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しおりを挟む「ようやく目覚めたか」
テオドールが訪れるのは、決まって夜だ。ソフィアはその声が聞こえた時、特に驚くこともなく顔をあげて笑みを浮かべた。
「お父様」
「なかなか起きないから、心配をしていた」
しらじらしい言葉だ。微笑むテオドールの瞳には愉悦が浮かんでいる。ソフィアがどのように振る舞うのか、楽しんでいるのだろう。
「久しぶりの邸に安心してしまったみたいですわ」
「そうか。自室に戻してやれず、悪かったな」
「いえ。お父様が来てくださるなら、どこでも変わりませんもの」
精神魔法を最も得意とする術師は、自然に好意を抱かせる魅了魔法を使うことができる。それは、その者の心に根付いていた愛情の構造を利用し、愛情の対象を徐々に変えていくというものだ。
術にかけられる者の精神が屈強であればあるほどに時間がかかる。しかし、相手の心を壊すことなく、最も人間らしい精神状態のまま、相手の好意を得ることができる高度な魔法だ。
この魔法の難点は、かけられる者が途中で魅了魔法を受けていることに気付いた途端、効力が失われてしまうことだ。
ソフィアの頭には、テオドールを憎く思うたび、すり替わるように自然にルイスの顔が浮かんでいた。
彼女はそのことをたびたび思い出し、父が馬鹿馬鹿しい術をかけたらしいことに気付いた。
テオドールは、ソフィアを娘などとは思っていない。そもそも、彼女がソフィアであることさえ忘れようとしている。
それならば、ソフィアの取るべき行動は一つだ。
「お父様、はやくここへ来てくださいまし」
寝台の上で上体を起こしたソフィアは、うっとりと目を細めつつ、甘えた声を出した。テオドールがこの術を使ったということは、やはりソフィアが誰かしらと心を通じ合わせていたことを理解しているということだ。父は、ソフィアが心に愛というものを宿すところを待ち構えていた。こうしてソフィアの心をすり替えるための好機を伺っていたのだろう。
その相手が獣人であったことなど、父が許せるはずもない。テオドールは間違いなくルイスの命を狙っている。
ルイスから少しでも長くその心を奪わなければならない。
ソフィアの甘えた声を聞いたテオドールは、目を細め、ゆったりとソフィアの横に座った。とっくに、家族のような感情など壊れている。ソフィアも、そしてテオドールも、そうらしい。
「今宵の姫は随分と甘えたがりだが、どうしたんだ」
「……お父様ったら、私が目を覚ましてもちっとも構ってくれないんですもの」
「ああ。愛しのフィーが目を覚ましたとは知らず、野暮用を片付けていたんだ」
野暮用が何であるのか、聞くようなことはしない。ソフィアはただ、テオドールに頬を撫でられ、柔らかく微笑む。
彼女の格好は父に見せられるようなものではない。ソフィアはシルクのネグリジェの肩ひもを意図的に肩から落とすように身体をくねらせて、テオドールの胸に縋り付いた。
吐き気がする。
心の中に浮かぶ本心で、ソフィアは自我を保っている。この男は、憎むべき相手だ。頭を撫でられるたび、甘やかな陶酔に襲われることの意味をよく理解しているソフィアは、ますますうっとりと瞳を潤ませて父の顔を見上げた。
じわじわと身体が魅了の力に犯されて行く。
「フィー、呪いはどうなっている?」
「のろい、ですの?」
「獣に触れた、と聞いたが」
間違いなく、それを告げたのは殺された二人の兄だろう。
「獣に触れ……? そのようなおそろしいことを、わたくしが?」
「いや。世迷言を聞いただけだ。真実でないなら良い」
父は、フローレンスに生まれる男児にとんと興味がない。むしろ、父が興味を持っているのはこの世にただ一人だ。
「お父様」
「オフィーリア、その呼び方はそろそろやめてくれ。私のことはテオドールと呼ぶように、何度も言っているだろう?」
テオドールがソフィアの唇を指先でなぞる。その指先の熱が唇に燃え移り、ソフィアの精神をゆがめようとして行く。魅了魔法への抵抗は、術師以上の魔力を持つか、もしくは精神力を高めること以外にはなすすべがない。
「テオ、さま」
勝手に唇が囁きだす恐怖に背筋を凍らせたソフィアは、腕輪に挟んだ野花を見下ろして、呼吸を整えた。花は、すでに朽ちようとしている。
ソフィアは、馬鹿馬鹿しいと知りつつ、その花が枯れるまでに英雄が訪れてくれることを待ち望んでいる。
——ルイス。
「オフィーリア。お前が心を取り戻す日を、どれだけ待ちわびたことか。お前が忌々しい獣に心を惑わされてから、私は狂ってしまいそうだった。フィー」
暑苦しく囁く男が、ソフィアの肩口に口づける。口づけられる箇所から、思考能力を奪われている。
ソフィアは己の心を内側から作り変えようとしている男の力を感じて、ますます強く、脳裏に一人の男を思い浮かべた。
「……忌々しい、獣、ですの? テオさま、わたくし、何も覚えておりませんわ」
「そうか。お前はおそろしい呪いにかかっていた」
「のろい、ですの?」
「ああ。お前は呪いに心を犯され、ロンド・フェガルシアを最愛の男と錯覚し、その悪魔の子を身に宿した」
そうしてテオドールは、オフィーリア・フローレンスを嬲り殺し、腹を裂いた。
ソフィアは曖昧な意識の中、この国に起こった忌々しい禍根が、テオドールの狂気によって起こされたものであることを察し、身体を震わせる。
狂っているのは間違いなくテオドールだ。この男は、実の妹に懸想し、あまつさえその妹と愛する者を引き裂いた。
「……ロンド」
「フィー、惑わされてはいけない。あれは、私たちの属国となる蛮族の男だ。何度も言っただろう? それなのにお前は、私が授けた戒めの腕輪の力に恐れをなして、外せとまで言った」
「戒めの、腕輪」
「獣の忌々しい血を持つ者が、我らよりも強い力を持っているなど、気分が悪い。あれらの力はすべて戒めの腕輪で奪い返し、魔石に還元している」
「ませき、に?」
「すべて忘れてしまったのか。フィー、不安な顔をするな。魔石にため込んだ力は、私と陛下が適切に使用している。……あれらの反乱を砕くために」
ソフィアの腕輪に触れた男は、うっとりと微笑んでいる。ソフィアはその瞳が、琥珀色に輝く錯覚を起こし、静かに瞼を下した。テオドールは、全ての記憶をソフィアに植え付け、彼女をオフィーリアにしようとしている。
「私が授けた腕輪がフィーからの贈り物だと思い込んだあの男の顔、誠に愉快だった。……それがあれの忌々しい力を封じるものとも知らず、嬉々として腕に嵌めたのだからな。その瞬間を見ていれば、フィーもあれほど気を動転させることもなかっただろう」
「腕輪を嵌めても、怖いものは、怖いわ」
「そうだな。あれはお前を番と思い込み、執着していた。だが、腕輪に魔力を吸われる男など、私にとっては赤子も同然だ。みすぼらしい雌犬をお前と錯覚する魔法にかければ造作もない。フェガルシア領を支配するための婚姻で、お前が術にかけられるとは思いもしなかった。フィー、すまない。恐ろしい思いをさせた。しかし、すでに獣は我が手のひらの上だ」
恐ろしい筋書きに、ソフィアは指先を震わせてしまった。
フェガルシアの先王とオフィーリア・フローレンスは悲劇の恋をしていたのだ。ソフィアの予測通り、獣人はグランの民を凌ぐ力を持つ民族だった。しかし、それを妬むテオドールと帝王は、王を貶め、フェガルシアを属国とした。
「なぜ、そのようなことを」
「獣は労働力になる。フェガルシアの天候を操作し、飢饉を起こしてやった。あれらは魔力を持ちながら、それを操る力を持たん下等生物だ。グランに引き入れると告げればほいほいとついて来た。王に腕輪を嵌めさせればその後は全ての獣が従順になった。フィー、もう恐ろしいものはない」
「ええ……、そう、ですわね」
「震えているな。寒いのか」
恐ろしさに、震えているのだ。
ソフィアは声に出すことなく、テオドールの胸に額を摺り寄せた。
ミュリの故郷は、この男の忌々しい魔法の力に歪められ、故意にやせ細った土地に変えられた。
美しい野山を壊し、国を破壊し、獣人たちの魔力を搾取して、テオドールは強大な魔力を得た。何の罪もない獣人の者たちを貶め、その地位を突き落とした。
怒りに震えるソフィアを見下ろしたテオドールは、丁寧な手つきでソフィアの顎をあげさせる。陶酔して微笑むテオドールの瞳には、やはりソフィアに似た赤い色が浮かんでいた。
どうしても、許せそうにない。
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