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第10章 新兵器開発
10.6章 十五試特殊艦上爆撃機
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昭和15年(1940年)9月になると、空技廠の山名少佐の風洞試験と空力的な計算では、爆撃機として実用に耐えられる性能と飛行特性が実現できるとの結果が出た。我々の電波反射の計算でも既存の機体よりもかなり小さな値が結果として得られた。ホルテンの全翼機の形状を基礎として、低電波反射の特殊爆撃機の実現可能性が高まってきた。
機体設計の状況について、我々から報告を受けると真田少将は直ちに決断した。
「設計がかなり進んだのだな。見込みがあるのであれば、一刻も早く実際の機体を実現すべきだ。私も実機の電波反射がどのようになるのかすぐにでも検証したい。あれこれ根回しするよりも、手っ取り早く、私から航空本部長に直談判して開発許可をもらうぞ」
真田少将が話を持ち込んだのは航空本部長に就任したばかりの井上馨中将だった。幸いにも井上中将はこの手の奇抜な提案に対しても、まずは内容を確認して判断しようと考えるだけの器を有していた。しかも同期の中でも出世頭だったこの男は、報告書を読んだだけで、この機体の潜在力を見抜くことができた。
「真田君、一機種くらいはこんな奇妙な機体を開発してもバチは当たらんだろう。実力を確かめようじゃないか。うまくすれば、とんでもない能力を有する機体が実現できる可能性がある。しかし昨今の時節柄、他の開発機の邪魔をするわけにはいかない。現有の技術者の範囲で何とかものにしてくれ」
海軍航空本部長の了解により、昭和15年8月には十五試特殊艦上爆撃機としての設計が本格化した。設計は、今までと変わらず空技廠と技研が共同して推進することになって、M6Y1の開発番号が付与された。試作機の細部設計と製作は中島飛行機が受注した。
基本的な形状はホルテンの矢じり形の全翼機の形状を継承していた。但し、グライダーではないのでアスペクト比はホルテンⅤほどは大きくない。ホルテンⅤの翼端部をやや切り落としたような外形で、緩やかな後退角を有する主翼で、後縁の後退角はやや小さくなって、翼端は直線的に先細りとなっていた。一方、内翼部は翼厚を増加して、後縁を後方にV字形に張り出すことにより、ひし形に近い平面形になっていた。その内翼部の外側に先細りの外翼部を取り付ける構造としていた。
特殊艦爆のエンジンは、国内で生産が始まったばかりのアツタの双発に決まった。液冷エンジンでなければ主翼内に収納できないことが大きな理由だ。2基のアツタエンジンは、翼厚を大きくとった主翼中央部の両側に取り付けられた。エンジンのほとんどの部分は翼内に収まったが、主翼の上面はわずかに膨みが残った。プロペラは、エンジンから後方に延長した駆動軸に後ろ向きに取り付けられた。過給機と冷却器の空気取り入れ口は主翼上面に開口した。電探の電波を受けやすい機体の下面にはできる限り突起を設けない方針だ。しかも冷却機へのダクトはS字形状として、反射波がそのまま前方に戻らないようにした。
電波反射を抑えるためには、爆弾を完全に胴体内に収容することが必要だ。扉付きの爆弾倉をエンジンの間の胴体内に設けた。爆弾倉には、1本の魚雷もしくは1トンまでの爆弾を搭載する予定だった。エンジンの外側と爆弾倉前方の機首下に脚を取り付けた。爆弾倉の上は操縦席で、今までの艦爆と同様に縦列に2名が搭乗する。
艦爆として飛行可能な機体の作成と並行して、実機の外形を正確になぞった五分の一の大きさの電波反射を計測するための模型が作られた。壁面での電波の乱反射を抑えた電波暗室を建築して、その内部で模型の電波反射特性が計測された。
模型による電波反射特性の測定は、新設されたばかりの電磁気課が担当した。模型による最初の計測結果は既存の機体よりも電波反射はかなり小さいが、年々高性能化している電探の探知を完全に逃れられるほどではなかった。計算の結果よりも悪い結果だ。
我々は山名少佐にプロペラの変更を提案した。
「計算機の演算には含まれていなかったプロペラを模型に取り付けました。プロペラの有無で反射を比較しましたが、想定以上に反射が大きいようです。ホルテンの機体では小径の木製だったために問題にならなかったのですが、金属製羽根を採用すれば、問題が出てくるでしょう。なるべく直径の小さな木製羽根に戻すしか改善法がなさそうです」
「空技廠では、ユンカース社が開発した合板製のVSという木製プロペラ翅の生産法を入手しています。樹脂を浸して圧縮した木材を重ね合わせて翅の形状に削りだします。それを活用すれば、電波反射のほとんどないプロペラへの変更は可能ですよ」
……
本格的に実機の設計が始まってから、10カ月後の昭和16年(1941年)7月には試作1号機が完成して試験飛行が始まった。ホルテンモーターグライダーによる飛行試験と空技廠の計算機で念入りに確認していた効果もあり、飛行自体は安定していた。飛行特性の確認と並行して、空中における電波の反射特性の計測を開始した。
技研の電磁気課は、電波反射の計測結果とその分析についてすぐに山名技師に報告した。
「まだ電波反射が残っていますね。この程度の反射ならば、遠方での電探による探知を避けることはできますが、接近すれば発見されるでしょう。あと一歩、電波反射を減らすように改修が必要だと思います」
さすがに山名少佐からもため息が出た。
「計算機や模型で判明した変更をしてきましたが、それでも対策が十分ではないのですか? さすがに機体の設計が終わってから変更をするとなると、時間がかかるかもしれません」
議論を聞いていた電磁気課の谷大佐は、妥協するつもりがなかった。
「電波反射の低減は必要です。そもそもこの機体の開発が電波反射の低減を前提として、井上本部長から許可されたのです」
結局、組み立て中の試作2号機はそのまま完成させて飛行試験を続けることとした。まだ製作に着手していなかった3号機については、これから決まるであろう電波反射を改善策を適用してゆくことになった。
私は電波の吸収対策として、やり残していることを実験しようと考えていた。
「実は、電波反射の低減策で、まだ一つ残っている方法があります。磁性体を含んだ電波吸収材を機体に塗ることです」
「それで、反射が減るのですか? それが事実ならば、設計変更に比べれば容易だと思う。もちろんすぐに効果を確かめましょう」
私は久しぶりに、日本電気化学工業のフェライトの第一人者である武井博士を訪問した。
「お久しぶりです。今日はフェライトの電波吸収特性についてお聞きしたいことがあってやってきました」
私は、特殊爆撃機のことには触れずに、電探開発の過程で、アンテナ周囲の構造部材の電波反射を減らすことが必要になっていると説明した。これも実際に現場で生じている課題なので、博士はすんなりと信じてくれた。
「それで、電磁波の反射を減らすために、フェライト粉を混入させた塗料を使えるのではないでしょうか? 磁性体は電磁波を熱に変換する特性を有すると論文で読んだ記憶があります」
「確かにおっしゃる通り、フェライトは電磁波を熱に変える特性があります。簡単に例えれば、ある程度電波を吸収すると考えても良いでしょう。電波反射を低減させたいのであれば、粉末状のフェライトを混ぜたパテやペンキを表面に塗る方法が考えられます。あるいはフェライト入りのタイルを貼り付ける方法もあり得ますね。但し、いくらか厚く塗布しないと吸収効果は小さいでしょう」
「広い曲面で使用することが前提なので、最初から塗料に混ぜて塗布することを採用したいと思います。フェライトを混合した塗料を試作することは可能ですか? 海軍で使っている塗料関係の化学会社ならば、日本電気化学工業と協力するようにお願いすることは可能です」
「フェライト粉末を粘性のあるペンキに混ぜるだけですよ。もっとも、効率を考えると混合比率とか、塗布する時の厚さなどの実験が必要になるはずです」
「実験用の塗料を作ってもらえば、塗り方や厚みに関しては、我々が実験して決めます」
……
試作品ができたので、電波模型を使用して実験してみると、効果を確認できた。模型を使って、塗料へのフェライト混合濃度や塗布の厚みを変えて実験を行った。薄く塗っただけではだめで、ある程度の厚みにパテのように塗らないと効果が少ないことがわかった。
続いて、試作3号機を使って、実際の機体にフェライト塗料を塗布した。模型の実験結果に基づいて、厚めに塗ったので、重量として150kg程度が機体に上乗せされることになってしまった。しかも色はフェライトのもともとの色を反映して、黒に近い灰色だけになった。つまりこの塗料を塗布すると、全面が薄黒い灰色になるということだ。
実機で計測して見ると試作1号機に比べて、かなり電磁反射が減少していた。谷大佐はこの結果を聞いて満足だった
「どうやら、塗料による電磁波の吸収効果だけではないようだ。そもそも機体の外板の継ぎ目のわずかな段差や溝で回析された電波が戻ってきていたが、それらがパテ状の塗料で平滑化されたために反射が減少している。相乗効果で試作1号機よりも電波反射が減少したと考えられる」
しかも効果は、電波反射だけではなかった。機体の重量は増加したが、厚い塗装により機体外板の凹凸が減少したおかげで、わずかだったが速度と航続距離が向上したのだ。
最後まで残ったのが、風防の反射だ。風防の枠と操縦席からの反射だった。ガラスやアクリル材は電磁波を透過するので、外部からの電波が操縦席内部に届いて、そこで反射した電波があちこちに戻ってゆくことになる。風防表面で電波を遮断すれば反射は防止できるが、可視光に対しては透明でなければならない。電波を通さないガラスの製造は容易ではなかった。
解決策として高電圧下で金属薄膜を蒸着させる技術を応用して、ガラス上に薄膜を形成することに成功した。それを合わせガラスにして風防用に使うこととした。透明度は少し悪くなったが、電波が操縦席内に入り込んで反射することは防止できた。なお、この方法はアクリル材には適用できないので、風防は平面ガラスの組み合わせになった。このガラスは貴重なので、キャノピーの前半から中央部までを合わせガラスとしたが、後部は完全に電波吸収塗料を塗った金属板で覆うことになった。戦闘機ではないので、これで問題ないだろうとの判断だ。
最後の変更は、エンジンの排気管だった。排気管を外部に露出すると電波反射源となることから、消炎型排気管を完全に翼内に収めた。主翼上面の開口部から空気を取り込んで、エンジン側面に設けた円筒形パイプに流す。エンジン排気はそのパイプ内に噴き出して中央翼後方上面の開口部から排出することとした。夜間での行動が想定される特殊爆撃機にとって、排気炎を抑制できる観点でもこの構造は好都合だった。
改修により、全ての電波の反射抑制対策を実施した試作3号機は、技研の評価でもほぼ満足する電波反射の特性を示すことになった。
いくつかの変更を経て、電波吸収塗料を全面に塗布した4号機と5号機が相次いで昭和16年(1941年)10月に完成した。この機体は艦上爆撃機として、主翼折りたたみ機構を備えていて、着艦用フックも装着されていた。飛行甲板の強度を増した「加賀」艦上で艦上機としての運用試験を開始した。1カ月後にはさらに3機の試作機が追加されて、爆撃や雷撃の試験が加速された。
特殊攻撃機は、空母運用にとって好都合な点もあった。全翼機は翼幅が大きいが、外翼を折りたためばかなり幅を小さくできる。しかも主翼より後方の胴体が存在しないため、前後方向には距離を詰めてきっちりと並べることができる。すなわち空母の格納庫に搭載する場合に無駄な面積がかなり少ないのだ。しかも、必然的に翼面荷重が小さいので、失速速度が低くなる。首車輪式であることも合わさって、双発の大型機であるにもかかわらず空母への離着艦は意外に難しくなかった。
十五試特殊艦爆の配備で、最後まで問題になったのは空母の飛行甲板の強度だった。我が国の全ての空母は、5トン程度の機体を前提としていて、「天山」の搭載時にも改修が必要だった。この機体の最大8トン近くの重量には全く耐えられない。飛行甲板の強化とエレベータの搭載量、着艦制動装置の荷重を増加させる改修が必要だった。双発機としての艦爆を運用可能な空母は大型艦に限られる。結果的に十五試特殊艦攻を搭載できるのは、甲板と各種装備を改装した後の「赤城」「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」に限られた。
……
試作機による飛行試験と並行して、制式化が確実視されると、中島飛行機では量産準備が始まった。この機体は、電波反射を低減させるために外板間の隙間と凹凸に対する要求精度が厳しかった。そのため、通常の航空機生産用の設備よりも精度の高い組み立て用の治具が必要になった。加えて、電波吸収用の特殊な塗料の塗装設備も準備する必要があった。その影響で生産設備の準備が完了するまでに、半年以上の期間を要することになった。
昭和17年(1942年)8月にはこの異色の機体を「銀河」として制式化することが決まった。但し、この時期には空母の改修が完了しておらず、陸上基地以外では本機の運用は不可能だった。しかも本機の特殊塗料は劣化が早いために、電探の低反射特性を維持するためには、半年に一度は再塗装の必要があった。
十五試特殊艦上爆撃機(M6Y1)銀河11型
・乗員:2名(操縦員、偵察員)
・全長:7.6m
・翼長:18.2m
・全高:2.8m
・翼面積:53㎡2
・自重:5,100kg
・最大離陸重量:7,600kg
・発動機:アツタ23型 離昇:1,610hp 定速6翅プロペラ(木製、直径:2.2m)
・最高速度:338ノット(626km/h、6,100m)
・戦闘行動半径:500海里(926km)
・武装:搭載せず
・爆装:1トンまでの爆弾、または魚雷×1
機体設計の状況について、我々から報告を受けると真田少将は直ちに決断した。
「設計がかなり進んだのだな。見込みがあるのであれば、一刻も早く実際の機体を実現すべきだ。私も実機の電波反射がどのようになるのかすぐにでも検証したい。あれこれ根回しするよりも、手っ取り早く、私から航空本部長に直談判して開発許可をもらうぞ」
真田少将が話を持ち込んだのは航空本部長に就任したばかりの井上馨中将だった。幸いにも井上中将はこの手の奇抜な提案に対しても、まずは内容を確認して判断しようと考えるだけの器を有していた。しかも同期の中でも出世頭だったこの男は、報告書を読んだだけで、この機体の潜在力を見抜くことができた。
「真田君、一機種くらいはこんな奇妙な機体を開発してもバチは当たらんだろう。実力を確かめようじゃないか。うまくすれば、とんでもない能力を有する機体が実現できる可能性がある。しかし昨今の時節柄、他の開発機の邪魔をするわけにはいかない。現有の技術者の範囲で何とかものにしてくれ」
海軍航空本部長の了解により、昭和15年8月には十五試特殊艦上爆撃機としての設計が本格化した。設計は、今までと変わらず空技廠と技研が共同して推進することになって、M6Y1の開発番号が付与された。試作機の細部設計と製作は中島飛行機が受注した。
基本的な形状はホルテンの矢じり形の全翼機の形状を継承していた。但し、グライダーではないのでアスペクト比はホルテンⅤほどは大きくない。ホルテンⅤの翼端部をやや切り落としたような外形で、緩やかな後退角を有する主翼で、後縁の後退角はやや小さくなって、翼端は直線的に先細りとなっていた。一方、内翼部は翼厚を増加して、後縁を後方にV字形に張り出すことにより、ひし形に近い平面形になっていた。その内翼部の外側に先細りの外翼部を取り付ける構造としていた。
特殊艦爆のエンジンは、国内で生産が始まったばかりのアツタの双発に決まった。液冷エンジンでなければ主翼内に収納できないことが大きな理由だ。2基のアツタエンジンは、翼厚を大きくとった主翼中央部の両側に取り付けられた。エンジンのほとんどの部分は翼内に収まったが、主翼の上面はわずかに膨みが残った。プロペラは、エンジンから後方に延長した駆動軸に後ろ向きに取り付けられた。過給機と冷却器の空気取り入れ口は主翼上面に開口した。電探の電波を受けやすい機体の下面にはできる限り突起を設けない方針だ。しかも冷却機へのダクトはS字形状として、反射波がそのまま前方に戻らないようにした。
電波反射を抑えるためには、爆弾を完全に胴体内に収容することが必要だ。扉付きの爆弾倉をエンジンの間の胴体内に設けた。爆弾倉には、1本の魚雷もしくは1トンまでの爆弾を搭載する予定だった。エンジンの外側と爆弾倉前方の機首下に脚を取り付けた。爆弾倉の上は操縦席で、今までの艦爆と同様に縦列に2名が搭乗する。
艦爆として飛行可能な機体の作成と並行して、実機の外形を正確になぞった五分の一の大きさの電波反射を計測するための模型が作られた。壁面での電波の乱反射を抑えた電波暗室を建築して、その内部で模型の電波反射特性が計測された。
模型による電波反射特性の測定は、新設されたばかりの電磁気課が担当した。模型による最初の計測結果は既存の機体よりも電波反射はかなり小さいが、年々高性能化している電探の探知を完全に逃れられるほどではなかった。計算の結果よりも悪い結果だ。
我々は山名少佐にプロペラの変更を提案した。
「計算機の演算には含まれていなかったプロペラを模型に取り付けました。プロペラの有無で反射を比較しましたが、想定以上に反射が大きいようです。ホルテンの機体では小径の木製だったために問題にならなかったのですが、金属製羽根を採用すれば、問題が出てくるでしょう。なるべく直径の小さな木製羽根に戻すしか改善法がなさそうです」
「空技廠では、ユンカース社が開発した合板製のVSという木製プロペラ翅の生産法を入手しています。樹脂を浸して圧縮した木材を重ね合わせて翅の形状に削りだします。それを活用すれば、電波反射のほとんどないプロペラへの変更は可能ですよ」
……
本格的に実機の設計が始まってから、10カ月後の昭和16年(1941年)7月には試作1号機が完成して試験飛行が始まった。ホルテンモーターグライダーによる飛行試験と空技廠の計算機で念入りに確認していた効果もあり、飛行自体は安定していた。飛行特性の確認と並行して、空中における電波の反射特性の計測を開始した。
技研の電磁気課は、電波反射の計測結果とその分析についてすぐに山名技師に報告した。
「まだ電波反射が残っていますね。この程度の反射ならば、遠方での電探による探知を避けることはできますが、接近すれば発見されるでしょう。あと一歩、電波反射を減らすように改修が必要だと思います」
さすがに山名少佐からもため息が出た。
「計算機や模型で判明した変更をしてきましたが、それでも対策が十分ではないのですか? さすがに機体の設計が終わってから変更をするとなると、時間がかかるかもしれません」
議論を聞いていた電磁気課の谷大佐は、妥協するつもりがなかった。
「電波反射の低減は必要です。そもそもこの機体の開発が電波反射の低減を前提として、井上本部長から許可されたのです」
結局、組み立て中の試作2号機はそのまま完成させて飛行試験を続けることとした。まだ製作に着手していなかった3号機については、これから決まるであろう電波反射を改善策を適用してゆくことになった。
私は電波の吸収対策として、やり残していることを実験しようと考えていた。
「実は、電波反射の低減策で、まだ一つ残っている方法があります。磁性体を含んだ電波吸収材を機体に塗ることです」
「それで、反射が減るのですか? それが事実ならば、設計変更に比べれば容易だと思う。もちろんすぐに効果を確かめましょう」
私は久しぶりに、日本電気化学工業のフェライトの第一人者である武井博士を訪問した。
「お久しぶりです。今日はフェライトの電波吸収特性についてお聞きしたいことがあってやってきました」
私は、特殊爆撃機のことには触れずに、電探開発の過程で、アンテナ周囲の構造部材の電波反射を減らすことが必要になっていると説明した。これも実際に現場で生じている課題なので、博士はすんなりと信じてくれた。
「それで、電磁波の反射を減らすために、フェライト粉を混入させた塗料を使えるのではないでしょうか? 磁性体は電磁波を熱に変換する特性を有すると論文で読んだ記憶があります」
「確かにおっしゃる通り、フェライトは電磁波を熱に変える特性があります。簡単に例えれば、ある程度電波を吸収すると考えても良いでしょう。電波反射を低減させたいのであれば、粉末状のフェライトを混ぜたパテやペンキを表面に塗る方法が考えられます。あるいはフェライト入りのタイルを貼り付ける方法もあり得ますね。但し、いくらか厚く塗布しないと吸収効果は小さいでしょう」
「広い曲面で使用することが前提なので、最初から塗料に混ぜて塗布することを採用したいと思います。フェライトを混合した塗料を試作することは可能ですか? 海軍で使っている塗料関係の化学会社ならば、日本電気化学工業と協力するようにお願いすることは可能です」
「フェライト粉末を粘性のあるペンキに混ぜるだけですよ。もっとも、効率を考えると混合比率とか、塗布する時の厚さなどの実験が必要になるはずです」
「実験用の塗料を作ってもらえば、塗り方や厚みに関しては、我々が実験して決めます」
……
試作品ができたので、電波模型を使用して実験してみると、効果を確認できた。模型を使って、塗料へのフェライト混合濃度や塗布の厚みを変えて実験を行った。薄く塗っただけではだめで、ある程度の厚みにパテのように塗らないと効果が少ないことがわかった。
続いて、試作3号機を使って、実際の機体にフェライト塗料を塗布した。模型の実験結果に基づいて、厚めに塗ったので、重量として150kg程度が機体に上乗せされることになってしまった。しかも色はフェライトのもともとの色を反映して、黒に近い灰色だけになった。つまりこの塗料を塗布すると、全面が薄黒い灰色になるということだ。
実機で計測して見ると試作1号機に比べて、かなり電磁反射が減少していた。谷大佐はこの結果を聞いて満足だった
「どうやら、塗料による電磁波の吸収効果だけではないようだ。そもそも機体の外板の継ぎ目のわずかな段差や溝で回析された電波が戻ってきていたが、それらがパテ状の塗料で平滑化されたために反射が減少している。相乗効果で試作1号機よりも電波反射が減少したと考えられる」
しかも効果は、電波反射だけではなかった。機体の重量は増加したが、厚い塗装により機体外板の凹凸が減少したおかげで、わずかだったが速度と航続距離が向上したのだ。
最後まで残ったのが、風防の反射だ。風防の枠と操縦席からの反射だった。ガラスやアクリル材は電磁波を透過するので、外部からの電波が操縦席内部に届いて、そこで反射した電波があちこちに戻ってゆくことになる。風防表面で電波を遮断すれば反射は防止できるが、可視光に対しては透明でなければならない。電波を通さないガラスの製造は容易ではなかった。
解決策として高電圧下で金属薄膜を蒸着させる技術を応用して、ガラス上に薄膜を形成することに成功した。それを合わせガラスにして風防用に使うこととした。透明度は少し悪くなったが、電波が操縦席内に入り込んで反射することは防止できた。なお、この方法はアクリル材には適用できないので、風防は平面ガラスの組み合わせになった。このガラスは貴重なので、キャノピーの前半から中央部までを合わせガラスとしたが、後部は完全に電波吸収塗料を塗った金属板で覆うことになった。戦闘機ではないので、これで問題ないだろうとの判断だ。
最後の変更は、エンジンの排気管だった。排気管を外部に露出すると電波反射源となることから、消炎型排気管を完全に翼内に収めた。主翼上面の開口部から空気を取り込んで、エンジン側面に設けた円筒形パイプに流す。エンジン排気はそのパイプ内に噴き出して中央翼後方上面の開口部から排出することとした。夜間での行動が想定される特殊爆撃機にとって、排気炎を抑制できる観点でもこの構造は好都合だった。
改修により、全ての電波の反射抑制対策を実施した試作3号機は、技研の評価でもほぼ満足する電波反射の特性を示すことになった。
いくつかの変更を経て、電波吸収塗料を全面に塗布した4号機と5号機が相次いで昭和16年(1941年)10月に完成した。この機体は艦上爆撃機として、主翼折りたたみ機構を備えていて、着艦用フックも装着されていた。飛行甲板の強度を増した「加賀」艦上で艦上機としての運用試験を開始した。1カ月後にはさらに3機の試作機が追加されて、爆撃や雷撃の試験が加速された。
特殊攻撃機は、空母運用にとって好都合な点もあった。全翼機は翼幅が大きいが、外翼を折りたためばかなり幅を小さくできる。しかも主翼より後方の胴体が存在しないため、前後方向には距離を詰めてきっちりと並べることができる。すなわち空母の格納庫に搭載する場合に無駄な面積がかなり少ないのだ。しかも、必然的に翼面荷重が小さいので、失速速度が低くなる。首車輪式であることも合わさって、双発の大型機であるにもかかわらず空母への離着艦は意外に難しくなかった。
十五試特殊艦爆の配備で、最後まで問題になったのは空母の飛行甲板の強度だった。我が国の全ての空母は、5トン程度の機体を前提としていて、「天山」の搭載時にも改修が必要だった。この機体の最大8トン近くの重量には全く耐えられない。飛行甲板の強化とエレベータの搭載量、着艦制動装置の荷重を増加させる改修が必要だった。双発機としての艦爆を運用可能な空母は大型艦に限られる。結果的に十五試特殊艦攻を搭載できるのは、甲板と各種装備を改装した後の「赤城」「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」に限られた。
……
試作機による飛行試験と並行して、制式化が確実視されると、中島飛行機では量産準備が始まった。この機体は、電波反射を低減させるために外板間の隙間と凹凸に対する要求精度が厳しかった。そのため、通常の航空機生産用の設備よりも精度の高い組み立て用の治具が必要になった。加えて、電波吸収用の特殊な塗料の塗装設備も準備する必要があった。その影響で生産設備の準備が完了するまでに、半年以上の期間を要することになった。
昭和17年(1942年)8月にはこの異色の機体を「銀河」として制式化することが決まった。但し、この時期には空母の改修が完了しておらず、陸上基地以外では本機の運用は不可能だった。しかも本機の特殊塗料は劣化が早いために、電探の低反射特性を維持するためには、半年に一度は再塗装の必要があった。
十五試特殊艦上爆撃機(M6Y1)銀河11型
・乗員:2名(操縦員、偵察員)
・全長:7.6m
・翼長:18.2m
・全高:2.8m
・翼面積:53㎡2
・自重:5,100kg
・最大離陸重量:7,600kg
・発動機:アツタ23型 離昇:1,610hp 定速6翅プロペラ(木製、直径:2.2m)
・最高速度:338ノット(626km/h、6,100m)
・戦闘行動半径:500海里(926km)
・武装:搭載せず
・爆装:1トンまでの爆弾、または魚雷×1
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大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
超量産艦隊
ypaaaaaaa
歴史・時代
海軍内では八八艦隊の議論が熱を帯びていた頃、ある一人の天才によって地味ではあるが大きく日本の未来を変えるシステムが考案された。そのシステムとは、軍艦を一種の”箱”と捉えそこに何を詰めるかによって艦種を変えるという物である。海軍首脳部は直ちにこのシステムの有用性を認め次から建造される軍艦からこのシステムを導入することとした。
そうして、日本海軍は他国を圧倒する量産性を確保し戦雲渦巻く世界に漕ぎ出していく…
こういうの書く予定がある…程度に考えてもらうと幸いです!
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