電子の帝国

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第19章 外伝(東部戦線編)

19.5章 A軍集団の戦闘

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 B軍集団のウクライナ東方での攻勢が始まると、ほぼ同時にA軍集団の南東方向への進撃も開始された。5月中旬から始まった侵攻作戦の最初の攻撃対象となったのは、アゾフ海の東岸に位置する比較的大きな都市のロストフだった。

 A軍集団の第17軍は、スターリノ東側の前線を突破すると、すぐに南下してロストフを目指した。コーカサス方面に進撃するためには、ロストフは、この地域の鉄道が集中する要衝となっていた。枢軸軍としては、交通の拠点をまずは占領して、ウクライナからコーカサス方面までの輸送網を接続しなければ、この先の物資補給は極めて厳しくなる。A軍集団としては、ロストフ市街地の操車場や駅舎も含めて、手に入れなければならない。

 一方、ソ連軍もこの都市が枢軸軍の攻勢にとって重要な拠点だと承知していた。枢軸軍の夏季攻勢が始まる前から、NKVD(ソ連秘密警察)の専門家がやってきて、郊外と市街地内部に防御陣地の構築を開始した。

 第17軍の配下にはもともと第5軍団と第46軍団、第49軍団が所属していたが、作戦開始直前にフランスでの再編が終わった第1SS装甲師団(SSアドルフ・ヒトラー)が加わっていた。

 第17軍司令官のルオッフ上級大将は、配下の指揮官たちを集めて、これからの作戦を検討していた。
「ブラウ作戦は始まったばかりだ。ここでロストフ占領のために兵力を消耗するわけにはいかない。正面から攻めれば我が部隊の被害もばかにならないだろう。しかも、この先の侵攻作戦を考えると、攻勢に時間をかけられないぞ」

 参謀長のミュラー大佐は、参加者に見えるように机の上にいくつかの写真を置いた。
「偵察機の情報によると、市街の外郭に構築された防御陣地は、東端が手薄になっています。明らかに北側からの攻撃を重点的に警戒しているようです」

「しかもこの写真を見ると、東の市内の防御はまだ構築途中のように見えるぞ」

「ええ、作業時間が足りないのでしょう。市内の陣地や防御用のバリケードも構築途中のようです。特に北側以外ではそれが顕著です。本来は南側に迂回して攻撃したいのですが、ロストフの南面はドン川に面しているのでそれはできません」

 ルオッフ上級大将はすぐに攻撃作戦を決めた。至急攻撃を開始しなければ、市内の陣地が完成して、ソ連軍の防御態勢はどんどん堅固になるだろう。

 第1SS装甲師団は、武装親衛隊という立場を生かして、他の機械化部隊よりも若干充実した装備を有していた。最新型の戦車に加えて、兵員や物資輸送用のハーフトラックも多数配備されていたおかげで、第17軍の中でも、最も素早く移動できた。

 SSアドルフ・ヒトラー師団は、機動力を生かして、短時間でロストフ郊外を大きく迂回して東側のドン川付近に達した。ロストフの外郭部には、偵察写真通り市街地の外側を取り囲むように鉄条網や障害物、壕などの防御陣地が広がっていた。上空からの偵察では判然としないが、間違いなく陣地の前面には地雷原が構築されているはずだ。それを超えても機銃や対戦車砲が盛土の防塁に隠れている。その後方には砲兵と車体を土中に隠した(ダグイン)戦車が控えているのが判明した。多重防御の堅固な陣地だ。

 第4航空艦隊からコーカサス方面の作戦のために派遣されていたのが、第4航空軍団だった。ウクライナの東側の航空基地に展開すると、戦闘機に護衛された爆撃隊を直ちにロストフ方面に出撃させた。

 ……

 第52戦闘航空団第Ⅲ飛行隊(Ⅲ/JG52)のバクルホン大尉は、中隊を率いて西から半島上空に侵入していた。

 レーダー装備の警戒機から通信が入ってきた。
「14時方向に敵編隊だ。15kmのあたりを方位260度に向かって飛行している。20機程度だろう」

 東部戦線ではいつもドイツ軍は数で負けているが、レーダー搭載機の事前情報でほとんどの場合は有利に戦えていた。大尉は、ソ連戦闘機の編隊の南側を迂回して後方にでた。定石通り、高度を上げて、降下攻撃を可能とすべく、ソ連編隊の南東方向から接近していった。

 先月になって、Ⅲ/JG52に配備されたハルトマン少尉は、ロスマン曹長の列機として飛行していた。今日が前線に出て3回目の出撃だったが、いつも後ろを飛行しているだけで、まだ撃墜記録はなかった。少尉は、配備先をウクライナ内かと想定していたが、前線は大きく動いていた。実際の戦線は想定以上に東方だった。余計なことを考えている間に長機のロスマン曹長から無線が入ってきた。

「11時、やや低い位置に敵機が見える」

 ハルトマン少尉は、言われた方向をきょろきょろと見回したが、雲ばかりで発見できない。それでもロスマン曹長の機体から遅れまいとついてゆくと、想像していたよりも低い位置に軽く10機を超えるソ連の戦闘機を発見した。ソ連機のシルエットはどれも似ていて、機種までは判別できないが、ハルトマン少尉にはそれが液冷の単座戦闘機だとわかった。

 バルクホルン大尉の予定通り、ドイツ軍の戦闘機は斜め後方の高い位置から攻撃を仕掛けようとしていた。接近したおかげで、眼下のソ連機が、東部戦線でよく見るYakだとわかるようになった。

 16機のBf109の中隊が先手を撃って降下攻撃を仕掛けた。Yakの編隊はドイツ軍が接近するとさすがに上方から攻撃を仕掛けてくるBf109に気がついて、急旋回で回避しようとした。BF109が一連射を加えると、数機のYakが黒煙を噴き出して墜ちてゆく。

 ロスマン曹長は、前方を左翼側に旋回してゆくYakに狙いをつけた。Bf109を思い切り左旋回させて後方から射撃した。一撃で炎が噴き出してきりもみになった。

 ハルトマン少尉もYakの列機に狙いをつけると、1連射したがまだ距離が遠いので命中しなかった。更に接近して射撃した瞬間に、右翼に衝撃を感じた。反射的に機体を左に滑らせてこれ以上の命中弾を避けた。幸い、20mmは命中せず、数発の7.9mmが右の翼端近くに命中したようだ。

 回避しながら右側を確認すると、1機のYakが急降下していった。操縦席の横にパーソナルマーキングが書かれているのがわかった。
(白い花が描いてある。たぶん、白い百合の花だ)

 ハルトマン少尉は、白い百合をマークとする部隊のことを思い出した。
(間違いない。女性パイロットだけから編制された魔女の部隊だ)

 彼は、自分を射撃した女性が操縦する機体をじっくり観察して記憶にとどめた。

 ……

 リディア・リトヴァク中尉は、後方から降下してくるメッサーの編隊を発見すると直ちに編隊に警告を発した。
「こちら、百合44番。7時方向から、ナチの戦闘機。急降下してくる」

 叫びながら、Yak-7を左に向けて急旋回させた。すぐにも機銃を撃ってくるような状況では、ドイツ軍機の射線を回避することが最優先だ。彼女の機体の背後でメッサーが射撃しながら降下してきた。逃げ遅れた3機の友軍機が、煙を吐いて落ちてゆく。

 彼女は、降下してゆくドイツ軍機の中で、左旋回して友軍機を追いかけている2機のメッサーを目ざとく見つけた。最短距離で接近すれば追いつけそうだ。加えて、2機のロッテ後方の機体は明らかに新米のようだ。目の前の機体を追いかけるのに精いっぱいで、後方の見張りがまるでなっていない。

 リトヴァク中尉は、高度を上げると斜め後方から降下攻撃を仕掛けた。1連射目は緩く旋回しているメッサーの右翼をかすった。狙いを修正して次の射撃を加えようとしたところで、右翼後方から別のメッサーが接近してくるのを発見した。彼女は舌打ちしながらすぐに射撃を止めて、旋回降下で回避した。彼女は、深追いしている最中に撃墜される仲間を何度も見てきた。攻撃にこだわらないのが、戦場で長く生き残るコツだ。

 バクルホン大尉は、降下して逃げてゆくYaKの後姿を確認してから、友軍機の方を見た。狙われていたBf109はなんとか無事なようだ。機番号を確認するとハルトマンの機体だ。
(ハルトマンには、帰ってから叱っておく必要があるな。あの男は、操縦の腕は一流なので、見張りさえ良くなれば、間違いなくエースパイロットになれるだろう)

 ……

 戦闘機の戦いが東方の空で繰り広げられていた頃、24機のJu87はソ連陣地の火砲や戦車に向けて急降下爆撃を開始した。後方に続いていたJu88の編隊は、防衛陣地の塹壕が掘られた一帯に向けて降下爆撃を仕掛けた。

 その頃、ウクライナ側から前進していた第5軍団と第46軍団がロストフの北北西側に布陣を完了した。計画通り、ソ連軍の防御陣地に向けて砲撃を開始した。もちろんソ連軍陣地からも砲撃が始まった。必然的に、野砲同士の砲撃戦になったが、制空権を握っていたドイツ空軍が野砲陣地をしらみつぶしに爆撃すると、枢軸側の砲兵が次第に優位になっていった。

 北側からの砲撃が始まって、しばらく様子を見ていたSSアドルフ・ヒトラー師団も前進を開始した。防衛側は、市街地の北から東にかけて円弧上に陣地を配置していたのに比べて、SS装甲師団は真東の方向に兵力を集中して、そこから突破しようと攻撃をしかけた。

 戦車隊後方では、自走砲と牽引されてきた火砲が、砲列を作って外郭部の陣地に向けて一斉に射撃を開始した。戦車隊も陣地に向けて砲撃を始める。攻撃正面の防塁の火砲と機銃が破壊されたのを確認して、工兵が前進してくる。鉄材を組み合わせた、対戦車障害物と地雷を取り除くためだ。

 市内に向けた突入路が開くと、戦車隊が突撃を開始した。枢軸軍戦車の前進を止めるべく、陣地後方から30両余りのT-34が出てきたが、これは想定範囲内だ。長砲身のⅣ号とマルダーⅢが集中射撃を浴びせかける。SSアドルフ・ヒトラー師団は2個中隊からなる40両の戦車部隊のパンツァーカイル陣形で、ソ連の防衛部隊を突破しようとしていた。

 マイヤー親衛隊少佐は、パンツァーカイル右翼の戦車隊を率いていた。北西方向からT-34が接近してくるのを発見すると、接近するように命じた。
「この距離では、我々が不利だ。蛇行しながら接近せよ」

 中佐は、長砲身の75mm砲でT-34の60度の傾斜装甲を確実に貫通させるために、1,000m以下に接近しようと考えていた。接近途中で76.2mmで何発か撃たれたが、蛇行により何とかやりすごした。十分接近したと判断すると、マイヤーは、Ⅳ号を一瞬停車させると射撃を命じた。こんな状況では走りながら発砲してもまず命中しない。危険だが停車して、確実に照準する方を選んだのだ。75mm弾は、マイヤー車を狙っていたT-34の車体前面に命中した。

 後続のⅣ号戦車もマイヤーの行動にならって、ソ連戦車に蛇行しながら接近すると、次々に射撃を開始した。枢軸軍のⅣ号戦車は5両の損失と引き換えに20両のT-34を撃破した。

 一方、パンツァーカイル左翼を攻撃したT-34は、縦列になって枢軸軍に接近するという過ちを犯した。先頭の2両が複数のⅣ号から砲撃を受けて撃破されるとたちまち前進が止まってしまった。T-34の後続車は、前方の邪魔な車両を避けようとして方向転換をしている間に次々と攻撃された。Ju87が上空に飛来してくると、遅れて前方に出てきたT-34とKV-1の部隊に爆弾の雨を降らせ始めた。

 SSアドルフ・ヒトラー師団はロストフ東側の防御陣地を突破すると、市内へと突入していった。戦車隊と機械化歩兵がロストフ市内に突入すると、いたるところにバリケードや陣地、トーチカが存在していた。しかし半数以上がまだ建設途中だった。未完成では、効果は大きく減少する。

……

 ロストフ市内のソ連軍は混乱していた。北側から枢軸軍の攻撃を受けて市内の兵力もそちらに向かわせた。ところがすぐに、東側からの攻撃が始まった。市外の防御陣地を突破して市内に侵入したのは東の敵軍の方だった。市街地の北側に向かわせた部隊に命令して、東に方向転換させたが、既に手遅れだった。迎え撃つよりも早く、枢軸軍の戦車部隊がどんどん侵入してきたのだ。

 SSアドルフ・ヒトラー師団は市街地を突っ切ってから北へと方向転換すると、市内から北方の防御陣地に向けて攻撃を始めた。もともと、防御陣地は背面からの攻撃を想定していない。しかも東と北の2方向から挟撃されることになって北側の防御陣地はあっという間に崩壊した。第4軍団は防衛線を突破して、ロストフ内部で第1SS装甲師団と合流できた。

 2方向からの枢軸軍の侵入により、市内の防御陣地は既にズタズタになっていた。わずか5日の戦いで、ロストフの制圧は完了した。枢軸軍が北と東から市街に侵入すると、挟撃されて勝ち目がないことを悟ったソ連軍は陣地を放棄してドン川を渡って南に退避していったのだ。もちろん短時間で渡河できない重装備は、市内に放置したままだったので多くの戦車や輸送車両が鹵獲された。ロストフの占領により、鉄道輸送というコーカサス侵攻のための必要条件の一つが整ったことになった。

 ロストフの戦いを終わらせると、ルオッフ上級大将の第17軍は直ちに真北のクラスノダールを目指した。この街には大規模な製油所が存在していた。攻撃が遅くなれば、ソ連軍により貴重な施設が破壊される可能性が高くなると考えたのだ。

 クラスノダール郊外に最初に接近したのは、SSアドルフ・ヒトラー師団だった。一方、市街地を防衛していたソ連軍第37軍は、枢軸軍の接近を知って、クバン川にかかる鉄橋を渡って市街のある対岸へと兵と機材を移動させようとしていた。先行していた偵察部隊が橋を渡るソ連軍の様子を報告してきた。

 クライスト上級大将は、ソ連軍が橋を渡って避難しているとの報告を受けると、第4航空軍団の攻撃を要請した。

「今はまだソ連軍は橋を渡っている途中だが、地上軍が攻撃を開始するまでの間に退避は終ってしまうだろう。その前に、空軍の攻撃によりソ連軍を足止めして欲しい」

 後方への退避が終われば、敵軍が使用できないように橋梁を爆破するのは戦闘の定石だ。橋が使えなくなれば、部隊の前進は大幅に遅れてしまう。航空機の攻撃により、ソ連軍の足止めが先決だと考えたのだ。

 飛来したのは、24機の戦闘爆撃型Ju88だった。橋を渡って縦列になって進んでいた縦列の先頭車両をまず攻撃すると、前が詰まったソ連軍の輸送部隊は前進できなくなった。その後は、道路に立ち往生した後方のトラックや戦車を順番に攻撃していった。投弾が終わった後も、前進できなくなった路上の車両に銃撃を加えてゆく。

 ソ連軍はもともと、兵員の退避が終わり次第、鉄橋を爆破する準備をしていたが、それよりも先にJu88の攻撃が始まった。友軍が橋の上にいるので爆破をためらっている間に爆撃で前に進めなくなった。

 攻撃された戦車や車両が、まだまだくすぶっている間にSSアドルフ・ヒトラー師団の先頭部隊が前進してきた。自走砲と戦車が、橋上や対岸のソ連兵に向かって猛烈な射撃を開始した。ソ連からの反撃を押さえている間に、工兵が橋脚や鉄骨の構造部材に取りついた。工兵は、目ざとく橋脚から対岸に伸びていた電線を見つけて切断した。対岸から橋の下の爆薬を起爆するための電線だ。その後は、電線をたどって、鉄橋の4カ所に取り付けられていた爆薬を見つけて取り外してゆく。

 第1SS装甲師団は爆撃を受けて路上で破壊されている戦車やトラックを道路わきに押し出して、強引に進んでいった。鉄橋の上で燃えていた車両も川に突き落として進路を開けた。

 枢軸軍がクラスノダール郊外の製油所に到着した時、直前に退却したソ連軍により施設には既に火が放たれていた。ソ連軍は、もともと製油所を爆薬で徹底的に爆破するつもりだった。しかし、爆薬を輸送していたトラックがドイツ空軍から攻撃されたため入手できなかったのだ。やむなく製油所に放火したが、全体に燃え広がるには時間がかかる。

 枢軸軍は火災が広がる前に進軍してきた。師団長のヴィッシュ大佐は、直ちに消火を命じた。
「まだ大半の製油施設は無事だ。火災が全体に広がらないうちに消火するのだ」

 最終的に、クラスノダールの製油施設は2割程度が燃えてしまったが、その他の製油機能は残っていた。生産量は落ちたものの、製油所は操業可能な状態でドイツの手の内に落ちた。

 ……

 一方、ロストフの攻略戦に参加しないで南東に進んでいった第1機甲軍は、コーカサス山麓の東側に位置する油田地帯を目指していた。ブラウ作戦でも、もっとも長距離を進撃しなければならない部隊だ。前進途中の荒野では、ソ連軍はいち早く後退したようで、反撃を受けずにコーカサス山脈が望めるとこまでやってきた。

 第1機甲軍司令官のクライスト上級大将は、ヴォルフ・シャンツェ(狼の巣)からの命令を苦々しく眺めていた。命令書は、コーカサスの油田をできる限り無傷で占領せよと指示していた。しかもコーカサス山麓の鉄道や道路も石油の輸送が可能なように戦闘で破壊するなと要求していた。

「参謀本部がこんな困難な命令を平気で出してくるとは、一体何を考えているのだ。戦いのやり方を制限すれば、それだけ勝利が遠のくとは思わないのだろうか?」

 参謀長のファッケンシュテット少将も同じ気持ちだ。
「そもそもブラウ作戦開始時には、コーカサス油田を攻撃して、ソ連側に利用させないようにするという目標だったはずです。それがいつの間にか、我が国がコーカサス油田を占領して石油を利用するという話にすり替わっています。単純に油田を破壊するのと、利用可能な設備の占有では困難さがまるで違います。しかも、石油の輸送路の確保までが要求に含まれています」

「間違いなくこれは総統自身の要求だろうな。ブラウ作戦が順調に進んでいるのを知って、欲が出てきたに違いない。作戦途中により高度な目標に変更するのは、成功の可能性を大幅に減らすだろう。それでも私はこの命令に従うつもりだ。なぜなら、これは国防軍司令部からの正式な命令だからだ」

「命令にはできる限りという言葉が含まれていますよ。参謀総長のハルダー大将が温情で付け加えてくれたのでしょうね。我々にとっては幸運です」

「ああ、その通りだろう。我々には大きな幸運がこれからも大いに必要だ」

 コーカサス山脈が間近に見えるところまでくると、枢軸軍にとって想定外の出来事が発生した。ソ連の共産党と敵対していたコサックが山から現われたのだ。過去からコサックには、ソ連への帰属をよしとしない歴史的にも独立指向の集団があった。今までソ連共産党から圧力を加えられながらも、一部の部族はコーカサス山麓で目立たないように地下に潜って生き延びていた。それが、枢軸軍が解放のためにやってきたと考えて、表に出てきて自ら道案内を申し出たのだ。

 ファッケンシュテット少将が司令官のところにやってきて、ささやいた。
「どうやら幸運の効果がさっそくあったようですよ」

「そうだな。願わくは、その効果がいつまでも続いてほしいものだな」

 土地勘のある案内により、第1機甲軍は順調に進撃した。7月中旬には、第1機甲軍はヴォロシロフスを通過してグロズヌイへと近づいていた。

 第1機甲軍が目標としていたグロズヌイには油田が存在していた。バクーほどの産出量ではなかったが、枢軸軍としては避けて通れない極めて重要な街だった。

 しかし、コーカサスの山麓に達すると、今まで枢軸軍との戦闘を避けて南下して後退していたソ連軍が待ち構えていた。コーカサス山脈の麓のグロズヌイの北側で立ちはだかったのが、ソ連第46軍と第58軍だった。

 第1装甲軍がグロズヌイの北側まで侵攻したところで、ソ連第46軍と第58軍からなる優勢なソ連軍が反撃の準備を整えていた。グロズヌイを防衛していたソ連軍は、市街地への損害を避けて、郊外で枢軸軍を跳ね返そうとした。

 クライスト上級大将は、参謀長のファッケンシュテット少将と参謀のハウザー大佐を呼んだ。
「我が方よりもソ連軍の兵力は大きい。それに加えて優秀な戦車も多数を有しているようだ。しかもこの先のバクーへの進撃を考えると、できる限り短期間で決着をつけたい」

 ハウザー大佐は計算機を利用して、いくつかの模擬戦闘の結果を出力していた。
「計算機が最も効果的だと判定した作戦です。まず、正面からおとり攻撃を仕掛けてから、一旦は退却します。ソ連軍が追いかけて前進してきたところに左翼と右翼にそれぞれ分派していた部隊により、ソ連軍の後方部隊を攻撃します。その後は、3方向からソ連軍を包囲して撃破します」

 参謀長のファッケンシュテット少将は、以前の作戦との類似性にすぐに気づいた。
「これは、イジューム西方での包囲作戦とほぼ同じですね。作戦を成功させるためには、短期間で、東と西に部隊を迂回させる必要があります。我々は、イジュームの戦いでは、ソ連の大軍を第4装甲軍や第6軍と協力して包囲しました。今回は、それよりも我が軍の兵力は小規模ですが、敵軍もイジュームよりも小規模な2個軍です。我が軍は劣勢ですが、タイミングさえ適切ならば、包囲戦が可能だと思います」

 クライスト上級大将もハウザー大佐が計算機を使って立案した作戦に賛成した。
「良かろう。我々には長く検討している時間はない。その作戦を直ちに実行するぞ」

 最初にソ連軍を攻撃したのは、歩師団を中心に構成されていた第52軍団だった。これに第5SS装甲師団(ヴィーキング)が加わって、正面からソ連軍への攻撃を開始した。攻撃開始前に、クライスト上級大将は東側に向けて、2個師団からなる第40装甲軍団を出発させた。反対側の西側には第3装甲軍団が迂回を開始した。

 第52軍団と第5SS装甲師団は激しい砲撃で、グロズヌイ北側のソ連第46軍への攻撃を開始した。5SS装甲師団が先頭になって、ソ連軍陣地に突入して突破口を開くと後方に歩兵師団が続いて戦果を拡大しようとした。

 正面を防衛していた第46軍に圧力がかかると、後方の第58軍が前進してきた。ソ連軍を攻撃していた枢軸の歩兵軍団と装甲師団は増強された優勢なソ連軍と衝突することになった。グロズヌイを防衛していた2個軍のソ連軍は、侵攻してきた枢軸軍の兵力に比べて自軍が優勢だと信じていた。正面から攻撃してきた枢軸軍の前進が停止すると、ソ連軍は積極的に攻撃を仕掛けてきた。

 コーカサス北側のソ連軍を指揮していたのは元帥のプジョンヌイだった。彼は、第46軍と第58軍が枢軸軍の正面攻撃を受け止めて、それを押し返し始めたのを見逃さなかった。ソ連軍に押されるように北方に後退を始めた第52軍団と第5SS装甲師団をすぐにも追撃して撃破するように命令したのだ。

 後退を始めた枢軸軍を追いかけて、ソ連軍が南北に伸びていったところで、クライスト上級大将は、第40装甲軍団と第3装甲軍団の攻撃を命じた。後方のソ連軍を挟撃するように東西から、装甲師団が突撃した。想定外の方向から攻撃を受けて、北側の枢軸軍を攻撃していたソ連軍は混乱した。

 もともと第一次世界大戦で騎兵として活躍していたプジョンヌイにとって、戦闘車両の機動力を生かした包囲殲滅戦は想定外だった。近代戦についていけない古い将軍は既に時代から取り残されつつあった。

 北側に後退していた、第52軍団と第5SS装甲師団は、後方で友軍が攻撃を開始したとの知らせを受けて再び前進を開始した。後方から攻撃を受けたソ連軍は、それを撃退しようと戦力を後方に向け始めていた。そのために、前方からの枢軸軍を阻止できなかった。

 最終的に、第46軍と第58軍の大部分の兵力は、3方面から包囲されることになった。その時、上空に40機以上のHe177が北方から飛来した。もともとソ連空軍が使用していたロストフ東の郊外にあった比較的大きな航空基地を摂取すると、ドイツ空軍は大型機の運用ができるように整備していた。整備用の機材や燃料などの物資が届くと、第8航空軍配下の第100爆撃航空団(KG100)に配備されたHe177爆撃隊が進出してきた。

 KG100のHe177が、包囲で動けなくなっていたソ連軍が集中していた地帯を上空から爆撃した。250トン以上の爆弾によりソ連軍は大きな被害を受けた。しかも、He177に続いて飛来した28機のJu88は、爆弾が外れてまだ動いていた車両に向けて急降下していった。

 ドイツ空軍が引き上げてゆくと、第1装甲軍の3つの部隊が包囲網の締め付けを開始した。激しい空爆を加えても、ある程度の戦車や車両がしぶとく生き残っているのは織り込みずみだ。それでも爆撃により、地上部隊は大きく数を減らして、戦闘隊形も著しく崩れていた。既にソ連軍は、枢軸軍の攻撃に対してまともな防衛戦が不可能になっていた。

 第46軍と第58軍が最後まで維持していた戦線は崩壊した。司令部を含めた一部のソ連軍は東に逃げ出したが、第1装甲軍はほとんどのソ連軍を撃破した。

 ……

 クライスト上級大将は、前面のソ連軍の抵抗が低下してくると、第3装甲師団に一部の部隊を分けて、急いでグロズヌイ油田まで前進するように命じた。市街地の占領よりも、油田の確保が最優先だ。戦闘している間に油田が爆破されては元も子もない。

 装甲師団が油田地帯に進出すると、石油採取の施設はいずれも破壊されずに残っていた。最高総司令部(スタフカ)は、前線部隊の指揮官が、ソ連の貴重な資源である油田を勝手に破壊することを固く禁止していた。枢軸側の有力な部隊がクラスノダールやヴォロシロフスクを侵略して、カスピ海方面を目指していることは、スターリンも承知していた。油田の確保が侵攻の目的だということは誰でもわかる。

 ジューコフ元帥とヴァシレフスキー元帥は、たとえ枢軸側が油田地帯を占領しても、その支配は長く続かないと考えていた。枢軸側の本国からコーカサスまでの兵站距離はとんでもなく伸びきっている。枢軸軍が、物資の補給も不十分な状況で冬季を迎えれば、準備を整えたソ連軍はいくつもの前線で反撃を開始できる。そうなれば、枢軸側は後退せざるを得なくなると、モスクワの将軍たちはスターリンに説明していた。

 その意見が正しいならば、一時的に油田を枢軸側が占領しても、半年も経てばソ連側が取り戻すことになる。一旦、油井を爆破すれば、それを復旧するには年の単位の年月がかかるだろう。油田の修復に時間がかかるならば、無傷でドイツに手渡して、そのまま半年後に奪還した方が手っ取り早いという判断にスターリンも賛成した。

 油田に続いて、第1装甲軍がグロズヌイ市街地に接近してゆくと、コーカサス地域で共産党と対立していたこの土地のコサック人達が、赤軍を追い払って市街地を制圧していた。彼らは、チェチェン人と称してコーカサス山麓地域での独立を目指していた。

 チェチェン人の要求は、グロズヌイ市街地を無血開城して枢軸側と協調関係を結ぶ代わりに、この地域の自治を認めて欲しいということだった。要求を受け入れてくれるなら、ドイツ人が油田から石油を運び出す作業にも協力するとのことだった。クライスト将軍は、その条件を受け入れた。ヒトラーの人種差別的な思想を前提とすると、長期的には、ドイツ本国はチェチェン人の要求をひっくり返すだろうと想像できた。しかし、今は、石油の入手が優先だ。少なくとも、東部戦線の戦いが終わるまでは、コサックウやチェチェンなどのソ連と対立する部族の力を利用するのだ。

 グロズヌイを確保すると、第1装甲軍は次の目標である東南のバクー方面を目指した。冬将軍がやってくるまでに、バクーへの侵攻を終わらせなければ、ブラウ作戦の目標は達成されたことにならない。

 一方、最高総司令部のジューコフ元帥とヴァシレフスキー元帥は、枢軸側の進撃を止めるには今まで以上に兵力の集中が必要だと改めて認識した。一気に2個軍を壊滅させられて、ドイツ軍の強さを再認識した。途中の都市防衛は放棄して、バクー防衛に集中するように方針を変えた。
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 生まれついての勝負師。  あるいは、根っからのギャンブラー。  札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。  時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。  そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。  亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。  戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。  マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。  マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。  高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。  科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

超量産艦隊

ypaaaaaaa
歴史・時代
海軍内では八八艦隊の議論が熱を帯びていた頃、ある一人の天才によって地味ではあるが大きく日本の未来を変えるシステムが考案された。そのシステムとは、軍艦を一種の”箱”と捉えそこに何を詰めるかによって艦種を変えるという物である。海軍首脳部は直ちにこのシステムの有用性を認め次から建造される軍艦からこのシステムを導入することとした。 そうして、日本海軍は他国を圧倒する量産性を確保し戦雲渦巻く世界に漕ぎ出していく… こういうの書く予定がある…程度に考えてもらうと幸いです!

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