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第18章 外伝(北アフリカ戦線編)
18.3章 ロンメルの攻勢
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1942年初頭から第2航空艦隊がマルタ島への航空攻撃を強化したおかげで、イタリアから北アフリカに向かう輸送船の被害は格段に減少した。潜水艦や長距離爆撃機の脅威は完全に無くなったわけではなかったが、北アフリカ戦線への軍事物資の輸送環境は大きく改善された。入港する貨物船も増えて、多くの物資が陸揚げされるようになった。
4月になって、ロンメルが待っていた新型装備がイタリアのから地中海を横断して、やっとトリポリ港に揚陸された。北アフリカ軍団の最高指揮官自らが要求した装備とは、指揮用の計算機搭載車だった。
計算機搭載車は、ドイツ軍で最大のSd.Kfz.9(18トン重ハーフトラック)の荷台に、ぎりぎりの大きさの立方体の鋼板製電子機器格納室を搭載していた。鋼製の箱の内部には、電子計算機と電源を内蔵していた。更に、Sd.Kfz.9にほぼ同型の電子機器室を搭載した別の1台は、計算機の代わりに各種の通信機と上部に折り畳み式のアンテナを装備していた。2台の間は太いケーブルで接続可能となっていて、無線機が受信した情報を直接計算機に入力することが可能だった。もちろん計算機の暗号情報を無線機に入力や出力させて、他の計算機との間で情報交換することも可能だ。
ロンメルはたとえ兵力が劣勢でも、最前線に出て、状況に応じた臨機応変な指揮により、勝利を収めてきた。彼は、この指揮車を利用して、更に指揮のスピードを向上させて広い範囲の友軍を効果的に戦わせるつもりだった。最前線での指揮の大きな欠点は、自分がいない戦線での状況把握が不十分になって、反応が遅れるという点だ。この指揮車があれば、友軍全体の情報を入手してから、極めて短時間のうちに命令発出が可能だ。彼は自分が身上とする高速機動戦をもっと広い範囲で実行するつもりだった。この計算機搭載車は、3台が北アフリカに配備されていた。全てがそろえば、ロンメル配下の装甲師団やイタリア軍団などにも配置して、離れていても戦闘状況を把握したうえで、祖語に連携した戦闘が可能となるはずだ。
ロンメルの満足そうな顔を見て、参謀長のバイエルライン大佐がくぎを刺した。
「こんな高機能の車両を連合軍に奪われたら、大変なことになりますよ。非常時には自爆させるための爆薬がついていますが、そもそも前線近くには行かないことです。危険な区域には絶対に踏み込まないように行動範囲を規制します」
さすがに正論なので、ロンメルも反対できない。北アフリカの砂漠の戦いでは、短時間で前線が大きく変わることがある。前線に出ていただけで、敵の支配域に取り残される危険も十分あり得る。
1942年になって、リビア東方のキレナイカ付近まで、連合軍の部隊を押し戻していた枢軸軍は、一時的に前進が止まっていた。停滞の原因は、武器弾薬から燃料、食料まであらゆる物資の不足が理由だった。
それが、リビアに陸揚げされた火砲や車両、物資を補給した結果、5月上旬には息を吹き返して攻撃準備が完了した。キレナイカの東方では、防衛の拠点となるガザラとビル・ハケイム、それにトブルクがそれぞれが三角形の頂点となるような位置関係になっていた。この3拠点を抜くことができれば、国境を超えてエジプト領内へと攻め込むことが可能となる。
空と陸からの偵察により、ガザラからビル・ハケイムに至る地域には、海岸近くから南南東に伸びた線上の区域に堅固な連合国の陣地が構築されているのが判明した。複数の対戦車砲と榴弾砲を備えた火砲と機銃陣地を円形になるように組み合わせて、更に外郭部は鉄条網と地雷原、対戦車壕で防御していた。それぞれの防衛拠点がボックス陣地と呼ばれる小さな要塞のような構造だった。
ガザラの海岸線から奥地のビル・ハケイムまでの60km以上の地域に多数のボックス型陣地と陣地間の地雷原が直線状に配備されていた。線状の防衛線は、前線兵士から「ガザラライン」と呼ばれた。
アフリカ軍団司令部は、「ロンメルのバス」を計算機搭載車の横に停車させていた。もともとイギリス軍が使用していた装甲車を鹵獲してロンメルの専用車両にしていたのだ。
装甲車のキャビンでは、バイエルライン大佐が今後の作戦を説明していた。
「イタリア軍が、ガザラに向かっています。このまま前進しても、ガラザラインで前進を止められて、その後はビル・ハケイムの兵力により側面を突かれるでしょう。イタリア軍の防衛力を前提とすると、側面を攻撃されればかなりの損害が出ると予想されます」
ロンメルは、ガザラとビル・ハケイムを同時に攻撃して、短時間でトブルクへ侵攻するつもりだった。時間を節約したかったのだ。しかし、短時間での一斉攻撃は不可能だとわかってきた。
「攻撃作戦については、計算機がいくつかの案を示しています」
ロンメルはバイエルラインの指先が示している文章をじっと読んでいた。
「計算機が示しているのは、まずはガラザラインの各拠点への挟み撃ちか。ガザラに牽制のために攻撃をしかける案も示しているな。良かろう。まずは、ガザララインの兵力を叩く。防衛ラインを切断すれば、ガザラとビル・ハケイム間の連携は断ち切られる。その後は個別撃破だな。この案が気に入ったぞ」
……
5月10日になって、イタリア軍がガザラを包囲して砲撃を開始した。ガザラを力攻めするぞというポーズだ。同時にガザララインの陣地前面にはドイツ軍とイタリア軍が迫っていった。
まずガザララインの西側の砲兵陣地から、野砲が一斉に射撃を開始した。火砲は、ドイツ陸軍制式兵器だけでなく、イギリス軍の火砲や東部戦線でソ連軍から鹵獲した榴弾砲までさまざまだった。手持ちの火砲を全て使ってザララインの陣地に激しい砲弾の雨を降らせた。しかも西方から、トラックに木製の箱や疑似砲塔を追加して戦車に擬装した車両を多数前進させた。西側から主力による攻勢をしかけていると思わせるためだ。
その頃、ドイツ軍第15装甲師団と第21装甲師団の戦車と自走砲を主体とした部隊とイタリア軍の第20自動車化軍団は、足の速さを生かして、ビル・ハケイムの南側を大きく迂回していた。深夜のうちに南下して迂回した後に北上すると、ガザララインの東側の背後へと出てきた。
第15装甲師団の指揮官であるクラセマン大佐は周囲を観察していた。
「どうやら、敵に見つからずに攻撃開始地点には出られたようだな。アフリカ軍団の司令部に伝えてくれ」
司令部に準備ができたことを連絡して、しばらく待っていると西側のドイツ軍からの砲撃が始まった。陣地の守備隊は西側に注意を向けているはずだ。
「挟撃の態勢はできた。我々も攻撃開始だ。配下の戦車大隊へ戦闘開始を命令してくれ。陣地の火砲をまずは攻撃する」
第15装甲師団配下の第1大隊長のキュメル少佐は、カラザライン中部の最も規模の大きな陣地を目指していた。ガラザラインのほぼ中央部に位置して、通称「大釜」と名付けられた大規模な防御陣地だ。クラセマン大佐からの命令を受信すると、直ちに攻撃開始を命令した。
「陣地中央部の砲兵陣地を射撃せよ。まずは火砲の無力化だ」
セオリー通り、戦車と自走榴弾砲の射撃により、遠方から射撃可能な大口径砲から無力化してゆく。キュメル少佐は、ボックス陣地の中央部に布陣している榴弾砲を狙った。榴弾砲に続いて周囲に配置されていた対戦車砲と機銃座にも榴弾の雨を降らせた。
「弾薬はまだ十分ある。今日は、贅沢に砲弾を使っていいぞ。これも補給が改善したからだな」
ボックス型陣地は基本的に360度の全方向に対して攻撃可能な形状をしていたが、火砲は、西方からの敵襲を警戒して、大半がそちらの方向を向いていた。ところが、想定に反して、東側から強烈な攻撃を受けると、陣地の守備隊は慌てて火砲を反対方向に向けようとした。しかし、砲弾が落ちてくる方が早かった。
砲撃の様子を見ていたキュメル少佐は、大声で戦車隊の突撃を命令した。彼の部隊の全員が待っていた命令だ。
「戦車隊前へ(パンツァー、フォー)」
自身のⅣ号も前進させる。まだ榴弾砲の爆炎も収まらないうちに戦車隊が前進を開始した。第1大隊の攻撃陣形は、前面の戦車が矢じりのように並んだ隊形で突進するパンツァーカイルだ。大隊に属する4つの中隊が4つの矢じりを構成して前進してゆく。
戦車の前進に合わせて、後方の自走砲が戦車前面に砲弾を落とし始めた。残っている対戦車砲と地雷を無力化するためだ。
戦車が鉄条網に達すると、陣地中央に盛り上がった小山が見えた。
「前面に陣地の指揮所が見える。第2中隊は小山を砲撃せよ」
Ⅲ号戦車が近距離から人工的に盛り上がった地域に射撃を集中した。少佐の短砲身Ⅳ号も榴弾で盛り土の部分を砲撃した。ボックス陣地の中央部には地下に穴を掘って、陣地の指揮所が設けられているはずだ。集中射撃により盛り土が飛び散ると、内部の部屋に砲弾が突入したようだ。爆発により、内部の機器や壁面の木材が飛び散るのが見えた。
地下の指揮施設が砲撃により壊滅すると、ボックス陣地からの火力は一気に弱体化した。塹壕の中から、東北東のトブルクに向けて兵の脱出が始まった。
「大釜」に限らず、ガザララインのいたるところで、似たような光景が見られた。想定外の方向からの攻撃で次々と防衛拠点となっていた陣地が落とされてゆく。連合軍の火砲と機銃の反撃が無くなると、早くも工兵が前進してきた。陣地周辺に残された地雷やトラップを取り除くためだ。
ガザララインへの攻撃が始まると、トブルクの西方から西南方向にかけての地域で待機していた連合軍の戦車隊が出てきた。これらのイギリス戦車部隊は、ガザララインを西側から突破しようとする敵軍が現れた場合に、トブルク方面から西へと進んで、機動力を生かして突破しようとする枢軸軍機甲部隊を迎え撃つ役割だった。しかし、迂回して南から北西方向に進んできたドイツ軍の機甲部隊により、ガラザラインの陣地は攻撃されており、想定していた状況とは異なっていた。それでも、イギリス戦車部隊の位置から枢軸軍の部隊を背面あるいは側面から攻撃できる可能性があった。ガザララインが完全に崩壊する前に枢軸側の戦車部隊を攻撃するために全速で西へと出てきたのだ。
イギリス陸軍第4機械化旅団の戦車隊は、主力がアメリカ製のM3グラントで、北アフリカではおなじみになっているマチルダⅡ型が後方に続いていた。ガザララインを東から攻撃しようとするドイツ軍とイタリア軍の戦車部隊に対して背後を突くように東から西に前進してきた。
連合軍戦車の接近に気づいたキュメル少佐は、反撃を命じた。
「敵戦車隊、方位80度、5時方向だ。各車反撃せよ」
第1大隊のⅢ号戦車は、180度方向転換して、42口径の50mm砲で反撃したが、M3グラントは、正面装甲に命中した50mm弾を跳ね返すと、車体前面の75mm砲を撃ってきた。かろうじて外れたが、75mm弾が命中すればⅢ号の装甲は何の役にも立たないだろう。
別のⅢ号戦車が狙ったマチルダも分厚い前面の装甲板が砲弾を弾き飛ばした。ほぼ同時に発砲したマチルダの2ポンド砲は、Ⅲ号の砲塔を貫通して、内部に飛び込んだ。砲塔のハッチから激しく黒煙が噴き出した。
連合軍の戦車が攻勢に出てきたことは、すぐにロンメル司令部に情報が上がった。ロンメルは第15装甲師団の後方に続行していた部隊にいくつかの命令を発した。その後、すぐに第1大隊に後退を命じた。貴重な戦車をここで消耗するわけにはいかない。
Ⅲ号やⅣ号戦車が後退してゆくと、連合軍の戦車はドイツ軍戦車を追撃していった。マチルダの欠点の一つは速度がドイツ戦車に劣ることだった。M3は、それ程劣速ではなかったが、マチルダの部隊を後方に残してゆくのをためらった。
第1大隊の戦車が、後退していった先には、10門の高角砲部隊が準備を終えて待ち構えていた。
バッハ少佐は、双眼鏡で砂塵を巻き上げながら近づいてくる戦車を見ていた。
「まだ撃つな。前方を走ってくるのは友軍のⅢ号とⅣ号だ」
しばらく様子を見てから、少佐は黄色の信号弾を上に向けて打ち上げた。それを見て、前方のⅢ号が南西側へと曲がってゆく。高角砲の射線を邪魔しないためだ。友軍戦車隊が回頭するのを待って、少佐は赤い信号弾を撃ちあげた。88mmFlakは、既に接近してくるイギリスとアメリカ戦車に照準を合わせていた。
連合国の戦車隊が罠に気づいた時には手遅れだった。ロンメルは、88mm高射砲を配置につかせて、その砲列に誘い込むように、自軍の戦車隊を後退させたのだ。
ロンメルの罠に誘引されてきたマチルダとM3に向けて、88mm砲が一斉射撃を開始した。88mmの徹甲弾は遠距離射撃でも、容易にイギリスとアメリカ戦車の正面装甲を貫通した。砂漠を進撃してきたマチルダとM3は、次から次へと残骸に変わっていった。罠にはまった連合国の戦車部隊が攻撃されていると、第1大隊のやや南方で陣地攻撃をしていた第2大隊もM3グラントに追われて後退してきた。
右翼側の88mmは新たな目標を発見して北西に砲を向けた。すぐに射撃を開始するが、イギリス軍のM3が75mmの射程を生かして激しく砲撃してきた。榴弾が至近弾となるだけで、装甲のない高射砲は砲そのものも射撃要員も簡単に無力化される。長射程の88mmは懐に飛び込まれればもろいのだ。
その時、上空から見慣れない双発機が降下していた。最近になって北アフリカに配備されたばかりのHs129だ。北アフリカや東部戦線で活躍したHs129は、別称として「空飛ぶ缶切」と呼ばれるようになる。第2地上攻撃航空団(Sch.G2)のマイヤー少佐にとって、この機体による攻撃は、初めての経験だった。しかし、胴体下の30mmMK101機関砲で射撃すると、目標となったM3は車体後部から簡単に炎を噴き上げた。ガソリンエンジンを弾丸が直撃したのだ。
続いて射撃したマチルダも車体上面に命中した30mm弾を天井の装甲では防ぐことはできなかった。車体内部の主砲弾が誘爆して、砲塔が吹き飛んだ。この日、第2地上攻撃航空団から出撃できたHs129は4機だけだったが、次々と戦車を撃破していった。
地上では、航空攻撃を避けようと方向転換した戦車には、88mm砲が射撃を加えた。
第15装甲師団がイギリス軍の戦車隊と戦っている頃、やや北方では、第21装甲師団の戦車隊が、イギリス軍第2機械化旅団のM3と戦っていた。戦闘の推移はほとんど似たような状況だったが、誘い込まれた連合軍戦車隊を迎え撃ったのは、88mmFlakではなく、チェコ製の車体に東部戦線で鹵獲した76.2mm砲を搭載したマーダーⅢ自走砲だった。それに加えて、配備が始まったばかりの長砲身75mm砲を搭載したⅢ号突撃砲が射撃を開始すると、連合軍戦車の数がどんどん減っていった。
そこに上空から第3急降下爆撃航空団(StG3)のJu87が爆撃を加えてきた。重装甲の戦車も爆弾を命中させられればひとたまりもない。この地域に展開していた大半の戦車が破壊された。
ガザラ南方の戦いが一段落した時、砂漠の上で残骸になった連合軍の戦車は100両を超えていた。
……
5月15日の朝から、ビル・ハケイムのハリネズミ陣地への攻撃が始まった。この陣地を守っていたのは自由フランス軍の部隊だった。既にガラザラインは撃破されて、各防御拠点が連携するはずだったにもかかわらず、防衛部隊は完全に孤立していた。しかし、イタリア軍のアリエテ戦車師団は、抵抗を続ける自由フランス軍を攻めあぐねていた。祖国を失ってもアフリカの地で戦い続けているフランス兵はさすがに粘り強かった。
ビル・ハケイムの前面からイタリア軍が後退すると、ドイツ空軍が空から猛烈な爆撃を加えた。He111の編隊がめぼしい目標に水平爆撃を加えた。もちろん、その程度の航空攻撃では、塹壕や地下の施設、土のうで防御した火砲の一部が破壊されただけだ。
それでも、周囲の地雷原に多数の爆弾が落ちたおかげで、防御陣地に隙間が生じた。ロンメルはこれを見逃さなかった。第15装甲師団の部隊を分離して、ビル・ハケイムに突入させたのだ。地雷原の隙間から、防御陣地へと迫ると近距離から猛烈な射撃を加えた。粘り強く戦ってきたフランス人の守備隊も、目前に戦車が迫ってくるとさすがに浮足立った。一度は後退していたイタリアのアリエテ戦車師団も、戻ってきて砲撃を加えてきた。反撃を受けたときには後退して、その後はドイツ軍に続いて後方から進むというイタリア部隊の行動原則に従っていた。
しかし、イタリア軍の砲弾でも爆発すれば周囲に被害が出る。圧倒的な枢軸軍の兵力による攻撃に、フランス自由軍守備隊のリッチー将軍は遂に退却の許可を与えた。耐えかねた陣地の残存兵力は、一旦西側に脱出してからトブルク方面を目指した。統一がとれた行動で西の枢軸軍に突撃して脱出したため、多数のフランス人兵士がトブルクの防衛部隊に合流できた。
大部隊を東方のエジプト方面に移動させたい枢軸軍にとっては、複数の道路が交差しているビル・ハケイムはぜひとも手に入れたい交通の要衝だった。
ビル・ハケイムへの攻撃と同時に、ガザラはイタリア軍の第10軍と第21軍を中心とした軍団に攻撃されていた。ガザラを防衛していた部隊の中心は南アフリカ師団だった。イギリス正規軍に比べれば訓練も装備も1レベル劣るのはやむを得ない。しかも、ガラザラインの中央部が突破されて、トブルクの南西で控えていたイギリス戦車旅団は大きな被害を受けていたため、ガザラ防衛に応援はやってこない。必然的にガザラ守備隊の士気は下がってゆく。
実質的に、ガザラの防衛兵力は南方陣地の南アフリカ師団が突破されれば、何もない状態だった。兵力で優るイタリア軍からの攻撃で、南アフリカ師団の防衛線は突破された。ガザラ南方のバルビア街道を打通した時点で、ガザラの防衛部隊は総崩れになった。戦闘が不利になると兵力の多数はトブルク方面に脱出したが、陣地に残っていた部隊は降伏した。
……
ガザラの連合軍を1週間で壊滅させると、ロンメルは東のトブルクに向けて前進を開始した。既にガラザラインも崩壊して「大釜」もビル・ハケイムの陣地も枢軸軍に占領された。しかもドイツ軍の戦車部隊との戦闘により、トブルクの南西側で待機していたイギリス軍の機甲部隊も散々叩かれて、大きく兵力を消耗してしまった。ドイツ軍との激しい戦車戦を終えて、トブルク防衛のために戻ってきた戦車と装甲車両を合わせても、50両以下だった。
元々、トブルク要塞はイタリアの領土だった時代に周囲を全て取り囲むように陣地を構築したのが始まりだ。連合軍は、イタリア軍が構築した市街地をぐるりと囲んだ陣地の外郭部に戦車壕と地雷原を中心とする新たな防衛線を追加していた。しかし、ロンメル軍団の急速な進撃により、防御陣地の構築が完了する前に連合軍は攻撃を受けることになった。
しかも、ガザララインの防衛に多数の兵力を抽出してしまったこともあり、トブルクの防衛はインド兵の1個大隊が中心となっていた。
ロンメルは5月29日にトブルクの包囲を完了すると、陣地への攻撃を6月2日に開始した。ロンメルにとっては、トブルクの陣地や司令部の建築物、物資集積所は既知の内容だった。何しろ枢軸軍と連合軍で交互に持ち主が変わったのがトブルクだったのだ。
イタリア軍の構築した陣地の構造は変わっていない。外部の地雷原と戦車壕、対戦車砲陣地を空軍と砲撃によりつぶせば、その内側は枢軸軍も詳細な地図を持っている陣地だった。ロンメルは、陣地の弱い部分にアフリカ軍団の兵力を集中して大きな圧力を加えた。
6月4日夕刻までには、枢軸軍はトブルクの中心部に近い港湾が見える位置まで前進できた。連合軍に残っていた戦車部隊もドイツ軍機甲部隊の攻撃で、短時間で撃破された。その結果、市街の西半分の守備隊が降伏した。守備隊の防衛線があっという間に崩壊したので、トブルグ砦内部の部隊はほとんど脱出することができなかった。トブルクの守備隊として残って抵抗していた最後の守備隊も6日には陣地を放棄して降伏した。
トブルクへの枢軸軍の攻撃が急で、しかも陣地も短時間で崩壊したために、連合軍は陣地内の装備や備蓄物資を運び出すことも、破壊することもできなかった。このため、ロンメル軍団はトブルクに残された5,000トンもの水や食料、燃料、輸送車両などを入手できた。しかもトブルクには港湾の設備があった。決して大規模な施設ではないが、貨物船をトリポリから東に航行させれば港から直接物資の揚陸ができる。わざわざトラックの列を作って地上を輸送するよりも圧倒的に輸送効率が良い。
……
6月8日になって、ロンメルはヒトラーから、元帥への昇進通知を受け取った。しかし彼が望んでいたのは形式的な元帥杖ではなく、1個師団の増援部隊だった。
イタリア領リビアから連合軍を追い落とした後の作戦については、ロンメルは直ちにエジプトに侵攻して、どんどん東に進んでスエズ運河を押さえるつもりだった。エジプトに侵入して、エル・アラメインに続いて、アレクサンドリアを占領すれば、海軍艦艇や大型貨物船が停泊できる港が手に入る。それに続いて、この地域への輸送ならば、既にドイツが占領しているクレタ島の戦力も活用できるはずだ。アレクサンドリアに続いて、スエズ運河を押さえれば、その向こう側は中東だ。石油を産出するイラクへも侵攻の可能性が出てくる。
一方、ケッセルリンクは既に弱体化していたマルタ島の攻略を希望していた。マルタ島を枢軸側が確保すれば、北アフリカの攻略と合わせて地中海の中央部は全て枢軸国の支配域となる。しかし、空挺部隊は保有していても上陸部隊を持たない空軍ではできることに限りがある。重量級の火砲が不十分な空挺部隊だけで攻略を進めれば、大損害を被ることは前年のクレタの戦いで明らかになった。彼は何とかイタリア軍を動かそうとしていた。
ケッセルリンクが、望んでいたマルタ島攻略のヘラクレス作戦は一度は延期された。しかし、その後も枢軸軍の攻撃が繰り返されて、マルタの戦力は復活していなかった。ジブラルタルとアレキサンドリアからの輸送船団も撃滅されたり追い返されたために、相変わらず連合軍の輸送船はマルタに入港していなかった。
ロンメル軍団は6月15日には、早くもリビアから国境を超えてエジプトに侵入して、マルサ・マトルーへの侵攻を開始した。マルサ・マトルーは、トブルクとエル・アラメインの中間にある街だ。今までの戦いで戦力を消耗した連合軍司令官のオーキンレック大将はむやみに攻勢に出ることなく、陣地で兵力の温存を命じていた。逆にガザラとトブルクを攻略したロンメル側の兵力はある程度消耗していたが、計算機が立案した作戦が功を奏して、損耗は許容限度内だった。
オーキンレックはマルサ・マトルーの防御陣地の構築を急がせていたが、それが完了する前にロンメルの軍団が攻撃してきた。しかも、マルサ・マトルーの守備隊は歩兵師団と機甲師団を離して独立配備するという失策を犯した。そのため、枢軸軍に包囲されると相互支援できずに個別撃破されてしまった。ロンメル軍団の圧力に耐えられなくなると、オーキンレックの兵力維持の方針に従い、防衛部隊のエル・アラメイン方面への脱出が始まった。損害が出始めて、消耗を避けるための退避という名の逃走が始まると、防衛部隊は内部から崩れていった。
自動車化された部隊が歩兵部隊も乗せて運んだために、かなりの数のマルサ・マトルーの部隊が夜陰に乗じて、エル・アラメインへの脱出に成功した。あまりに素早く後退したために、ガザ南方の戦いのように連合軍主力を捕捉して撃滅しようというロンメルの計画は成功しなかった。それでも、枢軸軍はトブルクに続いてマルサ・マトルーの倉庫に備蓄されていた燃料や食料などの備蓄物資を手に入れることができた。また、逃げ遅れたイギリス軍の戦車を40両ほど鹵獲できた。
ロンメルはこんなところで時間を浪費するつもりは毛頭なかった。まだ砲撃の音が止まないうちから、次の攻略作戦の検討を始めていた。
4月になって、ロンメルが待っていた新型装備がイタリアのから地中海を横断して、やっとトリポリ港に揚陸された。北アフリカ軍団の最高指揮官自らが要求した装備とは、指揮用の計算機搭載車だった。
計算機搭載車は、ドイツ軍で最大のSd.Kfz.9(18トン重ハーフトラック)の荷台に、ぎりぎりの大きさの立方体の鋼板製電子機器格納室を搭載していた。鋼製の箱の内部には、電子計算機と電源を内蔵していた。更に、Sd.Kfz.9にほぼ同型の電子機器室を搭載した別の1台は、計算機の代わりに各種の通信機と上部に折り畳み式のアンテナを装備していた。2台の間は太いケーブルで接続可能となっていて、無線機が受信した情報を直接計算機に入力することが可能だった。もちろん計算機の暗号情報を無線機に入力や出力させて、他の計算機との間で情報交換することも可能だ。
ロンメルはたとえ兵力が劣勢でも、最前線に出て、状況に応じた臨機応変な指揮により、勝利を収めてきた。彼は、この指揮車を利用して、更に指揮のスピードを向上させて広い範囲の友軍を効果的に戦わせるつもりだった。最前線での指揮の大きな欠点は、自分がいない戦線での状況把握が不十分になって、反応が遅れるという点だ。この指揮車があれば、友軍全体の情報を入手してから、極めて短時間のうちに命令発出が可能だ。彼は自分が身上とする高速機動戦をもっと広い範囲で実行するつもりだった。この計算機搭載車は、3台が北アフリカに配備されていた。全てがそろえば、ロンメル配下の装甲師団やイタリア軍団などにも配置して、離れていても戦闘状況を把握したうえで、祖語に連携した戦闘が可能となるはずだ。
ロンメルの満足そうな顔を見て、参謀長のバイエルライン大佐がくぎを刺した。
「こんな高機能の車両を連合軍に奪われたら、大変なことになりますよ。非常時には自爆させるための爆薬がついていますが、そもそも前線近くには行かないことです。危険な区域には絶対に踏み込まないように行動範囲を規制します」
さすがに正論なので、ロンメルも反対できない。北アフリカの砂漠の戦いでは、短時間で前線が大きく変わることがある。前線に出ていただけで、敵の支配域に取り残される危険も十分あり得る。
1942年になって、リビア東方のキレナイカ付近まで、連合軍の部隊を押し戻していた枢軸軍は、一時的に前進が止まっていた。停滞の原因は、武器弾薬から燃料、食料まであらゆる物資の不足が理由だった。
それが、リビアに陸揚げされた火砲や車両、物資を補給した結果、5月上旬には息を吹き返して攻撃準備が完了した。キレナイカの東方では、防衛の拠点となるガザラとビル・ハケイム、それにトブルクがそれぞれが三角形の頂点となるような位置関係になっていた。この3拠点を抜くことができれば、国境を超えてエジプト領内へと攻め込むことが可能となる。
空と陸からの偵察により、ガザラからビル・ハケイムに至る地域には、海岸近くから南南東に伸びた線上の区域に堅固な連合国の陣地が構築されているのが判明した。複数の対戦車砲と榴弾砲を備えた火砲と機銃陣地を円形になるように組み合わせて、更に外郭部は鉄条網と地雷原、対戦車壕で防御していた。それぞれの防衛拠点がボックス陣地と呼ばれる小さな要塞のような構造だった。
ガザラの海岸線から奥地のビル・ハケイムまでの60km以上の地域に多数のボックス型陣地と陣地間の地雷原が直線状に配備されていた。線状の防衛線は、前線兵士から「ガザラライン」と呼ばれた。
アフリカ軍団司令部は、「ロンメルのバス」を計算機搭載車の横に停車させていた。もともとイギリス軍が使用していた装甲車を鹵獲してロンメルの専用車両にしていたのだ。
装甲車のキャビンでは、バイエルライン大佐が今後の作戦を説明していた。
「イタリア軍が、ガザラに向かっています。このまま前進しても、ガラザラインで前進を止められて、その後はビル・ハケイムの兵力により側面を突かれるでしょう。イタリア軍の防衛力を前提とすると、側面を攻撃されればかなりの損害が出ると予想されます」
ロンメルは、ガザラとビル・ハケイムを同時に攻撃して、短時間でトブルクへ侵攻するつもりだった。時間を節約したかったのだ。しかし、短時間での一斉攻撃は不可能だとわかってきた。
「攻撃作戦については、計算機がいくつかの案を示しています」
ロンメルはバイエルラインの指先が示している文章をじっと読んでいた。
「計算機が示しているのは、まずはガラザラインの各拠点への挟み撃ちか。ガザラに牽制のために攻撃をしかける案も示しているな。良かろう。まずは、ガザララインの兵力を叩く。防衛ラインを切断すれば、ガザラとビル・ハケイム間の連携は断ち切られる。その後は個別撃破だな。この案が気に入ったぞ」
……
5月10日になって、イタリア軍がガザラを包囲して砲撃を開始した。ガザラを力攻めするぞというポーズだ。同時にガザララインの陣地前面にはドイツ軍とイタリア軍が迫っていった。
まずガザララインの西側の砲兵陣地から、野砲が一斉に射撃を開始した。火砲は、ドイツ陸軍制式兵器だけでなく、イギリス軍の火砲や東部戦線でソ連軍から鹵獲した榴弾砲までさまざまだった。手持ちの火砲を全て使ってザララインの陣地に激しい砲弾の雨を降らせた。しかも西方から、トラックに木製の箱や疑似砲塔を追加して戦車に擬装した車両を多数前進させた。西側から主力による攻勢をしかけていると思わせるためだ。
その頃、ドイツ軍第15装甲師団と第21装甲師団の戦車と自走砲を主体とした部隊とイタリア軍の第20自動車化軍団は、足の速さを生かして、ビル・ハケイムの南側を大きく迂回していた。深夜のうちに南下して迂回した後に北上すると、ガザララインの東側の背後へと出てきた。
第15装甲師団の指揮官であるクラセマン大佐は周囲を観察していた。
「どうやら、敵に見つからずに攻撃開始地点には出られたようだな。アフリカ軍団の司令部に伝えてくれ」
司令部に準備ができたことを連絡して、しばらく待っていると西側のドイツ軍からの砲撃が始まった。陣地の守備隊は西側に注意を向けているはずだ。
「挟撃の態勢はできた。我々も攻撃開始だ。配下の戦車大隊へ戦闘開始を命令してくれ。陣地の火砲をまずは攻撃する」
第15装甲師団配下の第1大隊長のキュメル少佐は、カラザライン中部の最も規模の大きな陣地を目指していた。ガラザラインのほぼ中央部に位置して、通称「大釜」と名付けられた大規模な防御陣地だ。クラセマン大佐からの命令を受信すると、直ちに攻撃開始を命令した。
「陣地中央部の砲兵陣地を射撃せよ。まずは火砲の無力化だ」
セオリー通り、戦車と自走榴弾砲の射撃により、遠方から射撃可能な大口径砲から無力化してゆく。キュメル少佐は、ボックス陣地の中央部に布陣している榴弾砲を狙った。榴弾砲に続いて周囲に配置されていた対戦車砲と機銃座にも榴弾の雨を降らせた。
「弾薬はまだ十分ある。今日は、贅沢に砲弾を使っていいぞ。これも補給が改善したからだな」
ボックス型陣地は基本的に360度の全方向に対して攻撃可能な形状をしていたが、火砲は、西方からの敵襲を警戒して、大半がそちらの方向を向いていた。ところが、想定に反して、東側から強烈な攻撃を受けると、陣地の守備隊は慌てて火砲を反対方向に向けようとした。しかし、砲弾が落ちてくる方が早かった。
砲撃の様子を見ていたキュメル少佐は、大声で戦車隊の突撃を命令した。彼の部隊の全員が待っていた命令だ。
「戦車隊前へ(パンツァー、フォー)」
自身のⅣ号も前進させる。まだ榴弾砲の爆炎も収まらないうちに戦車隊が前進を開始した。第1大隊の攻撃陣形は、前面の戦車が矢じりのように並んだ隊形で突進するパンツァーカイルだ。大隊に属する4つの中隊が4つの矢じりを構成して前進してゆく。
戦車の前進に合わせて、後方の自走砲が戦車前面に砲弾を落とし始めた。残っている対戦車砲と地雷を無力化するためだ。
戦車が鉄条網に達すると、陣地中央に盛り上がった小山が見えた。
「前面に陣地の指揮所が見える。第2中隊は小山を砲撃せよ」
Ⅲ号戦車が近距離から人工的に盛り上がった地域に射撃を集中した。少佐の短砲身Ⅳ号も榴弾で盛り土の部分を砲撃した。ボックス陣地の中央部には地下に穴を掘って、陣地の指揮所が設けられているはずだ。集中射撃により盛り土が飛び散ると、内部の部屋に砲弾が突入したようだ。爆発により、内部の機器や壁面の木材が飛び散るのが見えた。
地下の指揮施設が砲撃により壊滅すると、ボックス陣地からの火力は一気に弱体化した。塹壕の中から、東北東のトブルクに向けて兵の脱出が始まった。
「大釜」に限らず、ガザララインのいたるところで、似たような光景が見られた。想定外の方向からの攻撃で次々と防衛拠点となっていた陣地が落とされてゆく。連合軍の火砲と機銃の反撃が無くなると、早くも工兵が前進してきた。陣地周辺に残された地雷やトラップを取り除くためだ。
ガザララインへの攻撃が始まると、トブルクの西方から西南方向にかけての地域で待機していた連合軍の戦車隊が出てきた。これらのイギリス戦車部隊は、ガザララインを西側から突破しようとする敵軍が現れた場合に、トブルク方面から西へと進んで、機動力を生かして突破しようとする枢軸軍機甲部隊を迎え撃つ役割だった。しかし、迂回して南から北西方向に進んできたドイツ軍の機甲部隊により、ガラザラインの陣地は攻撃されており、想定していた状況とは異なっていた。それでも、イギリス戦車部隊の位置から枢軸軍の部隊を背面あるいは側面から攻撃できる可能性があった。ガザララインが完全に崩壊する前に枢軸側の戦車部隊を攻撃するために全速で西へと出てきたのだ。
イギリス陸軍第4機械化旅団の戦車隊は、主力がアメリカ製のM3グラントで、北アフリカではおなじみになっているマチルダⅡ型が後方に続いていた。ガザララインを東から攻撃しようとするドイツ軍とイタリア軍の戦車部隊に対して背後を突くように東から西に前進してきた。
連合軍戦車の接近に気づいたキュメル少佐は、反撃を命じた。
「敵戦車隊、方位80度、5時方向だ。各車反撃せよ」
第1大隊のⅢ号戦車は、180度方向転換して、42口径の50mm砲で反撃したが、M3グラントは、正面装甲に命中した50mm弾を跳ね返すと、車体前面の75mm砲を撃ってきた。かろうじて外れたが、75mm弾が命中すればⅢ号の装甲は何の役にも立たないだろう。
別のⅢ号戦車が狙ったマチルダも分厚い前面の装甲板が砲弾を弾き飛ばした。ほぼ同時に発砲したマチルダの2ポンド砲は、Ⅲ号の砲塔を貫通して、内部に飛び込んだ。砲塔のハッチから激しく黒煙が噴き出した。
連合軍の戦車が攻勢に出てきたことは、すぐにロンメル司令部に情報が上がった。ロンメルは第15装甲師団の後方に続行していた部隊にいくつかの命令を発した。その後、すぐに第1大隊に後退を命じた。貴重な戦車をここで消耗するわけにはいかない。
Ⅲ号やⅣ号戦車が後退してゆくと、連合軍の戦車はドイツ軍戦車を追撃していった。マチルダの欠点の一つは速度がドイツ戦車に劣ることだった。M3は、それ程劣速ではなかったが、マチルダの部隊を後方に残してゆくのをためらった。
第1大隊の戦車が、後退していった先には、10門の高角砲部隊が準備を終えて待ち構えていた。
バッハ少佐は、双眼鏡で砂塵を巻き上げながら近づいてくる戦車を見ていた。
「まだ撃つな。前方を走ってくるのは友軍のⅢ号とⅣ号だ」
しばらく様子を見てから、少佐は黄色の信号弾を上に向けて打ち上げた。それを見て、前方のⅢ号が南西側へと曲がってゆく。高角砲の射線を邪魔しないためだ。友軍戦車隊が回頭するのを待って、少佐は赤い信号弾を撃ちあげた。88mmFlakは、既に接近してくるイギリスとアメリカ戦車に照準を合わせていた。
連合国の戦車隊が罠に気づいた時には手遅れだった。ロンメルは、88mm高射砲を配置につかせて、その砲列に誘い込むように、自軍の戦車隊を後退させたのだ。
ロンメルの罠に誘引されてきたマチルダとM3に向けて、88mm砲が一斉射撃を開始した。88mmの徹甲弾は遠距離射撃でも、容易にイギリスとアメリカ戦車の正面装甲を貫通した。砂漠を進撃してきたマチルダとM3は、次から次へと残骸に変わっていった。罠にはまった連合国の戦車部隊が攻撃されていると、第1大隊のやや南方で陣地攻撃をしていた第2大隊もM3グラントに追われて後退してきた。
右翼側の88mmは新たな目標を発見して北西に砲を向けた。すぐに射撃を開始するが、イギリス軍のM3が75mmの射程を生かして激しく砲撃してきた。榴弾が至近弾となるだけで、装甲のない高射砲は砲そのものも射撃要員も簡単に無力化される。長射程の88mmは懐に飛び込まれればもろいのだ。
その時、上空から見慣れない双発機が降下していた。最近になって北アフリカに配備されたばかりのHs129だ。北アフリカや東部戦線で活躍したHs129は、別称として「空飛ぶ缶切」と呼ばれるようになる。第2地上攻撃航空団(Sch.G2)のマイヤー少佐にとって、この機体による攻撃は、初めての経験だった。しかし、胴体下の30mmMK101機関砲で射撃すると、目標となったM3は車体後部から簡単に炎を噴き上げた。ガソリンエンジンを弾丸が直撃したのだ。
続いて射撃したマチルダも車体上面に命中した30mm弾を天井の装甲では防ぐことはできなかった。車体内部の主砲弾が誘爆して、砲塔が吹き飛んだ。この日、第2地上攻撃航空団から出撃できたHs129は4機だけだったが、次々と戦車を撃破していった。
地上では、航空攻撃を避けようと方向転換した戦車には、88mm砲が射撃を加えた。
第15装甲師団がイギリス軍の戦車隊と戦っている頃、やや北方では、第21装甲師団の戦車隊が、イギリス軍第2機械化旅団のM3と戦っていた。戦闘の推移はほとんど似たような状況だったが、誘い込まれた連合軍戦車隊を迎え撃ったのは、88mmFlakではなく、チェコ製の車体に東部戦線で鹵獲した76.2mm砲を搭載したマーダーⅢ自走砲だった。それに加えて、配備が始まったばかりの長砲身75mm砲を搭載したⅢ号突撃砲が射撃を開始すると、連合軍戦車の数がどんどん減っていった。
そこに上空から第3急降下爆撃航空団(StG3)のJu87が爆撃を加えてきた。重装甲の戦車も爆弾を命中させられればひとたまりもない。この地域に展開していた大半の戦車が破壊された。
ガザラ南方の戦いが一段落した時、砂漠の上で残骸になった連合軍の戦車は100両を超えていた。
……
5月15日の朝から、ビル・ハケイムのハリネズミ陣地への攻撃が始まった。この陣地を守っていたのは自由フランス軍の部隊だった。既にガラザラインは撃破されて、各防御拠点が連携するはずだったにもかかわらず、防衛部隊は完全に孤立していた。しかし、イタリア軍のアリエテ戦車師団は、抵抗を続ける自由フランス軍を攻めあぐねていた。祖国を失ってもアフリカの地で戦い続けているフランス兵はさすがに粘り強かった。
ビル・ハケイムの前面からイタリア軍が後退すると、ドイツ空軍が空から猛烈な爆撃を加えた。He111の編隊がめぼしい目標に水平爆撃を加えた。もちろん、その程度の航空攻撃では、塹壕や地下の施設、土のうで防御した火砲の一部が破壊されただけだ。
それでも、周囲の地雷原に多数の爆弾が落ちたおかげで、防御陣地に隙間が生じた。ロンメルはこれを見逃さなかった。第15装甲師団の部隊を分離して、ビル・ハケイムに突入させたのだ。地雷原の隙間から、防御陣地へと迫ると近距離から猛烈な射撃を加えた。粘り強く戦ってきたフランス人の守備隊も、目前に戦車が迫ってくるとさすがに浮足立った。一度は後退していたイタリアのアリエテ戦車師団も、戻ってきて砲撃を加えてきた。反撃を受けたときには後退して、その後はドイツ軍に続いて後方から進むというイタリア部隊の行動原則に従っていた。
しかし、イタリア軍の砲弾でも爆発すれば周囲に被害が出る。圧倒的な枢軸軍の兵力による攻撃に、フランス自由軍守備隊のリッチー将軍は遂に退却の許可を与えた。耐えかねた陣地の残存兵力は、一旦西側に脱出してからトブルク方面を目指した。統一がとれた行動で西の枢軸軍に突撃して脱出したため、多数のフランス人兵士がトブルクの防衛部隊に合流できた。
大部隊を東方のエジプト方面に移動させたい枢軸軍にとっては、複数の道路が交差しているビル・ハケイムはぜひとも手に入れたい交通の要衝だった。
ビル・ハケイムへの攻撃と同時に、ガザラはイタリア軍の第10軍と第21軍を中心とした軍団に攻撃されていた。ガザラを防衛していた部隊の中心は南アフリカ師団だった。イギリス正規軍に比べれば訓練も装備も1レベル劣るのはやむを得ない。しかも、ガラザラインの中央部が突破されて、トブルクの南西で控えていたイギリス戦車旅団は大きな被害を受けていたため、ガザラ防衛に応援はやってこない。必然的にガザラ守備隊の士気は下がってゆく。
実質的に、ガザラの防衛兵力は南方陣地の南アフリカ師団が突破されれば、何もない状態だった。兵力で優るイタリア軍からの攻撃で、南アフリカ師団の防衛線は突破された。ガザラ南方のバルビア街道を打通した時点で、ガザラの防衛部隊は総崩れになった。戦闘が不利になると兵力の多数はトブルク方面に脱出したが、陣地に残っていた部隊は降伏した。
……
ガザラの連合軍を1週間で壊滅させると、ロンメルは東のトブルクに向けて前進を開始した。既にガラザラインも崩壊して「大釜」もビル・ハケイムの陣地も枢軸軍に占領された。しかもドイツ軍の戦車部隊との戦闘により、トブルクの南西側で待機していたイギリス軍の機甲部隊も散々叩かれて、大きく兵力を消耗してしまった。ドイツ軍との激しい戦車戦を終えて、トブルク防衛のために戻ってきた戦車と装甲車両を合わせても、50両以下だった。
元々、トブルク要塞はイタリアの領土だった時代に周囲を全て取り囲むように陣地を構築したのが始まりだ。連合軍は、イタリア軍が構築した市街地をぐるりと囲んだ陣地の外郭部に戦車壕と地雷原を中心とする新たな防衛線を追加していた。しかし、ロンメル軍団の急速な進撃により、防御陣地の構築が完了する前に連合軍は攻撃を受けることになった。
しかも、ガザララインの防衛に多数の兵力を抽出してしまったこともあり、トブルクの防衛はインド兵の1個大隊が中心となっていた。
ロンメルは5月29日にトブルクの包囲を完了すると、陣地への攻撃を6月2日に開始した。ロンメルにとっては、トブルクの陣地や司令部の建築物、物資集積所は既知の内容だった。何しろ枢軸軍と連合軍で交互に持ち主が変わったのがトブルクだったのだ。
イタリア軍の構築した陣地の構造は変わっていない。外部の地雷原と戦車壕、対戦車砲陣地を空軍と砲撃によりつぶせば、その内側は枢軸軍も詳細な地図を持っている陣地だった。ロンメルは、陣地の弱い部分にアフリカ軍団の兵力を集中して大きな圧力を加えた。
6月4日夕刻までには、枢軸軍はトブルクの中心部に近い港湾が見える位置まで前進できた。連合軍に残っていた戦車部隊もドイツ軍機甲部隊の攻撃で、短時間で撃破された。その結果、市街の西半分の守備隊が降伏した。守備隊の防衛線があっという間に崩壊したので、トブルグ砦内部の部隊はほとんど脱出することができなかった。トブルクの守備隊として残って抵抗していた最後の守備隊も6日には陣地を放棄して降伏した。
トブルクへの枢軸軍の攻撃が急で、しかも陣地も短時間で崩壊したために、連合軍は陣地内の装備や備蓄物資を運び出すことも、破壊することもできなかった。このため、ロンメル軍団はトブルクに残された5,000トンもの水や食料、燃料、輸送車両などを入手できた。しかもトブルクには港湾の設備があった。決して大規模な施設ではないが、貨物船をトリポリから東に航行させれば港から直接物資の揚陸ができる。わざわざトラックの列を作って地上を輸送するよりも圧倒的に輸送効率が良い。
……
6月8日になって、ロンメルはヒトラーから、元帥への昇進通知を受け取った。しかし彼が望んでいたのは形式的な元帥杖ではなく、1個師団の増援部隊だった。
イタリア領リビアから連合軍を追い落とした後の作戦については、ロンメルは直ちにエジプトに侵攻して、どんどん東に進んでスエズ運河を押さえるつもりだった。エジプトに侵入して、エル・アラメインに続いて、アレクサンドリアを占領すれば、海軍艦艇や大型貨物船が停泊できる港が手に入る。それに続いて、この地域への輸送ならば、既にドイツが占領しているクレタ島の戦力も活用できるはずだ。アレクサンドリアに続いて、スエズ運河を押さえれば、その向こう側は中東だ。石油を産出するイラクへも侵攻の可能性が出てくる。
一方、ケッセルリンクは既に弱体化していたマルタ島の攻略を希望していた。マルタ島を枢軸側が確保すれば、北アフリカの攻略と合わせて地中海の中央部は全て枢軸国の支配域となる。しかし、空挺部隊は保有していても上陸部隊を持たない空軍ではできることに限りがある。重量級の火砲が不十分な空挺部隊だけで攻略を進めれば、大損害を被ることは前年のクレタの戦いで明らかになった。彼は何とかイタリア軍を動かそうとしていた。
ケッセルリンクが、望んでいたマルタ島攻略のヘラクレス作戦は一度は延期された。しかし、その後も枢軸軍の攻撃が繰り返されて、マルタの戦力は復活していなかった。ジブラルタルとアレキサンドリアからの輸送船団も撃滅されたり追い返されたために、相変わらず連合軍の輸送船はマルタに入港していなかった。
ロンメル軍団は6月15日には、早くもリビアから国境を超えてエジプトに侵入して、マルサ・マトルーへの侵攻を開始した。マルサ・マトルーは、トブルクとエル・アラメインの中間にある街だ。今までの戦いで戦力を消耗した連合軍司令官のオーキンレック大将はむやみに攻勢に出ることなく、陣地で兵力の温存を命じていた。逆にガザラとトブルクを攻略したロンメル側の兵力はある程度消耗していたが、計算機が立案した作戦が功を奏して、損耗は許容限度内だった。
オーキンレックはマルサ・マトルーの防御陣地の構築を急がせていたが、それが完了する前にロンメルの軍団が攻撃してきた。しかも、マルサ・マトルーの守備隊は歩兵師団と機甲師団を離して独立配備するという失策を犯した。そのため、枢軸軍に包囲されると相互支援できずに個別撃破されてしまった。ロンメル軍団の圧力に耐えられなくなると、オーキンレックの兵力維持の方針に従い、防衛部隊のエル・アラメイン方面への脱出が始まった。損害が出始めて、消耗を避けるための退避という名の逃走が始まると、防衛部隊は内部から崩れていった。
自動車化された部隊が歩兵部隊も乗せて運んだために、かなりの数のマルサ・マトルーの部隊が夜陰に乗じて、エル・アラメインへの脱出に成功した。あまりに素早く後退したために、ガザ南方の戦いのように連合軍主力を捕捉して撃滅しようというロンメルの計画は成功しなかった。それでも、枢軸軍はトブルクに続いてマルサ・マトルーの倉庫に備蓄されていた燃料や食料などの備蓄物資を手に入れることができた。また、逃げ遅れたイギリス軍の戦車を40両ほど鹵獲できた。
ロンメルはこんなところで時間を浪費するつもりは毛頭なかった。まだ砲撃の音が止まないうちから、次の攻略作戦の検討を始めていた。
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