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43 新たな居場所
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診療所の小窓から差し込む光は、やわらかく、春の訪れが近づいているような、どこか頼りない淡い光だった。まだ冷え込みの残る朝の空気に包まれながら、アリシアは白いシーツの中で小さく身を丸めていた。
――ルーカス。
その名を、心の内で呼ぶことすら怖くて、彼女は何度も唇を噛んだ。あの日から、季節は一つ巡りかけている。けれど、時間だけが過ぎていって、心は取り残されたままだった。
彼がもうこの世界にいない、という実感は、今も彼女を拒むように遠ざかる。
わずかに残された筆箱――擦れた革の感触と、開けるたびにこぼれ落ちそうになる小さな鉛筆の欠片たち。それだけが、彼の存在を証すものだった。
この診療所に保護されてから、しばらくはほとんどベッドの上で過ごすしかなかった。目覚めても身体が鉛のように重く、吐き気や眩暈に襲われ、立ち上がるどころか水を口に含むのも一苦労だった。
体調の悪化は妊娠によるものとわかっていても、日々繰り返される倦怠と、押し寄せる喪失の波に、アリシアはただ耐えるしかなかった。
食事もろくに喉を通らず、夜になっても眠れない。看護師たちが何度も声をかけてくれたが、笑顔を返す力すら湧いてこない。頭をよぎるのは、ルーカスと過ごした日々、そして彼と交わした約束――
あの朝、彼が現れなかった理由を、どこかでまだ信じたくない自分がいた。
診療所を営むのは、イシュトバーンという老医師だった。腰は少し曲がっていたが、その眼差しには静かな知恵と誠実さが宿っている。
かつて妻を亡くし、今はひとり娘――この国で初めて医師となった女性――が、隣国で臨床と研究に打ち込んでいるという。イシュトバーンは、娘の話をするときだけ、わずかに口元を緩めた。
「診療所は、いずれあの子が継いでくれるだろう。時間はかかってもいい、あの子なら、私よりもっと多くの人を救える医者になる」
そう語る彼の言葉には、寂しさと誇らしさがないまぜになっていた。
看護師は、二人。どちらも中年の女性で、昼と夜を交代しながら患者の世話をしている。
アリシアには特に親切で、彼女が身寄りのない妊婦であることを知って、ことさら気を配ってくれていた。
「旦那さん、事故で亡くなったって……可哀想にねぇ」
そんな言葉が耳に届くとき、アリシアは微笑むふりをして、ただ黙ってうつむいた。
本当のことを、誰にも話せなかった。話せる自信がなかった。声にしてしまえば、ルーカスの死が本物になってしまいそうで、怖かった。
それでも、身体の奥には確かに、小さな命が息づいている。ときおり感じる、かすかな変化――わずかに硬くなった下腹部や、胸の張り、不意に訪れる眩暈。
そのすべてが、ルーカスと自分のあいだに残された“証”なのだと思うと、アリシアは息が詰まるような想いにかられた。
この子がいる。それは救いであり、同時に終わらない痛みでもあった。
少しずつ、体調が安定してくると、アリシアは日に一度はベッドから起き上がり、窓のそばで外を眺めるようになった。無理をしない範囲で歩き、簡単な動作を繰り返す。それだけでも、看護師たちは「えらいね」と優しく褒めてくれた。
そして、ある日のことだった。看護師の一人が、診療所の事務室で帳簿をめくりながら、困り顔でため息をついていた。アリシアは、しばらく迷った末に声をかけた。
「……あの、手伝わせてもらえませんか? 商会で事務をしていたことがあるんです。数字を見るのは、わりと得意で……」
看護師は驚いた顔をしたあと、すぐににっこりと笑って、手を叩いた。
「まあ、それは助かるわ! ここの記録、あのお爺さんにはもう難しくてねえ。私たちも帳簿は苦手で困ってたのよ」
その日から、アリシアは少しずつ、診療所の事務仕事を手伝うようになった。最初は短い時間だったが、日に日に体調も落ち着き、机に向かう時間が増えていった。
薬品や包帯の在庫、診療費の記録、物資の納品日……整然と整理されていく帳面に、看護師たちもイシュトバーンも、惜しみない感謝の言葉をくれた。
「君がいてくれると、本当に助かるよ」
イシュトバーンのその言葉に、アリシアは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
まだ夜には、ふと涙がこぼれることがある。ルーカスの名を、心の中で何度も呼んでしまうこともある。でも――そうした痛みのすぐそばに、少しずつ、彼女の居場所が育ちつつある。
育んでいるのは命だけではない。失ったものと向き合いながら、それでも手放さずにいる“希望”の種。
アリシアはまだ立ち上がったわけではない。けれど――少しだけ、顔を上げることができた気がした。
――ルーカス。
その名を、心の内で呼ぶことすら怖くて、彼女は何度も唇を噛んだ。あの日から、季節は一つ巡りかけている。けれど、時間だけが過ぎていって、心は取り残されたままだった。
彼がもうこの世界にいない、という実感は、今も彼女を拒むように遠ざかる。
わずかに残された筆箱――擦れた革の感触と、開けるたびにこぼれ落ちそうになる小さな鉛筆の欠片たち。それだけが、彼の存在を証すものだった。
この診療所に保護されてから、しばらくはほとんどベッドの上で過ごすしかなかった。目覚めても身体が鉛のように重く、吐き気や眩暈に襲われ、立ち上がるどころか水を口に含むのも一苦労だった。
体調の悪化は妊娠によるものとわかっていても、日々繰り返される倦怠と、押し寄せる喪失の波に、アリシアはただ耐えるしかなかった。
食事もろくに喉を通らず、夜になっても眠れない。看護師たちが何度も声をかけてくれたが、笑顔を返す力すら湧いてこない。頭をよぎるのは、ルーカスと過ごした日々、そして彼と交わした約束――
あの朝、彼が現れなかった理由を、どこかでまだ信じたくない自分がいた。
診療所を営むのは、イシュトバーンという老医師だった。腰は少し曲がっていたが、その眼差しには静かな知恵と誠実さが宿っている。
かつて妻を亡くし、今はひとり娘――この国で初めて医師となった女性――が、隣国で臨床と研究に打ち込んでいるという。イシュトバーンは、娘の話をするときだけ、わずかに口元を緩めた。
「診療所は、いずれあの子が継いでくれるだろう。時間はかかってもいい、あの子なら、私よりもっと多くの人を救える医者になる」
そう語る彼の言葉には、寂しさと誇らしさがないまぜになっていた。
看護師は、二人。どちらも中年の女性で、昼と夜を交代しながら患者の世話をしている。
アリシアには特に親切で、彼女が身寄りのない妊婦であることを知って、ことさら気を配ってくれていた。
「旦那さん、事故で亡くなったって……可哀想にねぇ」
そんな言葉が耳に届くとき、アリシアは微笑むふりをして、ただ黙ってうつむいた。
本当のことを、誰にも話せなかった。話せる自信がなかった。声にしてしまえば、ルーカスの死が本物になってしまいそうで、怖かった。
それでも、身体の奥には確かに、小さな命が息づいている。ときおり感じる、かすかな変化――わずかに硬くなった下腹部や、胸の張り、不意に訪れる眩暈。
そのすべてが、ルーカスと自分のあいだに残された“証”なのだと思うと、アリシアは息が詰まるような想いにかられた。
この子がいる。それは救いであり、同時に終わらない痛みでもあった。
少しずつ、体調が安定してくると、アリシアは日に一度はベッドから起き上がり、窓のそばで外を眺めるようになった。無理をしない範囲で歩き、簡単な動作を繰り返す。それだけでも、看護師たちは「えらいね」と優しく褒めてくれた。
そして、ある日のことだった。看護師の一人が、診療所の事務室で帳簿をめくりながら、困り顔でため息をついていた。アリシアは、しばらく迷った末に声をかけた。
「……あの、手伝わせてもらえませんか? 商会で事務をしていたことがあるんです。数字を見るのは、わりと得意で……」
看護師は驚いた顔をしたあと、すぐににっこりと笑って、手を叩いた。
「まあ、それは助かるわ! ここの記録、あのお爺さんにはもう難しくてねえ。私たちも帳簿は苦手で困ってたのよ」
その日から、アリシアは少しずつ、診療所の事務仕事を手伝うようになった。最初は短い時間だったが、日に日に体調も落ち着き、机に向かう時間が増えていった。
薬品や包帯の在庫、診療費の記録、物資の納品日……整然と整理されていく帳面に、看護師たちもイシュトバーンも、惜しみない感謝の言葉をくれた。
「君がいてくれると、本当に助かるよ」
イシュトバーンのその言葉に、アリシアは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
まだ夜には、ふと涙がこぼれることがある。ルーカスの名を、心の中で何度も呼んでしまうこともある。でも――そうした痛みのすぐそばに、少しずつ、彼女の居場所が育ちつつある。
育んでいるのは命だけではない。失ったものと向き合いながら、それでも手放さずにいる“希望”の種。
アリシアはまだ立ち上がったわけではない。けれど――少しだけ、顔を上げることができた気がした。
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