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カモミールに相談したあの日から、数日が過ぎた。
彼女の言葉は、確かに私の心に一条の光を灯してくれた。
『殿下のことだけを、まっすぐに見てみたらどうかしら?』
その言葉を胸に、私はレピオド殿下のことだけを考えようと努力した。
周りの雑音は気にしない。ショコラ様の言葉も、気のせい。私は、殿下が選んでくれた婚約者なのだから、もっと堂々としていればいい。
そう、頭では分かっているのだ。
けれど、長年かけて心にこびりついた自己嫌悪という名の染みは、そう簡単には落ちてくれなかった。
そして今日、私の憂鬱を最大限に増幅させる日がやってきてしまった。
隣国からの使節団を歓迎するための、大規模な夜会。
王族が一堂に会するこの夜会は、未来の王太子妃である私にとって、決して失敗の許されない重要な場だった。
「アイ、準備はできたかい?」
部屋の扉が開き、レピオド殿下が迎えに来てくださった。
今夜の殿下は、白を基調とした軍服風の礼装に身を包んでいる。金の刺繍が施されたそれは、彼の輝く金髪と相まって、まるで物語の中の王子様そのものだった。
あまりの眩しさに、私はまた、俯きそうになるのを必死で堪える。
「はい、殿下。お待たせいたしました」
私が今夜着ているのは、殿下から贈られた瑠璃色のドレスではない。
あれを着る勇気が、どうしても出なかったのだ。
あれほど高価で美しいドレスを私が着て、もし何か粗相をして汚してしまったら? そう考えただけで、恐ろしくて身がすくんだ。
だから、私は自分の手持ちのドレスの中から、一番当たり障りのない、クリーム色のシンプルなデザインのものを選んだ。
その選択に、殿下が気づかないはずはなかった。
彼は一瞬、私のドレスに視線を落とし、その赤い瞳にほんのわずかな寂しさのような色を浮かべた。けれど、すぐにいつもの完璧な笑顔に戻る。
「とてもよく似合っている。君は何を着ても美しいな」
そう言って、私のために腕を差し出す。
その優しさが、罪悪感となって私の胸に突き刺さる。ごめんなさい、殿下。あなたの想いを、受け止めきれない私を、どうかお許しください。
心の中で謝罪しながら、私は彼の腕にそっと自分の手を重ねた。
大広間に足を踏み入れると、眩いばかりのシャンデリアの光と、大勢の貴族たちの熱気に包まれる。
誰もが華やかなドレスや礼装を身にまとい、楽しげに談笑している。
その中で、私だけが場違いな存在に思えた。
周りから向けられる視線の一つ一つが、私を品定めしているようで、針の筵に座っている気分だった。
「大丈夫だ、アイ」
私の緊張を察したのか、殿下が耳元で優しく囁いた。
「俺だけを見ていればいい。君は、俺の隣が一番似合うのだから」
腰に回された腕に、力がこもる。その力強さに少しだけ安堵しながらも、私の心は晴れない。
そんな時、人垣の向こうに、見知った顔を見つけてしまった。
ショコラ・トルテ侯爵令嬢。
彼女は、燃えるような真紅のドレスを纏い、まるで夜会の女王のように優雅に佇んでいた。そして、私に気づくと、唇の端を吊り上げて、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
その視線だけで、私の心臓は嫌な音を立てて縮み上がる。
どうか、何事もありませんように。
そう祈っていた矢先だった。
殿下が大臣に呼ばれ、ほんの少しだけ私の側を離れた、その一瞬の隙をついて、事件は起きた。
喉の渇きを覚えて、給仕が持つトレーからグラスを取ろうとした、まさにその時。
「きゃっ!」
という甲高い声と共に、私のすぐそばを通りかかった令嬢が、派手に体勢を崩した。
そして、彼女が手に持っていたグラスが宙を舞い、その中身――真っ赤な葡萄酒が、私のドレスめがけて降り注いだ。
「……あ」
時が、止まったように感じた。
クリーム色のドレスの胸元に、じわり、と広がる鮮血のような赤い染み。
それはまるで、私の心にぽっかりと空いた穴から、自信のなさが溢れ出しているかのようだった。
「ご、ごめんなさい! 足がもつれてしまって……!」
ぶつかってきた令嬢――ショコラ様の取り巻きの一人が、わざとらしく青い顔で謝罪する。
けれど、私の耳にはもう、何も入ってこなかった。
しん、と静まり返った周囲から、やがて、くすくすという嘲笑が漏れ聞こえ始める。
『まあ、みっともない』
『なんて失態かしら。大事な夜会だというのに』
『あれでは、未来の王太子妃は務まりませんわね』
悪意のナイフが、四方八方から私に突き刺さる。
ショコラ様が、「あら大変ですわ」と口では言いながら、その目が愉快そうに細められているのが見えた。
すべて、彼女が仕組んだことなのだと、すぐに理解した。
頭が、真っ白になる。
恥ずかしくて、情けなくて、悔しくて、今すぐこの場から消えてしまいたかった。
けれど、足が床に縫い付けられたように動かない。
誰か、助けて。
心の中でそう叫んでも、誰も助けてはくれない。誰もが、私を嘲笑うか、遠巻きに見ているだけ。
私は、巨大な夜会の会場の真ん中で、たった一人、汚れたドレスのまま、立ち尽くすことしかできなかった。
彼女の言葉は、確かに私の心に一条の光を灯してくれた。
『殿下のことだけを、まっすぐに見てみたらどうかしら?』
その言葉を胸に、私はレピオド殿下のことだけを考えようと努力した。
周りの雑音は気にしない。ショコラ様の言葉も、気のせい。私は、殿下が選んでくれた婚約者なのだから、もっと堂々としていればいい。
そう、頭では分かっているのだ。
けれど、長年かけて心にこびりついた自己嫌悪という名の染みは、そう簡単には落ちてくれなかった。
そして今日、私の憂鬱を最大限に増幅させる日がやってきてしまった。
隣国からの使節団を歓迎するための、大規模な夜会。
王族が一堂に会するこの夜会は、未来の王太子妃である私にとって、決して失敗の許されない重要な場だった。
「アイ、準備はできたかい?」
部屋の扉が開き、レピオド殿下が迎えに来てくださった。
今夜の殿下は、白を基調とした軍服風の礼装に身を包んでいる。金の刺繍が施されたそれは、彼の輝く金髪と相まって、まるで物語の中の王子様そのものだった。
あまりの眩しさに、私はまた、俯きそうになるのを必死で堪える。
「はい、殿下。お待たせいたしました」
私が今夜着ているのは、殿下から贈られた瑠璃色のドレスではない。
あれを着る勇気が、どうしても出なかったのだ。
あれほど高価で美しいドレスを私が着て、もし何か粗相をして汚してしまったら? そう考えただけで、恐ろしくて身がすくんだ。
だから、私は自分の手持ちのドレスの中から、一番当たり障りのない、クリーム色のシンプルなデザインのものを選んだ。
その選択に、殿下が気づかないはずはなかった。
彼は一瞬、私のドレスに視線を落とし、その赤い瞳にほんのわずかな寂しさのような色を浮かべた。けれど、すぐにいつもの完璧な笑顔に戻る。
「とてもよく似合っている。君は何を着ても美しいな」
そう言って、私のために腕を差し出す。
その優しさが、罪悪感となって私の胸に突き刺さる。ごめんなさい、殿下。あなたの想いを、受け止めきれない私を、どうかお許しください。
心の中で謝罪しながら、私は彼の腕にそっと自分の手を重ねた。
大広間に足を踏み入れると、眩いばかりのシャンデリアの光と、大勢の貴族たちの熱気に包まれる。
誰もが華やかなドレスや礼装を身にまとい、楽しげに談笑している。
その中で、私だけが場違いな存在に思えた。
周りから向けられる視線の一つ一つが、私を品定めしているようで、針の筵に座っている気分だった。
「大丈夫だ、アイ」
私の緊張を察したのか、殿下が耳元で優しく囁いた。
「俺だけを見ていればいい。君は、俺の隣が一番似合うのだから」
腰に回された腕に、力がこもる。その力強さに少しだけ安堵しながらも、私の心は晴れない。
そんな時、人垣の向こうに、見知った顔を見つけてしまった。
ショコラ・トルテ侯爵令嬢。
彼女は、燃えるような真紅のドレスを纏い、まるで夜会の女王のように優雅に佇んでいた。そして、私に気づくと、唇の端を吊り上げて、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
その視線だけで、私の心臓は嫌な音を立てて縮み上がる。
どうか、何事もありませんように。
そう祈っていた矢先だった。
殿下が大臣に呼ばれ、ほんの少しだけ私の側を離れた、その一瞬の隙をついて、事件は起きた。
喉の渇きを覚えて、給仕が持つトレーからグラスを取ろうとした、まさにその時。
「きゃっ!」
という甲高い声と共に、私のすぐそばを通りかかった令嬢が、派手に体勢を崩した。
そして、彼女が手に持っていたグラスが宙を舞い、その中身――真っ赤な葡萄酒が、私のドレスめがけて降り注いだ。
「……あ」
時が、止まったように感じた。
クリーム色のドレスの胸元に、じわり、と広がる鮮血のような赤い染み。
それはまるで、私の心にぽっかりと空いた穴から、自信のなさが溢れ出しているかのようだった。
「ご、ごめんなさい! 足がもつれてしまって……!」
ぶつかってきた令嬢――ショコラ様の取り巻きの一人が、わざとらしく青い顔で謝罪する。
けれど、私の耳にはもう、何も入ってこなかった。
しん、と静まり返った周囲から、やがて、くすくすという嘲笑が漏れ聞こえ始める。
『まあ、みっともない』
『なんて失態かしら。大事な夜会だというのに』
『あれでは、未来の王太子妃は務まりませんわね』
悪意のナイフが、四方八方から私に突き刺さる。
ショコラ様が、「あら大変ですわ」と口では言いながら、その目が愉快そうに細められているのが見えた。
すべて、彼女が仕組んだことなのだと、すぐに理解した。
頭が、真っ白になる。
恥ずかしくて、情けなくて、悔しくて、今すぐこの場から消えてしまいたかった。
けれど、足が床に縫い付けられたように動かない。
誰か、助けて。
心の中でそう叫んでも、誰も助けてはくれない。誰もが、私を嘲笑うか、遠巻きに見ているだけ。
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