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おさとうふたさじ
4.
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離れがたくなる魔法をたくさん持っている人だ。
専務の遼雅さんは、いつも人を甘やかさないように細心の注意を払って、あの性格を保っているのだと知った。
「柚葉さん」
「もう、佐藤ですよ」
「……佐藤さん」
「はい、橘専務」
困った顔をして、すこし時間を置いてから、ようやく気持ちを切り替えたらしい人が、一つ呼吸を置いて爽やかに笑った。
すでに橘専務のモードに入れたようだ。
いつ見ても、二人の時の姿と会社で出会う姿の違いに感激してしまう。裏表とまではいかないけれど、がらりと印象が変わる。
会社であんなにあまやかされたら大変だ。
優しい専務に戻った人が、さっきまでのどろどろの微笑みとは違った精悍な笑みで声をかけてくれる。
「危ないことがあったら、すぐに連絡してください」
「はい」
「じゃあ、後程」
ぱっと手をあげて、私が歩き出すのを確認してから右の道へと歩き出していく。
遼雅さんは心配性だ。
こうやって言い残しても、すぐに携帯に連絡が来る。
“たどり着いたら、一度連絡をください。俺もします”
どこまでもマメで紳士な旦那さんであることに、毎回頬が笑ってしまっていた。
こんなことをしていれば、相手が頻繁な連絡を求めてくるようになってしまうのではないだろうか。
遼雅さんは今何をしているのかを未だに逐一報告したがるから、過去の経験というのは恐ろしいものだと思ってしまう。何度相手にそういう振る舞いを求められてきたのだろうか。
“ちゃんと朝、ご挨拶に行きますから、心配しなくて大丈夫ですよ”
歩きながら丁寧に返せば、すぐに返事が返ってくる。
“俺が勝手に心配なんです”
“柚葉さんは、可愛すぎるから”
見ているだけで体温が上がりそうな返しに、さっそく黙り込んでしまった。
遼雅さんの癖を直してあげるのは、まだまだ難しそうだ。
結局言われた通りに会社のエントランスについてすぐに連絡を送ることになってしまった。
遼雅さんからは、15分前に連絡が来ていた。
歩くのがとても速いと思う。私の隣で歩いてくれているときにはすこしも感じさせないから、やっぱり紳士的な人なのだと再確認してしまう瞬間だ。
秘書課にたどり着いてからの初めの仕事は、先輩と一緒に橘専務個人の役員室へと挨拶をしに行くことだ。
これは役員を担当している秘書なら全員が朝、必ず行っていることだった。顔を見せて、一日のスケジュールを確認する。
社長の秘書はあちこちに同行することが多いが、橘専務は比較的秘書を伴わずに外勤していることが多い。
正直、そこまで付き合っていると賄いきれないくらいの仕事に追われているから先輩は「理解があって助かる」といつも顔をほころばせていた。
ノックして入室すれば、すでに資料を手に取りながら、こちらに向けて柔らかく微笑んでいる橘専務が見えた。
先輩と同じく頭を下げて、立ち上がった専務にすぐにソファへ着席するように促される。
「青木さん、体に障ると良くないですから、すぐに掛けてください」
「ははは、ありがとうございます。すこしは運動しなくちゃいけないですし、気にしなくていいんですよ」
「産休まであと2週間ですよね。つらい時はすぐにお休みしてください。幸い佐藤さんもものすごく優秀な方ですし、私もたすかっています。無理はしないでください」
丁寧に囁いた人が、ちらりとこちらに視線を向けてくる。その目に同じようにうなずいてみれば、先輩には「もう~、あと2週間頑張らせてください」と笑われてしまった。
膨らんだお腹は歩くのも大変そうだ。
重心が変わることで、外股歩きしかできなくなってしまったと言っていた。最近はマキシ丈のゆるいワンピースを着るようにしているらしい。
来客対応はもっぱら私がすることになっていて、お客さんとして稀に現れるイケメンを見ることをひそかな楽しみとしていた先輩としては、すこし物足りない勤務が続いていると言っていた。
真顔の私と橘専務が初めて顔を合わせた時にもうまくやることができたのは、間違いなくこの気さくな青木先輩のおかげで、そういう意味では私と橘専務の仲人の一人とも言えるかもしれない。
遼雅さんは、青木先輩にこの結婚のことをお話しできないことについて、非常に残念そうにしていた。私から見ても2人の息はぴったりだ。
「まあ、私も橘専務と佐藤さんなら、ばっちり、息ぴったりでやっていけるだろうと思いますけど。……専務~、佐藤さんが可愛いからって、誑かしたらダメですよ?」
「あはは、セクハラには気を付けます」
さすがの橘専務も苦笑いだ。
専務の遼雅さんは、いつも人を甘やかさないように細心の注意を払って、あの性格を保っているのだと知った。
「柚葉さん」
「もう、佐藤ですよ」
「……佐藤さん」
「はい、橘専務」
困った顔をして、すこし時間を置いてから、ようやく気持ちを切り替えたらしい人が、一つ呼吸を置いて爽やかに笑った。
すでに橘専務のモードに入れたようだ。
いつ見ても、二人の時の姿と会社で出会う姿の違いに感激してしまう。裏表とまではいかないけれど、がらりと印象が変わる。
会社であんなにあまやかされたら大変だ。
優しい専務に戻った人が、さっきまでのどろどろの微笑みとは違った精悍な笑みで声をかけてくれる。
「危ないことがあったら、すぐに連絡してください」
「はい」
「じゃあ、後程」
ぱっと手をあげて、私が歩き出すのを確認してから右の道へと歩き出していく。
遼雅さんは心配性だ。
こうやって言い残しても、すぐに携帯に連絡が来る。
“たどり着いたら、一度連絡をください。俺もします”
どこまでもマメで紳士な旦那さんであることに、毎回頬が笑ってしまっていた。
こんなことをしていれば、相手が頻繁な連絡を求めてくるようになってしまうのではないだろうか。
遼雅さんは今何をしているのかを未だに逐一報告したがるから、過去の経験というのは恐ろしいものだと思ってしまう。何度相手にそういう振る舞いを求められてきたのだろうか。
“ちゃんと朝、ご挨拶に行きますから、心配しなくて大丈夫ですよ”
歩きながら丁寧に返せば、すぐに返事が返ってくる。
“俺が勝手に心配なんです”
“柚葉さんは、可愛すぎるから”
見ているだけで体温が上がりそうな返しに、さっそく黙り込んでしまった。
遼雅さんの癖を直してあげるのは、まだまだ難しそうだ。
結局言われた通りに会社のエントランスについてすぐに連絡を送ることになってしまった。
遼雅さんからは、15分前に連絡が来ていた。
歩くのがとても速いと思う。私の隣で歩いてくれているときにはすこしも感じさせないから、やっぱり紳士的な人なのだと再確認してしまう瞬間だ。
秘書課にたどり着いてからの初めの仕事は、先輩と一緒に橘専務個人の役員室へと挨拶をしに行くことだ。
これは役員を担当している秘書なら全員が朝、必ず行っていることだった。顔を見せて、一日のスケジュールを確認する。
社長の秘書はあちこちに同行することが多いが、橘専務は比較的秘書を伴わずに外勤していることが多い。
正直、そこまで付き合っていると賄いきれないくらいの仕事に追われているから先輩は「理解があって助かる」といつも顔をほころばせていた。
ノックして入室すれば、すでに資料を手に取りながら、こちらに向けて柔らかく微笑んでいる橘専務が見えた。
先輩と同じく頭を下げて、立ち上がった専務にすぐにソファへ着席するように促される。
「青木さん、体に障ると良くないですから、すぐに掛けてください」
「ははは、ありがとうございます。すこしは運動しなくちゃいけないですし、気にしなくていいんですよ」
「産休まであと2週間ですよね。つらい時はすぐにお休みしてください。幸い佐藤さんもものすごく優秀な方ですし、私もたすかっています。無理はしないでください」
丁寧に囁いた人が、ちらりとこちらに視線を向けてくる。その目に同じようにうなずいてみれば、先輩には「もう~、あと2週間頑張らせてください」と笑われてしまった。
膨らんだお腹は歩くのも大変そうだ。
重心が変わることで、外股歩きしかできなくなってしまったと言っていた。最近はマキシ丈のゆるいワンピースを着るようにしているらしい。
来客対応はもっぱら私がすることになっていて、お客さんとして稀に現れるイケメンを見ることをひそかな楽しみとしていた先輩としては、すこし物足りない勤務が続いていると言っていた。
真顔の私と橘専務が初めて顔を合わせた時にもうまくやることができたのは、間違いなくこの気さくな青木先輩のおかげで、そういう意味では私と橘専務の仲人の一人とも言えるかもしれない。
遼雅さんは、青木先輩にこの結婚のことをお話しできないことについて、非常に残念そうにしていた。私から見ても2人の息はぴったりだ。
「まあ、私も橘専務と佐藤さんなら、ばっちり、息ぴったりでやっていけるだろうと思いますけど。……専務~、佐藤さんが可愛いからって、誑かしたらダメですよ?」
「あはは、セクハラには気を付けます」
さすがの橘専務も苦笑いだ。
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