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アイを乗せた馬車が公爵家の門の中へと消えていくのを、俺は静かに見送っていた。
彼女を一人にした後、すぐに王宮へ戻るための馬車に乗り込む。
ごとり、と重い音を立てて扉が閉まると、俺は深く、深くため息をついた。
背もたれに全体重を預け、天井を仰ぐ。
先ほどの、馬車の中でのアイの姿が脳裏に焼き付いて離れない。
俺の言葉に揺れ動く紫色の瞳。固く握りしめられた、小さな拳。そして、俺のすべてを受け入れることを、まだ恐れているかのような、か細い声。
彼女の心の壁は、俺が想像していたよりも、ずっと厚く、高い。
夜会での一件で、少しは打ち壊せただろうか。いや、まだだ。まだ足りない。
俺の腕の中で、彼女は確かに安堵した表情を見せた。だが、二人きりになった途端、すぐにまた罪悪感という名の殻に閉じこもってしまう。
根が深い。
彼女が長年かけて、自分自身にかけ続けてきた呪いは、そう簡単には解けそうにない。
だが、ほんの少しだけ、手応えがあったのも事実だ。
俺の言葉が、彼女の心の奥底にある、固く閉ざされた扉を、ほんの少しだけ、軋ませたような気がした。
それで十分だ。
少しでも隙間ができたのなら、そこからこじ開けるだけ。
王宮の執務室に戻ると、灯りが煌々と灯っており、ギルバートが俺の帰りを待っていた。
「おかえりなさいませ、殿下」
「うむ。夜会の方はどうなった?」
俺が上着を脱ぎながら尋ねると、ギルバートは手元の資料に視線を落とした。
「殿下とアイ様が退席された後、主催者である国王陛下からのお言葉があり、夜会はお開きとなりました。幸い、使節団の方々には、大きな混乱はなかった模様です」
「そうか」
それは何よりだ。
「それで、トルテ侯爵家は?」
俺が核心を突くと、ギルバートは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「トルテ侯爵に、今回の件についてそれとなく問いただした者がおりましたが……」
「何と?」
「娘の非を一切認めず、それどころか『そもそも、未来の王太子妃として相応しくない令嬢の方に問題があるのではないか』と、強弁していたとのことです」
「……愚かな」
俺の口から、冷たい声が漏れた。
自分の娘が王太子の婚約者に対して何をしたのか、理解できていないらしい。いや、理解した上で、それでもなお、自分たちの立場が揺らぐことはないと高を括っているのか。
腐っている。あの親子は、根の先まで。
断罪するのは、簡単だ。トルテ侯爵家の不正の証拠なら、いくらでも手元にある。今この瞬間に、あの傲慢な一家を社交界から追放することもできる。
だが、それではダメなのだ。
それでは、根本的な解決にはならない。
たとえトルテ家を排除したところで、アイが自分に自信を持てない限り、第二、第三のショコラが現れるだけだ。
重要なのは、彼女自身が、自分こそが王太子妃に相応しいのだと、心の底から信じられるようになること。
周りの雑音など、蝶の羽ばたき程度にしか感じないほどの、強い自信と、自己肯定感を、彼女自身の力で取り戻させること。
罰を与えるのは、その後でも、決して遅くはない。
俺は椅子に深く腰掛けると、ギルバートに向き直った。
「ギルバート」
「はっ」
「これより、作戦を変更する」
俺の言葉に、ギルバートは怪訝そうな顔をした。
「と、申しますと?」
「これまでのやり方は、まだ甘かったようだ」
俺は、悪戯が成功した子供のように、にやりと笑ってみせた。
「アイの心の氷を完全に溶かすには、生半可な熱では足りん。俺の想いが、まだ彼女に伝わりきっていないのなら、伝わるまで、伝え続けるしかない」
そして、俺は立ち上がると、高らかに宣言した。
「よって、これより『超甘々作戦』を決行する!」
「……は?」
いつも冷静沈着なギルバートの口から、間の抜けた声が漏れた。
「ちょ、超甘々作戦、でございますか……?」
「そうだ!」
俺は、興奮を隠しもせずに、作戦の概要を熱弁し始めた。
「朝から晩まで、四六時中、俺の愛をこれでもかと見せつけ、囁き続け、彼女が『もうお腹いっぱいです!』と両手を上げて降参するまで、甘い言葉と贈り物の猛攻を仕掛ける!」
「も、猛攻……」
「ああ、猛攻だ! 例えば、朝一番の挨拶は、俺の直筆のラブレターと、彼女の瞳の色の花束で。昼は突然公爵家に押しかけて、無理やりランチデートだ。午後は彼女の好きな菓子を山ほど持って押しかけ、二人きりの茶会を開く。そして夜は、バルコニーで星空を見ながら、俺の愛がいかに深く、大きいかを、詩的に語って聞かせる!」
「で、殿下!?」
「公務? 知らん!」
「知ってください!」
思わず叫んだギルバートの制止など、今の俺には聞こえない。
「アイより優先すべき公務など、この国には存在しない! いいか、ギルバート。国の未来は、未来の王妃の笑顔にかかっているんだ。彼女の笑顔を取り戻すことこそ、今の俺にとって、何よりも重要な『公務』だとは思わないか?」
俺が真顔でそう言い返すと、堅物の側近は、こめかみを押さえて天を仰いだ。
「殿下……どうか、ご正気を……。それでは国政が……国が、傾きます……」
「傾かん。俺が傾かせん」
俺は、ギルバートの肩を力強く掴んだ。
「そのために、君がいるんだろう?」
俺のまっすぐな瞳に見つめ返され、ギルバートは観念したように、深ーーーーーい、深いため息をついた。
そして、やがて覚悟を決めたように、顔を上げる。
「……承知、いたしました」
その声には、若干の諦観と、それから、長年俺に仕えてきた者だけが持つ、忠義の色が滲んでいた。
「全力で、殿下の『超甘々作戦』を、サポートさせていただきます」
「よし、それでこそ俺のギルバートだ!」
俺は満足げに笑い、窓の外に広がる王都の夜景を見つめた。
待っていろ、アイ。
明日から、俺の愛の猛攻が始まる。
君が根負けして、俺の腕の中で、心の底から笑ってくれるその日まで。
この作戦に、終わりはない。
彼女を一人にした後、すぐに王宮へ戻るための馬車に乗り込む。
ごとり、と重い音を立てて扉が閉まると、俺は深く、深くため息をついた。
背もたれに全体重を預け、天井を仰ぐ。
先ほどの、馬車の中でのアイの姿が脳裏に焼き付いて離れない。
俺の言葉に揺れ動く紫色の瞳。固く握りしめられた、小さな拳。そして、俺のすべてを受け入れることを、まだ恐れているかのような、か細い声。
彼女の心の壁は、俺が想像していたよりも、ずっと厚く、高い。
夜会での一件で、少しは打ち壊せただろうか。いや、まだだ。まだ足りない。
俺の腕の中で、彼女は確かに安堵した表情を見せた。だが、二人きりになった途端、すぐにまた罪悪感という名の殻に閉じこもってしまう。
根が深い。
彼女が長年かけて、自分自身にかけ続けてきた呪いは、そう簡単には解けそうにない。
だが、ほんの少しだけ、手応えがあったのも事実だ。
俺の言葉が、彼女の心の奥底にある、固く閉ざされた扉を、ほんの少しだけ、軋ませたような気がした。
それで十分だ。
少しでも隙間ができたのなら、そこからこじ開けるだけ。
王宮の執務室に戻ると、灯りが煌々と灯っており、ギルバートが俺の帰りを待っていた。
「おかえりなさいませ、殿下」
「うむ。夜会の方はどうなった?」
俺が上着を脱ぎながら尋ねると、ギルバートは手元の資料に視線を落とした。
「殿下とアイ様が退席された後、主催者である国王陛下からのお言葉があり、夜会はお開きとなりました。幸い、使節団の方々には、大きな混乱はなかった模様です」
「そうか」
それは何よりだ。
「それで、トルテ侯爵家は?」
俺が核心を突くと、ギルバートは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「トルテ侯爵に、今回の件についてそれとなく問いただした者がおりましたが……」
「何と?」
「娘の非を一切認めず、それどころか『そもそも、未来の王太子妃として相応しくない令嬢の方に問題があるのではないか』と、強弁していたとのことです」
「……愚かな」
俺の口から、冷たい声が漏れた。
自分の娘が王太子の婚約者に対して何をしたのか、理解できていないらしい。いや、理解した上で、それでもなお、自分たちの立場が揺らぐことはないと高を括っているのか。
腐っている。あの親子は、根の先まで。
断罪するのは、簡単だ。トルテ侯爵家の不正の証拠なら、いくらでも手元にある。今この瞬間に、あの傲慢な一家を社交界から追放することもできる。
だが、それではダメなのだ。
それでは、根本的な解決にはならない。
たとえトルテ家を排除したところで、アイが自分に自信を持てない限り、第二、第三のショコラが現れるだけだ。
重要なのは、彼女自身が、自分こそが王太子妃に相応しいのだと、心の底から信じられるようになること。
周りの雑音など、蝶の羽ばたき程度にしか感じないほどの、強い自信と、自己肯定感を、彼女自身の力で取り戻させること。
罰を与えるのは、その後でも、決して遅くはない。
俺は椅子に深く腰掛けると、ギルバートに向き直った。
「ギルバート」
「はっ」
「これより、作戦を変更する」
俺の言葉に、ギルバートは怪訝そうな顔をした。
「と、申しますと?」
「これまでのやり方は、まだ甘かったようだ」
俺は、悪戯が成功した子供のように、にやりと笑ってみせた。
「アイの心の氷を完全に溶かすには、生半可な熱では足りん。俺の想いが、まだ彼女に伝わりきっていないのなら、伝わるまで、伝え続けるしかない」
そして、俺は立ち上がると、高らかに宣言した。
「よって、これより『超甘々作戦』を決行する!」
「……は?」
いつも冷静沈着なギルバートの口から、間の抜けた声が漏れた。
「ちょ、超甘々作戦、でございますか……?」
「そうだ!」
俺は、興奮を隠しもせずに、作戦の概要を熱弁し始めた。
「朝から晩まで、四六時中、俺の愛をこれでもかと見せつけ、囁き続け、彼女が『もうお腹いっぱいです!』と両手を上げて降参するまで、甘い言葉と贈り物の猛攻を仕掛ける!」
「も、猛攻……」
「ああ、猛攻だ! 例えば、朝一番の挨拶は、俺の直筆のラブレターと、彼女の瞳の色の花束で。昼は突然公爵家に押しかけて、無理やりランチデートだ。午後は彼女の好きな菓子を山ほど持って押しかけ、二人きりの茶会を開く。そして夜は、バルコニーで星空を見ながら、俺の愛がいかに深く、大きいかを、詩的に語って聞かせる!」
「で、殿下!?」
「公務? 知らん!」
「知ってください!」
思わず叫んだギルバートの制止など、今の俺には聞こえない。
「アイより優先すべき公務など、この国には存在しない! いいか、ギルバート。国の未来は、未来の王妃の笑顔にかかっているんだ。彼女の笑顔を取り戻すことこそ、今の俺にとって、何よりも重要な『公務』だとは思わないか?」
俺が真顔でそう言い返すと、堅物の側近は、こめかみを押さえて天を仰いだ。
「殿下……どうか、ご正気を……。それでは国政が……国が、傾きます……」
「傾かん。俺が傾かせん」
俺は、ギルバートの肩を力強く掴んだ。
「そのために、君がいるんだろう?」
俺のまっすぐな瞳に見つめ返され、ギルバートは観念したように、深ーーーーーい、深いため息をついた。
そして、やがて覚悟を決めたように、顔を上げる。
「……承知、いたしました」
その声には、若干の諦観と、それから、長年俺に仕えてきた者だけが持つ、忠義の色が滲んでいた。
「全力で、殿下の『超甘々作戦』を、サポートさせていただきます」
「よし、それでこそ俺のギルバートだ!」
俺は満足げに笑い、窓の外に広がる王都の夜景を見つめた。
待っていろ、アイ。
明日から、俺の愛の猛攻が始まる。
君が根負けして、俺の腕の中で、心の底から笑ってくれるその日まで。
この作戦に、終わりはない。
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