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52 リュミエール
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春を告げる風が、窓辺のカーテンをふわりと揺らす。
アリシアは木漏れ日の射しこむ部屋で、赤子を胸に抱き上げていた。
小さな手足がもぞもぞと動き、柔らかな産毛の香りが頬をくすぐる。
彼女はくすりと笑い、赤子のほっぺに頬を寄せる。
「もう、そんなに暴れたら、おくるみがほどけちゃうよ」
生まれたばかりのその命は、彼女に新しい光をもたらしてくれた。
アリシアは、その子を【リュミエール】と名付けた。
泣いて、笑って、眠って――すべてが愛おしい。愛に満ちた日々。
やがて、時はゆるやかに流れ、幼い命は言葉を覚え、足取りを覚え、診療所をちょこちょこと駆け回るようになった。
「リュミエール!また抜け出してきたの? お母さん探してるわよ!」
「こらこら、薬棚の引き出しは開けないって言ったでしょう!」
ユゼットが腰に手を当てて笑い、マリーネが顔をくしゃくしゃにして追いかける。
イシュトバーンは大げさにため息をつきながらも、目尻を下げて見守っている。
診療所の誰もが、リュミエールを心から愛してくれていた。
そこへ、数年ぶりに一時帰国していたイシュトバーンの一人娘――レオナが訪れた。
この国初の女性医師として、今は隣国の大学病院で研究と臨床に明け暮れる彼女は、屈託のない笑顔で子どもを抱き上げる。
「わあ、大きくなったわね。もう私の名前も覚えてるんじゃない?」
「れーおーなー!」
嬉しそうに叫ぶ子どもの声に、レオナは思わず笑い声をあげた。
「完璧。さては天才ね?」
アリシアが微笑んで見つめるその光景は、夢に見た穏やかさだった。
幸せだった。本当に、心から――
けれど、ふとした瞬間に、空白が顔を出す。この幸せを、ルーカスと分かち合えない現実。
彼がリュミエールの成長を隣で見守ってくれることはない。
笑顔の裏に、ほのかな寂しさがにじんでいた。
~~~~~~~~~~~
春の陽がやわらかく照らす午後、アリシアはリュミエールと手をつないで、静かな丘を登っていた。
ヘイウッド侯爵家の墓地。
整えられた石の列のなか、ひときわ日当たりのいい場所に、ルーカスの名が刻まれている。
「……久しぶりになってしまって、ごめんね」
石の前にひざをつき、アリシアはリュミエールの小さな手を包んで頭を下げた。
「でも、わかってるの。あなたはいつも、私たちのそばにいるって」
くすりと笑って、墓石を指で軽くなぞる。
「だからさ、ここに来ても、あんまり意味ない気もするんだよね。ふふっ……あなたなら、そう言いそう」
その瞬間だった。木々のざわめきのなかで、確かに――声がした。
「……アリシアらしいな。君には敵わないや」
驚きで顔を上げる。
その声は、風のなかにあったはずなのに、確かに耳に届いた。
「・・・パパの声?」
リュミエールもまた、不思議そうな顔で聞いていた。
アリシアは静かに微笑み、リュミエールの手を握った。
「うん。パパの声、聞こえたね」
ふたりは並んで、ルーカスの名を刻んだ石に向かって、小さく頭を下げた。
~~~~~~~~~~~
その様子を、少し離れた場所から見つめていたのは――マーガレットだった。
偶然ではあったが、今日は彼女もまた、ルーカスの墓参りに訪れていた。
声をかけようと、一度は一歩を踏み出しかけた。けれど、その足はすぐに止まる。
「……今さら、何を言えばいいのかしらね」
ほんのひととき、風が髪をなでるように吹き抜けた。
アリシアは幼い子どもの手を握り、墓前に静かに佇んでいる。
ルーカスに似た面差しのその子が、母親を真似てぺこりと頭を下げる様子に、マーガレットの胸がふと締めつけられた。
「そう……あなたの大切な子ね、ルーカス」
言葉を紡ぐうちに、胸の奥に封じ込めていた記憶が、音もなく浮かび上がってくる。
月に一度の慈善活動として訪れていたあの孤児院で、ある日の帰り際。
何気なく振り返ったその瞬間、彼女は決定的なものを目にしてしまったのだ。
ルーカスが、アリシアと並んで笑っていた。
子どもたちに囲まれ、肩を寄せ、楽しげに語らう二人。彼女には見せたことのない、くつろいだ横顔。アリシアに向けられた、まっすぐでやさしい眼差し。
あのとき、胸の奥がきしむように痛んだ。
なぜ、彼の隣にいるのが私ではないのか。どうして、あの娘が彼の笑顔を独り占めしているのか。
悔しかった。
惨めだった。
侯爵令嬢として誇り高く育った自分が、どうしようもなく――アリシアを羨ましかった。
高貴な生まれも、家の威光も、彼の心を手にする理由にはならなかった。それが、痛いほどわかったからこそ。
けれど、今は。
マーガレットはアリシアの背にそっと視線を送る。
彼女は穏やかな表情で、子どもの小さな肩に手を添えていた。
かつて自分が見上げていた彼女の姿が、今も、そこにあった。
「よかったわね、ルーカス……あなたの命は、ちゃんと生きている」
声に出したその言葉は、思っていたよりも静かで、やさしかった。
彼女もまた、ようやく気づいたのだ。
失ったものを嘆くばかりではなく、自分の歩幅で、生きていく時が来たのだと。
ルーカスは、もういない。
けれど、彼と過ごした日々は、確かに自分をかたちづくっている。
「私も、私の道を歩いていくわ。
あなたが遺したような、まっすぐで、やさしい光の中を」
その道が、いつか新しい誰かの隣へとつながっていてもいい。
愛を知った自分だからこそ、誰かを大切にできる気がする。
そんな未来を、少しずつ――信じてみたい。
胸に手を当て、マーガレットはそっと目を閉じた。
もう、涙はこぼれなかった。
丘の上では、アリシアと子どもが並んで歩いている。
互いの手を離さず、一歩ずつ、新しい季節の光の中を進んでいく。
彼女の未来は、彼と共に歩んだ過去を抱きながら、やさしく、強く、前を向いている。
そして、マーガレットの未来もまた――
失ったものだけではない、これから得られるかもしれない幸福へと、静かに扉を開きはじめていた。
物語は、ここで終わる。
――けれど、彼女たちの歩みは続いていく。
変わりゆく季節のなかで、
手のひらにそっと芽吹いた、あたらしい明日とともに。
(おわり)
※最後まで読んでくださり、ありがとうがざいました。もう一つのお話「君を迎えに行く」も読んでいただけたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
アリシアは木漏れ日の射しこむ部屋で、赤子を胸に抱き上げていた。
小さな手足がもぞもぞと動き、柔らかな産毛の香りが頬をくすぐる。
彼女はくすりと笑い、赤子のほっぺに頬を寄せる。
「もう、そんなに暴れたら、おくるみがほどけちゃうよ」
生まれたばかりのその命は、彼女に新しい光をもたらしてくれた。
アリシアは、その子を【リュミエール】と名付けた。
泣いて、笑って、眠って――すべてが愛おしい。愛に満ちた日々。
やがて、時はゆるやかに流れ、幼い命は言葉を覚え、足取りを覚え、診療所をちょこちょこと駆け回るようになった。
「リュミエール!また抜け出してきたの? お母さん探してるわよ!」
「こらこら、薬棚の引き出しは開けないって言ったでしょう!」
ユゼットが腰に手を当てて笑い、マリーネが顔をくしゃくしゃにして追いかける。
イシュトバーンは大げさにため息をつきながらも、目尻を下げて見守っている。
診療所の誰もが、リュミエールを心から愛してくれていた。
そこへ、数年ぶりに一時帰国していたイシュトバーンの一人娘――レオナが訪れた。
この国初の女性医師として、今は隣国の大学病院で研究と臨床に明け暮れる彼女は、屈託のない笑顔で子どもを抱き上げる。
「わあ、大きくなったわね。もう私の名前も覚えてるんじゃない?」
「れーおーなー!」
嬉しそうに叫ぶ子どもの声に、レオナは思わず笑い声をあげた。
「完璧。さては天才ね?」
アリシアが微笑んで見つめるその光景は、夢に見た穏やかさだった。
幸せだった。本当に、心から――
けれど、ふとした瞬間に、空白が顔を出す。この幸せを、ルーカスと分かち合えない現実。
彼がリュミエールの成長を隣で見守ってくれることはない。
笑顔の裏に、ほのかな寂しさがにじんでいた。
~~~~~~~~~~~
春の陽がやわらかく照らす午後、アリシアはリュミエールと手をつないで、静かな丘を登っていた。
ヘイウッド侯爵家の墓地。
整えられた石の列のなか、ひときわ日当たりのいい場所に、ルーカスの名が刻まれている。
「……久しぶりになってしまって、ごめんね」
石の前にひざをつき、アリシアはリュミエールの小さな手を包んで頭を下げた。
「でも、わかってるの。あなたはいつも、私たちのそばにいるって」
くすりと笑って、墓石を指で軽くなぞる。
「だからさ、ここに来ても、あんまり意味ない気もするんだよね。ふふっ……あなたなら、そう言いそう」
その瞬間だった。木々のざわめきのなかで、確かに――声がした。
「……アリシアらしいな。君には敵わないや」
驚きで顔を上げる。
その声は、風のなかにあったはずなのに、確かに耳に届いた。
「・・・パパの声?」
リュミエールもまた、不思議そうな顔で聞いていた。
アリシアは静かに微笑み、リュミエールの手を握った。
「うん。パパの声、聞こえたね」
ふたりは並んで、ルーカスの名を刻んだ石に向かって、小さく頭を下げた。
~~~~~~~~~~~
その様子を、少し離れた場所から見つめていたのは――マーガレットだった。
偶然ではあったが、今日は彼女もまた、ルーカスの墓参りに訪れていた。
声をかけようと、一度は一歩を踏み出しかけた。けれど、その足はすぐに止まる。
「……今さら、何を言えばいいのかしらね」
ほんのひととき、風が髪をなでるように吹き抜けた。
アリシアは幼い子どもの手を握り、墓前に静かに佇んでいる。
ルーカスに似た面差しのその子が、母親を真似てぺこりと頭を下げる様子に、マーガレットの胸がふと締めつけられた。
「そう……あなたの大切な子ね、ルーカス」
言葉を紡ぐうちに、胸の奥に封じ込めていた記憶が、音もなく浮かび上がってくる。
月に一度の慈善活動として訪れていたあの孤児院で、ある日の帰り際。
何気なく振り返ったその瞬間、彼女は決定的なものを目にしてしまったのだ。
ルーカスが、アリシアと並んで笑っていた。
子どもたちに囲まれ、肩を寄せ、楽しげに語らう二人。彼女には見せたことのない、くつろいだ横顔。アリシアに向けられた、まっすぐでやさしい眼差し。
あのとき、胸の奥がきしむように痛んだ。
なぜ、彼の隣にいるのが私ではないのか。どうして、あの娘が彼の笑顔を独り占めしているのか。
悔しかった。
惨めだった。
侯爵令嬢として誇り高く育った自分が、どうしようもなく――アリシアを羨ましかった。
高貴な生まれも、家の威光も、彼の心を手にする理由にはならなかった。それが、痛いほどわかったからこそ。
けれど、今は。
マーガレットはアリシアの背にそっと視線を送る。
彼女は穏やかな表情で、子どもの小さな肩に手を添えていた。
かつて自分が見上げていた彼女の姿が、今も、そこにあった。
「よかったわね、ルーカス……あなたの命は、ちゃんと生きている」
声に出したその言葉は、思っていたよりも静かで、やさしかった。
彼女もまた、ようやく気づいたのだ。
失ったものを嘆くばかりではなく、自分の歩幅で、生きていく時が来たのだと。
ルーカスは、もういない。
けれど、彼と過ごした日々は、確かに自分をかたちづくっている。
「私も、私の道を歩いていくわ。
あなたが遺したような、まっすぐで、やさしい光の中を」
その道が、いつか新しい誰かの隣へとつながっていてもいい。
愛を知った自分だからこそ、誰かを大切にできる気がする。
そんな未来を、少しずつ――信じてみたい。
胸に手を当て、マーガレットはそっと目を閉じた。
もう、涙はこぼれなかった。
丘の上では、アリシアと子どもが並んで歩いている。
互いの手を離さず、一歩ずつ、新しい季節の光の中を進んでいく。
彼女の未来は、彼と共に歩んだ過去を抱きながら、やさしく、強く、前を向いている。
そして、マーガレットの未来もまた――
失ったものだけではない、これから得られるかもしれない幸福へと、静かに扉を開きはじめていた。
物語は、ここで終わる。
――けれど、彼女たちの歩みは続いていく。
変わりゆく季節のなかで、
手のひらにそっと芽吹いた、あたらしい明日とともに。
(おわり)
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