよ。赤軍の戦艦部隊は、損害を出しながら南東方向に戻る進路に方向転換しました」
「今更、遅いだろう。この期に及んで、青軍が追撃の手を緩める理由はないはずだ。このまま追いつめて、赤軍の戦艦を全滅させるぞ」
「赤軍の残りの空母部隊が、一旦、北側に迂回してから、その後は全速で南西方向に進んでいます。計算機の作戦がわかりました。遊軍となった最後の空母部隊を青軍の後方に回り込ませる作戦です。青軍は、この部隊の正確な位置はわかっていないはずです」
「なるほど、青軍から見れば、三番目の部隊の存在そのものが想定外かもしれないな。空母の速度を生かして、一気に後方に切り込んでゆくつもりだ」
戦いの結末は想定外だった。赤軍に無傷で残っていた空母部隊は、まもなく青軍の索敵機に発見されたが、東方に進んでいた青軍の主力が戻ってくる前に、青軍本土の根拠地を艦載機の攻撃範囲に収めた。空母2隻の全力攻撃を受けて、青軍の基地には大きな損害が発生したと判定された。
本土の基地を攻撃した後には、赤軍は青軍の追撃により被害を被りながらも全速で退避した。統監部の最終判定はまだ出ていないが、大きな損害を受けながらも作戦目的を達成した赤軍の勝ちは誰の目からも明らかだろう。
小倉少佐がぼそりと言った。
「想定外な結末だったな。もう少し人間の方が賢いのかと思っていたが、裏をかいたのは計算機だったとはね」
「意外なんかじゃないぞ。私は今回の演習で計算機の方が最終目的を達成するだろうと思っていた。計算機の能力を侮らない方がいいと思う」
振り返ると真田少将が立っていた。
「図上演習が決着したと聞いて、様子を見に来たが、計算機が勝ったのだな。筧君、計算機の勝利の理由は何か分析結果を教えてくれ」
いきなり私の意見を求められたので一瞬驚いたが、自分の考えを述べることにした。
「計算機にとっては、将棋も図上演習も同じです。将棋は、どれほど自分の駒をとられようと最後に王将を詰めれば勝ちになります。今回の演習でも自軍の艦艇にどれほど被害が発生しようとも、勝利条件を達成することが最優先です。人間のような損害を恐れて躊躇することはありません。勝つためのすじ道が計算した答に出てくれば、どれほど損害が多くてもその手をためらいなく採用しています」
「うむ、当然だが感情は一切関係なく計算に基づいた作戦を実行するというわけだな」
「今回の演習では、本土攻撃をした空母部隊以外は、全ておとりの扱いなのでしょう。我々人間は、これほど大規模な戦力を全ておとりにしてすり潰してしまうにはためらいがありますが、計算機にはそんな思いは皆無です」
計算機と人間が対戦する演習はその後も繰り返し実行された。3回目の演習からは、人間側が計算機の戦法の傾向を理解した。それからは、全て人間軍が勝てるようになった。軍令部としては、若手の参謀たちに、意外な作戦行動をする相手と対戦して経験を積ませるという目標は十分達成できたと判断した。
計算機課にも田口大佐から連絡があった。
「技研の協力に感謝します。今回の演習は大変興味深い結果でした。特に計算機が採用した作戦は、これからじっくりと検討することになるでしょう。参加した士官もとても良い経験になりました。これからも図演を行うことがあると思いますが、その時も支援をお願いします」
我々は計算機の作戦立案プログラムに単に勝つための条件だけでなく、自軍の被害をある程度は制限したうえで勝つための手順を導くような方法を検討をすることになった。少なくとも残存兵力が相手よりも大幅に少ない状態で、作戦目的を達成しても負けではないが、勝利ともみなさないような変更を考えることになった。
軍令部の課長訪問に対して、技研からは真田少将以下、望月少佐などの計算機開発課の技術者が出席した。座席に座ると、すぐに田口大佐が説明を始めた。
「さっそく要件について説明させていただきます。我々は、計算機を軍の図上演習に利用することを考えています。今日は、計算機技術者としての忌憚のない意見を聞かせていただきたい。小倉君、まずは我々が考えていることを説明してくれ」
彼らが持参した資料には、図上演習の進め方について記載されていた。まずは、戦いが始まる時の条件設定だ。
「ご存じだとは思いますが、図上演習を実施する時には、互いに戦う赤軍と青軍に分かれます。資料にもある様に、それ以外に統監部という部門が演習全体の管理・監督を行います。最初に戦場や兵力などの戦いの前提条件を統監部が赤軍、青軍に伝達します。もちろん相手の兵力や部隊の位置など、事前に知りえない敵方の情報は通知しません」
最初のページを説明すると、小倉少佐は我々の方を見回して質問がないことを確認した。確かに説明されなければ、技術者である我々はあまり知らないことだ。
「戦いが開始されてからは、赤と青それぞれが自軍の作戦行動を統監部に提出します。例えば、海戦であれば艦隊行動に対して、統監部が青軍、赤軍それぞれの位置を海図に記述します。次に、統監部は行動の結果を両軍に伝えます。互いの位置が接近した場合に、偵察行動を実行すれば、その結果、相手の艦隊を発見することもあり得ます。相手を発見して、接近してゆけば、戦闘可能な距離で戦いが生起します」
図上演習の説明は、統監部の役割についての解説に進んだ。
「統監部は、現状では『演習審判標準』に基づいていろいろな判定を行います。戦闘が開始されたら砲弾や爆弾の命中判定を行います。このために、『演習審判標準』には、距離や天候、砲の種類や爆弾種別により命中率がどのようになるかを示した表が記載されています。距離などの当該条件に加えて、サイコロを振ることで表中の特定の升目を選びます。サイコロを使うのは、乱数による偶然性の要素を命中か否かの判定に加えるためです」
真田少将が質問する。
「いろいろな条件に応じた判定用の表となると、多くの情報を詰め込んでいることになるだろう。しかも、距離の刻み幅等を細分化すれば表の情報は級数的に増えて実用性が失われるはずだ。逆に、情報を減らすために、粗い表にすれば誤差が生まれることになる。また、サイコロを使う限り乱数は大きな値ではないので、選択する候補はそれほど多くはできない。つまり、実用性を考えると、結構、判定がおおざっぱになってしまう可能性があるが、この認識であっているかね?」
「おっしゃる通りです。現状の判定法では精度に限界があります。しかも分厚い本を使って判定するために、結果が出るまでには時間を要することになります。言い換えれば、演習の時間を引き延ばす要素になっているともいえるでしょう。それも計算機により改善したいことです。資料の後半に我々が考えていることを記載しています」
小倉少佐の示した資料のページには、いくつかの山型の曲線のグラフが書かれていた。
「これは、確率分布のグラフです。全てを表の形にしなくとも、確率変数を求める計算式を使えば、かなりきめ細かく確率を計算できます。しかも、距離や気象などいろいろな条件に合わせて計算式の係数を変えれば、条件が代わったことに応じて変化する確率を求められます。しかも、計算機であれば、サイコロなど使わなくとも、数学的に広範囲の乱数を算出できるのでより厳密な計算が短時間で可能です」
私も軍令部のこの中佐が構想していることはよく理解できた。計算機を使えば、もっといろいろな利点が考えられるだろう。
「計算機は、プログラムにより演算を行うので、確率分布の計算式を変更することは容易です。実際の砲弾や爆弾の命中率と計算結果に差異がある場合には、誤差を減らすように数式や係数を修正することは、かなり短時間でできると思います。しかも彼我の損失の集計や、残存兵力計算もお手のものです。演習時の記録も磁気テープに全て記録しておいて、後で研究のために完全に再現することもできます。あるいは有益な演習を再現して、士官養成時の教材にするようなことも可能ですね」
田口大佐は、もともと計算機を活用するつもりで意見を聞きにきたが、否定的な見解がないことに安堵していた。しかも、想定以上にいろいろな利用法がありそうだ。
「心強い意見です。軍令部第一部では、図上演習専用の計算機を導入する予定です。もちろん、計算機を使うならば、現状で最も高性能な装置を導入するつもりです。ついては、厚かましいお願いですが、図上演習用の計算機の立ち上げについて、技研の専門家の支援をお願いしたい。演習時の総監部を計算機がかなり手助けすることになるが、そのためのプログラム開発も必要です。計算機技術者の助力をお願いしたいのです」
真田少将にとっては、計算機利用が拡大することは、望ましい方向だ。しかし、プログラムが作成できるような計算機の専門家はまだそれほど多くはない。そこまで考えて、軍令部には、既に計算機を活用している部門が存在していることに気づいた。
「計算機の机上演習への活用については、使えるようになるまでは技研も協力する。しかし、計算機の操作員や図演向けのプログラム作成要員はそちらで準備をお願いしたい。既に軍令部第三部は計算機を利用しているはずだ。『戦史分析』と言えばわかるだろう。第三部が、計算機操作とプログラムを作成できる人員の育成をしているはずなので、まずは軍令部内で融通するなり、計算機教育をお願いする」
「むろん、第三部が計算機を活用していることは知っています。計算機要員の育成も実施します。しかし、それでは時間がかかりすぎるのです。図演用の計算機プログラムの開発と使用が軌道に乗るまでは支援をお願いします」
真田少将は、仕方ないという顔をしながらも全て拒否はしなかった。但し、軌道に乗るまでという言葉は曲者だ。少将はプログラムの作成だけに話題を絞った。
「初期の図上演習用のプログラム作成については、雛形もないので技研側の技術者が協力しよう。しかし、計算機で確率計算をしてもそもそも計算式が間違っていては、結果は正しくない。現実の出来事を数式するためには、確率論に対する数学の専門家の協力が必要だろう。大学の数学科や学者から協力を得るように手配してほしい。当面は、『演習審判標準』に記載されている砲弾や爆弾、魚雷などの命中率の情報を使うことになるだろうが、計算機はもっと多くの情報を活用できる。追加する情報については、よく検討して決めてもらいたい。例えば、空戦時の撃墜率や、逆に爆撃時の被撃墜率なども演算式にできるならば計算可能だと思う」
田口大佐は、暗号分析を計算機で処理する場合に、数学者の協力が要請されたことを知っていた。そのため、今回も計算機を活用するためには、数学の専門家の参加が必要だろうと考えていた。それでも、第三部の「戦史研究」に比べれば、応用する数学は高度ではないだろう。
加えて、図演の有効性を高めるために、「演習審判標準」にとらわれることなく、判定内容も正確化して範囲ももっと広げたいとの思いは当然有していた。そのための各種の情報は、軍令部自身が保有しているはずだ。
「わかりました。我々の方で協力してもらえる数学者を探します。大学に協力を呼びかけることになるでしょう。審判の範囲の拡大については、軍令部と艦隊で訓練や演習時の各種の結果を保有していますので、整理して利用できるようにします」
……
昭和15年(1940年)11月から、図上演習に対して、計算機を利用するためのプログラム開発が始まった。技研からは、海野少尉以下の計算機課の技師が参加した。開発時には、小倉少佐自らが旗振り役になって、第三部第十課の要員も加わった。田口大佐が依頼した数学科の教授も2週間後には参加して、図上演習向けのプログラム開発が進んだ。
そもそも、確率分布の計算は航空機の空力計算やエンジンの燃焼の計算ほど、複雑な計算ではない。処理すべき情報量も暗号処理のように莫大ではない。そのために、2カ月もすれば、確からしい確率計算の答えが出せるようになった。砲弾や爆弾、魚雷の命中率の判定だけでなく、航空攻撃時に要撃戦闘機による攻撃隊の被害数の算定や戦闘機の空戦時の戦果と被害の集計もすぐに行えるようになった。偵察時に相手を発見できるか否かの計算や、天候や昼夜の違いによる戦果と被害の変化も算出できるようになった。
計算機が演習時の行動や状況の変化も含めて戦果と損害を全て記録するようになったために、演習終了後に任意の時間に戻って検討が行えるようになった。将棋で言えば、対戦が終了した後に、優劣が変化した時点に棋譜を戻して、その時の最善手を研究することに相当するだろう。
加えて、戦術の研究時に、複数の作戦案に対してそれぞれの比較結果を計算機が示すことも可能になった。例えば、軍事作戦として、甲案、乙案、丙案を示すと、各案に対しての友軍の損害や相手に対する戦果、領土や経済的な影響について算出できる。それぞれの結果を用いて、作戦案の比較評価を行うことが可能になった。
昭和15年(1940年)12月には、軍令部が増上寺の南側に芝支所として建設していたビルが完成した。1階と2階の大きな部屋は計算機室として、10台以上の大型計算機を収容可能な床面積を確保した。軍令部が専用に使用する計算機の用途は暗号と図上演習を含む戦術、戦略研究用途だ。芝支所の「軍令部大規模計算機施設」が建設当初の名称だったが、一般には「軍令部情報研究所」あるいは「情報研」と呼ばれるようになった。
私と、海野少尉は設置された試製「オモイカネ二型」の試験調整の名目で軍令部情報研究所を幾度も訪れていた。計算機を構成する演算部そのものや周辺機器については、民間会社で試験を行って納入してくるので、特に問題は発生しない。しかし、計算機プログラムについては、暗号も演習も軍事専門であり、守秘の必要性から民間には開示せず軍の技術者だけで開発していた。我々も軍属の一員になるので、設置された計算機の調整を行っていたのだ。
このところ、海野少尉は引っ張りだこだったが、とにかくプログラム作成に関しては短時間で要求された機能を開発することで仕事をこなしていた。この頃になると、プログラムの生産性については、とんでもなく大きな個人差があることがわかってきた。当初は習熟度の違いが原因だと考えていたが、それだけではなく、そもそも個人に適性があることがわかってきた。その観点からは、海野少尉はプログラムへの適性がかなりあったことになる。
「『情報研』は、陸軍の登戸にも負けないような近代的な計算機専用施設になりましたね」
「やはり、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるべきだということだ。計算機本体や端末機器を無理なく配置できる。しかも当初から、強力な冷房機を備えているので、部屋の温度が、計算機により高温になることも避けられる」
「ええ、我々も計算機の設置に関してはいろいろ経験を積んできたので、その知見を全て生かしました。軍用ということで、民間にお披露目できないのが残念です」
もう一つ情報研究所には新しい装置が設置された。当時、陸軍と共同開発中だった計算機間あるいは計算機と端末装置間の通信装置を早くも情報研に設置した。通信回線を経由して遠隔地に2進数で表現された用途別の情報塊(ファイル)や計算機自身への操作と応答(コマンドとレスポンス)を伝送する情報通信装置だ。
まだ試験中の通信装置を設置したのは、人の移動を少なくするためだ。軍令部の情報研究所と技研の目黒の計算機棟を接続することで、わざわざ技術者が芝まで出向かなくても、勤務地の目黒から、計算機のプログラムの検証や計算機自身の操作が行えるようになった。
……
計算機課長の望月少佐は、最近使えるようになったばかりのブラウン管を備えた新型端末に表示された計算結果に見入っていた。彼が電動タイプライターから2九歩を示す命令を入力すると、表示管に29フと表示された。時間を空けずに69カクと表示が追加された。
少佐は、それを見て小さく叫んだ。
「えっ、こんな手があったのか。これは読みに入っていなかったな」
我々は目黒の研究所にいるのだが、この端末は通信回線を経由して情報研究所に接続していた。回線を利用して芝の計算機と将棋をしていたのだ。少佐は、電子管表示器の横に置いた将棋盤の駒を6九角に進める。彼はしばらく盤面を見ていたが、やがてブラウン管の表示部に向かって静かに頭を下げた。
「まいりました」
私は、人間対機械の勝負を後ろから見ていた。
「軍令部の技師が改良したこのプログラムは、確か将棋6版のはずです。改版が進むたびに、どんどん強くなっていますね。私が指しても、全く勝てそうに思いません。特に計算機は、定石にないような手で指してくるのがすごいですね」
「まあ、その割に中盤では時々意味不明のような手を指すこともあるが、本職の棋士でもなければ、軽くひねられる程度の実力になったな」
そもそも我々が作成していたのは、演習で人間の相手ができる自動対応プログラムだ。相手の作戦行動に対応して、こちらが勝てるような最善手を示すことを目標としていた。その過程で、将棋のプログラムを開発して、計算機自身に最善手を見つけ出させる方法を研究していたのだ。但し、ブラウン管の表示器を使っても将棋盤の図形そのものは、まだ表示できない。そのため、実際の盤面がどのようになっているのかを、対戦している人間が全体を理解するために横に将棋盤を置く必要があった。それでも、私は1年もしないうちにブラウン管の画面に将棋や囲碁の盤面を表示できるだろうと確信していた。
……
昭和16年(1941年)8月になって、太平洋の戦いを念頭にした本格的な図上演習が開催されることになった。もちろん、計算機を積極的に使用した演習だ。そのため、田口大佐と小倉少佐から、望月少佐はじめ計算機課員に対して演習内容について説明があった。実際に利用する計算機は既に大幅に性能を向上した「オモイカネ三型」に進化していた。
「今回の演習は、約1カ月をかけて図上演習による作戦の研究を行う。仮想敵国は太平洋の向こうの国だ。演習は1回だけでなく、彼我の兵力を変えたり、戦闘開始時間や開戦時の場所を変えて、様々な条件で行う予定となっている。計算機を積極的に活用してゆくつもりなので、万が一の不具合に備えて、計算機課においては待機をお願いしたい」
「もちろん協力は惜しみません。但し、現状においては、図上演習の用途では、プログラムも含めて計算機に関係する不具合はほぼ発生していません。しかも、情報研究所の計算機と我々が勤務する目黒は計算機による情報通信が可能な回線が何重にも接続しています。そのおかげで、我々は通常の勤務をしていても軍令部の計算機の状態を回線経由で知ることができます。ちょっとしたプログラムの修正程度ならば、わざわざ出かけて行かなくても、遠隔で更新が可能です。当面の間は、目黒にある技研の計算機課から状況を確認するということにさせてください」
「わかりました。そうであれば、我々が技研との連絡を密にするために、演習の期間中は、小倉少佐が技研計算機課に常駐することにさせてほしい。彼も計算機の技術者と一緒にいた方が得るものがあるだろう」
翌週から対米作戦を想定した図上演習が開始された。初回の演習は、日本軍の位置づけの青軍に対して、米軍に相当する赤軍が侵攻して来るのを太平洋上で迎え撃つという想定だった。青軍は背後の本土を守りつつ赤軍を撃退すれば、勝ちになる。逆に青軍背後の本土を攻撃できれば、赤軍の勝ちだ。青軍は主に連合艦隊の各部隊からやってきた参謀たちが指揮することになっていた。一方、侵攻してくる赤軍の役割は軍令部の佐官級が担うことになっていた。
実際の演習では、戦闘の推移とともに、双方の艦隊が徐々に消耗して行く接戦となった。青軍も赤軍もそれほど大きな戦力差がない状況で演習しているのだから、無理もない。やがて、赤軍の被害が蓄積していってついに作戦目的を果たせないと判断した赤軍指揮官が、西方に退却するという決断をした。この時点で青軍にもかなり損害が発生していたが、青軍の防衛戦闘は何とか成功するという結果で終わった。
幸いにも小倉少佐が、我々にもわかる様に演習の推移を説明してくれた。
「この戦いの推移は、軍令部で当初から想定していた内容に近い。戦力にあまり差がないならば、どちらかの軍が作戦で失敗をしない限り、接戦になるはずだ。今回は本土の近くで防衛するという地の利を行かせた青軍が最終的に優勢になったということだ」
二回目の模擬戦闘では、条件を変えて赤軍の指揮を計算機が行うことになった。
「戦闘開始時の条件は最初の演習時と同じだ。計算機に赤軍を指揮させる目的は、単に計算機の対戦能力を試そういうわけではない。計算機自身に作戦を立案させることで、通常の軍人では想定しないような打ち手を明らかにすることを考えている。たとえ、突拍子もない作戦案を計算機が提示しても、そのまま総監部に伝えてほしい」
もちろん、我々は技術者として計算機の能力を試してみたいと思っていたので、願ったりかなったりだ。
通信回線がつながっているおかげで、軍令部の計算機の出力はそのまま見ることができる。演習中は軍令部の小倉少佐と私が定期的に計算機の動きを確認していた。何か異常があれば、計算機課に通知することになっている。
「どうやら赤軍は、自軍を3つに分けて侵攻する作戦のようですね。戦艦を主体にして護衛の空母1隻を配置した砲撃主体の部隊と、残りの空母を等分して2つの高速の機動部隊の構成にしました」
「戦艦と空母を船足に応じて分けるのは理解できるが、空母の部隊を2分したのは戦力の集中原則には反するな。空母の数が多いのならばあり得るが、4隻の空母ならば2分はしないだろう」
計算機は、戦艦部隊をどんどん前進させた。青軍は突出した赤軍の戦艦部隊を索敵機で発見すると、主力部隊だと認定して、艦載機で遠距離から攻撃した。続いて、赤軍も偵察機により青軍の艦隊を探知すると、南方に迂回させた空母機動部隊が艦載機による攻撃を仕掛けた。青軍の主力部隊からやや離れた位置に配備した艦が、接近してくる赤軍の航空機による攻撃隊を探知した。
「艦隊から距離をとって、警戒のために哨戒艦を配備するという青軍の作戦がうまくいったようだな。これで航空攻撃は強襲になる。青軍は守備のための時間を稼ぐことができた」
強襲が前提になったために、攻撃隊が受ける損害は増えて、青軍の艦に与える被害は減ることになった。青軍の赤軍の戦艦部隊への攻撃隊は、戦艦に随伴した空母の戦闘機により要撃を受けた。青軍攻撃隊は、護衛の空母1隻を無力化したが、戦艦への戦果は減少するという判定になった。赤軍の戦艦は7割が残った。青軍は赤軍の空母への攻撃を優先することとした。戦艦部隊への攻撃隊を収容すると、空母機動部隊を南下させて、赤軍の空母に全力で航空攻撃を仕掛けた。
その結果、青軍の5隻の空母と赤軍の2隻の空母による正面からの戦いとなった。大方の予想通り、2隻の赤軍空母は艦載機の攻撃であっという間に無力化された。青軍の空母は1隻が被害を受けたが他は無傷という判定になった。
小倉少佐は自分の予測が当たって、自慢げに話し始めた。
「やっぱり、赤軍が兵力を分散したつけが回ってきたぞ。赤軍の空母はこれで半減だ。次は、残った艦隊も各個撃破されるぞ」
「それでも、空母部隊が時間を稼いでいる間に赤軍の戦艦部隊はどんどん前進していますよ。最初に航空攻撃を受けて戦艦の戦力は7割くらいに減少していますが、未だに有効な戦力を保っています。このまま前進を続ければ、戦艦どうしの海戦が生起する可能性がありますね」
「まあその時は、青軍には、まだ空母が残っているはずだから、南下した空母を北上させて空と海からの2面作戦で赤軍の戦艦部隊を攻め立てることになるだろう。私が赤軍の指揮官ならば、被害が拡大する前に戦艦部隊を退却させるぞ。さて、計算機はどんな判断をするのかね?」
中佐の想定に反して、計算機は赤軍の戦艦部隊をそのまま前進させた。青軍は領土に接近されては大きな脅威になるので、空母と戦艦の全力で攻撃を行った。青軍は既に偵察情報により、赤軍戦艦部隊の編制を把握していた。彼我の戦力は青軍が有利とわかった上で、繰り返し攻撃してきた。
「計算機は、何を考えているんだ? 主力部隊の一つの戦艦を全滅させるつもりなのか」
「どうやら、損害に耐えかねて退避するようですよ。赤軍の戦艦部隊は、損害を出しながら南東方向に戻る進路に方向転換しました」
「今更、遅いだろう。この期に及んで、青軍が追撃の手を緩める理由はないはずだ。このまま追いつめて、赤軍の戦艦を全滅させるぞ」
「赤軍の残りの空母部隊が、一旦、北側に迂回してから、その後は全速で南西方向に進んでいます。計算機の作戦がわかりました。遊軍となった最後の空母部隊を青軍の後方に回り込ませる作戦です。青軍は、この部隊の正確な位置はわかっていないはずです」
「なるほど、青軍から見れば、三番目の部隊の存在そのものが想定外かもしれないな。空母の速度を生かして、一気に後方に切り込んでゆくつもりだ」
戦いの結末は想定外だった。赤軍に無傷で残っていた空母部隊は、まもなく青軍の索敵機に発見されたが、東方に進んでいた青軍の主力が戻ってくる前に、青軍本土の根拠地を艦載機の攻撃範囲に収めた。空母2隻の全力攻撃を受けて、青軍の基地には大きな損害が発生したと判定された。
本土の基地を攻撃した後には、赤軍は青軍の追撃により被害を被りながらも全速で退避した。統監部の最終判定はまだ出ていないが、大きな損害を受けながらも作戦目的を達成した赤軍の勝ちは誰の目からも明らかだろう。
小倉少佐がぼそりと言った。
「想定外な結末だったな。もう少し人間の方が賢いのかと思っていたが、裏をかいたのは計算機だったとはね」
「意外なんかじゃないぞ。私は今回の演習で計算機の方が最終目的を達成するだろうと思っていた。計算機の能力を侮らない方がいいと思う」
振り返ると真田少将が立っていた。
「図上演習が決着したと聞いて、様子を見に来たが、計算機が勝ったのだな。筧君、計算機の勝利の理由は何か分析結果を教えてくれ」
いきなり私の意見を求められたので一瞬驚いたが、自分の考えを述べることにした。
「計算機にとっては、将棋も図上演習も同じです。将棋は、どれほど自分の駒をとられようと最後に王将を詰めれば勝ちになります。今回の演習でも自軍の艦艇にどれほど被害が発生しようとも、勝利条件を達成することが最優先です。人間のような損害を恐れて躊躇することはありません。勝つためのすじ道が計算した答に出てくれば、どれほど損害が多くてもその手をためらいなく採用しています」
「うむ、当然だが感情は一切関係なく計算に基づいた作戦を実行するというわけだな」
「今回の演習では、本土攻撃をした空母部隊以外は、全ておとりの扱いなのでしょう。我々人間は、これほど大規模な戦力を全ておとりにしてすり潰してしまうにはためらいがありますが、計算機にはそんな思いは皆無です」
計算機と人間が対戦する演習はその後も繰り返し実行された。3回目の演習からは、人間側が計算機の戦法の傾向を理解した。それからは、全て人間軍が勝てるようになった。軍令部としては、若手の参謀たちに、意外な作戦行動をする相手と対戦して経験を積ませるという目標は十分達成できたと判断した。
計算機課にも田口大佐から連絡があった。
「技研の協力に感謝します。今回の演習は大変興味深い結果でした。特に計算機が採用した作戦は、これからじっくりと検討することになるでしょう。参加した士官もとても良い経験になりました。これからも図演を行うことがあると思いますが、その時も支援をお願いします」
我々は計算機の作戦立案プログラムに単に勝つための条件だけでなく、自軍の被害をある程度は制限したうえで勝つための手順を導くような方法を検討をすることになった。少なくとも残存兵力が相手よりも大幅に少ない状態で、作戦目的を達成しても負けではないが、勝利ともみなさないような変更を考えることになった。
61
あなたにおすすめの小説
藤本喜久雄の海軍
ypaaaaaaa
歴史・時代
海軍の至宝とも言われた藤本喜久雄造船官。彼は斬新的かつ革新的な技術を積極的に取り入れ、ダメージコントロールなどに関しては当時の造船官の中で最も優れていた。そんな藤本は早くして脳溢血で亡くなってしまったが、もし”亡くなっていなければ”日本海軍はどうなっていたのだろうか。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年中盤まで執筆
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
戦神の星・武神の翼 ~ もしも日本に2000馬力エンジンが最初からあったなら
もろこし
歴史・時代
架空戦記ファンが一生に一度は思うこと。
『もし日本に最初から2000馬力エンジンがあったなら……』
よろしい。ならば作りましょう!
史実では中途半端な馬力だった『火星エンジン』を太平洋戦争前に2000馬力エンジンとして登場させます。そのために達成すべき課題を一つ一つ潰していく開発ストーリーをお送りします。
そして火星エンジンと言えば、皆さんもうお分かりですね。はい『一式陸攻』の運命も大きく変わります。
しかも史実より遙かに強力になって、さらに1年早く登場します。それは戦争そのものにも大きな影響を与えていきます。
え?火星エンジンなら『雷電』だろうって?そんなヒコーキ知りませんw
お楽しみください。
札束艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
生まれついての勝負師。
あるいは、根っからのギャンブラー。
札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。
時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。
そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。
亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。
戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。
マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。
マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。
高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。
科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
超量産艦隊
ypaaaaaaa
歴史・時代
海軍内では八八艦隊の議論が熱を帯びていた頃、ある一人の天才によって地味ではあるが大きく日本の未来を変えるシステムが考案された。そのシステムとは、軍艦を一種の”箱”と捉えそこに何を詰めるかによって艦種を変えるという物である。海軍首脳部は直ちにこのシステムの有用性を認め次から建造される軍艦からこのシステムを導入することとした。
そうして、日本海軍は他国を圧倒する量産性を確保し戦雲渦巻く世界に漕ぎ出していく…
こういうの書く予定がある…程度に考えてもらうと幸いです!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる