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友人たちが、名残惜しそうに部屋を後にしたのは、東の空が、ほんのりと白み始める頃だった。
賑やかだった部屋に、再び、静寂が訪れる。
彼女たちの温かい言葉と、たくさんの祝福を胸に、私は、ようやく寝台へと入った。
侍女のマーサが、心配そうに私の様子を窺う。
「お嬢様、いよいよ明日でございますね。どうか、今夜は、ゆっくりとお休みくださいませ。きっと、世界で一番お美しい、最高に輝かしい花嫁様になりますわ」
「ありがとう、マーサ」
涙ぐむ彼女に、私は、これまでの感謝を込めて、優しく微笑んだ。
「あなたがいてくれて、本当に良かった。これからも、よろしくね」
マーサが退室し、部屋の明かりが落とされる。
本当に、一人きりになった。
明日。
あと数時間もすれば、私は、このス・クリーム家の令嬢ではなくなるのだ。
目を閉じても、期待と、興奮と、そして、ほんの少しの神聖な緊張で、心臓が、ずっと、どきどきと音を立てている。
とても、眠れそうになかった。
私が、寝台の上で、何度も寝返りを打っていた、その時だった。
こつん、と。
部屋のバルコニーの方から、何かがガラスに当たったような、小さな、小さな音がした。
「……え?」
風のせいだろうか。
けれど、今夜は、ほとんど無風のはずだ。
不思議に思って、そっと、バルコニーの方へ視線を向ける。
月明かりに照らされた、ガラス扉の向こう。
そこに、見慣れた、長身の人影が立っているのを見つけて、私の心臓は、文字通り、飛び跳ねた。
「で、殿下!?」
私は、驚きのあまり、寝台から転がり落ちるようにして飛び起きると、慌てて、バルコニーへと続く扉を開けた。
そこに立っていたのは、紛れもなく、私の婚約者、レピオド殿下だった。
彼は、夜会用のきらびやかな礼装ではなく、動きやすい、黒を基調とした、お忍び用の簡素な服装をしている。
「どうして、こんな時間に、こんな場所に……!? 衛兵の方たちは、どうなさったのですか!?」
私が、パニックになりながら小声でそう言うと、殿下は、人差し指を、そっとご自身の唇に当てて、「しーっ」と、静かにするように合図した。
そして、悪戯が成功した子供のように、にっと笑う。
「もちろん、衛兵たちに見つからないように、こっそりと来たんだ」
「こっそり、って……まさか、あなた、あの壁をよじ登って……!?」
「はは、まさか。王宮には、俺だけが知っている、秘密の通路が、いくつかあってな」
彼は、そう言って、あっさりと国家機密を漏らした。
「どうしても、眠る前に、君の顔を、一目だけでも見ておきたくなってしまって。……迷惑だったか?」
少しだけ、不安そうに、私の顔を覗き込む殿下。
その、王太子という身分も何もかも忘れたような、ただの、恋する青年の姿に。
私は、呆れるのを通り越して、もう、愛おしさで、胸がいっぱいになってしまった。
「まあ、殿下ったら……。仕方のないお方ですこと」
私は、そう言って、小さくため息をつく。
「眠れないのですか?」
「ああ。どうにも、な」
「わたくしも、です」
「そうか」
私たちは、顔を見合わせて、ふふっと、笑い合った。
同じ気持ちで、この夜を、過ごしていたのだ。その事実が、たまらなく嬉しかった。
殿下は、私の左手を取ると、その薬指で、月の光を浴びて輝く、結婚指輪を、親指で、優しく、なぞった。
「……いよいよ、だな、アイ」
その、熱のこもった声。
「はい、殿下」
私も、彼の大きな手を、ぎゅっと握り返す。
そして、殿下は、私の体を、優しく、しかし、有無を言わさぬ力強さで、その胸の中へと、抱き寄せた。
「明日、時間になったら、必ず、君を迎えに行く」
彼の、囁くような声が、夜の静寂に、優しく響く。
「だから、安心して、おやすみ、俺の愛しい花嫁」
その、蕩けるように甘い言葉に、私の心は、完全に、彼のものになった。
もう、何もいらない。
この人の、この言葉だけで、私は、どんな困難も、乗り越えていける。
私は、彼の胸に顔をうずめたまま、少しだけ、大胆になって、こう、返した。
「はい、殿下。お待ちしております。……私の、世界で一番、愛しい花婿様」
私の、その精一杯の言葉に。
殿下は、一瞬、息を呑んだのが分かった。
そして、次の瞬間、彼は、たまらない、といった様子で、私の顔を上げさせると、その唇を、深く、深く、塞いできた。
それは、これまでの、どんな口づけよりも、情熱的で、明日への約束を、確かめ合うような、誓いのキスだった。
長い、長い、口づけの後。
名残惜しそうに、唇が離れる。
「……では、また明日」
殿下は、そう言うと、私の頬に、もう一度だけ、ちゅっと、軽く口づけて、身を翻した。
そして、来た時と同じように、あっという間に、バルコニーから、闇の中へと、その姿を消していく。
一人、バルコニーに残された私は、彼の残してくれた、温もりと、唇の感触に、しばらく、夢見心地のまま、立ち尽くしていた。
彼の、あまりにもロマンチックな、サプライズ訪問のおかげで。
私の心にあった、最後の、ほんの小さな緊張も、すべて、きれいさっぱり、消え去っていた。
私は、寝台に戻ると、今度こそ、心の底から安心して、幸せな、穏やかな眠りへと、落ちていった。
明日、世界で一番、素敵な花婿様が、私を、迎えに来てくれるのだから。
賑やかだった部屋に、再び、静寂が訪れる。
彼女たちの温かい言葉と、たくさんの祝福を胸に、私は、ようやく寝台へと入った。
侍女のマーサが、心配そうに私の様子を窺う。
「お嬢様、いよいよ明日でございますね。どうか、今夜は、ゆっくりとお休みくださいませ。きっと、世界で一番お美しい、最高に輝かしい花嫁様になりますわ」
「ありがとう、マーサ」
涙ぐむ彼女に、私は、これまでの感謝を込めて、優しく微笑んだ。
「あなたがいてくれて、本当に良かった。これからも、よろしくね」
マーサが退室し、部屋の明かりが落とされる。
本当に、一人きりになった。
明日。
あと数時間もすれば、私は、このス・クリーム家の令嬢ではなくなるのだ。
目を閉じても、期待と、興奮と、そして、ほんの少しの神聖な緊張で、心臓が、ずっと、どきどきと音を立てている。
とても、眠れそうになかった。
私が、寝台の上で、何度も寝返りを打っていた、その時だった。
こつん、と。
部屋のバルコニーの方から、何かがガラスに当たったような、小さな、小さな音がした。
「……え?」
風のせいだろうか。
けれど、今夜は、ほとんど無風のはずだ。
不思議に思って、そっと、バルコニーの方へ視線を向ける。
月明かりに照らされた、ガラス扉の向こう。
そこに、見慣れた、長身の人影が立っているのを見つけて、私の心臓は、文字通り、飛び跳ねた。
「で、殿下!?」
私は、驚きのあまり、寝台から転がり落ちるようにして飛び起きると、慌てて、バルコニーへと続く扉を開けた。
そこに立っていたのは、紛れもなく、私の婚約者、レピオド殿下だった。
彼は、夜会用のきらびやかな礼装ではなく、動きやすい、黒を基調とした、お忍び用の簡素な服装をしている。
「どうして、こんな時間に、こんな場所に……!? 衛兵の方たちは、どうなさったのですか!?」
私が、パニックになりながら小声でそう言うと、殿下は、人差し指を、そっとご自身の唇に当てて、「しーっ」と、静かにするように合図した。
そして、悪戯が成功した子供のように、にっと笑う。
「もちろん、衛兵たちに見つからないように、こっそりと来たんだ」
「こっそり、って……まさか、あなた、あの壁をよじ登って……!?」
「はは、まさか。王宮には、俺だけが知っている、秘密の通路が、いくつかあってな」
彼は、そう言って、あっさりと国家機密を漏らした。
「どうしても、眠る前に、君の顔を、一目だけでも見ておきたくなってしまって。……迷惑だったか?」
少しだけ、不安そうに、私の顔を覗き込む殿下。
その、王太子という身分も何もかも忘れたような、ただの、恋する青年の姿に。
私は、呆れるのを通り越して、もう、愛おしさで、胸がいっぱいになってしまった。
「まあ、殿下ったら……。仕方のないお方ですこと」
私は、そう言って、小さくため息をつく。
「眠れないのですか?」
「ああ。どうにも、な」
「わたくしも、です」
「そうか」
私たちは、顔を見合わせて、ふふっと、笑い合った。
同じ気持ちで、この夜を、過ごしていたのだ。その事実が、たまらなく嬉しかった。
殿下は、私の左手を取ると、その薬指で、月の光を浴びて輝く、結婚指輪を、親指で、優しく、なぞった。
「……いよいよ、だな、アイ」
その、熱のこもった声。
「はい、殿下」
私も、彼の大きな手を、ぎゅっと握り返す。
そして、殿下は、私の体を、優しく、しかし、有無を言わさぬ力強さで、その胸の中へと、抱き寄せた。
「明日、時間になったら、必ず、君を迎えに行く」
彼の、囁くような声が、夜の静寂に、優しく響く。
「だから、安心して、おやすみ、俺の愛しい花嫁」
その、蕩けるように甘い言葉に、私の心は、完全に、彼のものになった。
もう、何もいらない。
この人の、この言葉だけで、私は、どんな困難も、乗り越えていける。
私は、彼の胸に顔をうずめたまま、少しだけ、大胆になって、こう、返した。
「はい、殿下。お待ちしております。……私の、世界で一番、愛しい花婿様」
私の、その精一杯の言葉に。
殿下は、一瞬、息を呑んだのが分かった。
そして、次の瞬間、彼は、たまらない、といった様子で、私の顔を上げさせると、その唇を、深く、深く、塞いできた。
それは、これまでの、どんな口づけよりも、情熱的で、明日への約束を、確かめ合うような、誓いのキスだった。
長い、長い、口づけの後。
名残惜しそうに、唇が離れる。
「……では、また明日」
殿下は、そう言うと、私の頬に、もう一度だけ、ちゅっと、軽く口づけて、身を翻した。
そして、来た時と同じように、あっという間に、バルコニーから、闇の中へと、その姿を消していく。
一人、バルコニーに残された私は、彼の残してくれた、温もりと、唇の感触に、しばらく、夢見心地のまま、立ち尽くしていた。
彼の、あまりにもロマンチックな、サプライズ訪問のおかげで。
私の心にあった、最後の、ほんの小さな緊張も、すべて、きれいさっぱり、消え去っていた。
私は、寝台に戻ると、今度こそ、心の底から安心して、幸せな、穏やかな眠りへと、落ちていった。
明日、世界で一番、素敵な花婿様が、私を、迎えに来てくれるのだから。
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