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第16章 外伝(ドイツ開発編)
16.3章 フォッケウルフとメッサーシュミット
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ドイツ空軍が開発を主導したパラメトロン計算機が十分実用可能な性能に達すると、ドイツ国内企業の中でそれを使いたいという意向を示す会社が次々と現れてた。特に空軍からの紹介もあって航空機関係企業は、各社ともにすぐにも使用を希望するとの要望を出してきた。
最初に名乗りを上げたのが、フォッケウルフ社だ。クルト・タンク博士は直ちに電子計算機を設計に使ってみようと考えていた。1941年(昭和16年)初旬の時点でフォッケウルフ社には、Fw190の実用化や双発爆撃機、Fw200の改良設計など開発が山積みであり、博士としては猫の手も借りたかった。
計算機を使うと言っても、さすがのクルト・タンクも、あまり重要でない部分の設計支援業務のような使い方から始めた。しかし、空軍のマルティーニ中将がテコ入れしたおかげで、各種の空力や強度計算を可能とするプログラムがそろってきた。短期間で航空機の設計に対応したプログラムが開発できたのは、ツーゼ技師の発明した高級言語のおかげだ。
計算機で答えを出せる項目がどんどん増えてくると、実機を飛行させなくても、風洞試験で取得したデータと計算機の演算結果を合わせて、飛行特性や性能をかなり的確に予測することが可能となった。実際に試作機を製作して、試験飛行させなくても、空力特性から、どのように飛ぶのか推測ができるようになったのだ。
特にFw190の改良に関しては、従来型のA型が高度6,000mを超えると急激に性能が低下するという欠点は開発当初から指摘されていた。それが、1941年末になって実戦配備された範囲が拡大してくると、実際に運用した部隊から高空での飛行性能の改善は緊急の要求としていくつも上がってくるようになった。この要求に応えるために、タンク博士が高高度性能改善の手段として検討したのは3種類の変更案だった。
第1案は、現行のBMWエンジンに排気タービンを追加して10,000m以上の戦闘を可能とする改修案だ。Fw190Aが搭載していたBMW801の後方に排気タービン付き過給器と圧縮空気の中間冷却器の追加を予定した。第2案は、大幅に高空性能は改善しないが、BMW801よりも中高度での性能が優れているDB603にエンジン交換する案だ。高高度での飛行性能は大きく改善しないが、現行の機体に比べて6,000mから8,000mでの中高度性能は向上するはずだ。第3案も同様にBMW801よりも中高度以上の性能が優れる液冷エンジンのJumo213にエンジンを換装して6,000mあたりを中心とする中高度での性能を改善する案だ。
クルト・タンク博士は、試験的に計算機を利用するという当初の予定を変えて、Fw190の改良開発に電子計算機をかなり本格的に使うことをすぐに決断した。自社の機体設計に対して、長時間専用に使えるように、1941年(昭和16年)8月には、ハノバー近郊のフォッケウルフ社のビルに計算機室を増築した。
Fw190の性能向上に関しては、この計算機による性能計算の段階で真っ先に開発を中断したのは、排気タービンを搭載した高高度型だった。排気タービンによる重量増加が過大となって、性能改善の度合いが小さいことが試作機の製作前に判明した。しかも、排気タービンを追加したBMW801TJエンジンそのものの開発もこの時期では順調に進展していなかった。後になって、やっとのことで安定して運転できるようになった排気タービン付きのBMW801TJは、1943年末になってJu388に使用されて12,000m以上での飛行を可能とすることになる。
この結果、タンク博士は高度6,000m以上の性能改善のために、液冷エンジン搭載型に絞って開発に注力することに決めた。Jumo213もDB603も、ほぼ同じ性能の1,800馬力級エンジンだ。但し、航空機に搭載する形態でエンジンの重量を比較すると、Jumo213の方が若干重い。
ユンカース社のJumo213は設計を始めるにあたって、エンジンの支持架や配管の接続位置を競合エンジンであるDB603と同じにしていた。これはDB603向けに設計された機体であっても、わずかな改修でJumo213を搭載を可能にするというユンカース社の作戦だった。ファーストエンジンとして採用されなくても、セカンドとしての地位は確保するという保険をかけたともいえる。
このため大きく機体側の変更をすることもなく、双方のエンジンの搭載が可能になった。排気タービン試験機という回り道をしなくて済んだために、Fw190にDB603とJumo213の2種類のエンジンを搭載した実験機は1942年1月には早くも完成した。この時点でDB603搭載型がFw190Cと呼ばれ、Jumo213を装備した機体がFw190Dとなった。
試験が進むとFw190CもFw190DもMW50水メタノール噴射を併用すれば、690km/hの高速を発揮して既存のFw190Aに対して圧倒的な優位が明らかになった。試験の報告を受けて、ドイツ航空省は、Jumo213装備のFw190Dの生産を優先するように指示した。DB603がやや軽いという影響から他社の航空機ではJumo213採用の事例はあまりなかった。それで、当時のエンジン需要はDB603がひっ迫することになった。それに比べて、供給に余裕があるJumo213を採用させたいという政治的な配慮が航空省から加えられた。フォッケウルフ社も、生産を順調に開始するために航空省の要求を受け入れた。
Fw190Dは液冷エンジンを搭載した機体として、約半年の試験を経て実戦配備可能となった。当然ながら、新しいエンジンを除けば機体としてはFw190の派生型であり、縦安定性の強化以外は飛行特性などの試験は大きな問題も発生せず、順調に進んだ。
Fw190Dの機体としての変更点は、エンジン換装のための機首の変化が最大だった。他の変更部については、垂直尾翼直前の胴体延長及び垂直尾翼自身の幅の拡大だけだった。機体構造に関しては、ほとんどFw190Aの主翼と胴体、尾翼が流用できた。従って、新しいエンジンが安定供給できれば、機体の構成部品は既存のFw190Aとほとんど変わらない。Fw190Aを生産していた工場のラインもわずかな変更で活用できた。はやくも1942年7月になってFw190Dの量産が開始された。Fw190Aは戦闘爆撃機としても重用されていたので、当面は2つの型が並行して生産されることになった。
Fw190D 1942年7月
・全幅:10.5m
・全長:10.19m
・全高:3.36m
・翼面積:18.30㎡
・自重:3,249kg
・正規全備重量:4,270kg
・発動機:Jumo213A、1,770hp
・速度:686km/h、6,600mにて(MW50ブースト使用時は、704km/h)
・武装:翼内:13mm×2、20mm×2
……
メッサーシュミットにとって、Bf109の次期の戦闘機開発はかなり大きな死活問題となっていた。1941年(昭和16年)初旬に登場したFw190Aは、メッサーシュミットが開発したBf109Fに対して、様々な点で上回っていた。飛行性能だけでなく、軍馬をイメージして設計されたFw190Aは頑丈な作りで、脚の弱さなどのメッサーシュミットの機構的な弱点も克服していた。Fw190Aは性能だけでなく前線で使いやすい航空機に仕上がっていたのだ、
それに加えて、双発戦闘機のMe210は完全な失敗作だった。開発当初からトラブル続きだったが、1941年から生産を開始したにもかかわらず、安定性も劣悪で実戦部隊では全く使いものにならず、発注を全てキャンセルするという醜態をさらしていた。
このままでは、空軍からも見離されるだろう。なんとしても、Fw190Aを上回る性能の次期戦闘機を実現しなければならない。
既に1940年には、メッサーシュミット社内で次期戦闘機の検討が始まっていた。空気抵抗の少ない引き込み式ラジエターを胴体下に設置して、比較的小さな主翼で高速をめざしていた。しかも首車輪と幅の広い内側引き込み脚という意欲的な構造で、Bf109の欠点を改善していた。エンジンは、出力の大きなDB603を前提としていた。
1941年になって、フォッケウルフ社が計算機を試験的に使い始めると、空軍の関係者経由でメッサーシュミット社にもその情報が流れてきた。競争心の強いウィリー・メッサーシュミットは自社でも航空機開発に計算機を利用することをすぐに決めた。使えるものは何でも利用してライバルに勝つのだ。早々とアウグスブルグのビルを拡張して、大型計算機を設置した。
試験的に計算機を使ってみると、設計時間短縮にかなり有効であることがすぐにわかった。メッサーシュミット社の設計陣は、開発が始まったばかりのMe309の開発(Me209は速度試験機の名称として既に使われていた)に対して性能推算や強度計算、振動解析の分野で本格的な利用を開始した。
設計中のMe309に対して、風洞試験と計算機を併用すると性能や安定性に関しての予測データを求めることができた。計算機が出してきた答えを吟味してゆくと、この戦闘機の欠陥が次第に明らかになってきた。
最初に問題になったのは、大迎角時に方向安定が不足していることだ。この結果、速度を落として仰角を大きくしなければならない離着陸時には、ふらついて操縦が極めて難しくなるだろう。方向安定の不足は空中の機動にも悪影響を与えており、空中戦で仰角を大きくすると水平錐もみになる傾向が予測できた。
更に、自重増加と主翼面積の関係からフラップとスリットを使用しても、離着陸速度が計画よりもかなり大きくなることが示された。翼面荷重が大きいため、大迎角時の安定性不良と合わせて空戦性能は劣悪だと判定された。計算結果を信じるならば、速度性能もそれほどではなく、総合的に考えても既存のBf109Fに対して大幅に優れる戦闘機にはならないことがわかった。
メッサーシュミット社は、試作機の製作に取り掛かるかなり前に、設計変更ではこれ以上、改良の余地すらないMe309の設計を全て破棄することにした。その代わり、全く別の機体をMe309Ⅱとして、新規に設計することを決断した。前作の反省から、Me309Ⅱはかなり保守的な設計に戻っており、Bf109の形状をそのまま拡大したような機体だった。但し、Bf109からは、主翼面積を増加して、安定性確保のために胴体も後方に延長した。経験の少ない首車輪式の脚は一般的な尾輪式にして、主脚も間隔の広い主翼内側への引き込み式とされた。液冷エンジンのラジエターもJu88などが採用していたエンジン前面に環状に取り付ける方式に変更した。
しかも、いくつかの変更にもかかわらずMe309Ⅱの機体は既存のBf109Fから65%の構造部品を流用していた。部品変更が少なければ設計も短期間で完了できる。工場での生産に対しても、部品製造も機体の組み立ても準備期間は短くて済む。1942年3月には、早くも試作機が完成して試験飛行が開始されると、開発中止になったMe309とは異なり安定性や操縦性に問題がないことが直ちに判明した。いい面でBf109の血を引き継いでいた。しかも、初期の速度試験で670km/hを超える速度が確認できた。若干翼面荷重が増加したために、旋回性能はBf109Fに比べれば、わずかに悪化している。しかし、重量当たりのエンジン馬力が改善しているので、垂直面での運動を併用すれば、決して空中戦で劣勢になることはなかった。むしろ、速度や上昇力向上の向上の効果が大きいと判定された。
何よりも競争相手のFw190Aに比べると、大きく速度で引き離し、旋回性能が優れていた。空中戦での優位は明らかだ。しかし、フォッケウルフが開発した新型のFw190Dとは、ほぼ互角の判定だった。それでもドイツ空軍は、メッサーシュミットの工場で戦闘機を量産することの利点と、2機種を主力とする冗長性確保の視点から採用を決めた。
ドイツ空軍から信頼を失いかけていたメッサーシュミットは、Me309Ⅱの成功により、なんとか評判を挽回できた。早くも1942年8月からは、名称を改めてMe309B(Me309Aは試作を取りやめた初期型)の生産が開始された。
メッサーシュミットはドイツ軍における政治力を生かして、この戦闘機を大量に受注した。従って、FW190Dよりもわずかに登場時期が遅く、量産中の機体からの流用率がわずかに劣るにもかかわらず、生産数はほぼ同数だった。
Me309Ⅱ(Me309B) 1942年8月
・全幅:10.95m
・全長:9.6m
・全高:3.56m
・翼面積:17.15㎡
・自重:3,105kg
・正規全備重量:4,058kg
・発動機:DB603A、1,750hp
・速度:681km/h、6,700mにて(MW50ブースト使用時は、703km/h)
・武装:翼内:13mm×2、20mm×3(1挺はエンジン軸内)
フォッケウルフとメッサーシュミットが計算機を使い始めれば、他社にもすぐに広がる。ユンカースやドルニエ、アラドも追随した。しかも、BMWとダイムラーベンツ、ユンカースなどのエンジン開発にも計算機の応用範囲は広がっていった。
最初に名乗りを上げたのが、フォッケウルフ社だ。クルト・タンク博士は直ちに電子計算機を設計に使ってみようと考えていた。1941年(昭和16年)初旬の時点でフォッケウルフ社には、Fw190の実用化や双発爆撃機、Fw200の改良設計など開発が山積みであり、博士としては猫の手も借りたかった。
計算機を使うと言っても、さすがのクルト・タンクも、あまり重要でない部分の設計支援業務のような使い方から始めた。しかし、空軍のマルティーニ中将がテコ入れしたおかげで、各種の空力や強度計算を可能とするプログラムがそろってきた。短期間で航空機の設計に対応したプログラムが開発できたのは、ツーゼ技師の発明した高級言語のおかげだ。
計算機で答えを出せる項目がどんどん増えてくると、実機を飛行させなくても、風洞試験で取得したデータと計算機の演算結果を合わせて、飛行特性や性能をかなり的確に予測することが可能となった。実際に試作機を製作して、試験飛行させなくても、空力特性から、どのように飛ぶのか推測ができるようになったのだ。
特にFw190の改良に関しては、従来型のA型が高度6,000mを超えると急激に性能が低下するという欠点は開発当初から指摘されていた。それが、1941年末になって実戦配備された範囲が拡大してくると、実際に運用した部隊から高空での飛行性能の改善は緊急の要求としていくつも上がってくるようになった。この要求に応えるために、タンク博士が高高度性能改善の手段として検討したのは3種類の変更案だった。
第1案は、現行のBMWエンジンに排気タービンを追加して10,000m以上の戦闘を可能とする改修案だ。Fw190Aが搭載していたBMW801の後方に排気タービン付き過給器と圧縮空気の中間冷却器の追加を予定した。第2案は、大幅に高空性能は改善しないが、BMW801よりも中高度での性能が優れているDB603にエンジン交換する案だ。高高度での飛行性能は大きく改善しないが、現行の機体に比べて6,000mから8,000mでの中高度性能は向上するはずだ。第3案も同様にBMW801よりも中高度以上の性能が優れる液冷エンジンのJumo213にエンジンを換装して6,000mあたりを中心とする中高度での性能を改善する案だ。
クルト・タンク博士は、試験的に計算機を利用するという当初の予定を変えて、Fw190の改良開発に電子計算機をかなり本格的に使うことをすぐに決断した。自社の機体設計に対して、長時間専用に使えるように、1941年(昭和16年)8月には、ハノバー近郊のフォッケウルフ社のビルに計算機室を増築した。
Fw190の性能向上に関しては、この計算機による性能計算の段階で真っ先に開発を中断したのは、排気タービンを搭載した高高度型だった。排気タービンによる重量増加が過大となって、性能改善の度合いが小さいことが試作機の製作前に判明した。しかも、排気タービンを追加したBMW801TJエンジンそのものの開発もこの時期では順調に進展していなかった。後になって、やっとのことで安定して運転できるようになった排気タービン付きのBMW801TJは、1943年末になってJu388に使用されて12,000m以上での飛行を可能とすることになる。
この結果、タンク博士は高度6,000m以上の性能改善のために、液冷エンジン搭載型に絞って開発に注力することに決めた。Jumo213もDB603も、ほぼ同じ性能の1,800馬力級エンジンだ。但し、航空機に搭載する形態でエンジンの重量を比較すると、Jumo213の方が若干重い。
ユンカース社のJumo213は設計を始めるにあたって、エンジンの支持架や配管の接続位置を競合エンジンであるDB603と同じにしていた。これはDB603向けに設計された機体であっても、わずかな改修でJumo213を搭載を可能にするというユンカース社の作戦だった。ファーストエンジンとして採用されなくても、セカンドとしての地位は確保するという保険をかけたともいえる。
このため大きく機体側の変更をすることもなく、双方のエンジンの搭載が可能になった。排気タービン試験機という回り道をしなくて済んだために、Fw190にDB603とJumo213の2種類のエンジンを搭載した実験機は1942年1月には早くも完成した。この時点でDB603搭載型がFw190Cと呼ばれ、Jumo213を装備した機体がFw190Dとなった。
試験が進むとFw190CもFw190DもMW50水メタノール噴射を併用すれば、690km/hの高速を発揮して既存のFw190Aに対して圧倒的な優位が明らかになった。試験の報告を受けて、ドイツ航空省は、Jumo213装備のFw190Dの生産を優先するように指示した。DB603がやや軽いという影響から他社の航空機ではJumo213採用の事例はあまりなかった。それで、当時のエンジン需要はDB603がひっ迫することになった。それに比べて、供給に余裕があるJumo213を採用させたいという政治的な配慮が航空省から加えられた。フォッケウルフ社も、生産を順調に開始するために航空省の要求を受け入れた。
Fw190Dは液冷エンジンを搭載した機体として、約半年の試験を経て実戦配備可能となった。当然ながら、新しいエンジンを除けば機体としてはFw190の派生型であり、縦安定性の強化以外は飛行特性などの試験は大きな問題も発生せず、順調に進んだ。
Fw190Dの機体としての変更点は、エンジン換装のための機首の変化が最大だった。他の変更部については、垂直尾翼直前の胴体延長及び垂直尾翼自身の幅の拡大だけだった。機体構造に関しては、ほとんどFw190Aの主翼と胴体、尾翼が流用できた。従って、新しいエンジンが安定供給できれば、機体の構成部品は既存のFw190Aとほとんど変わらない。Fw190Aを生産していた工場のラインもわずかな変更で活用できた。はやくも1942年7月になってFw190Dの量産が開始された。Fw190Aは戦闘爆撃機としても重用されていたので、当面は2つの型が並行して生産されることになった。
Fw190D 1942年7月
・全幅:10.5m
・全長:10.19m
・全高:3.36m
・翼面積:18.30㎡
・自重:3,249kg
・正規全備重量:4,270kg
・発動機:Jumo213A、1,770hp
・速度:686km/h、6,600mにて(MW50ブースト使用時は、704km/h)
・武装:翼内:13mm×2、20mm×2
……
メッサーシュミットにとって、Bf109の次期の戦闘機開発はかなり大きな死活問題となっていた。1941年(昭和16年)初旬に登場したFw190Aは、メッサーシュミットが開発したBf109Fに対して、様々な点で上回っていた。飛行性能だけでなく、軍馬をイメージして設計されたFw190Aは頑丈な作りで、脚の弱さなどのメッサーシュミットの機構的な弱点も克服していた。Fw190Aは性能だけでなく前線で使いやすい航空機に仕上がっていたのだ、
それに加えて、双発戦闘機のMe210は完全な失敗作だった。開発当初からトラブル続きだったが、1941年から生産を開始したにもかかわらず、安定性も劣悪で実戦部隊では全く使いものにならず、発注を全てキャンセルするという醜態をさらしていた。
このままでは、空軍からも見離されるだろう。なんとしても、Fw190Aを上回る性能の次期戦闘機を実現しなければならない。
既に1940年には、メッサーシュミット社内で次期戦闘機の検討が始まっていた。空気抵抗の少ない引き込み式ラジエターを胴体下に設置して、比較的小さな主翼で高速をめざしていた。しかも首車輪と幅の広い内側引き込み脚という意欲的な構造で、Bf109の欠点を改善していた。エンジンは、出力の大きなDB603を前提としていた。
1941年になって、フォッケウルフ社が計算機を試験的に使い始めると、空軍の関係者経由でメッサーシュミット社にもその情報が流れてきた。競争心の強いウィリー・メッサーシュミットは自社でも航空機開発に計算機を利用することをすぐに決めた。使えるものは何でも利用してライバルに勝つのだ。早々とアウグスブルグのビルを拡張して、大型計算機を設置した。
試験的に計算機を使ってみると、設計時間短縮にかなり有効であることがすぐにわかった。メッサーシュミット社の設計陣は、開発が始まったばかりのMe309の開発(Me209は速度試験機の名称として既に使われていた)に対して性能推算や強度計算、振動解析の分野で本格的な利用を開始した。
設計中のMe309に対して、風洞試験と計算機を併用すると性能や安定性に関しての予測データを求めることができた。計算機が出してきた答えを吟味してゆくと、この戦闘機の欠陥が次第に明らかになってきた。
最初に問題になったのは、大迎角時に方向安定が不足していることだ。この結果、速度を落として仰角を大きくしなければならない離着陸時には、ふらついて操縦が極めて難しくなるだろう。方向安定の不足は空中の機動にも悪影響を与えており、空中戦で仰角を大きくすると水平錐もみになる傾向が予測できた。
更に、自重増加と主翼面積の関係からフラップとスリットを使用しても、離着陸速度が計画よりもかなり大きくなることが示された。翼面荷重が大きいため、大迎角時の安定性不良と合わせて空戦性能は劣悪だと判定された。計算結果を信じるならば、速度性能もそれほどではなく、総合的に考えても既存のBf109Fに対して大幅に優れる戦闘機にはならないことがわかった。
メッサーシュミット社は、試作機の製作に取り掛かるかなり前に、設計変更ではこれ以上、改良の余地すらないMe309の設計を全て破棄することにした。その代わり、全く別の機体をMe309Ⅱとして、新規に設計することを決断した。前作の反省から、Me309Ⅱはかなり保守的な設計に戻っており、Bf109の形状をそのまま拡大したような機体だった。但し、Bf109からは、主翼面積を増加して、安定性確保のために胴体も後方に延長した。経験の少ない首車輪式の脚は一般的な尾輪式にして、主脚も間隔の広い主翼内側への引き込み式とされた。液冷エンジンのラジエターもJu88などが採用していたエンジン前面に環状に取り付ける方式に変更した。
しかも、いくつかの変更にもかかわらずMe309Ⅱの機体は既存のBf109Fから65%の構造部品を流用していた。部品変更が少なければ設計も短期間で完了できる。工場での生産に対しても、部品製造も機体の組み立ても準備期間は短くて済む。1942年3月には、早くも試作機が完成して試験飛行が開始されると、開発中止になったMe309とは異なり安定性や操縦性に問題がないことが直ちに判明した。いい面でBf109の血を引き継いでいた。しかも、初期の速度試験で670km/hを超える速度が確認できた。若干翼面荷重が増加したために、旋回性能はBf109Fに比べれば、わずかに悪化している。しかし、重量当たりのエンジン馬力が改善しているので、垂直面での運動を併用すれば、決して空中戦で劣勢になることはなかった。むしろ、速度や上昇力向上の向上の効果が大きいと判定された。
何よりも競争相手のFw190Aに比べると、大きく速度で引き離し、旋回性能が優れていた。空中戦での優位は明らかだ。しかし、フォッケウルフが開発した新型のFw190Dとは、ほぼ互角の判定だった。それでもドイツ空軍は、メッサーシュミットの工場で戦闘機を量産することの利点と、2機種を主力とする冗長性確保の視点から採用を決めた。
ドイツ空軍から信頼を失いかけていたメッサーシュミットは、Me309Ⅱの成功により、なんとか評判を挽回できた。早くも1942年8月からは、名称を改めてMe309B(Me309Aは試作を取りやめた初期型)の生産が開始された。
メッサーシュミットはドイツ軍における政治力を生かして、この戦闘機を大量に受注した。従って、FW190Dよりもわずかに登場時期が遅く、量産中の機体からの流用率がわずかに劣るにもかかわらず、生産数はほぼ同数だった。
Me309Ⅱ(Me309B) 1942年8月
・全幅:10.95m
・全長:9.6m
・全高:3.56m
・翼面積:17.15㎡
・自重:3,105kg
・正規全備重量:4,058kg
・発動機:DB603A、1,750hp
・速度:681km/h、6,700mにて(MW50ブースト使用時は、703km/h)
・武装:翼内:13mm×2、20mm×3(1挺はエンジン軸内)
フォッケウルフとメッサーシュミットが計算機を使い始めれば、他社にもすぐに広がる。ユンカースやドルニエ、アラドも追随した。しかも、BMWとダイムラーベンツ、ユンカースなどのエンジン開発にも計算機の応用範囲は広がっていった。
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ypaaaaaaa
歴史・時代
海軍内では八八艦隊の議論が熱を帯びていた頃、ある一人の天才によって地味ではあるが大きく日本の未来を変えるシステムが考案された。そのシステムとは、軍艦を一種の”箱”と捉えそこに何を詰めるかによって艦種を変えるという物である。海軍首脳部は直ちにこのシステムの有用性を認め次から建造される軍艦からこのシステムを導入することとした。
そうして、日本海軍は他国を圧倒する量産性を確保し戦雲渦巻く世界に漕ぎ出していく…
こういうの書く予定がある…程度に考えてもらうと幸いです!
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