あまやかしても、いいですか?

藤川巴/智江千佳子

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おさとうひとさじ

2.

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温かい家庭というものには、漠然とした憧れがある。というよりも、かなり具体的な憧れがある。

相手になる人は、誕生日には料理を振舞って胸いっぱいの花束を贈ってくれるし、出会いはそう、雨の日の駅前なんかが良い。

第一目標にしていた放課後の調理室はとっくに通り過ぎてしまったから、私の場合は雨の日の駅前だ。

付き合い始めたら、デートのたびに手作りのお菓子を作ってくれて、いつも笑ってくれている人。身長は高くて、抱きしめられたら思わず安堵してしまうような、そんな人だ。


具体的過ぎて、見当たらないまま24歳。

事務職の女性社員なら定時退社で合コン三昧なのかもしれないけれど、残念ながら時短勤務の先輩のフォローで手一杯で、最近は残業ばかりだ。

目ぼしい彼氏もいない24歳。

あこがれはあこがれなのかなあ。一人で思ったりしている。

周りに感情表現が豊かな人ばかりが居たせいか、いつの間にかあまり表に表情が出にくい性格になってしまった。これは主に幼馴染の壮亮そうすけのせいなのだけれど、人のせいにしていても、仕方がない。


「つ、かれた」


とにかくその日の私は、疲労困憊だった。

新卒であれよあれよと秘書課に配属され、社内取締役のなかでも比較的内部にいることの多い会長の秘書からスタートさせられた。

そのうち、生まれたばかりの陸斗りくとくんのお世話をしなければならない先輩と代わる形で、うちの専務——橘遼雅の秘書になることになった。

橘専務の雰囲気は、私の義理の兄にかなり近しい。

ふわふわした見た目と同じく性格も温厚で、いかにも女性に人気そうな人だ。ゆっくりと時間が流れているように見える。実際は、見えているだけだ。


「こんなに忙しい人だったのかあ」


橘遼雅は、社長の右腕として営業畑から華麗なエリートコースを突き進んできた出世頭だ。

親族でもなく、コネでもなく、普通の新卒として入社してきた人間では、最年少の取締役らしい。その肩書に恥じない素晴らしい働きっぷりの人だ。


「佐藤さん、あ、ごめんね。休憩中でしたか」

「あ、いえ。すみません、大丈夫です」


内心かなり驚いた。

後ろからひょっこりと顔を出したその人は、すこし申し訳なさそうな顔をしている。時刻はすでに21時を過ぎようとしている。それなのに、ネクタイをくつろげることもなくしっかりと着こなして、朝見たままの爽やかさで私の前まで来てくれた。

秘書課はもうすでに私一人だった。必然的に二人きりになる。もちろんやましいことは何もない、はずだった。


素直に素敵な男性だと思う。

年齢は29歳だと聞いた。初めに聞いたときには、もっと若いと言われても納得できると思っていたけれど、この抜群の働きっぷりを見ていたら、もっと年上でもいいようにさえ思えてしまうから不思議だ。


「佐藤さんまで残ってもらってごめんね。今打ち合わせが終わりました。私も帰りますから、佐藤さんは先にあがってください」


「わかりました。……あの橘専務、今日は夜、ご予定があると伺っておりましたが、その件は……?」


21時から外せない予定があると言っていた。時計の針はすでに21時を若干超えてしまっている。今からでは、予定には間に合わなさそうだ。


「ああ……、本当だ。困ったな」


まただ。

橘専務は仕事に熱中しすぎて、よく時間を忘れてしまう。

プライベートな用事については私も催促しないようにしているのだけれど、この調子なら、やっぱり指摘してあげたほうがいいのかもしれない。そう思っても実行しないのは、橘専務があまりその予定とやらに行きたがっているようには見えないからだ。


「タクシー、配車しましょうか?」

「いや、……あー、うん。お願いしていいですか?」

「はい。承知しました」

「いつもありがとう」


受話器を取って、短縮ダイヤルをプッシュする。そのままいつものように会社の前に一台配車を依頼して、電話を切った。目の前にいたはずの人がいなくなっている。


「あれ」

「佐藤さん、」

「わ」


すぐ近く、体のわきから覗く男性もののスーツの袖が、私のデスクにペットボトルのオレンジジュースを置いた。その腕をたどって振り返れば、いつもよりすこし近いところにある橘さんの瞳と視線がぶつかる。


「あ」

「あ、ごめん。近づきすぎた」

「あ、いえ」


びっくりした。

橘専務は、おそろしくいい匂いがする。

抱き着いて、肺いっぱいに匂いを嗅いでみたくなるような魅惑的な香りの人だ。うっかり引き寄せられそうになった。
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