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図書室での、あの甘い、甘い口づけから数日。
私の心は、生まれて初めて知る幸福感で、ふわふわと宙に浮いているようだった。
もう、何も怖くない。
殿下が、私を愛してくれている。そして、私も、殿下を愛している。
その事実だけで、世界はこんなにも輝いて見えるのだ。
そんなある日、殿下から、「週末、少し時間をもらえるだろうか」と、改まった様子で尋ねられた。
「はい、もちろんですわ。どこかへ、またお出かけですか?」
私が期待に胸を膨らませてそう聞くと、殿下は少しだけ真剣な顔つきで、首を横に振った。
「いや、そうではないんだ。……実は、父上と母上が、君に改めて会って、正式に話をしたい、と」
「……え?」
父上と、母上。
それはつまり、この国の国王陛下と、王妃陛下。
その言葉の意味を理解した瞬間、私のふわふわと浮かれていた心は、一気に地面へと急降下した。
「せ、正式に……ですって?」
「ああ。君が、俺の、カルミナス王家の、未来の妃になるのだからな。当然のことだろう」
当然のこと。
殿下にとってはそうなのかもしれないけれど、私にとっては、天と地がひっくり返るほどの一大事だ。
あれは、未来の王妃として認められるかどうかの、最終試験ではないだろうか。
私が、値踏みされるのだ。この国の頂点に立つ、お二方から。
そう思った途端、せっかく消え去ったはずの、あの自己嫌悪の感情が、亡霊のようにむくむくと鎌首をもたげてきた。
「わ、わたくしのような者で……その、大丈夫、なのでしょうか……。もし、お気に召さなかったら……」
声が、情けなく震える。
すると殿下は、そんな私の不安を見透かしたかのように、私の冷たくなった手を、その大きな両手で力強く握りしめてくれた。
「大丈夫だ、アイ」
その赤い瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「父上も母上も、俺が選んだ君に会えるのを、心から楽しみにしている。おかしな噂が流れている今だからこそ、君に、我々は君の味方だと、直接伝えて安心させてやりたい、とそうおっしゃっていた」
「殿下の、お父様と、お母様が……」
「そうだ。だから、何も心配することはない。君は、ただ、いつもの君のままでいればいいんだ。俺が、ずっとそばにいる」
その力強い言葉に、私の心に巣食い始めていた暗雲が、すうっと晴れていくのを感じた。
そうだ。私は、もう一人ではないのだから。
そして、謁見の日。
私は、侍女のマーサに手伝ってもらいながら、手持ちのドレスの中で、一番品が良く、それでいて華美ではない、落ち着いたラベンダー色のドレスに袖を通した。
心臓は、朝からずっと、うるさいくらいに鳴り響いている。
「お嬢様、本当にお美しいです。きっと、国王陛下も王妃陛下も、お喜びになりますわ」
マーサの励ましの言葉に、私はかろうじて頷くのが精一杯だった。
殿下のエスコートで、王宮の奥深くにある、国王夫妻の私室へと続く扉の前に立った時、私の緊張は最高潮に達していた。
「……入るぞ」
殿下に促され、重厚な扉が、ゆっくりと開かれる。
中に足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。
そこは、公式の謁見室のような冷たい豪華さではなく、陽の光がたっぷりと差し込む、温かく、気品に満ちた、美しい応接室だった。
そして、その中央のソファに腰掛けている、お二方の姿。
国王陛下は、歳の頃は五十代ほどだろうか。口元に威厳のある髭をたくわえながらも、その瞳の色は、殿下と同じ、情熱的な赤色をしていた。
そして、その隣に座る王妃陛下は、信じられないくらい、優雅で美しい方だった。柔らかな金髪を高く結い上げ、その微笑みは、まるで聖母のように慈愛に満ちている。
私は、練習してきた完璧な挨拶をしようと、必死に口を開いた。
「こ、この度は、このような、栄誉ある機会をいただき、まことに……わたくし、ス・クリーム公爵が一人娘、ア、アイ・ス・クリームで、ございます……!」
だめだ。緊張で、声が震えて、しどろもどろになってしまう。
あまりの不甲斐なさに、顔から火が出そうになった、その時。
王妃陛下が、ふわり、と花が綻ぶように微笑んだ。
「まあ、そんなに緊張なさらないで、アイ様。どうぞ、もっと近くへいらして」
その声は、春のそよ風のように、優しく私の心を撫でた。
私が、おずおずと近づくと、王妃陛下は、私の手を優しく取ってくださった。
「レピオドから、いつもあなたの話を聞いていますよ。とても心優しくて、お菓子作りがお上手な、本当に可愛らしい方だと」
「え……?」
「母上、それは余計なことです」
隣で、殿下が少し照れたように言うのが聞こえる。
すると今度は、国王陛下が、重々しく、しかし温かみのある声で、頷いた。
「うむ。この、女に興味のなかった息子が、これほどまでに夢中になるのだ。我々は、素晴らしいご令嬢に違いないと、ずっと思っていた。巷で流れているような下賤な噂など、我らは一切、信じてはおらんから、案ずるでないぞ」
その言葉に、私は、目頭が熱くなるのを感じた。
この国で、一番尊いお二方が、私の家柄や、能力や、周りの評価ではなく。
ただ、私という人間そのものを見て、そして、殿下の言葉を信じて、私を受け入れようとしてくださっている。
その事実が、何よりも、嬉しかった。
「レピオドを、これからも、よろしく頼みますね」
王妃陛下が、お茶目な仕草で、そっと私に囁いた。
「あの子は、一度決めると少し強引なところがあるから、あなたが振り回されて、大変なこともあるでしょうけれど」
「は、はい……!」
その気さくなお言葉に、私の緊張は、完全に解きほぐされていた。
和やかな雰囲気の中で、お茶会は進んでいく。
この、温かくて、優しくて、そして、どこまでも大きな愛を持ったお二方の、本当の娘に、私はなるのだ。
そう思った時、私の心にあった、王太子妃になることへの最後の不安は、跡形もなく消え去っていた。
私を信じてくれる人がいる。
私を守ってくれる人がいる。
そして、私の帰る場所が、ここにもできるのだ。
その確かな希望と覚悟が、私の胸を、温かく、満たしていった。
私の心は、生まれて初めて知る幸福感で、ふわふわと宙に浮いているようだった。
もう、何も怖くない。
殿下が、私を愛してくれている。そして、私も、殿下を愛している。
その事実だけで、世界はこんなにも輝いて見えるのだ。
そんなある日、殿下から、「週末、少し時間をもらえるだろうか」と、改まった様子で尋ねられた。
「はい、もちろんですわ。どこかへ、またお出かけですか?」
私が期待に胸を膨らませてそう聞くと、殿下は少しだけ真剣な顔つきで、首を横に振った。
「いや、そうではないんだ。……実は、父上と母上が、君に改めて会って、正式に話をしたい、と」
「……え?」
父上と、母上。
それはつまり、この国の国王陛下と、王妃陛下。
その言葉の意味を理解した瞬間、私のふわふわと浮かれていた心は、一気に地面へと急降下した。
「せ、正式に……ですって?」
「ああ。君が、俺の、カルミナス王家の、未来の妃になるのだからな。当然のことだろう」
当然のこと。
殿下にとってはそうなのかもしれないけれど、私にとっては、天と地がひっくり返るほどの一大事だ。
あれは、未来の王妃として認められるかどうかの、最終試験ではないだろうか。
私が、値踏みされるのだ。この国の頂点に立つ、お二方から。
そう思った途端、せっかく消え去ったはずの、あの自己嫌悪の感情が、亡霊のようにむくむくと鎌首をもたげてきた。
「わ、わたくしのような者で……その、大丈夫、なのでしょうか……。もし、お気に召さなかったら……」
声が、情けなく震える。
すると殿下は、そんな私の不安を見透かしたかのように、私の冷たくなった手を、その大きな両手で力強く握りしめてくれた。
「大丈夫だ、アイ」
その赤い瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「父上も母上も、俺が選んだ君に会えるのを、心から楽しみにしている。おかしな噂が流れている今だからこそ、君に、我々は君の味方だと、直接伝えて安心させてやりたい、とそうおっしゃっていた」
「殿下の、お父様と、お母様が……」
「そうだ。だから、何も心配することはない。君は、ただ、いつもの君のままでいればいいんだ。俺が、ずっとそばにいる」
その力強い言葉に、私の心に巣食い始めていた暗雲が、すうっと晴れていくのを感じた。
そうだ。私は、もう一人ではないのだから。
そして、謁見の日。
私は、侍女のマーサに手伝ってもらいながら、手持ちのドレスの中で、一番品が良く、それでいて華美ではない、落ち着いたラベンダー色のドレスに袖を通した。
心臓は、朝からずっと、うるさいくらいに鳴り響いている。
「お嬢様、本当にお美しいです。きっと、国王陛下も王妃陛下も、お喜びになりますわ」
マーサの励ましの言葉に、私はかろうじて頷くのが精一杯だった。
殿下のエスコートで、王宮の奥深くにある、国王夫妻の私室へと続く扉の前に立った時、私の緊張は最高潮に達していた。
「……入るぞ」
殿下に促され、重厚な扉が、ゆっくりと開かれる。
中に足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。
そこは、公式の謁見室のような冷たい豪華さではなく、陽の光がたっぷりと差し込む、温かく、気品に満ちた、美しい応接室だった。
そして、その中央のソファに腰掛けている、お二方の姿。
国王陛下は、歳の頃は五十代ほどだろうか。口元に威厳のある髭をたくわえながらも、その瞳の色は、殿下と同じ、情熱的な赤色をしていた。
そして、その隣に座る王妃陛下は、信じられないくらい、優雅で美しい方だった。柔らかな金髪を高く結い上げ、その微笑みは、まるで聖母のように慈愛に満ちている。
私は、練習してきた完璧な挨拶をしようと、必死に口を開いた。
「こ、この度は、このような、栄誉ある機会をいただき、まことに……わたくし、ス・クリーム公爵が一人娘、ア、アイ・ス・クリームで、ございます……!」
だめだ。緊張で、声が震えて、しどろもどろになってしまう。
あまりの不甲斐なさに、顔から火が出そうになった、その時。
王妃陛下が、ふわり、と花が綻ぶように微笑んだ。
「まあ、そんなに緊張なさらないで、アイ様。どうぞ、もっと近くへいらして」
その声は、春のそよ風のように、優しく私の心を撫でた。
私が、おずおずと近づくと、王妃陛下は、私の手を優しく取ってくださった。
「レピオドから、いつもあなたの話を聞いていますよ。とても心優しくて、お菓子作りがお上手な、本当に可愛らしい方だと」
「え……?」
「母上、それは余計なことです」
隣で、殿下が少し照れたように言うのが聞こえる。
すると今度は、国王陛下が、重々しく、しかし温かみのある声で、頷いた。
「うむ。この、女に興味のなかった息子が、これほどまでに夢中になるのだ。我々は、素晴らしいご令嬢に違いないと、ずっと思っていた。巷で流れているような下賤な噂など、我らは一切、信じてはおらんから、案ずるでないぞ」
その言葉に、私は、目頭が熱くなるのを感じた。
この国で、一番尊いお二方が、私の家柄や、能力や、周りの評価ではなく。
ただ、私という人間そのものを見て、そして、殿下の言葉を信じて、私を受け入れようとしてくださっている。
その事実が、何よりも、嬉しかった。
「レピオドを、これからも、よろしく頼みますね」
王妃陛下が、お茶目な仕草で、そっと私に囁いた。
「あの子は、一度決めると少し強引なところがあるから、あなたが振り回されて、大変なこともあるでしょうけれど」
「は、はい……!」
その気さくなお言葉に、私の緊張は、完全に解きほぐされていた。
和やかな雰囲気の中で、お茶会は進んでいく。
この、温かくて、優しくて、そして、どこまでも大きな愛を持ったお二方の、本当の娘に、私はなるのだ。
そう思った時、私の心にあった、王太子妃になることへの最後の不安は、跡形もなく消え去っていた。
私を信じてくれる人がいる。
私を守ってくれる人がいる。
そして、私の帰る場所が、ここにもできるのだ。
その確かな希望と覚悟が、私の胸を、温かく、満たしていった。
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