王太子とさようならしたら空気が美味しくなりました

きららののん

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「リリエル・フォン・ヴァレンシュタイン、婚約破棄を宣言する」

 

正装の王太子レオンハルトが玉座の間で告げた瞬間、白い大理石に杖を落とした音が薄く響いた。

 

リリエルは背筋を伸ばし、乾いた拍手でもするような微笑を浮かべた。

 

「御意。では指輪をお返しいたしますわ」

 

銀の指輪が小さく宙を描き、王太子の前で転がる。

 

騒然とする廷臣たち。誰もが“悪役令嬢”に起こる涙の崩壊を期待していたが、彼女は涙どころか欠伸さえ隠そうともしない。

 

「恥を知れ」「父上の顔に泥をぬったな」

 

広間のあちこちから罵声が飛ぶ。だが声の主すら確認せず、リリエルは緩やかに首を傾げた。

 

「泥を塗られたのは床でございましょう。指輪には土一つ付いておりませんもの」

 

乾いた笑いが漏れ、貴族たちの顔がさらに赤くなる。

 

地の底に落ちた評判。それでも彼女は袖を払って歩き出す。

 

「待て」

 

王太子の声が低く震えた。

 

「国外追放とする。手回り品のみ持ち出しを許す」

 

「御慈悲深い判断、感謝いたしますわ」

 

その礼でさえ芝居がかっている、と誰かが囁く。それでもリリエルは振り向かない。

 

玉座の外では父侯爵が待っていた。苦虫を噛み潰したような表情のまま、娘を睨み付ける。

 

「お前は我が家の恥だ」

 

「ええ、存じております」

 

淡々とした返答に、父は拳を震わせた。しかし平手打ちは下ろさず、背を向けて去る。

 

残されたのは、名門の名を奪われた十八歳の娘。

 

そこへ侍女のクラリスが駆け寄る。

 

「お嬢様、大丈夫ですか」

 

「大丈夫ではないけれど、泣くほどでもございません」

 

リリエルの口調はいつもの優雅なまま。だがクラリスは気付く。首筋が小さく震えていることを。

 

「馬車の準備を。王都から出るにも礼儀が要るのでしょう」

 

「承知しました」

 

侍女は深く頭を垂れる。主従の縁は明日には解ける運命だが、今日だけはまだ従うと決めた。

 

王太子が読み上げた罪状は三つ。第一、舞踏会で侯爵令嬢セシリアのドレス裾を踏み裂いたこと。第二、図書館で王太子と貴婦人を密会させぬよう衛兵に虚偽の通報をしたこと。第三、城下に浪費癖の噂をばらまき王家の面目を潰したこと。

 

「聞き覚えのないことばかりですわね」

 

リリエルは罪状書を指先で弾いた。羊皮紙が揺れ、廷臣がどよめく。

 

「踏み裂いたのは私ではなく、あの方が自ら裾を長くしすぎただけ。密会の件は、『親衛隊が殿下をお探しです』とお伝えしただけですわ」

 

「浪費の噂は?」

 

「事実だから訂正しませんでした」

 

乾いた事実陳列に、王太子の頬が僅かに引きつる。

 

大法官が口を開く。

 

「貴族令嬢としての慎みを欠いた態度、それ自体が罪である」

 

「慎みとは、礼の形か、心の内か。形だけであれば私は完璧ですわ。心まで縛ると?」

 

「口答えするな」

 

廷臣の一人が失笑し、広間の緊張が妙な軽さを帯びた。

 

女王が遠席から静かに告げた。

 

「お前の処遇は妥当であろう」

 

「御言葉、痛み入ります」

 

最後に、幼い頃からの友でもあった王太子を見た。

 

「さようなら、レオンハルト殿下。どうか次は御自身の罪とも向き合われますよう」

 

沈黙のまま、指輪が転がり止まる。

 

*

 

城壁の外に出ると、春の緑が染み入るほど鮮やかだった。

 

リリエルは手袋を外し、窓枠に置く。

 

「指輪の跡、意外と浅いわね」

 

その言葉の裏に、未練という鋳型が薄く付いている。

 

クラリスが隣席で小さく咳払いした。

 

「これからは、どこへ向かわれますか」

 

「南へ。海が見えるまで」

 

「砂浜に屋敷はありませんよ」

 

「それでも海は裏切りません。波は誰の噂も拾い上げてはくれないでしょう」

 

クラリスは肩を竦めながらも、その自由な響きを少し羨んだ。

 

馬車が揺れ、座席の革が軋む。

 

「恐らく明日は雨ですわ」

 

「空は晴れていますが」

 

「私が濡れても見苦しくないよう、今夜のうちに泣く時間を取りますの」

 

「お嬢様は変わられませんね」

 

リリエルは窓の外に目を細める。遠くで雷が鳴った気がした。

 

「いえ、変わります。変わった先で、あの方より面白い未来を手に入れてみせますわ」
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