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おさとうひとさじ
4.
しおりを挟む「大切に、しているつもりです。はい……、今ですか? はい、ですから社内に……」
「周りに人ですか? はい、この間お話した秘書が同行していますが」
ちらりと振り返った人が私に気づいて片手をあげた。
「いえ、彼女は……」
困り果てた声をあげて、次には「もしもし?」と何度か繰り返して、途切れてしまったらしい携帯を見つめている。
かなりのわけありらしい。
それも、私が関わっているような雰囲気だった。首を傾げれば、軽く息を吐いた人が「帰りましょう」と声をかけてきた。
「はい……、大丈夫ですか?」
「え? ああ、申し訳ない。聞こえていましたよね」
「いえ、何かもめているご様子だったことくらいしか」
橘専務があまり進んで会いたくないと考えている相手が電話の先にいたのだろうか。詮索するのもよくないと思いつつ、横に並んで歩き出した専務に倣う。
「……婚約相手です。私がいろいろとふがいないばかりに、さみしい思いをさせてしまっていまして」
そんな相手がいたのか。
吃驚してしまった。橘専務と言えば、夜遅くまで残っていることが多い人だ。仕事に心血を注いでいることも知っている。だからなおさら驚いてしまった。
さみしい思いをさせていると言うのは確かにそうなのかもしれない。私も、さみしいは苦手だ。
「ここのところは、あまり会ってすらいなくて」
それは確かに、相手が怒ってしまうかもしれない。
「――部屋に付けたカメラで、私が帰ってきていないと、どこに行っていたのか聞いてくるようになってしまったんです。もちろん私もできる限りで答え……」
「え?」
今何か、聞いたことのない言葉が聞こえた気がした。
カメラ、とは、私の知っているあのカメラだろうか。驚きすぎて、声が出てしまった。
私を振り返った人が、同じように驚いた顔をしている。
「あれ、佐藤さんがおどろいてる」
一呼吸おいて、花が咲きそうな笑顔に見つめられてしまった。
まぶしい。
うっと喉が鳴りかけて、おそるおそる声に出す。
これは、おかしなことが起きているに違いないのだ。橘専務は基本的に優しい。やさしすぎて、いろいろと、勘違いをさせてしまうくらいに。
「あの……差し支えなければ、もう少し詳しく聞いても?」
「うん?」
「その、お相手のこと」
「あはは。お恥ずかしいな。でも、相談に乗ってくれるなら」
橘専務の魔力に誑かされて、何人かの女性社員が橘さんに好意を押し付けた挙句、半狂乱になってしまったと聞いたことがある。
初めはまさかと思っていたが、あの距離感で、ふんわりと笑って近づいてくれて、「家まで送る」なんて言われたら勘違いしてしまうだろう。
橘専務が異様なくらいセクハラに気を使っているのはそのせいだ。結局、あまり効果は見られていないのだけれど。
「カメラっていうのは……」
「うん、どこかに設置したと言われて、私もそうそう会いにも行けないでいたから、それで気が済むならと思っていたんだ」
「……はい」
「男のさみしい一人暮らしなんて、見ても何の価値もないし。隠すこともないから」
専務の私生活なら、大金を叩いてでも欲しがる人がいそうだ。とは、さすがに言えずに黙る。
「でも、さすがに同僚についてまで説明を求められると……、どうやったら安心してもらえるのか」
「……愛を、つたえる、とか?」
我ながら、あまりにも苦しい提案だ。私の言葉で、橘さんの顔が曇ってしまう。
「……会長に用意していただいた縁談だったんだ。彼女も、私を好いているわけではないと思う」
心底困った表情に言葉が絡まってしまった。
どう考えても、相手は橘専務にぞっこんだ。専務が一向に好意を見せてくれないからエスカレートしてしまうのだろうか。
すでに立派な犯罪になってしまっている。
どうやってそのことを説明するべきなのか考えあぐねて、橘専務に付き従う形でエントランスから出る。
タクシーは、少し先のほうに横付けされていた。
顔をあげて、その近くに一人の女性が立ち尽くしているのが見える。
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