呪われた悪女は獣の執愛に囚われる

藤川巴/智江千佳子

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 ルイスが立ち止まったのは、高い崖の手前だ。ここも、昨日ソフィアが見た崖から続いている場のようだ。崖下を見下ろすルイスに倣うように顔を出したソフィアは、強い眩暈に身体の平衡感覚を崩しかけた。

「フィア、あまり覗き込むな」
「え、ええ」

 ふらりと倒れかけたソフィアは、横に立っていたルイスに危なげなく身体を抱き留められた。力強い手に、ソフィアは忘れかけていた呼吸を取り戻す。

「……嫌な感じがするわ」
「何かわかるのか?」
「少し、呼吸がしづらいの」

 間違いなく、何かがある。

 ソフィアは手に入れることのできる魔法書の全てを読み込んでいるが、それでも魔石については謎が多すぎる。

「フィア、無理をするな。顔色が悪くなっている」

 立っているだけで、ひどく魔力を奪われる。ソフィアは己の身体が急激に熱を持っていくことを感じ取り、ルイスの手に触れた。

「冷たいかしら?」
「少し冷えている。暑く感じているのか?」
「……あまりここには、長くいられそうにないわ」
「壊しに行くことはできるが……」

 言外に、ルイスがソフィアを案じていることがわかる。

「魔石はおそらくこの崖をしばらく下った先だ」

 淡々と言い切るルイスの表情を見るに、彼は崖を下りることも難しくないようだ。しかし、魔法を使うこともできないソフィアに、そのような力が備わっているはずもない。

「確実に、ここに戻って来られるかしら」
「……難しくはないが、破壊にどれほど手間がかかるかはわからん」
「そうね……、見た目はただの宝石のような石だと聞いているわ」

 だが、ソフィアも壊し方を知っているわけではない。魔法の力で壊すべきものであれば、初級魔法を使う程度しかできないルイスに破壊は不可能だ。しかし、この状況で魔法を使うことのできる魔術師も多くないだろう。

 今、最もこの場で手厚い魔法の保護を受けているのはルイスだ。ソフィアはそのことを語ることもなく、口を開いた。

「……行ってきてくださる?」
「フィアが危険だ」
「私はこの下へ降りる力がないわ」
「わかっている」

 ソフィアはすでに身体が痺れるような熱を感じている。昨日よりも多く魔方陣の紙を持ってきているはずが、これほどまでに歯が立たないのは、この場を支配するミストの力が濃すぎるためだろう。

 見たところルイスは、獣人でありながらあまりミストの影響を受けていない。

 万が一、ルイスが危険な目に遭ったとしても、ソフィアが頑丈にかけた魔法の力で、一度ならどのような難からも逃れられるはずだ。

 それだけの加護があれば、ルイスは成し遂げられる。ソフィアは根拠のない希望を持つ己に呆れつつ、静かに口を開き直した。

「ルイス。いつ昨日の者が来るかわからないわ。私の魔力が底を尽きるよりも先に、戻ってきて」

 聡い騎士のことだ。ソフィアが提案する策が最善であることもよく理解しているだろう。

 いまだ迷うルイスを見たソフィアは、両手をルイスの頬に触れさせて、つま先立ちになる。その時ルイスは、ソフィアがしようとしていることを無意識に理解し、腰をかがめた。

「貴方を信頼するわ」

 祈りのような声が囁き、ルイスの唇にソフィアの唇が、優しく押し付けられた。

「必ず、私の前に戻ってきて。ルイス」

 甘やかな声が、ルイスの耳殻を撫でる。その声をしかりと聞いた男は、頬にそえられた小さな手を掴み寄せ、その手のひらに優しく口づけた。

「……すぐに戻る」

 静かに囁いたルイスは、ソフィアの髪を柔らかに撫でつけ、記憶に焼き付けるように悪女の微笑みを見下ろした。

「危険だと感じたら、すぐに戻ってきて」
「わかっている。案ずるな」

 名残惜しむ心を押し隠したルイスは、その手がソフィアの毛先から離れた瞬間、崖の下へと飛び降りてしまった。

 ソフィアは僅かに息を殺し、祈るように両手を合わせる。

 待つと告げた通り、魔力を温存しながらこの場に立っていようと決意したソフィアは、奇妙な笑い声を聞いて、瞳から温かな色を消した。

 これほどまでに早く現れるとは。

「フィー、昨日ぶりだね。いつの間にすっかり獣と仲良くなったのかい?」

 そう簡単に、ソフィアの思い通りにはさせてくれない男が二人いることを、彼女はよく理解していた。やはり、どうしてもソフィアとルイスの道はここで違える。

「お兄様こそ。もしかして、獣人の子どもたちだけでは我慢ができなくなってしまったの?」

 ソフィアはたっぷりと悪意をこめて言葉を吐きながら、静かに後ろを振り返る。

 その場には、やはり下卑た笑いを浮かべるオリバー・マクレーンの姿があった。

 昨日ソフィアを襲ったルイスは、この男たちに作り上げられたものらしい。

「なんだ。もう気づいてしまったのか。つまらない」
「オリバー・マクレーンを解放して」
「はは、正義気取りかい? 可愛いねえ」

 ソフィアに魔力で対抗できる者は多くない。そして、一度身体に受けたくらいで、ソフィアが練り出した魔法の反転魔法を導き出すのは至難の業だ。

 そのはずが、昨日、ルイスに扮していたオリバー・マクレーンは難なくソフィアの眠りの魔法を弾いた。

 ソフィアの魔法を打ち消すことができるのは、長年彼女の術を受け続け、その術を読み解くことができた者か、もしくはテオドールや帝王ほど魔力が強い者だけに限られる。

 ソフィアは、それができる少ない術師の中から、自身が練り出した眠りの魔法を何度もかけた相手が2人存在する事をすぐに思い出していた。

「お兄様、マクレーン家のご子息の頭を弄って、ただで済むはずがないわ」
「永遠に術にかかり続けていれば問題ない」

 ソフィアがオリバー・マクレーンについての報告をユリウスにあげたとき、彼はオリバーの性格が、彼の覚えにある男とは全く違うと指摘していた。

 ソフィアもそれ以来、オリバーには充分に注意を払っていた。

 彼のやることなすことは、全てがソフィアに絡むことばかりだ。それも、オリバーが執拗にソフィアに絡んでくるようになったのは、彼女が獣人のような刺客に襲撃された後からだった。

「わざわざ獣人に見立てたものを魔法で作ってまでわたくしを襲うような事をして、楽しいものなのかしら」
「ああ、楽しかった。あれは傑作だったよな。まさか、獣が殺されたくらいでお前が殺気立つとは! やっぱりお前は、まだ下民をオトモダチだと思ってる馬鹿なフィーだ」

 あの夜の、ライを助けたソフィアの行動が、兄二人の好奇心に火をつけてしまったらしい。

 間違いなく、本物のオリバーは精神魔法にかけられ、思考を乗っ取られている。

 大方、呪いがあると知っていながら獣に触れたソフィアをからかおうと考えた兄たちが、手頃な相手としてオリバーを選んだのだろう。

 兄二人は冗談ではなく、獣人たちへの度重なる魔法の行使で、精神魔法の扱いを上達させたらしい。

 なんとも気分の悪い話だ。

 兄たちはとうとう、無抵抗な獣人の幼児たちだけでなく、成人した魔術師たちにも手をかけた。ソフィアを襲ったのが兄ならば、これまでに起きた暴力事件も、間違いなく兄——ウィリアムとショーンが2人で起こしたものだろう。

「なぜ、あのような事件を起こしましたの」

 ソフィアが心底理解できずに問いかければ、オリバーの身体を乗っ取る兄はおかしそうに腹を抱えた。

「退屈だからさ」

 けらけらと笑う男が、さも当然のことかのように発言し、笑いを落ち着けながらため息を吐く。

「なぜ俺たちだけが罰を受けなければならないんだ? 俺たちと同じく獣人を殺したいやつは山ほどいる。その中でなぜフローレンスの俺たちだけが、父親に殺されなければならない?」

 フローレンス家の男児は、テオドールに飽きられた瞬間、命を奪われる。兄たちはそれを知っていて、常にソフィアに苛立ちをぶつけてきていた。しかし彼らは、それだけでは物足りなくなってしまったのだ。

「退屈なんだ。フィー。終わるとわかっている人生なんて、面白みがない。俺たちと同じくらい、もっと痛めつけてやらなきゃ、つり合いが取れないだろう?」
「つり合い、ですって?」
「フィーの宝物は、全部ぶっ壊さないと。俺たちが死ぬなら、フィーはもっと地獄を味わうべきだ。それに、俺たちと同じように獣人を嫌ってるやつらにも天誅を下さなければなあ。殺していないだけましだろう?」

 獣人らしきものに襲われた貴族たちは、すべてショーンとウィリアムの知人だ。自分たちがいつテオドールに害されるかわからない恐れを他者への暴力で払拭しようとしているのだとしたら、どれほど悍ましい行為だろうか。

 死の期限がわかっていてもなお、光を失わずに前を突き進むユリウスとは、比べ物にもならない。

「フィーはオトモダチ獣人が傷つけられるのが怖いんだろう? 俺たちより長く生きるらしいクソどもお貴族もぶっ壊して、獣人もめちゃくちゃにして、フィーの心もズタズタにしてやれる。この計画は完璧だった。普段馬鹿にしている対象から暴力を振るわれる奴らの顔と来たら! 最高だよ」

 心が腐りきっている。ソフィアは改めて、二人の兄の恐ろしい思考に吐き気を催しつつ、静かに呼吸を整えた。
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