私が嫌いなら婚約破棄したらどうなんですか?

きららののん

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殿下の腕に抱かれて大広間を後にしてから、私たちは一言も言葉を交わさなかった。

王宮の長い、長い廊下を、ただ二人で歩いていく。

すれ違う侍女や衛兵たちは、皆、驚いたように目を見開き、そして深々と頭を下げて道を開ける。

私の肩には、彼の純白の上着。その事実が、今のこの状況の異常さを物語っていた。

私の心の中は、安堵と、それから正体不明の不安とでごちゃ混ぜになっていた。

助けてもらえたことは、本当に嬉しかった。彼の騎士のような振る舞いに、胸の奥がきゅうっと高鳴ったのも事実だ。

けれど、それと同時に、とんでもないことをしてしまった、という後悔の念も押し寄せてくる。

私のせいで、殿下を怒らせてしまった。

私のせいで、夜会の厳かな雰囲気を台無しにしてしまった。

やはり、私は、彼の隣にいるべき人間ではないのだ。

そんな思考の渦に飲み込まれそうになっているうちに、私たちはいつの間にか夜会用の馬車が待機している玄関ホールへとたどり着いていた。

「乗って」

殿下は、先に私を馬車に乗せると、ご自身も乗り込んできた。

御者に行き先を告げる声は、まだ怒りの余韻を残しているかのように、低く、硬い。

やがて、馬車は滑るようにして静かに走り出した。

二人きりの、狭い空間。

向かい合って座る殿下の顔を、私は見ることができなかった。俯いたまま、自分の膝の上で固く握りしめた拳を、ただじっと見つめる。

何か、言わなければ。

謝罪しなければ。

「あの……」

「寒くないか?」

私の声に、殿下の優しい声が重なった。

はっとして顔を上げると、殿下はいつの間にか、先ほどまでの氷のような表情を消し去り、ただひたすらに心配そうな、穏やかな眼差しで私を見つめていた。

「汚れたドレスのままだと、体が冷えるだろう。怪我はなかったか? どこか痛むところは?」

「い、いえ……わたくしは、大丈夫です」

その優しさが、今は何よりも辛かった。

どうして、あなたはそんなに優しいのですか。私が、あなたにどれだけ迷惑をかけているかも知らずに。

「先ほどは、大変申し訳ございませんでした。私の不注意で、殿下にご迷惑をおかけしてしまい……」

「君が謝ることなど、何一つない」

私が言い終わる前に、殿下はきっぱりとした口調で私の言葉を遮った。

「悪いのは、君を傷つけ、貶めようとした者たちだ。君に、非は一切ない」

「ですが……!」

「アイ」

強い光を宿した赤い瞳が、まっすぐに私を射抜く。

その眼差しに射竦められ、私はそれ以上、言葉を続けることができなかった。

どうして。

どうして、あなたは、こんな私を。

心の奥底から湧き上がってきた疑問が、知らず、口をついて出ていた。

「……どうして、あそこまで庇ってくださるのですか?」

それは、彼を試すような、あるいは突き放すような、最低の質問だったかもしれない。

殿下は、私のその言葉に、一瞬、とても悲しそうな顔をした。けれど、すぐにその表情を消すと、はっきりと、一言一言区切るようにして、答えてくれた。

「当然だろう」

彼の声は、馬車の静かな揺れの中に、はっきりと響いた。

「アイ、君は俺の婚約者だ。俺の、未来の妃だ。そして、俺のすべてだ。君が傷つけられるのを、黙って見ていることなど、できるはずがない」

その言葉は、何の飾り気もない、彼の真実の心だった。

あまりにもまっすぐな愛情を真正面からぶつけられて、私の心臓が、大きく、大きく跳ね上がる。

カモミールの言葉が、脳裏に鮮やかに蘇った。

『殿下のことだけを、まっすぐに見てみたら?』

今、目の前にいるこの人が、レピオド殿下。

周りの雑音でも、ショコラ様の悪意でもない。

この人こそが、私の婚約者。

けれど。

それでも、長年にわたって私を縛り付けてきた呪いは、あまりにも強固だった。

「ですが、私は……あなたに相応しくありません」

声が、震える。

「今日のことで、はっきりと分かりました。私は、殿下の隣に立つ資格なんて……ないのです」

みっともなくドレスを汚し、周りに嘲笑され、ただ立ち尽くすことしかできなかった情けない自分。

それに引き換え、たった一人でその場の空気を支配し、私を救い出してくれた、完璧な殿下。

私たちは、釣り合わない。

私がそう言い切ると、殿下は静かに私の言葉を聞き終えた後、ゆっくりと手を伸ばしてきた。

そして、私の濡れたドレスではなく、固く握りしめられたままだった私の手を、その大きな両手で優しく包み込んだ。

「相応しいかどうかは、俺が決めることだ」

その声は、どこまでも穏やかだった。

「周りが何と言おうと、一切関係ない。このレピオド・レイ・カルミナスが、生涯の伴侶として選んだのは、他の誰でもない。アイ・ス・クリーム、君ただ一人だ。俺は、君がいい」

馬車が、ゆるやかに速度を落とす。

いつの間にか、ス・クリーム公爵家の屋敷の前に到着していた。

殿下は、私の手をそっと離すと、私の額に、ご自身の唇を優しく押し当てた。

触れた場所から、熱がじわりと広がっていく。

「今夜はもう、ゆっくりお休み。辛い思いをさせて、すまなかったな」

それだけを言い残すと、彼は名残惜しそうに一度だけ私を見て、馬車を降りていった。

一人、馬車の中に取り残された私は、自分の額を押さえたまま、呆然としていた。

まだ、心の壁が完全に取り払われたわけじゃない。

素直に頷くには、あまりにも臆病になりすぎていた。

けれど。

彼のまっすぐな言葉と、額に残る温かい感触が、固く、固く閉ざされていた私の心の扉を、ほんの少しだけ、こじ開けてくれたような気がした。

今までとは違う、温かくて、少しだけくすぐったいような感情が、凍てついた心の中で、小さな芽を出し始めていた。
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