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おさとうふたさじ
3.
しおりを挟む「もう、終わったんですか?」
「はい、お待たせしました」
「もっと長くてもいいくらいなのに」
「ええ?」
「そうしたら俺は、もっと長くかわいい奥さんを盗み見ていられるのになあ」
とんでもない言葉に心臓が止まりかけて、必死で呼吸を繰り返している。
遼雅さんのあまやかしを真に受けたら、大変なことになる。頬に受けた女の人の手を思い返しながらふるふると顔を横に振った。
「嫌ですか?」
「い、嫌じゃないです」
反射的に言いながら、やわらかく繋がれた指先に心がいっぱいいっぱいになった。
優しい瞳は、ただ私の目をじっと見て、もう一度「かわいい」と囁いていた。もう、朝から忙しい。
ちゃっかり私の分まで荷物を持った遼雅さんが玄関の端に二人分の鞄を置いて、名残惜しそうに手を離した。
遼雅さんと同じように靴を履いて立ち上がれば、すでに準備を終えたらしい人がこちらを見て、軽く両手を広げてきているのが見えてしまった。
眠るときだけで良いと言ったはずなのに、遼雅さんはこうして定期的にあまやかしてくるから、ずるい人だ。
「柚葉さん、抱きしめたいです」
抱きしめてほしいと言ったのは私のはずなのに、遼雅さんはいつだって私のためじゃなくて、自分のためのことのように誘ってくれる。
だから、断ることもできずにあまえてしまうのだ。本当に、こまってしまう。
きゅっと力のはいった腕に抱きしめられて、今すぐ微睡みたくなってしまった。やんわりと頭を撫でる手はやさしくて、病みつきになってしまう。
本当に、とんでもない相手と結婚してしまったものだ。
「もう、大丈夫です」
「うん?」
「遼雅さん」
何度か言っているのに、一向に放してくれる気配がなくて、すこし笑ってしまった。私が笑う音に気づいたのか、腕を緩めて顔を覗き込んでくる。うっとりと瞳を眇められて、胸にあまさが突き刺さった。
「柚葉さん、笑うと可愛すぎるから、こまった」
「ええ?」
「ああ、放したくないな」
「今日は9時から……」
「はい、わかってます」
言いかけたら、くすくすと笑い声が上から響いてきた。最後に頬を撫でられて、あまい瞳と視線がぶつかる。
「行こうか」
「はい。……あ、待ってください」
「うん?」
うっかり忘れかけていた。
繋がれていた手をぱっと離して、薬指に嵌めていた指輪を優しく引き抜く。それを玄関に置かれたプレートの上にそっと置いてから、遼雅さんと向き合い直した。
「え、どうしたんですか」
「……外さなくても、いいんだけどなあ」
「ええ、ばれちゃいま、」
途中まで言いかけて、ちゅ、と唇に熱が触れた。軽快なリズムに吃驚して、目の前の人が楽しそうに笑うのが見えた。
「口紅、ついた?」
「……ついて、な、いです」
「あれ、残念」
見せつけようと思ったのに。
軽く笑って言った遼雅さんが、指輪の抜けた手を再び取って歩き出す。
どういう意味ですか、と問う暇もなく遼雅さんが世間話をはじめてしまった。
「気持ちのいい朝だね」
「あ、はい。そうですね。今日は一日中晴れの予報ですよ」
「あはは、俺は柚葉さんと手を繋げるからうれしくなってただけなんだけど。なおさら良いことを聞いた」
「手は、毎日繋いでますよ?」
「うん、毎日うれしい」
橘夫妻の朝は、ゆったりマイペースだ。
吃驚して黙り込めば、繋ぎ合わせていた指先を軽くなぞられる。ぴくりと肩を上ずらせるだけで笑う人に翻弄されるまま、エレベーターまでの短い道を二人で歩いた。
誰にも会わずに中に入って、遼雅さんの熱い指先が1階を押すところを見つめていた。
マンションから出た瞬間に、私と遼雅さんは秘書と専務に戻ることになる。惜しむように指先を撫でられて、胸がきゅっと詰まってしまった。
橘遼雅に落ちない人は、果たしているのだろうか。
「柚葉さん?」
「あ、おります」
声をかけられて、一緒に1階エントランスへ降りた。出入口で手を離して見上げれば、すこしさみしそうな瞳と視線が絡んでしまう。
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