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しおりを挟む以前より、明らかに距離が近い。
ソフィアはマリアから離れて、1人書庫へ向かう道の途中で何者かに腕を引かれ、見知らぬ空き部屋に押し込まれた。普通の令嬢であれば悲鳴を上げてしまいたくなるような恐ろしい仕打ちだが、慣れてしまったソフィアはただ眉を顰めるだけだ。
獣軍の軍基地は広大な土地に建てられている。古くは獣人たちが暮らす街としても機能していたらしい。それだけあって、基地の建物内も迷子になれば元の場へ戻ることが難しいだろうと思えるほどに広い。
ソフィアはこれまで、訓練場に顔を出し、魔術師たちの動向を見張る以外のことに興味を示していなかったのだが、ここへきて、他のことにも興味がわいてきた。
獣人の力についてだ。
人と意思疎通を取ることのできる魔獣の存在や、ルイスの類稀なる嗅覚が気になっている。ソフィアは自身が獣人についてあまりにも無知であったらしいことに気付いた時、即座に行動を起こした。
ソフィアはマリアに自室へ戻ると伝え、適当に彼女の監視を撒いてから、誰一人利用している痕跡のない書庫に足を踏み入れている。
このようなことをしなくとも、ソフィア以外の魔術師であれば、それなりの友好関係を結んで、当人からその身体の神秘を曝け出してもらえるだろうが、彼女はそういうわけにも行かない。
そうして書庫に足を向けるようになったその日のうちに、今、ソフィアの目の前に立っている男はあっさりと彼女の居場所を見抜き、今と同じようにソフィアの瞳を睨みつけた。
穏やかに会話ができる相手ではない。
「相変わらず強情だな」
鼻で笑うように声を鳴らした男が、躊躇いなくソフィアへと手を伸ばしてくる。もう、何度もソフィアの身体を蹂躙した手だ。彼女の身体も、その手に与えられる快楽にすっかり慣れ、欲している。
しかし、心までもが落とされているわけではない。
その手が薔薇色に染まった頬へ触れようとしたその時、ソフィアは無意識に身体を引いて、男から距離を取った。乙女の些末な抵抗を目にした男は、その瞳に嘲るような色を浮かべて後ろ手に扉の鍵を閉める。
「フローレンス、苦しいんだろう」
わざとらしく囁く男に眉を顰めたソフィアは、その声を聞くだけで己の腹がきゅうきゅうと疼くのを感じていた。ひどく淫らな身体だ。何の方法を試しても、結局解術には至らなかった。その効果を鎮めることのできるただ一人の男が、ソフィアの抵抗を見て、嗤っているのだ。
「まだ、平気ですわ」
「そうか。あれほど悩ましげにため息を吐くのだから、俺を誘っているのかと思ったが」
軍事訓練を見に行ったときは涼しげな顔をしてソフィアのことを無視していた男が、嘲るように笑い、彼女の耳元にいやらしく囁いてくる。
ルイスはソフィアが何を成し遂げようとしているのか、すべて見ているのだ。ルイスは初めのころのように、ソフィアが獣人をどのように思い、何をしようとしているのかを聞いてくることをやめた。その目で見て、判断しているのだろう。
実際、声を掛けられることはほとんどないが、稀に、ソフィアが他の者とのやり取りで答えに窮するたびに口を挟んでくるところは変わらない。むしろ、その頻度が増え、明らかにソフィアを庇い立てているのがわかる。
今日も、僅かに熱に浮かされた表情を浮かべるソフィアに声をかけた紳士の言葉を遮る形でルイスがソフィアとその男をさりげなく引き離した。
「おかしなことをするのはやめて」
「何のことだかわからんな」
「貴方ね……」
「ルイスだ。フィア」
明らかに、肩入れされている。目の前の獣人が、一定以上の感情を持って己に接近してきていることを感じ取ったソフィアは、しかし、その呪いの効果故に男の接近を許さざるを得ない。
一度ならず何度もあられもない姿を晒した相手だ。ソフィアからすれば、もう二度と会いたくない男なのだが、ルイスは気にした素振り一つない。男とは、そういうものなのだろうか。ソフィアはこれまで全く色ごとに興味を持たずに生きてきたことを僅かに後悔しつつ、熱のこもった視線を向けてくる男を見て、無意識にもう一歩後ずさりをしていた。
埃が陽の光に照らし出され、光の粒子のように煌めいている。おそらく滅多に足を踏み入れる者がいない場なのだろう。
「フィア、意地を張るな」
「本当にまだ、平気ですの」
「発情期の雌の匂いをさせておいて、笑わせるな」
そのような匂いがソフィア本人にわかるわけもない。あけすけな物言いに、ソフィアの顔が赤らむ。ルイスはその表情を見下ろし、僅かに目を細めた。
「シェリーさんにおかしな目で見られているわ」
「シェリーさんに、か」
このところ、ルイスはソフィアがどれほど悪女らしく取り繕おうと、さもおかしげに喉をくつくつと鳴らして笑うだけだ。
無意識に、頭の中で呼んでいた通りにシェリーの名を呼びあげてしまったソフィアは、強調して言葉を返してくる男の意地の悪さを目の当たりにして、今度こそ顔を背けた。
「からかわないで」
「シェリーは鼻が良いからな。フィアについた俺の匂いに勘付いているのかもしれんな」
「に、おいって」
ルイスがソフィアを庇うたび、シェリーはソフィアの顔を見て、すぐに目を背けてしまう。
初心な乙女らしい反応に、ソフィアはシェリーが持つ感情が何であるのか、即座に理解していた。ルイスは勇敢な英雄だ。獣人たちからはことさらに根強い人気を誇っている。
家門の汚名をもってしても、釣りがくるほどの絶大な人気なのだ。上官がそれほどの者であれば、憧れを抱いても可笑しくはない。
「俺の部屋には、貴女の匂いが染みついているだろうしな」
その部屋で、ソフィアは散々ルイスに食らい潰された。思い出させるように囁く男の声で、ソフィアはあっけなく熱に支配されそうになる。
ソフィアはシェリーの淡い恋心に気付いてから、なおのこと、この男を避ける方法を必死に探している。
「もう、あのようなことはしないわ」
「そうか。では、フィア。貴女が俺のもとへ通うしかないな」
怯える小動物のように壁に背を預けて距離を取るソフィアを見下ろしたルイスは、やはり喉を鳴らして笑いながら、乱雑に置かれていた椅子をその場に引き寄せて、ためらうことなくどかりと座り込んだ。
呪いが発現してからしばらくの間のルイスは、ソフィアが気を狂わせる寸前に現れ、自室に引き込んでは彼女との情交に耽っていたのだが、最近は二日に一度、こうしてソフィアの前にふらりと現れる。
いつもは有無を言わせず激しい口づけの雨を降らせて来るのだが、今日は趣向を変えるつもりらしい。
「フィア、どうした。もう、あのようなことはしないのだろう?」
シェリーとルイスが似合いの番になるという話は、ソフィアの耳にも聞こえてくるほど有名な噂だ。少し気の抜けた可愛らしい獣人シェリーと、堅物らしく、冷ややかな印象を与えるルイスはいかにも似合いの性格だ。
ルイスはこのようなところで、ソフィア・フローレンスと享楽に耽っていて良い男ではない。何度目かの結論に至ったソフィアは、やはり自身の過去の失態を思い返しながら、浅い呼吸を繰り返した。
一度肌を合わせてしまえば、それなりの情が生まれるものなのだろうか。眩しそうに目を細めて己を見上げてくる男の瞳に、ソフィアは相変わらず居心地の悪さを感じている。
この視線に慣れてしまえば、引き返せなくなる。
「フィア、来ないのか」
恋人を呼ぶような声だ。いつも、ルイスはソフィアを嘲笑ったり、意地悪に声をかけたりするくせに、不意に甘く優しい声でその名を呼んでくる。ソフィアはその声を聞くと、胸のうちが落ち着かなくなるのだ。
「……ライでは、だめなの」
どうにか逃れようとして口にした言葉は、あまりにも頼りない。
「貴女は獣とまぐわいたいのか?」
「……キス、くらい、なら」
ルイスに口づけられて、あられもない姿を晒すよりはマシだ。
ソフィアが平静を装っていられるのは、ほんの二日が限界だ。三日目からは、熱病に侵された子どものように身体中が赤らんで、激しく発熱する。ルイスはそのことを知ったうえで秘密裏に接触してくるのだ。
ソフィアの言葉を聞いたルイスは、その瞳に不機嫌そうな色を滲ませて、きつく彼女を睨みつける。
「あいにく、使い魔と貴女を共有する趣味はない」
「共有、だなんて」
「フィア、あまり手を煩わせるな。来い」
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