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第6章 戦いの始まり
6.1章 大統領の決断
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1941年1月のある日、ホワイトハウスで最近のアジアに関する情勢の分析が行われていた。報告事項の一つが、日本の貿易だった。
ルーズベルト大統領は、各省からの情報を補佐官がまとめた書類を30分以上かけて読んでいた。やがて、ゆっくりと顔を上げると、執務机の前に座って待っていたハル国務長官に話しかけた。
「この報告書からは、日本が行ってきた東南アジアやインドの独立運動に関連する組織との取り引きが近年になって増加してきていると読める。日本は好ましくない組織でも金さえ払えば、かまわず商売をしているということか」
「はい、日本の貿易相手には、植民地の宗主国とは決定的に方針が合わない一派も含まれています。穏やかでない組織のなかには、将来において植民地からの独立とアジア人による自治を目指すのではないかと想定される集団も含まれています。今のペースで独立や反乱組織との間の貿易が増加すれば、間接的に内乱を助長することになるのではないかと懸念しています」
「フィリピン・コモンウェルス(フィリピン暫定政府)のケソン大統領が突然、我々の意向に逆らって、とんでもないことを言い出したのも日本人の貿易が関連しているということかね?」
もともとフィリピン独立準備政府の設立時にフィリピンの独立は1946年7月とすることで、アメリカとの合意がなされていた。それをケソン大統領が前倒し要求して、さ来年にもフィリピンを独立させよ、と一方的に要求してきたのだ。もちろん、現状認められているアメリカのフィリピンに対する領有権も全て解消することも要求に含まれている。
フィリピンの国内状況ならば戦略情報室(OSS)の活動に関係している。ルーズベルトが信頼している人物の一人であるドノバン局長が大統領の疑問に答えた。
「ケソン大統領に対して、日本人が武器も含めて様々な物資を輸出しているのは間違いありません。我が国が彼らに対して、種類と量を制限して取り引きをしているのに比べて、日本は物資の種類も制限しないで、安い価格で売っているのです。我が国への依存度が年々減少しても日本の輸出品が支えていることが、ケソンたちが強気な発言をしてくる背景です。それだけではありません、インドのチャンドラ・ボース、仏印のホー・チ・ミン、ビルマのバー・モウなど複数の活動家に対しても同じように、金さえ払えば武器や様々な機器を売っているめに、彼らの影響力もどんどん強くなっています」
「それらの組織が、日本に対して支払う金はどこから出てくるのかね? さすがに資金がなければ、日本との取り引きは続かないだろう」
「現地人が鉱物資源や石油、農作物、ゴムなどの東南アジアで産出する資源を横流しすることにより、資金を得ています。これらの資源を正規の貿易ルートよりも格安で購入できるので、日本にとってもメリットがあるのです」
「安価で資源を入手することが本当の理由なのか? こんなことを続ければ、日本人も欧米の国家間で軋轢が生まれることくらい承知しているはずだ」
これには、ハル国務長官が答えた。
「かなり大胆な推定ですが、東南アジアで産する石油や鉱物、ゴムなどの資源をまとめて自国の手の内にするつもりではないかと考えます。将来、現地人の組織が国家として独立することになれば、助力した日本人を無視できません。日本との貿易を優先することになるでしょう。日本の行動の裏には打算があると考えないと、辻褄が合いません。もちろん、独立など、ほとんどの場合失敗するでしょう。それでも騒乱が起これば武器の需要は飛躍的に増えます。日本の貿易品目の中に兵器が含まれていることを忘れないでください」
大統領が机の上に書類をたたくように置いた。音を立てて周りの注意をひくためだ。
「日本に対して、勝手気ままな貿易を慎むように強く要求する。我々が許可できない相手への日本からの輸出は禁止しなければならない。特に武器の輸出を制限すべきだ。容認できない相手や組織とは、先ほどOSS局長が説明したような一派だ。それにドイツとイタリアなどの枢軸国も禁止対象に加えてくれ。我々に敵対している国家だからな。従わない場合は、我が国は日本への全面禁輸措置を講ずる」
ハル長官が付け加えた。
「この件ではチャーチル首相もかなり怒っています。英国もインドとマレー半島を中心として、アジアには我々以上に大きな権益を有していますので、絶対に座視できないとのことです」
「よかろう。日本に発するメッセージが出来上がったら、チャーチルにも伝えることとする。英国も我々と足並みをそろえるだろう。まあ、それでも日本よりもヨーロッパの戦いの方が問題だ」
ルーズベルトは、自分の意思を示した後は、日本のことについては頭の隅にしまっておいた。ヨーロッパで始まった戦争への合衆国としての対応が決まっていなかったのだ。大西洋の向こうの出来事には、直接干渉しないという答えもあるが、それはルーズペルトが全く望まない方針だった。
……
ルーズベルト大統領の最優先の心配事ではなかったが、彼の指示は直ちに実行に移された。1941年(昭和16年)2月には日本に大統領の書簡が送付された。しかし、アメリカからの通告くらいで日本も簡単に言うことを聞くことはできない。
広田外務大臣が総理に面談にやってきた。
「アメリカ合衆国とイギリスから強い口調の警告が入っています。このまま、日本が彼らが望んでいない相手との貿易を続けるならば、全面的に貿易を停止するとまで言っています」
近衛総理は、一瞬大きく目を見開いた。広田外相は表情の変化を見て、総理がうろたえていることがわかったが、もちろん口には出さない。
「私は、我が国が決して悪いことをしているとは思っていないぞ。正当な対価を受け取って、商業取り引きをしているだけだ。植民地の宗主国が自分の利益のためだけに、アジアの人々から搾取していることこそ不当な行為だ」
首相は一気に話してから、しばらく考えを落ち着かせてから口を開いた。
「そうは言っても、アメリカやイギリスとは、これ以上関係を悪くしたくはない。欧米の怒りを鎮めるためには、これから我が国はどうしたらいいのだろうか?」
広田大臣は言わんこっちゃないとあきれていた。もともと日本は貿易を拡大するために、金払いがいいならば身元が怪しい相手ともかまわず商売をしてきた。後先も見ずにそんなことをすれば、他国の恨みを買うのは当然だ。総理大臣は、そんな想定通りの事態になって慌てているのだ。
「近衛さん、今更手遅れです。今の世界は連合国と枢軸国に二分されつつあります。欧州では戦いが始まっているのです。この期に及んでは、腹を決めて交渉するしかないですよ。それとも今までの行動を全て悔い改めて、アメリカやイギリスの言いなりになりますか?」
「い、いや、それはまずい。我が国が他国の言いなりになるなど、あってはならない……」
黙ってしまった総理大臣に外務大臣がたたみかけた。
「そうであるならば、ルーズベルト大統領とチャーチル首相には、拒絶の回答をすべきです。我が国は、今までは他国には正面から逆らわずにやってきましたが、今回は従順な態度を変えましょう。欧州での戦争により、我が国よりも余裕がないのは米国と英国なのです。我が国がノーと言えば、アメリカもイギリスも強くは要求せずに引き下がるはずです」
「しかし、拒否はするが、あくまで穏やかに意思表示するということでお願いする。自ら望んで敵を作りたくはない」
……
ルーズベルト大統領が心の中でひそかに望んでいた合衆国のヨーロッパの戦いへの参戦については、思わぬところから事態が進んだ。
発端は、1941年2月のドイツ空軍によって行われたロンドンへの夜間空襲だった。ロンドン市街に降り注いだ爆弾の一部が、在ロンドンのアメリカ大使館の敷地内に着弾した。不運なことにそのうちの1発が、大使館の防空壕を直撃した。おかげで、アメリカ人の大使館員が多く犠牲となった。犠牲者の中には、イギリス駐在のアメリカ大使の名も含まれていた。
アメリカの新聞社は、ドイツ軍の爆撃により自国大使を含む犠牲者が発生したことを大きく報道した。それと共に、ほかにもヨーロッパでの戦闘に巻き込まれて被害を受けた合衆国民を調べ始めた。調査をしてみると、イギリス本国だけでなく、フランス、ベルギー、オランダなど各国でアメリカ国民の死傷者や行方不明者が存在していることがわかった。民間人として欧州に渡っていた合衆国民は、既に多くが戦争に巻き込まれていたのだ。ドイツ軍が支配域を広げたために、正確な犠牲者数は不明だったが、決して無視していい人数でない。
ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストがアメリカ人の犠牲者について、大々的に報道を始めた。欧州での被害者には新聞社の特派員も含まれていたので、各社の論調はヨーロッパの紛争国在住のアメリカ国民をすぐにも保護すべきとの厳しい論調になった。
新聞紙が合衆国民をあおっていることは議員たちも知っていたが、連邦議会も国民の声を無視できなくなった。議会でも参戦を訴える議員の数は急激に増えていった。ルーズベルトは、アメリカは海外の戦争に参加しないということを大統領選での公約にしていた。
ところが本音では、欧州の戦いをこのまま座視せず、合衆国はドイツを中心とした枢軸国と戦うべきだと考えていた。枢軸国が欧州を支配する世界など、悪夢以外の何ものでもない。大統領は、まずは与党議員を動かして、イギリスやフランス、ソ連などの連合国に武器を中心とする物資の提供を認める法律を成立させた。連合国として武器貸与を行うレンドリース法の後ろ盾を得て、大西洋を越えて膨大な量の軍需物資の提供を始めた。
次の段階として、大統領はアメリカが直接戦争に参加することを画策した。1941年11月の議会で、ルーズベルトは実質的にヨーロッパの戦争に参加することを宣言する演説を行った。
「ドイツが仕掛けた戦争により、我が国の国民に多数の犠牲者が発生しているのです。欧州の戦争はすでに、対岸の火事ではありません。我が国の軍を派遣して、欧州であろうと、母国のためにそこに滞在している合衆国民を守ることこそ、直ちにとるべき行動ではありませんか」
本来は、危険地域にいる合衆国民を引き上げさせれば良いのだが、そんな意見は忘れ去られていた。大統領の演説後、下院議会は「合衆国国民の保護を目的として」という但し書きをつけて、ヨーロッパの戦いに合衆国が参戦することを認めると決議した。
……
チャーチル首相にとってアメリカ合衆国の参戦の決断は、もちろん手放しで喜ぶべきことだった。アメリカがヨーロッパでイギリスと共に戦ってくれれば、戦局は大いに有利になる。これで、イギリスは救われたと思った。
「我が国も一息入れることができる。残ったのは日本との関係だな。外務大臣、何か意見はあるかね?」
名指しされた、外相のイーデンは自説を披露した。
「このところの日本の対外的な活動は、明確に我々やアメリカの足を引っ張っています。逆にドイツとの貿易は中止していません。大西洋の封鎖を突破したドイツの輸送船の荷物には日本からの物資が含まれています。すぐにも、ドイツとの交易を停止させなければなりません。しかし、日本への圧力はあくまで経済的な制裁と外交的な手段に留めるべきだと考えます。太平洋で第二の戦線を開いて戦力を分散することには、全く賛成できません」
チャーチルの口元が緩んだ。自らが期待していた意見だったからだ。
「私も同じ意見だ。我が国もアメリカも戦力はヨーロッパでの枢軸国との戦いに集中しなければならない。日本への圧力については、武力以外の手段でよい。まあ、ドイツとの戦いで勝利が見えてきたら、直接的な実力行使もありえるがね」
「我々の武力は望まないという意見をルーズベルトに伝えますか? アメリカが太平洋でいきなり戦争を始める可能性は、全くないとは思いますが」
「いや、そんなことをすればアメリカから日本への圧力が減少する可能性がある。むしろ、我々が非常に腹を立てていると思わせておこう。君から、アメリカの国務長官に日本は許せないという我が国の意思を伝えてくれ」
……
チャーチル首相とは全く別の考えを持つ男がいた。ソ連共産党書記長のスターリンだ。彼は、アメリカがヨーロッパと日本の双方で戦うことを望んだ。
「アメリカの国力は巨大だ。ヨーロッパへの派兵に加えて、日本と戦っても負けることはない。ドイツとの戦いに終わりが見えれば、我々は太平洋の戦いを始めるつもりだ。その時、アメリカと日本が戦ってお互いが消耗していれば、千島から、北海道へと南下して日本の領土を我が国に併合することは可能であろう。アメリカが疲弊していれば、我が国への口出しも弱くなるに違いない。日本へとソ連の領土拡大が実現できれば、冬でも凍結しない太平洋への広大な出入り口がひらけることになるぞ」
モロトフ外相は、自分の国がドイツに攻撃されてモスクワに敵軍が迫っている状況で、平然とドイツとの戦いの後のことを言ってのけるこの男の精神に驚愕していた。しかし、反論することなど許されない。しかも書記長の言葉に影響されたのか、アメリカが日本と戦っても、武器の供給さえ保証してくれれば、ソ連の領土内の戦いへの影響は少ないと思えてきた。将来、領土が増えることになれば、もちろんそれに異論はない。
「書記長の意見に全く同意します。アメリカ大陸のわが同胞に同志からの命令を伝えます。アメリカが日本に対して開戦するように、ルーズベルト政権内でうまく工作してくれるはずです。まずは、ドイツと日本の間に密約が存在することをでっちあげます。次に、日本がアジアに対して、領土拡大の野心を持っているという噂をアメリカ内閣の中に広げれば、アメリカが開戦するための条件が整うことになるでしょう」
モロトフ外相の指示は、ワシントンの財務次官補のホワイトと大統領補佐官のカリーに伝えられた。彼らは、活動目標をホワイトハウス及び、国務長官、新聞社に決めた。ホワイトハウス内では大統領補佐官の立場を利用すれば、いろいろな活動ができる。完全に文書をでっちあげるようなことは難しいが、日本が不利になったり、日本を誤解させたりするような文言の修正や文章の追加は可能だ。しかも、国務省内と新聞社で活動する同胞にも口裏を合わせて、報告書や報道内容にも同様の方向づけを行った。
……
日本政府は、昭和16年(1941年)8月になって、外務大臣広田弘毅の名前で、「合衆国及び日本国間協定への覚書」を米国に提示した。後になって「ヒロタノート」と呼ばれることになったこの文書では、フィリピンやマレー半島、インドシナにおける日本の貿易に干渉する権利はアメリカにもイギリスにもないことを、日本らしい婉曲的な表現で主張していた。同時に、米、英、仏、蘭の植民地政府にはもっと現地人の参画を認めて欲しいとの要望も含んでいた。もちろん、アメリカだけでなくイギリスに対してもほぼ同様の内容を回答した。
日本から「ヒロタノート」が提示されると、日本の思惑について分析官からのレポートが上がってきた。大統領の手に渡る前に、スターリンの思惑で動いている人物がその報告書に若干の脚色を加えた。
大統領は「ヒロタノート」自身は冷静に読んでいた。しかし、国務省からの分析報告を読んでからは激怒した。日本の領土拡大の意思と裏での植民地への独立支援が分析結果に含まれていたからだ。表面ではアメリカの要求を拒絶すると共に、アメリカやイギリスからのアジア植民地の独立を裏で画策している日本の態度が全く許せなかった。ルーズベルトは自らの怒りが、ソ連の思惑で動いている人物に誘導された結果だとは気がつかなかった。
それでも、大統領は自分の印象が事実かどうか客観的に確かめようとした。
「東南アジア地域における日本人の活動の裏にあることをもう一度確かめてくれ。彼らはどんな思惑で貿易をしているのか本当の理由を探ってくれ。それと日本が領土を今以上に広げる意思があるのかどうかも事実を知りたい。アジアの人民を植民地から解放するなんて理屈は信じないぞ。日本にとって、どんな利点があるのか本音を探るのだ」
しばらくして、ハル国務長官が収集した情報を説明にやってきた。国務長官は、ソ連の息がかかったホワイト次官補が、国務省の同志に書類の修正を行わせたことを知らない。
「私のところにいくつかの報告書が上がってきました。物資の流れですが、ドイツは日本から封鎖破りの輸送船で今でも物資を輸入しています。戦争が始まっても日本はドイツとの貿易を停止していません。ドイツと日本の間に秘密の協力関係があるとの情報は確かなようです」
「しかし、日本はドイツとの間に同盟関係ないだろう。ヒトラーからの三国同盟への誘いは、日本が受け入れなかったはずだ」
「それは軍事同盟が成立しなかったということですね。三国同盟が表向きでは不成立でも、国と国の関係にはいろいろな形があり得ます。日本とドイツが2国間で秘密の条約を結んでいても、不思議ではありません」
OSSのドノバン局長も自分が得た情報を説明した。
「我々の組織の調査によると、日本は過去数年間で、エンジン、電子機器、航空機などの技術や、完成品をドイツから輸入しています。その代わりにドイツが欲する非鉄金属や鉱物資源を輸出しています。ドイツとの密接な関係は貿易や技術ライセンスの購入からも裏付けられます」
再びハル長官が説明を引き継ぐ。
「日本の行動は明らかにドイツ寄りです。明示的な同盟ではなくてもそれに等しい態度をとり続けるならば、実質的には密約があると考えてよいと思います。そうであれば、日本と戦う理由は成立しているのです。我々は、ドイツと戦争を始めました。既に、ドイツと密約を交わしている日本とも交戦状態となっても良いと考えます」
「ドイツとの関係については理解した。アジアにおける日本の活動はどう解釈するのだ?」
ハル長官が手元の資料を見ながらアジアにおける日本の行動の分析について説明を始めた。
「東南アジアやインドでの日本人の活動は、まずはこれらの地域の資源を安価に手に入れるためというのは以前の分析と変わりません。将来的には、日本の領土を拡大すべく活動しているとの情報もあります。フランス領インドシナやオランダ領東インド、フィリピンが日本が侵攻する候補と言えるでしょう。更に、オーストラリアの信託統治になっているマリアナやマーシャル、カロリンなどの太平洋中部の諸島にも触手を伸ばそうとする思惑があるようです。我々は、この噂がどこまで真実なのか確認できていませんが、現状の日本の行動を見る限り、十分にあり得ることだと考えています」
「それが事実とすれば、とんでもないぞ。我が国が日本と戦端を開くのに十分な根拠になる。しかし、それでも議会の後押しがない限り、日本と戦端を開くことはできない。議会対策は可能なのか?」
カリー大統領補佐官が、書類を持ってきた。
「日本とドイツの秘密条約の存在をマスコミにリークします。それに加えて、日本がアジアに対して触手を伸ばして、実質的にこれらの国を支配しようとの思惑を有しているとの論説を著名人に語ってもらいます。政府のいうことを聞いてくれる有名人はいくらでもいますからね。若干、誇張はありますが偽りではないでしょう。世論を動かすのは多少時間がかかるかもしれませんが、大統領が望む方向になりますよ。チャーチル首相もその方向を望んでおられるはずです」
「いいだろう。君たちの計画を進めてくれ。私も同意していると思ってもらってかまわない」
……
大統領補佐官が期待した通り、アメリカ国民の世論は次第に日本への批判が強くなっていった。それを後追いするように、議会でも日本を非難する発言が増えていった。ルーズベルト政権の貿易制裁はまだ不十分なので、日本に対しては、もっと厳しい対応をすべきだとの意見だ。
しかし、1941年(昭和16年)の暮れまではアメリカといえども、ヨーロッパの戦いに注力せざるを得なかった。ソ連領土に侵攻したドイツ軍は、ソ連軍を圧倒してモスクワへと迫っていた。北アフリカではロンメルが暴れていたのだ。やがて冬将軍が訪れると、ドイツ軍の進撃は停止した。
ルーズベルトにとっては、ドイツ軍のソ連への侵攻が停止したことが日本への対応を行うチャンスだと映った。
極秘で始めた議会への根回しも成果が出てきた。1942年(昭和17年)が明けると、日本に直接的な懲罰を行うべきとの考えがアメリカ議会でも多数派になっていた。
1942年(昭和17年)3月になって、大統領はノックス海軍長官とスティムソン陸軍長官、ハル国務長官をホワイトハウスに呼んだ。自らの決断を伝えるためだ。
「議会では、我々が日本と戦う意思を示せば、それを支持してくれる議員が多数派になった。イギリスも我々の決定には同意するといっている。日本との戦争が可能になったのだ。軍は戦闘の準備を始めてほしい。私は短期の戦いを考えている。緒戦で日本軍に大きな損害を与えてから、日本に停戦の条件を提示する。我が国に領土的野心はない。提示内容は、『ヒロタノート』の全面撤回と東南アジアにおける貿易の制限、それに枢軸国との貿易の禁止を要求する内容になるはずだ。日本がそれを受け入れれば戦いは終わりだ。彼らが反省すれば、我が国からの貿易制裁も順次解除するつもりだ」
ノックス長官があらかじめ準備していた書類を見ながら説明を開始した。
「短期の戦いで終わらせるためには、奇襲攻撃により、多くの日本艦艇を撃滅することが早道です。当然ですが、攻撃を成功させるためには、相手を上回る戦力の集中が必要です。そのために大西洋から太平洋に一部の空母と戦艦を回航することになります。イギリスはいい顔をしないでしょうが、うまくチャーチル首相をなだめてください」
ルーズベルトが反応した。
「チャーチルには私から説明する。日本叩きは、イギリスにもメリットのある話だからな。攻撃目標だが、最初から日本本土を攻撃するのかね?」
「もちろん、大きな戦果のためには、危険はつきものです。高速艦艇で編制した機動部隊により一気に日本本土に接近します。攻撃の主体は空母からの攻撃隊です。日本海軍の泊地を集中的に攻撃して戦艦や空母を撃滅します。開戦劈頭で、日本の主力艦の数を減らすことができれば、それ以降は艦隊戦が生起しても、わが軍は有利に戦いを進められます」
スティムソン陸軍長官が反論した。
「うかつに日本本土を攻撃するとすれば、間違いなく迎撃されますよ。日本の戦闘機の能力を侮るべきではありません。それに日本本土にはレーダーの配備が進んでいるとの情報もあります。攻撃隊がレーダーで探知されれば、日本の迎撃機が待ち構えていることになります。合衆国海軍の方が、開戦の緒戦で大きな被害を受ける可能性が高いのではないですか?」
想定内の質問だ。ノックス海軍長官がすぐに答える
「日本においても我が国と同様にレーダーが設置されているのは間違いないでしょう。電波技術の専門家が対策を考えていますよ。攻撃時には、レーダーに対して目くらましのような手段を用いることになるでしょう。それでも、攻撃に先立って、相手に察知されないようにするのは、攻撃成功のための最も基本的な注意事項です。我が国が攻撃を仕掛けると、事前に日本が知れば、当然待ち構えているでしょう。攻撃側の被害は大きくなり、戦果は小さくなります。太平洋艦隊の行動に関する情報漏れには、十分注意しますよ」
ルーズベルト大統領が二人の長官の議論を制止した。
「情報漏洩に関しては、心配するのはもっともだ。知らないならば、秘密が漏れることもないだろう。攻撃準備を知らせる人員もできるだけ減らしてくれ。日本駐在のグルー大使にもぎりぎりまで教えるな。日本のレーダーや哨戒機への対策は海軍に任せる。私は日本の電子機器や航空機が我が国よりも優れているとは思わんが、ドイツから多くの技術を導入して彼らの兵器も進歩しているはずだ。決して侮るな。早急に海軍も陸軍も太平洋の戦いの準備を進めることを命ずる」
……
ルーズベルト大統領は1942年(昭和17年)6月1日になって、戦争の準備状況を確認するために、関係閣僚を再び招集した
海軍の太平洋での行動について、ノックス長官が説明した。
「わが艦隊は、既に真珠湾を出港して、西方に進んでいます。日本本土への攻撃は現地時間で6月5日を予定しています。6月の中旬になると、日本は多雨のシーズンになります。それ以前に攻撃を開始するつもりです。なお、軍港の艦艇への攻撃を行いますが、長時間、日本の沖合に留まって、日本領土を繰り返し攻撃することは想定していません」
「それでよい。大統領として期待しているのは、短時間で相手に被害を与えて、損害を受ける前に引き上げてくることだ。タラントのような戦い方と言えばわかってくれるだろうか。もちろん民間人の住む都市部への攻撃は禁止だ」
海軍に比べて、陸軍は報告することがあまりない。
「フィリピンなどの太平洋の拠点のわが軍の防衛力の強化は完了しています
重々しい声で海軍長官がたずねた。
「今ならば、艦隊は引き返すことが可能です。変更はありませんか?」
「決定事項を翻すつもりはない。日本が『ヒロタノート』を撤回して、連合国に参加して我々と共にドイツと戦うと言うならば、躊躇なく矛を収めよう。国務省は、海軍の攻撃に合わせて、日本に対して戦争を始めることを通告してくれ。さすがに卑怯者とは言われたくないからな」
最後に国務長官が確認した。
「日本との戦争を本当に始めるのですね? 国務省は海軍の攻撃開始直前に、宣戦布告を日本に手渡せるように準備を開始します。下院では宣戦布告に先立ち議決を行うことになります。我々に反対する議員は少数派なので、2日には問題なく可決できるでしょう。我々の戦いを阻止するものはありません」
「それでよい。準備を進めてくれ。事前通告するのは私の意思だ。但し、下院の議決は秘密会だろうね。日本の事前察知を避けるために、状況をできる限り他国に漏らさぬよう徹底してくれ」
ルーズベルト大統領は、各省からの情報を補佐官がまとめた書類を30分以上かけて読んでいた。やがて、ゆっくりと顔を上げると、執務机の前に座って待っていたハル国務長官に話しかけた。
「この報告書からは、日本が行ってきた東南アジアやインドの独立運動に関連する組織との取り引きが近年になって増加してきていると読める。日本は好ましくない組織でも金さえ払えば、かまわず商売をしているということか」
「はい、日本の貿易相手には、植民地の宗主国とは決定的に方針が合わない一派も含まれています。穏やかでない組織のなかには、将来において植民地からの独立とアジア人による自治を目指すのではないかと想定される集団も含まれています。今のペースで独立や反乱組織との間の貿易が増加すれば、間接的に内乱を助長することになるのではないかと懸念しています」
「フィリピン・コモンウェルス(フィリピン暫定政府)のケソン大統領が突然、我々の意向に逆らって、とんでもないことを言い出したのも日本人の貿易が関連しているということかね?」
もともとフィリピン独立準備政府の設立時にフィリピンの独立は1946年7月とすることで、アメリカとの合意がなされていた。それをケソン大統領が前倒し要求して、さ来年にもフィリピンを独立させよ、と一方的に要求してきたのだ。もちろん、現状認められているアメリカのフィリピンに対する領有権も全て解消することも要求に含まれている。
フィリピンの国内状況ならば戦略情報室(OSS)の活動に関係している。ルーズベルトが信頼している人物の一人であるドノバン局長が大統領の疑問に答えた。
「ケソン大統領に対して、日本人が武器も含めて様々な物資を輸出しているのは間違いありません。我が国が彼らに対して、種類と量を制限して取り引きをしているのに比べて、日本は物資の種類も制限しないで、安い価格で売っているのです。我が国への依存度が年々減少しても日本の輸出品が支えていることが、ケソンたちが強気な発言をしてくる背景です。それだけではありません、インドのチャンドラ・ボース、仏印のホー・チ・ミン、ビルマのバー・モウなど複数の活動家に対しても同じように、金さえ払えば武器や様々な機器を売っているめに、彼らの影響力もどんどん強くなっています」
「それらの組織が、日本に対して支払う金はどこから出てくるのかね? さすがに資金がなければ、日本との取り引きは続かないだろう」
「現地人が鉱物資源や石油、農作物、ゴムなどの東南アジアで産出する資源を横流しすることにより、資金を得ています。これらの資源を正規の貿易ルートよりも格安で購入できるので、日本にとってもメリットがあるのです」
「安価で資源を入手することが本当の理由なのか? こんなことを続ければ、日本人も欧米の国家間で軋轢が生まれることくらい承知しているはずだ」
これには、ハル国務長官が答えた。
「かなり大胆な推定ですが、東南アジアで産する石油や鉱物、ゴムなどの資源をまとめて自国の手の内にするつもりではないかと考えます。将来、現地人の組織が国家として独立することになれば、助力した日本人を無視できません。日本との貿易を優先することになるでしょう。日本の行動の裏には打算があると考えないと、辻褄が合いません。もちろん、独立など、ほとんどの場合失敗するでしょう。それでも騒乱が起これば武器の需要は飛躍的に増えます。日本の貿易品目の中に兵器が含まれていることを忘れないでください」
大統領が机の上に書類をたたくように置いた。音を立てて周りの注意をひくためだ。
「日本に対して、勝手気ままな貿易を慎むように強く要求する。我々が許可できない相手への日本からの輸出は禁止しなければならない。特に武器の輸出を制限すべきだ。容認できない相手や組織とは、先ほどOSS局長が説明したような一派だ。それにドイツとイタリアなどの枢軸国も禁止対象に加えてくれ。我々に敵対している国家だからな。従わない場合は、我が国は日本への全面禁輸措置を講ずる」
ハル長官が付け加えた。
「この件ではチャーチル首相もかなり怒っています。英国もインドとマレー半島を中心として、アジアには我々以上に大きな権益を有していますので、絶対に座視できないとのことです」
「よかろう。日本に発するメッセージが出来上がったら、チャーチルにも伝えることとする。英国も我々と足並みをそろえるだろう。まあ、それでも日本よりもヨーロッパの戦いの方が問題だ」
ルーズベルトは、自分の意思を示した後は、日本のことについては頭の隅にしまっておいた。ヨーロッパで始まった戦争への合衆国としての対応が決まっていなかったのだ。大西洋の向こうの出来事には、直接干渉しないという答えもあるが、それはルーズペルトが全く望まない方針だった。
……
ルーズベルト大統領の最優先の心配事ではなかったが、彼の指示は直ちに実行に移された。1941年(昭和16年)2月には日本に大統領の書簡が送付された。しかし、アメリカからの通告くらいで日本も簡単に言うことを聞くことはできない。
広田外務大臣が総理に面談にやってきた。
「アメリカ合衆国とイギリスから強い口調の警告が入っています。このまま、日本が彼らが望んでいない相手との貿易を続けるならば、全面的に貿易を停止するとまで言っています」
近衛総理は、一瞬大きく目を見開いた。広田外相は表情の変化を見て、総理がうろたえていることがわかったが、もちろん口には出さない。
「私は、我が国が決して悪いことをしているとは思っていないぞ。正当な対価を受け取って、商業取り引きをしているだけだ。植民地の宗主国が自分の利益のためだけに、アジアの人々から搾取していることこそ不当な行為だ」
首相は一気に話してから、しばらく考えを落ち着かせてから口を開いた。
「そうは言っても、アメリカやイギリスとは、これ以上関係を悪くしたくはない。欧米の怒りを鎮めるためには、これから我が国はどうしたらいいのだろうか?」
広田大臣は言わんこっちゃないとあきれていた。もともと日本は貿易を拡大するために、金払いがいいならば身元が怪しい相手ともかまわず商売をしてきた。後先も見ずにそんなことをすれば、他国の恨みを買うのは当然だ。総理大臣は、そんな想定通りの事態になって慌てているのだ。
「近衛さん、今更手遅れです。今の世界は連合国と枢軸国に二分されつつあります。欧州では戦いが始まっているのです。この期に及んでは、腹を決めて交渉するしかないですよ。それとも今までの行動を全て悔い改めて、アメリカやイギリスの言いなりになりますか?」
「い、いや、それはまずい。我が国が他国の言いなりになるなど、あってはならない……」
黙ってしまった総理大臣に外務大臣がたたみかけた。
「そうであるならば、ルーズベルト大統領とチャーチル首相には、拒絶の回答をすべきです。我が国は、今までは他国には正面から逆らわずにやってきましたが、今回は従順な態度を変えましょう。欧州での戦争により、我が国よりも余裕がないのは米国と英国なのです。我が国がノーと言えば、アメリカもイギリスも強くは要求せずに引き下がるはずです」
「しかし、拒否はするが、あくまで穏やかに意思表示するということでお願いする。自ら望んで敵を作りたくはない」
……
ルーズベルト大統領が心の中でひそかに望んでいた合衆国のヨーロッパの戦いへの参戦については、思わぬところから事態が進んだ。
発端は、1941年2月のドイツ空軍によって行われたロンドンへの夜間空襲だった。ロンドン市街に降り注いだ爆弾の一部が、在ロンドンのアメリカ大使館の敷地内に着弾した。不運なことにそのうちの1発が、大使館の防空壕を直撃した。おかげで、アメリカ人の大使館員が多く犠牲となった。犠牲者の中には、イギリス駐在のアメリカ大使の名も含まれていた。
アメリカの新聞社は、ドイツ軍の爆撃により自国大使を含む犠牲者が発生したことを大きく報道した。それと共に、ほかにもヨーロッパでの戦闘に巻き込まれて被害を受けた合衆国民を調べ始めた。調査をしてみると、イギリス本国だけでなく、フランス、ベルギー、オランダなど各国でアメリカ国民の死傷者や行方不明者が存在していることがわかった。民間人として欧州に渡っていた合衆国民は、既に多くが戦争に巻き込まれていたのだ。ドイツ軍が支配域を広げたために、正確な犠牲者数は不明だったが、決して無視していい人数でない。
ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストがアメリカ人の犠牲者について、大々的に報道を始めた。欧州での被害者には新聞社の特派員も含まれていたので、各社の論調はヨーロッパの紛争国在住のアメリカ国民をすぐにも保護すべきとの厳しい論調になった。
新聞紙が合衆国民をあおっていることは議員たちも知っていたが、連邦議会も国民の声を無視できなくなった。議会でも参戦を訴える議員の数は急激に増えていった。ルーズベルトは、アメリカは海外の戦争に参加しないということを大統領選での公約にしていた。
ところが本音では、欧州の戦いをこのまま座視せず、合衆国はドイツを中心とした枢軸国と戦うべきだと考えていた。枢軸国が欧州を支配する世界など、悪夢以外の何ものでもない。大統領は、まずは与党議員を動かして、イギリスやフランス、ソ連などの連合国に武器を中心とする物資の提供を認める法律を成立させた。連合国として武器貸与を行うレンドリース法の後ろ盾を得て、大西洋を越えて膨大な量の軍需物資の提供を始めた。
次の段階として、大統領はアメリカが直接戦争に参加することを画策した。1941年11月の議会で、ルーズベルトは実質的にヨーロッパの戦争に参加することを宣言する演説を行った。
「ドイツが仕掛けた戦争により、我が国の国民に多数の犠牲者が発生しているのです。欧州の戦争はすでに、対岸の火事ではありません。我が国の軍を派遣して、欧州であろうと、母国のためにそこに滞在している合衆国民を守ることこそ、直ちにとるべき行動ではありませんか」
本来は、危険地域にいる合衆国民を引き上げさせれば良いのだが、そんな意見は忘れ去られていた。大統領の演説後、下院議会は「合衆国国民の保護を目的として」という但し書きをつけて、ヨーロッパの戦いに合衆国が参戦することを認めると決議した。
……
チャーチル首相にとってアメリカ合衆国の参戦の決断は、もちろん手放しで喜ぶべきことだった。アメリカがヨーロッパでイギリスと共に戦ってくれれば、戦局は大いに有利になる。これで、イギリスは救われたと思った。
「我が国も一息入れることができる。残ったのは日本との関係だな。外務大臣、何か意見はあるかね?」
名指しされた、外相のイーデンは自説を披露した。
「このところの日本の対外的な活動は、明確に我々やアメリカの足を引っ張っています。逆にドイツとの貿易は中止していません。大西洋の封鎖を突破したドイツの輸送船の荷物には日本からの物資が含まれています。すぐにも、ドイツとの交易を停止させなければなりません。しかし、日本への圧力はあくまで経済的な制裁と外交的な手段に留めるべきだと考えます。太平洋で第二の戦線を開いて戦力を分散することには、全く賛成できません」
チャーチルの口元が緩んだ。自らが期待していた意見だったからだ。
「私も同じ意見だ。我が国もアメリカも戦力はヨーロッパでの枢軸国との戦いに集中しなければならない。日本への圧力については、武力以外の手段でよい。まあ、ドイツとの戦いで勝利が見えてきたら、直接的な実力行使もありえるがね」
「我々の武力は望まないという意見をルーズベルトに伝えますか? アメリカが太平洋でいきなり戦争を始める可能性は、全くないとは思いますが」
「いや、そんなことをすればアメリカから日本への圧力が減少する可能性がある。むしろ、我々が非常に腹を立てていると思わせておこう。君から、アメリカの国務長官に日本は許せないという我が国の意思を伝えてくれ」
……
チャーチル首相とは全く別の考えを持つ男がいた。ソ連共産党書記長のスターリンだ。彼は、アメリカがヨーロッパと日本の双方で戦うことを望んだ。
「アメリカの国力は巨大だ。ヨーロッパへの派兵に加えて、日本と戦っても負けることはない。ドイツとの戦いに終わりが見えれば、我々は太平洋の戦いを始めるつもりだ。その時、アメリカと日本が戦ってお互いが消耗していれば、千島から、北海道へと南下して日本の領土を我が国に併合することは可能であろう。アメリカが疲弊していれば、我が国への口出しも弱くなるに違いない。日本へとソ連の領土拡大が実現できれば、冬でも凍結しない太平洋への広大な出入り口がひらけることになるぞ」
モロトフ外相は、自分の国がドイツに攻撃されてモスクワに敵軍が迫っている状況で、平然とドイツとの戦いの後のことを言ってのけるこの男の精神に驚愕していた。しかし、反論することなど許されない。しかも書記長の言葉に影響されたのか、アメリカが日本と戦っても、武器の供給さえ保証してくれれば、ソ連の領土内の戦いへの影響は少ないと思えてきた。将来、領土が増えることになれば、もちろんそれに異論はない。
「書記長の意見に全く同意します。アメリカ大陸のわが同胞に同志からの命令を伝えます。アメリカが日本に対して開戦するように、ルーズベルト政権内でうまく工作してくれるはずです。まずは、ドイツと日本の間に密約が存在することをでっちあげます。次に、日本がアジアに対して、領土拡大の野心を持っているという噂をアメリカ内閣の中に広げれば、アメリカが開戦するための条件が整うことになるでしょう」
モロトフ外相の指示は、ワシントンの財務次官補のホワイトと大統領補佐官のカリーに伝えられた。彼らは、活動目標をホワイトハウス及び、国務長官、新聞社に決めた。ホワイトハウス内では大統領補佐官の立場を利用すれば、いろいろな活動ができる。完全に文書をでっちあげるようなことは難しいが、日本が不利になったり、日本を誤解させたりするような文言の修正や文章の追加は可能だ。しかも、国務省内と新聞社で活動する同胞にも口裏を合わせて、報告書や報道内容にも同様の方向づけを行った。
……
日本政府は、昭和16年(1941年)8月になって、外務大臣広田弘毅の名前で、「合衆国及び日本国間協定への覚書」を米国に提示した。後になって「ヒロタノート」と呼ばれることになったこの文書では、フィリピンやマレー半島、インドシナにおける日本の貿易に干渉する権利はアメリカにもイギリスにもないことを、日本らしい婉曲的な表現で主張していた。同時に、米、英、仏、蘭の植民地政府にはもっと現地人の参画を認めて欲しいとの要望も含んでいた。もちろん、アメリカだけでなくイギリスに対してもほぼ同様の内容を回答した。
日本から「ヒロタノート」が提示されると、日本の思惑について分析官からのレポートが上がってきた。大統領の手に渡る前に、スターリンの思惑で動いている人物がその報告書に若干の脚色を加えた。
大統領は「ヒロタノート」自身は冷静に読んでいた。しかし、国務省からの分析報告を読んでからは激怒した。日本の領土拡大の意思と裏での植民地への独立支援が分析結果に含まれていたからだ。表面ではアメリカの要求を拒絶すると共に、アメリカやイギリスからのアジア植民地の独立を裏で画策している日本の態度が全く許せなかった。ルーズベルトは自らの怒りが、ソ連の思惑で動いている人物に誘導された結果だとは気がつかなかった。
それでも、大統領は自分の印象が事実かどうか客観的に確かめようとした。
「東南アジア地域における日本人の活動の裏にあることをもう一度確かめてくれ。彼らはどんな思惑で貿易をしているのか本当の理由を探ってくれ。それと日本が領土を今以上に広げる意思があるのかどうかも事実を知りたい。アジアの人民を植民地から解放するなんて理屈は信じないぞ。日本にとって、どんな利点があるのか本音を探るのだ」
しばらくして、ハル国務長官が収集した情報を説明にやってきた。国務長官は、ソ連の息がかかったホワイト次官補が、国務省の同志に書類の修正を行わせたことを知らない。
「私のところにいくつかの報告書が上がってきました。物資の流れですが、ドイツは日本から封鎖破りの輸送船で今でも物資を輸入しています。戦争が始まっても日本はドイツとの貿易を停止していません。ドイツと日本の間に秘密の協力関係があるとの情報は確かなようです」
「しかし、日本はドイツとの間に同盟関係ないだろう。ヒトラーからの三国同盟への誘いは、日本が受け入れなかったはずだ」
「それは軍事同盟が成立しなかったということですね。三国同盟が表向きでは不成立でも、国と国の関係にはいろいろな形があり得ます。日本とドイツが2国間で秘密の条約を結んでいても、不思議ではありません」
OSSのドノバン局長も自分が得た情報を説明した。
「我々の組織の調査によると、日本は過去数年間で、エンジン、電子機器、航空機などの技術や、完成品をドイツから輸入しています。その代わりにドイツが欲する非鉄金属や鉱物資源を輸出しています。ドイツとの密接な関係は貿易や技術ライセンスの購入からも裏付けられます」
再びハル長官が説明を引き継ぐ。
「日本の行動は明らかにドイツ寄りです。明示的な同盟ではなくてもそれに等しい態度をとり続けるならば、実質的には密約があると考えてよいと思います。そうであれば、日本と戦う理由は成立しているのです。我々は、ドイツと戦争を始めました。既に、ドイツと密約を交わしている日本とも交戦状態となっても良いと考えます」
「ドイツとの関係については理解した。アジアにおける日本の活動はどう解釈するのだ?」
ハル長官が手元の資料を見ながらアジアにおける日本の行動の分析について説明を始めた。
「東南アジアやインドでの日本人の活動は、まずはこれらの地域の資源を安価に手に入れるためというのは以前の分析と変わりません。将来的には、日本の領土を拡大すべく活動しているとの情報もあります。フランス領インドシナやオランダ領東インド、フィリピンが日本が侵攻する候補と言えるでしょう。更に、オーストラリアの信託統治になっているマリアナやマーシャル、カロリンなどの太平洋中部の諸島にも触手を伸ばそうとする思惑があるようです。我々は、この噂がどこまで真実なのか確認できていませんが、現状の日本の行動を見る限り、十分にあり得ることだと考えています」
「それが事実とすれば、とんでもないぞ。我が国が日本と戦端を開くのに十分な根拠になる。しかし、それでも議会の後押しがない限り、日本と戦端を開くことはできない。議会対策は可能なのか?」
カリー大統領補佐官が、書類を持ってきた。
「日本とドイツの秘密条約の存在をマスコミにリークします。それに加えて、日本がアジアに対して触手を伸ばして、実質的にこれらの国を支配しようとの思惑を有しているとの論説を著名人に語ってもらいます。政府のいうことを聞いてくれる有名人はいくらでもいますからね。若干、誇張はありますが偽りではないでしょう。世論を動かすのは多少時間がかかるかもしれませんが、大統領が望む方向になりますよ。チャーチル首相もその方向を望んでおられるはずです」
「いいだろう。君たちの計画を進めてくれ。私も同意していると思ってもらってかまわない」
……
大統領補佐官が期待した通り、アメリカ国民の世論は次第に日本への批判が強くなっていった。それを後追いするように、議会でも日本を非難する発言が増えていった。ルーズベルト政権の貿易制裁はまだ不十分なので、日本に対しては、もっと厳しい対応をすべきだとの意見だ。
しかし、1941年(昭和16年)の暮れまではアメリカといえども、ヨーロッパの戦いに注力せざるを得なかった。ソ連領土に侵攻したドイツ軍は、ソ連軍を圧倒してモスクワへと迫っていた。北アフリカではロンメルが暴れていたのだ。やがて冬将軍が訪れると、ドイツ軍の進撃は停止した。
ルーズベルトにとっては、ドイツ軍のソ連への侵攻が停止したことが日本への対応を行うチャンスだと映った。
極秘で始めた議会への根回しも成果が出てきた。1942年(昭和17年)が明けると、日本に直接的な懲罰を行うべきとの考えがアメリカ議会でも多数派になっていた。
1942年(昭和17年)3月になって、大統領はノックス海軍長官とスティムソン陸軍長官、ハル国務長官をホワイトハウスに呼んだ。自らの決断を伝えるためだ。
「議会では、我々が日本と戦う意思を示せば、それを支持してくれる議員が多数派になった。イギリスも我々の決定には同意するといっている。日本との戦争が可能になったのだ。軍は戦闘の準備を始めてほしい。私は短期の戦いを考えている。緒戦で日本軍に大きな損害を与えてから、日本に停戦の条件を提示する。我が国に領土的野心はない。提示内容は、『ヒロタノート』の全面撤回と東南アジアにおける貿易の制限、それに枢軸国との貿易の禁止を要求する内容になるはずだ。日本がそれを受け入れれば戦いは終わりだ。彼らが反省すれば、我が国からの貿易制裁も順次解除するつもりだ」
ノックス長官があらかじめ準備していた書類を見ながら説明を開始した。
「短期の戦いで終わらせるためには、奇襲攻撃により、多くの日本艦艇を撃滅することが早道です。当然ですが、攻撃を成功させるためには、相手を上回る戦力の集中が必要です。そのために大西洋から太平洋に一部の空母と戦艦を回航することになります。イギリスはいい顔をしないでしょうが、うまくチャーチル首相をなだめてください」
ルーズベルトが反応した。
「チャーチルには私から説明する。日本叩きは、イギリスにもメリットのある話だからな。攻撃目標だが、最初から日本本土を攻撃するのかね?」
「もちろん、大きな戦果のためには、危険はつきものです。高速艦艇で編制した機動部隊により一気に日本本土に接近します。攻撃の主体は空母からの攻撃隊です。日本海軍の泊地を集中的に攻撃して戦艦や空母を撃滅します。開戦劈頭で、日本の主力艦の数を減らすことができれば、それ以降は艦隊戦が生起しても、わが軍は有利に戦いを進められます」
スティムソン陸軍長官が反論した。
「うかつに日本本土を攻撃するとすれば、間違いなく迎撃されますよ。日本の戦闘機の能力を侮るべきではありません。それに日本本土にはレーダーの配備が進んでいるとの情報もあります。攻撃隊がレーダーで探知されれば、日本の迎撃機が待ち構えていることになります。合衆国海軍の方が、開戦の緒戦で大きな被害を受ける可能性が高いのではないですか?」
想定内の質問だ。ノックス海軍長官がすぐに答える
「日本においても我が国と同様にレーダーが設置されているのは間違いないでしょう。電波技術の専門家が対策を考えていますよ。攻撃時には、レーダーに対して目くらましのような手段を用いることになるでしょう。それでも、攻撃に先立って、相手に察知されないようにするのは、攻撃成功のための最も基本的な注意事項です。我が国が攻撃を仕掛けると、事前に日本が知れば、当然待ち構えているでしょう。攻撃側の被害は大きくなり、戦果は小さくなります。太平洋艦隊の行動に関する情報漏れには、十分注意しますよ」
ルーズベルト大統領が二人の長官の議論を制止した。
「情報漏洩に関しては、心配するのはもっともだ。知らないならば、秘密が漏れることもないだろう。攻撃準備を知らせる人員もできるだけ減らしてくれ。日本駐在のグルー大使にもぎりぎりまで教えるな。日本のレーダーや哨戒機への対策は海軍に任せる。私は日本の電子機器や航空機が我が国よりも優れているとは思わんが、ドイツから多くの技術を導入して彼らの兵器も進歩しているはずだ。決して侮るな。早急に海軍も陸軍も太平洋の戦いの準備を進めることを命ずる」
……
ルーズベルト大統領は1942年(昭和17年)6月1日になって、戦争の準備状況を確認するために、関係閣僚を再び招集した
海軍の太平洋での行動について、ノックス長官が説明した。
「わが艦隊は、既に真珠湾を出港して、西方に進んでいます。日本本土への攻撃は現地時間で6月5日を予定しています。6月の中旬になると、日本は多雨のシーズンになります。それ以前に攻撃を開始するつもりです。なお、軍港の艦艇への攻撃を行いますが、長時間、日本の沖合に留まって、日本領土を繰り返し攻撃することは想定していません」
「それでよい。大統領として期待しているのは、短時間で相手に被害を与えて、損害を受ける前に引き上げてくることだ。タラントのような戦い方と言えばわかってくれるだろうか。もちろん民間人の住む都市部への攻撃は禁止だ」
海軍に比べて、陸軍は報告することがあまりない。
「フィリピンなどの太平洋の拠点のわが軍の防衛力の強化は完了しています
重々しい声で海軍長官がたずねた。
「今ならば、艦隊は引き返すことが可能です。変更はありませんか?」
「決定事項を翻すつもりはない。日本が『ヒロタノート』を撤回して、連合国に参加して我々と共にドイツと戦うと言うならば、躊躇なく矛を収めよう。国務省は、海軍の攻撃に合わせて、日本に対して戦争を始めることを通告してくれ。さすがに卑怯者とは言われたくないからな」
最後に国務長官が確認した。
「日本との戦争を本当に始めるのですね? 国務省は海軍の攻撃開始直前に、宣戦布告を日本に手渡せるように準備を開始します。下院では宣戦布告に先立ち議決を行うことになります。我々に反対する議員は少数派なので、2日には問題なく可決できるでしょう。我々の戦いを阻止するものはありません」
「それでよい。準備を進めてくれ。事前通告するのは私の意思だ。但し、下院の議決は秘密会だろうね。日本の事前察知を避けるために、状況をできる限り他国に漏らさぬよう徹底してくれ」
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