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44 断罪
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診療所の朝は静かだった。
窓辺に差し込む春の陽ざしが、部屋の片隅を柔らかく照らしている。まだ体調の波は激しく、長い間ベッドから動けなかったアリシアは、ようやく起きて過ごせる時間が少しずつ増えてきた。
その朝も、湯気の立つ白湯を手にして、診療所の共有スペースの長椅子に腰掛ける。膨らみ始めたお腹に、そっと手を添えるたびに、まだ名前も顔も知らぬ命の気配が、小さく確かなものとして胸の奥に触れる。
ふと、看護師のひとりが「今朝の新聞よ」と声をかけて、一部を手渡してくれた。
「……ありがとう」と受け取り、なんとなくページをめくると、その目に入ったのは、かつてアリシアを追い詰め、ルーカスを奪った男――ミハエル・グリーグの名だった。
《グリーグ公爵令息・ミハエル、裁かれる》
太い見出しが紙面を覆っている。息を呑んで読み進めるうち、手が震えた。
【判決確定】
ミハエル・グリーグ、平民へ降格のうえ国外追放。
グリーグ公爵家、爵位を子爵に降格。領地没収、北方の資源乏しき寒冷地へ転封。
新たな当主は次男・エドゥアルトに。
記事には、冷淡な筆致で裁判の詳細と王命が記されていた。
かつて名門と呼ばれた家が、今や見る影もない。
アリシアは指先で紙の端をそっと撫でながら、深く息を吸い込んだ。
胸の奥で、何かが静かにざわめいた。
けれど、それが怒りか、安堵か、自分でもうまく言葉にできない。
ただ、お腹の中で静かに芽吹きつつある命の鼓動だけが、確かな現実として彼女を繋ぎとめていた。
~~~~~~~~~~~
鉄格子の向こう――
湿り気を帯びた石壁に囲まれた牢の中で、ミハエルは薄汚れた寝台に腰をかけていた。髪は乱れ、かつての威圧的な光は、目の奥から消え失せている。
扉が開く音に顔を上げた彼は、そこに立つ人物を見て、皮肉気に口元を歪めた。
「……わざわざ、見世物を観に来たのか? マーガレット」
かつての婚約者――マーガレットだった。彼女は微動だにせずミハエルを見下ろした。
「いいえ。私が来たのは、“あなたがどれほど矮小な男だったか”を、直接伝えるために来ました」
その言葉には、哀しみも情けもなかった。ただ真っ直ぐに、冷たいまでの静けさをたたえていた。
ミハエルの顔がさらにに歪んだ。
「……君の不貞を赦してやったのに。この仕打ちか」
開口一番、放たれたその言葉に、マーガレットは思わず立ち止まった。冷え切った牢の空気よりも、ミハエルの言葉の方が、よほど冷たく感じられた。
「俺の気持ちがわからないか? 穢されたお前でも良いと言っているのだ」
「穢されたとは……何のことです? 私には見に覚えのないお話です」
マーガレットは眉を寄せながら、冷静に声を抑えた。だが、ミハエルの笑みは深く歪む。
「あいつにだよ。穢れた“あいつ”の手を、君が触っていただろう? 縋るようにしてさ」
「……!」
マーガレットの脳裏に、あの瞬間が鮮明に蘇る。右手に大きな怪我をし、療養中のルーカスの手に、思わず自分の手を重ねてしまった。感情が抑えきれずに言葉にしてしまった、心の奥底にしまっていた想い――あの時のことをこの男は言っている。
「その時点で、美しいマーガレットは穢れてしまった! あはははは!」
哄笑が牢に響く。ミハエルの瞳は狂気に濁っていた。彼は壁にもたれかかり、ねっとりとした声で言い放つ。
「穢れた君を、それでも大切にしてやると言っているんだ。感謝しろよ、マーガレット」
その瞬間、マーガレットの瞳に怒りが宿った。凛と背筋を伸ばし、冷ややかな声で告げる。
「……あなたが見ていたのは、ただの“瞬間”です。私の心の深さも、誰かを大切に思う気持ちも、あなたには一生かかっても理解できない。私の清さは、誰かの手に触れたくらいで穢れるものではありません」
「ほう……」
「あなたが穢したのは、人の命。人の心。人の未来です」
ミハエルが口を開こうとしたが、それを遮るように、マーガレットは毅然と続けた。
「かつての婚約者として、あなたに最後の言葉を告げに来ました。――私は、あなたを一生、赦さない」
その言葉は、鉄より重かった。
ミハエルの顔が歪む。怒りか、恐怖か、哀れなほど表情が揺らぎ、やがて何かを押し殺すように黙り込んだ。
「さようなら、ミハエル・グリーグ。あなたが執着したものは、もう、あなたの手には届きません」
そして彼女は、背を向けた。
扉が閉じる最後の瞬間まで、ミハエルは言葉を発さなかった。
外では、北風が吹いていた。かつて侯爵家の嫡男であった男の狂気は、その冷たい風の中に、静かに飲まれていった――。
窓辺に差し込む春の陽ざしが、部屋の片隅を柔らかく照らしている。まだ体調の波は激しく、長い間ベッドから動けなかったアリシアは、ようやく起きて過ごせる時間が少しずつ増えてきた。
その朝も、湯気の立つ白湯を手にして、診療所の共有スペースの長椅子に腰掛ける。膨らみ始めたお腹に、そっと手を添えるたびに、まだ名前も顔も知らぬ命の気配が、小さく確かなものとして胸の奥に触れる。
ふと、看護師のひとりが「今朝の新聞よ」と声をかけて、一部を手渡してくれた。
「……ありがとう」と受け取り、なんとなくページをめくると、その目に入ったのは、かつてアリシアを追い詰め、ルーカスを奪った男――ミハエル・グリーグの名だった。
《グリーグ公爵令息・ミハエル、裁かれる》
太い見出しが紙面を覆っている。息を呑んで読み進めるうち、手が震えた。
【判決確定】
ミハエル・グリーグ、平民へ降格のうえ国外追放。
グリーグ公爵家、爵位を子爵に降格。領地没収、北方の資源乏しき寒冷地へ転封。
新たな当主は次男・エドゥアルトに。
記事には、冷淡な筆致で裁判の詳細と王命が記されていた。
かつて名門と呼ばれた家が、今や見る影もない。
アリシアは指先で紙の端をそっと撫でながら、深く息を吸い込んだ。
胸の奥で、何かが静かにざわめいた。
けれど、それが怒りか、安堵か、自分でもうまく言葉にできない。
ただ、お腹の中で静かに芽吹きつつある命の鼓動だけが、確かな現実として彼女を繋ぎとめていた。
~~~~~~~~~~~
鉄格子の向こう――
湿り気を帯びた石壁に囲まれた牢の中で、ミハエルは薄汚れた寝台に腰をかけていた。髪は乱れ、かつての威圧的な光は、目の奥から消え失せている。
扉が開く音に顔を上げた彼は、そこに立つ人物を見て、皮肉気に口元を歪めた。
「……わざわざ、見世物を観に来たのか? マーガレット」
かつての婚約者――マーガレットだった。彼女は微動だにせずミハエルを見下ろした。
「いいえ。私が来たのは、“あなたがどれほど矮小な男だったか”を、直接伝えるために来ました」
その言葉には、哀しみも情けもなかった。ただ真っ直ぐに、冷たいまでの静けさをたたえていた。
ミハエルの顔がさらにに歪んだ。
「……君の不貞を赦してやったのに。この仕打ちか」
開口一番、放たれたその言葉に、マーガレットは思わず立ち止まった。冷え切った牢の空気よりも、ミハエルの言葉の方が、よほど冷たく感じられた。
「俺の気持ちがわからないか? 穢されたお前でも良いと言っているのだ」
「穢されたとは……何のことです? 私には見に覚えのないお話です」
マーガレットは眉を寄せながら、冷静に声を抑えた。だが、ミハエルの笑みは深く歪む。
「あいつにだよ。穢れた“あいつ”の手を、君が触っていただろう? 縋るようにしてさ」
「……!」
マーガレットの脳裏に、あの瞬間が鮮明に蘇る。右手に大きな怪我をし、療養中のルーカスの手に、思わず自分の手を重ねてしまった。感情が抑えきれずに言葉にしてしまった、心の奥底にしまっていた想い――あの時のことをこの男は言っている。
「その時点で、美しいマーガレットは穢れてしまった! あはははは!」
哄笑が牢に響く。ミハエルの瞳は狂気に濁っていた。彼は壁にもたれかかり、ねっとりとした声で言い放つ。
「穢れた君を、それでも大切にしてやると言っているんだ。感謝しろよ、マーガレット」
その瞬間、マーガレットの瞳に怒りが宿った。凛と背筋を伸ばし、冷ややかな声で告げる。
「……あなたが見ていたのは、ただの“瞬間”です。私の心の深さも、誰かを大切に思う気持ちも、あなたには一生かかっても理解できない。私の清さは、誰かの手に触れたくらいで穢れるものではありません」
「ほう……」
「あなたが穢したのは、人の命。人の心。人の未来です」
ミハエルが口を開こうとしたが、それを遮るように、マーガレットは毅然と続けた。
「かつての婚約者として、あなたに最後の言葉を告げに来ました。――私は、あなたを一生、赦さない」
その言葉は、鉄より重かった。
ミハエルの顔が歪む。怒りか、恐怖か、哀れなほど表情が揺らぎ、やがて何かを押し殺すように黙り込んだ。
「さようなら、ミハエル・グリーグ。あなたが執着したものは、もう、あなたの手には届きません」
そして彼女は、背を向けた。
扉が閉じる最後の瞬間まで、ミハエルは言葉を発さなかった。
外では、北風が吹いていた。かつて侯爵家の嫡男であった男の狂気は、その冷たい風の中に、静かに飲まれていった――。
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